本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

AIは労働「道」を生み出す

「AIは人間の労働を奪うか?」という恐怖感は、産業革命の時代に労働者たちが蒸気機関の機械を打ち壊した恐怖感に似ている。現代においては、奪う、ではなく、「代替する」が正しい表現だろう。

AIにより人間の労働時間が減少すれば、ベーシックインカムのような経済システムも導入されるだろうし、加えて、労働のスタイルそのものが変化する。

戦争がなくなった江戸時代の武士たちは、本業がないから武士道や剣道、柔道という「道」に時間を費やした。欧州でも中世が終わり騎士の実戦の場がなくなると同時に騎士道が生まれた。

私は、人間の労働時間が減少したら、同様に「労働道」という「道」が出現することを予測している。AI時代の高い教養を持つビジネスマンは、労働の道、労働の型、労働の流儀、などを身につけることに時間を費やす。

「道」とはつまり美学の世界である。これは、ビジネスから美学が果たして生まれるのだろうかという、AI時代の人間に試された大きな課題だともいえる。

その意味でもAIの時代にこそ、美や芸術、それを理解し創造する人間力といった、「ふわっとしたもの」に価値が認められるだろう。言い換えれば、「文系の時代」の到来である。

AI時代に文系とは逆説的に捉えられようが、事実、その時代が目前に来ている。そんな気がするのは私だけではないはず。美や芸術が価値を帯びる文系の時代とは、どういった時代になるのか。その中には、(本来理系だけの所有物であった)コンピューティングが大きくかかわってくる。想像するだけでも、興味津々である。

三津田治夫

古代ギリシャから読み解くリーダー論:『国家』(上・下)(プラトン著)

f:id:tech-dialoge:20170719125034j:plain

日本国内ではリーダー不在の政治不信が続き、書店のビジネス書棚に向かえばリーダー論に関する書籍が大量に置かれている。今回は、日本人が渇望するリーダーのあり方・考え方に対し、その源流となる書物をひもといてみたい。ビジネス書にも少なからず、こうした古典のエッセンスが流れている。では、読んでみる。

『国家』は、人間個人が持つべき知恵やスキルを究明し、それを国家レベルにまで拡大し、どうしたら国家が理想の人格を持てるのかということを、ソクラテスに語らせた作品。

国家は知的な人間が統治すべきという哲人宰相を理想とするのがプラトンの理想とする国家。
プラトンが生きた古代ギリシャの時代も、知的でない人間が国家を統治していたゆえ、このようなものを書かざるを得なかったのだろう。

人が身につけるべき教養や素養、学問など、国家の構成員としての国民のあるべき姿や、内実のない雄弁に耳を傾けてはいけないといった警句など、国家のあるべき姿、あってはならない姿が、現代人の私たちにもわかりやすい比喩で語られている。

その中でも最も印象深いのが、「民主主義は独裁政治の一歩手前で、かなりやばい」、というお話。

自然状態に生きる人間の間で争いが起こると、民族は分断され、土地や財産が分断され、私有財産が生まれる。

私有財産が生まれると今度は財産を持つ者の中から新しい集団のリーダーが選ばれる。

そこで成立するのが寡頭政治で、少数の富裕層が莫大な財産と共に権力を掌握する。

彼らは自分の権力と財産が減らないような政策をとり続け富と権力を強固にする一方で、財産を持たない者との二層構造もさらに固定化される。そこでまた争いが起こる。

すると財産を持たない者は、「能力」を持つ者による自由な政治を求めた集団を形成しはじめる。

これが民主主義のはじまりで、人々は財産によらない「能力」による自由な政治の社会に生きることになる。

しだいに、自由に慣れた人々の自由は「奔放」へと変化する。不自由である自分や、他人の自由との格差に人々は不満を抱き、勝手な主張をはじめ、社会が混乱へと向かう。

すると今度は、混乱した社会をとりまとめてくれる強烈な支配者を人々は求めるようになる。
その混乱の渦中に登場するのが、独裁者である。

独裁者は混乱こそが自分の存在基盤なので、戦争や内乱状態を意図的に作る。
そして独裁者は自分の地位が奪われる恐怖にたえずおびえているので、国民を暴力で押さえつける。

ゆえに独裁政権は最悪なのだ、と、ソクラテスは語る。

「民主主義の混乱の渦中に登場する独裁者」と聞いて、世界一民主的な憲法を持つと言われたワイマール共和国時代のドイツに登場したヒトラーを思い出した。彼のその後の行動は歴史がすでに示している。

