本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

現代西洋哲学の教養が楽しく身につく22年前のベストセラー:『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著)

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全世界で2300万部を売り上げたいわずもがなのベストセラー。「これは面白い」という人が多く当時から気になっていたが、このページ数に圧倒され読むことを長らく拒んでいた。数年前ブックオフで100円で購入していたので、書架から取り出し、一気に読んでみた。

1991年ノルウェー原版刊、1995年に日本語版がドイツ語からの重訳として刊行された(池田香代子訳)。22年前の作品を古典というには微妙な古さだが、この本は古典としての1本の筋が通っている。

結論から言うと、これは「西欧思想史」の本である。これを読破した日本人は一体何人いるのだろうか? という第一印象を持った。いささか難解だ。著者の筆力で、かなりわかりやすく噛み砕かれているが、それでも、そもそもの概念自体が日本人には希薄で難しい。だって、西欧思想史だから。しかしあれだけ壮大な西欧思想史を、ファンタジー小説仕立てで、市民の理解力で読めるような作品として咀嚼し書き上げてくれたヨースタイン・ゴルデル氏の仕事にはただただ感服である。

ソクラテスプラトンアリストテレスからはじまり、イエス・キリストの出現、トマス・アクイナスによるギリシャ哲学とキリスト教の融合、ローマによるキリスト教の国教化、ニュートンコペルニクスガリレオによる宗教と科学の分離、そしてデカルトスピノザの登場による宗教と哲学の分離、などなど、西欧に2000年以上連綿と流れる思想の一大叙事詩が、実に見事に、面白く、謎の先生が少女に教え聞かせるというスタイルで語られている。

途中だんだんと、エンデの『はてしない物語』のようなメタ小説めいた内容になってきて、そこもまた面白い。後半400ページ以上を読み終え、ようやくカントが登場する。つまりカントは、「かなり最近の人」ということになる。この本の中でもとくに、カントとヘーゲルの話は「へえ、なるほど!」と、面白く読んだ。ヘーゲルに関し「彼はヘーゲル論というものを提示した人物ではなくはない。ものの“考え方”を提示した人物である」という解説には目からウロコが落ちた。マルクス唯物論もおもしろく読んだ。この本の後半を読むだけでも、現代西洋哲学の教養が手っ取り早く身につく。

ここのところ「教養ブーム」とはいえ、ご高齢の先輩方には「教養を手っ取り早く手に入れようなんて、けしからん」と怒られそうだが、では、マルクスの『資本論』やヘーゲルの『精神現象学』、ハイデッガーの『存在と時間』やフッサールの『イデーン』を全巻通読して教養を身につけなさいというのは、情報過多ないまの時代、かなり非現実的である(とはいえ、原典にあたる姿勢は非常に重要である)。『ソフィーの世界』は、いろいろな意味で、大きな刺激を与えてくれた書物だった。

それにしても、日本版のこういう本があってもよいのではないかと、読み終えて思った。物語仕立てでも対話調でもなんでもよいので、ともかく読みやすく、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『源氏物語』『方丈記』『太平記』『正法眼蔵』『歎異抄』などのいにしえから中世までの日本思想、荻生徂徠、契沖、新井白石本居宣長など江戸の思想家、杉田玄白から福沢諭吉へと続く蘭学者、明治以降の西洋思想との出会いなど、文学・宗教・哲学を400ページぐらいの読み物にまとめたら、これだけ横断的な思想を抽象化してかいつまむには著者としてなかなかの力量が求められるが、かなり面白いに違いない。

ソフィーの世界』にはさまざまな刺激を受けた。西欧思想が数日で身につく学習的効果も高い名著だった。一読の価値は充分にあり。

三津田治夫

11月11日(土)に、「本とITを研究する会」第2回目セミナーの開催が決定

11月11日(土)に、「本とITを研究する会」第2回目のセミナーの開催が決定いたしました。
今回は参加人数を10名に限定し、分科会的な学びの場としました。
いまやITとは切っても切り離せない「ライティング」がテーマです。
書くことに対するお持ち帰りがいただけるよう、スタッフ一同準備を進めています。
以下が申し込みサイトですので、参加登録はこちらからお願いします。

tech-dialoge.doorkeeper.jp

皆様と再びお目にかかれることを、心から楽しみにしています!

混迷の時代に「大衆とはなにか?」を考える:『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガゼット)

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ネットにつながる大衆、街に群がる大衆、投票する大衆、列車に乗り込む大衆、旅行に大挙する大衆……。いまや当たり前に大衆の時代だが、それが認知されたのが20世紀前半。一世紀近く前の混迷の時代に書かれた書物から知恵を拝借すべく、某月某日、都内某所で開かれた記念すべき第10回目読書会のテーマは、オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』だった。

読んでいて、彼の抱いた世界への強烈な危機感が、混迷の現代に生きる私たちの心にも強く響いてきた。
以下、本文から引用する。

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きわめて強力でありながら、しかも自分自身の運命に確信の持てない時代。自分の力に誇りを持ちながら、同時にその力を恐れている時代、それがわれわれの時代なのである。

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彼が言う「われわれの時代」とは『大衆の反逆』が発表された1929年。その上でオルテガは「いまや大衆の時代になった」と、古来から人類が望んでいた大衆の時代がついに到来したと主張する。お金さえ出せば誰もが食べたり、医療行為や教育が受けられる。国家は民主主義で運営され、社会の保安や個人の安全も保証されている。そうした現代社会が先人の努力で築かれたものではなく、当たり前で無条件に存在していると「無意識」に現実を享受する人たちが、大衆である。一般民衆のみならず、エンジニアや科学者、医師、財界人といった「現代のブルジョワ」もまた無意識な大衆であるとオルテガは定義づける。その上でオルテガは、こうした人類が古来から望んでいた大衆化社会が充足された時代こそ「終末に他ならない」としている。社会的責任や歴史認識に責任の希薄な「生の計画を持たない人間」である大衆が権力を握った時代と共に終末がやってきた、というのだ。

知識人と民衆をひっくるめ大衆を徹底攻撃するオルテガの姿勢は、時代背景を見るとよくわかる。以下、『大衆の反逆』が成立するまでの世界史を復習してみよう。

●1914年7月28日 :第一次世界大戦・開戦
●1917年 :ロシア革命ボルシェビキが政権獲得
●1918年11月11日 :第一次世界大戦終戦
●1922年12月 :ムッソリーニファシズム評議会を設立
●1923年11月8日~9日