人々の謳歌したはずの自由がいつしか奔放になり、しまいには自分勝手になってしまうという民主主義の没落もソクラテスの時代から何度も繰り返されてきたことで、自由は放任していたら混乱に陥るという教訓が何千年と受け継がれている。それにより、契約においてこそ自由は成立するというルソーの社会契約論や、自由とは自分が他人の自由を保証することというカントの平和論などが生まれたわけだ。

ソクラテスプラトンの生きた多神教古代ギリシャの世界から彼らの知恵はローマを経由し、一神教であるキリスト教と共にヨーロッパに広まった。いまのような科学万能ではない時代、宗教と共に学問が伝わったものだが、ヨーロッパでは宗教の原型が解体された形で学問が伝わっていったという点が興味深い。まあ、この辺は世界史の領域になろう。

支配者もしくはリーダーとはどうあるべきかを考える上でも、さまざまな支配のタイプを知る上でも、紀元前に成立した古典中の古典は、現代日本の混迷した社会と政治を理解し語る上でも、非常に参考になるテキストである。

三津田治夫

第2回飯田橋読書会の記録:AI・人工知能に「意識」は生まれるのか? 『意識と本質』(井筒俊彦 著、岩波文庫)

f:id:tech-dialoge:20170712083937j:plain

某月某日、都内某所で開かれた読書会のテーマは、『意識と本質』だった。
AI・人工知能に「意識」は生まれるのか。
そもそも意識とはなんなのか。この本を通して考えてみたい。

本書のテーマは書名の通りで、非常に明確なフレームワークが冒頭数十ページで示されている。一つの柱が精神の形而上学で、もう一つの柱が宗教学。前者では本質を捉えようとする意識と言葉の断絶を「分節化」というキーワードで解き明かし、後者ではユダヤ教キリスト教イスラム教という、旧約聖書派生の宗教と、ヒンズー教・仏教・禅・儒教という東洋発生の宗教の相違点と一致点を、「意識」のモデル化を通して解き明かそうとする。

「分節化」とはつまり、意識を言語化する行為。元々言葉のなかった世界の事象に言葉が与えられることにより、分節化ははじまる。たとえば、日本一高い山という意識は言葉のない時代からあったが、ある時点から「富士山」という言葉が生まれた。しかし日本一高い山という明確な意識がある一方で、「富士山」という言葉はあの山のどこからどこまでが対応するのかという疑問も生じる。それが、分節化の限界である。人体にしてもそうで、「首」や「手のひら」という言葉があるにもかかわらず。どこからどこまでが首なのか、どこからどこまでか手のひらなのかは、漠然とした共通認識しかない。

作者はそうした言語による分節化の限界を示しつつ、分節化の底に横たわる本質を捉えようとする「意識」に光を当てる。意識把握の筆頭に、作者の独壇場であるイスラム教を取り上げる。イスラム教の思想には事象把握の方法が2種類あり、一つは対象そのものを把握することと、もう一つは対象そのものの普遍的な性質を把握すること。東洋発生の宗教にも、同じく、事象そのものの把握と、事象を構成する元素の把握という2つのアプローチがある。これらを、フランスの詩人マラルメとドイツの詩人リルケの作風の対比において説明する。

マラルメの詩が表層的な描写を通して表層を超えた次元の印象を読者に与えるのに対し、リルケの詩は心の動きそのもの、心の底から湧き上がった感情をそのまま言葉に投影する。つまり意識には、表層意識と深層意識があり、双方の意識を通して人間は本質の把握を試みる。
表層意識と深層意識の双方の取り扱いについて、作者は「禅」に注目する。禅は宗派によりさまざまな解釈があり、それぞれで考え方やアクションが微妙に異なっている。また、禅以前にも、中国天台宗の教典ではすでに禅の原型の考え方やアクションが明確に示され最澄によりそれが輸入されている。

禅とは、一言で言うと、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、新たな分節を再構築する考え方およびアクションである。それを実現するためのアクションが、坐禅である。ゆえに坐禅は言葉を好まない。言葉をいったん解体するために、ひたすら黙って座る。只管打坐とはこのこと。それを繰り返すことで、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、言葉によって構築された世界の外へと出る。

その禅をさらに拡張させたものが、老荘思想に生まれた静坐である。人間にはある意識とある意識が切り替わる間に無意識の時間が生じる。それを「未然」と呼ぶ。修練を通して意識のコントロールができるようになると未然の占める時間の割合が増え、その間に意識は深層心理の原点(著者のいう「意識のゼロポイント」)にまで下降する。こうした静坐といったアクションにより求められるものを「窮理」という。本質すなわち「理」を窮める行為である。

坐禅と静坐との共通項として、本質を掴むために深層意識(分節化されていない世界)と表層意識(分節化された世界)の双方をダイナミックに往来し、双方は再帰的、という点があげられる。そして深層意識と表層意識の間には、意識を分節化(言語化)するタネ(著者のいう「言語アラヤ識」)が存在する。ユングのイマージュのモデルにこれを当てはめると、深層意識と表層意識の間に、下から順に原型(アーキタイプ)とイマージュがあり、この原型に同階層に意識を分節化するタネ(「言語アラヤ識」)が控える。言い換えると、ユング説によれば、イマージュもまた、意識の言語化の結果、である。

上にまとめたのは本書の根幹のみで、その他ユダヤ教カバラセフィーロート、密教など、東西の宗教を横断したダイナミックな論旨展開となっている。

読んでいてふと思ったのは、意識と本質についてこんなに深刻に考え込んで、そして結論らしい結論も得られず、一体なにが本論考の目的なのだろうか、と。そうして自問を続けたどり着いたのは、自分の頭で意識と本質に迫ることが、まさに、自己認識のはじまりである、ということ。自分はどのような心を持って、自分は何者なのかという、自己認識である。そうした自問自答を通し、人は生きる意義や目的、幸福にたどり着くことができるのではないだろうか。

「動物は、直観することはできる。だが動物のたましいは、たましいを、つまり自己自身を対象にしているのではなくて、外的なものを対象にしている」というヘーゲルの言葉を思い出した。

人間は考えなくても生きていける。しかし、考えることにより世界に対して新しい視界が開ける。そして、より人間的に生きていくことができる。言葉でそれを促すのが啓蒙書の重要な役割だ。その意味で、本書は第一級の啓蒙書である。日本人の著した啓蒙書で、ここ20年ほどで最も衝撃を受けた作品。この本はきっと、2年後、5年後、10年後に読み返しても、そのときそのときで新しい印象を与えるに違いない。意識の本質とは、人間が自発的に考える能動的な活動であり、こうした活動により、人間が血の通った人間として生きていくことではないか。そうした「意識との出会い」を与えてくれた作品であった。

以下、本書の概念を図式化したものを掲載する。

三津田治夫

 

f:id:tech-dialoge:20170712084046j:plain

f:id:tech-dialoge:20170712084128j:plain

f:id:tech-dialoge:20170712084135j:plain

f:id:tech-dialoge:20170712084143j:plain

f:id:tech-dialoge:20170712084145j:plain

f:id:tech-dialoge:20170712084149j:plain

 

ITは現代資本主義を救えるのか? 『最後の資本主義』(ロバート・ライシュ著)

f:id:tech-dialoge:20170706222215j:plain

山積された問題を克服し、いま瀕死の状態にある現代資本主義を乗り越え、新しい資本主義を創り上げていくことをテーマにした本。

著者のロバート・ライシュは資本主義を、人類の持つ共有財産として捉えている。『最後の資本主義』という挑発的な邦題から資本主義を否定するネガティブな内容かと思いきや、むしろ資本主義を肯定し、問題提起と、これからの資本主義がどうあるべきかという考え方を提示し簡潔にまとめている。

第二次世界大戦後の30年ほど、企業経営者たちは自らの役割を、投資家、従業員、消費者、一般国民、それぞれの要求をうまく均衡させることだと考えていた。大企業は実質的には、企業の業績に利害を持つすべての人々に「所有」されていたのである。」

かつてアメリカの企業は社会と共存していたが、いまではそれが大きく様変わりした。MicrosoftAppleFacebookGoogleなどの巨大企業は強力なロビイストを抱え、議員たちへの働きかけを通じて自社の収益が最大化を図るべく法案を書き換える。本来、政府は企業のモラルと社会性の手綱を握る抑止力だったが、企業が抱える弁護士の能力は政府が持つそれを圧倒的に凌駕し、企業のロビイ活動にもはや手が出ない。政府は法的抑止をかけることができず、「自由主義経済」という建前のもと、特定の集団に利益が偏る経済格差社会が形成される。

「利益は取締役とオーナー投資家からなるごく少数の手に渡り、残りの人々は失業するか低賃金の仕事に就くため、生産されたものを買うためのカネは減っていく。……将来のモデルは、少数による無制限の生産と、それを買える人だけによる消費のような形態になると考えられる。」と、著者は資本主義のきたるべき末期症状を予測する。

持つものと持たざるものの格差の拡大を放任することで、かつてのヨーロッパの王族主義におちいりかねない点も指摘する。「王族的な富は必然的に政治力と経済力を高めていくことから、私たちの民主主義にとっても脅威となっていく。」としながら、「力を失いつつある九〇%のアメリカ人に政治的発言力を与える新たな政党という形で新しい拮抗勢力が生じる可能性がある。」と、第3の政党の出現を示唆する。さらに、夢も希望もなくなった失業者の大集団が生まれることで、「全体主義や独裁主義の人材供給の場になってしまう」と、ライシュは不気味な予言を呈する。その前兆として、現在のアメリカを率いるトランプによるポピュリズム政権の出現が、ライシュの予言を証明しつつある。

経済格差に関して、さらに、データを交えて説明している。たとえば、「ニューヨーク連邦準備銀行によると、二〇一四年までに学費ローンは米国の債務全体の一〇%を占め、住宅ローンに次いで二番目に大きい」と、経済格差は教育にもおよんでいる。富裕層が通う大学は卒業生や父母から豊かな寄付を受け、大学の教育レベルは上昇する。同時に、学費の上昇や富裕層による限定的なソサエティの形成により富裕層外からの入学に制限がかかる。そこでまた教育格差が生じる。本来教育とは子供に靴を履かせるようなもので、人を社会に送り出すための基礎システム、いわばインフラである。カネの問題だけで、人の人生を大きく振り分ける教育に格差が出ること自体、社会として不健全である。

もう一つ、「カネを持っているのは、その人の能力が高いから」「カネを持たないのは、その人の能力が低いから」という、錯覚の物語が形成されてきたことをライシュは明らかにする。この意識が社会的通念になっている点では、日本でも同じである。だが、ライシュはそれを否定する。つまり富裕層たちは、その経済力により、自分たちに有利な社会のしくみを作るための「交渉力」を行使しているだけで、お金を持つのは「その人の能力が高いから」ではなく、あくまでも「交渉力」を行使しているにすぎない。同じことは、労働運動の盛んだった1950年代、現在値に換算して30ドルの時給を獲得していたブルーカラーにも当てはまる例をあげる。「彼らが頭がよかったから30ドルの時給を獲得したのではなく、「彼らの持つ交渉力がそうさせた」のである。」、と。

ライシュの警鐘と共に、「アメリカという実験の国が自由の名の下で資本主義をここまで進めてきたが、どうもおかしな方向に行ってしまった。世界の皆さん、これを一つの症例報告として見て欲しい。同じ轍を踏まずに、最後の資本主義を乗り越え、ポスト資本主義を作っていきましょう。」という、彼の叫び声が聞こえてくる。

いまのところ日本はアメリカほど過激な(自由)資本主義ではないが、多かれ少なかれ、上記のようなアメリカ流の貧富格差は、日本国内にも刻々と組み込まれている。

同時に、世界のあらゆるシステムは刻々と激変している。国家や政府という実体以外に、ネットという仮想空間の中に「ソーシャル」が形成されている。貨幣という実体以外に、ネットという仮想空間の中に、ビットコインやカード決済、ネット銀行などの「仮想通貨」が流通している。さらにいまは、そこにAI(人工知能)の技術も加わっている。そうした、いままで人類が見たこともない社会的枠組みを持つ現代、資本主義社会以前に存在した「王族主義」がそのまま再来することはあり得ない。とはいえ、人間からの自由を剥奪するに酷似した構造が出現しつつあるのは、紛れもない事実である。

この本を読んで改めて直感したのは、「最後の資本主義」を乗り越えた人類の未来の幸福は、人間と仮想空間とのかかわり方にかかっているのではないか、ということだ。

仮想空間を「道具」として利用する知恵をいかに持つかが、人類の未来の幸福を拓く一つの鍵ではないか。これは大きな課題である。

マルクスの大解剖で本質が暴かれ、ケインズの再定義により現在にいたる現代資本主義とその世界。それを、救われるべき「最後の資本主義」として定義したロバート・ライシュ。今度は日本から、資本主義を救済し、人類の未来の幸福を拓くモラルと文化が生まれることを、強く願っている。

三津田治夫

ブログを開設しました

その昔、情報とは文字だった。
情報技術/ITは、15世紀のドイツ、グーテンベルグによる活版印刷からはじまりまった。
文字を活字に分割し、活字を亜鉛合金で鋳造し、インクを盛り、紙に刷り込む機械の開発まで、文字情報を大量生産する一連の技術を、グーテンベルグは体系化し、実用化した。
グーテンベルグの技術は宗教と芸術、学問を通して出版の大衆文化を作り、一般市民はあまねく書物を手にできるようになった。
それから時を経ること500年。
活字もインクも紙もなく、文字を大量生産・流通できる技術が、デジタル情報革命によって確立された。
それが、いまのIT、ネットワーク、コンピューティングの世界である。
コンピューティングは文字だけでなく、画像や音声、動画など、データ化可能な情報のすべてをその手中に収めた。
そしていまや、膨大な情報はビッグデータとなり、人工知能/AIやディープラーニングにより、デバイスの小型化によるIoT、量子コンピュータによる超高速処理と相まって、第二のデジタル情報革命が起ころうとしている。
こうした、活字でできた文字で構成された本の世界から、データでできた情報で構成されたコンピュータの世界へと、情報の表現のスタイルはこの500年で劇的に変化した。

出版の大衆文化から生み出された現代の情報技術/ITは、一体、どんな未来に進むのだろうか。
人はなにをもってITをサービスとして受け止めるのだろうか。
私たちはビジネスの価値としてITを提供するために、この150年で激変した新しい資本主義社会を迎えるにあたり、どんな学びが必要なのだろか。
これらに関し、さまざまな本やニュースにあたり、哲学、歴史、宗教などの議論を通して考え、事物を編集、再定義することで、血の通ったIT社会を作るためのビジネスや教育のインサイトを手に入れる。そしてそれらを共有していくこと。これが、このサイトのゴールである。

付け加えれば、人の能力やモノ、コトから価値を生み出すリーダーは、数々の本を読み、自問自答を繰り返し、つねに「なぜ」を問い、学びを手にする。リーダーはその学びを行動として実装し、社会の先頭に立ち、自他と高度なコミュニケーションをとり、自律的に、事物をクリエイトする。有史以来いつでも変わらない、リーダーの姿である。その意味でも、第二のデジタル情報革命を迎えたIT社会の未来を、リーダーの視点から正しく読み解くには、急がば回れ、本からのアプローチが最も合理的だと考えている。

激動のAI時代に突入したことを機に、編集者として22年に渡り本を作ってきた当Blog管理者とともに、数々の書物やニュースを通し、ITの豊かな未来を真面目に考え、その成果として、言葉の通った豊かな社会を共有することができたら幸いです。

三津田治夫

昭和の話芸を文字で堪能する:『おなじみ 小沢昭一的こころ』(芸術生活社刊)

f:id:tech-dialoge:20220205131108j:plain

小沢昭一先生が鬼籍に入られてはや1年。
人間とは死んでしまうと忘却の中へとすっかり埋没してしまうものだが、書物はそうした過去の存在を言葉を通して目の前に甦らせてくれる。
小沢昭一的こころ」とはかつてTBSラジオで放送していた超長寿番組のタイトルで、本書はこの番組のシナリオから再録したいわば「ベスト版小沢昭一的こころ」である。
私がこの番組を最初に聴いた記憶は小学生のとき。以来高校生のときまでよく聴いていた。小沢昭一の絶妙な語り口とその内容が面白く、夕方の954KHzに周波数を合わせるのが楽しみだった。
内容は、昭和のお父さん(中高年で出世の遅れた中間管理職、妻と娘から虐げられている)を主人公とした、いってみたらラジオエッセイ。毎回のテーマは「セーターについて考える」「ラッパについて考える」「紅白について考える」などの「~について考える」とし、テーマを巡って古今東西のエピソードを織り交ぜながら考え、語るのである。その合間、会社や居酒屋、屋台、スナック、キャバレー、愛人宅などを舞台にした、昭和のお父さんのしょうもない妄想、幻想、哀愁の独白を織り込み、リスナーの共感を誘う。
よくもまあ、1つのテーマを10分という限られた時間内で多方面に展開させ、笑いあり涙ありお色気ありでリスナーを楽しませたものだ。
本書の内容も、このラジオの雰囲気を見事に再現している。他愛もない話のようで実は奥が深かったり、しょうもない話のようで実は本質を突いていたり、内容そのものよりも実は小沢昭一の言い回しにおもしろみがあったりと、「口演」とはまさにこのことだと、改めて感心した。
装幀のくたびれ具合を見ての通り、本書はAmazonマーケットプレイスで購入したものだが、奥付を見ると昭和五四年六月一日初版発行、昭和五四年十一月八日五版発行とある。4ヶ月で5刷とは、立派なものである。それだけラジオのファンも多かったというわけだ。
昭和を代表する偉人であり一流の語りべであった小沢昭一先生の仕事に改めて触れ、偉大なメディア人だったと、尊敬の念を新たにする次第だった。
三津田治夫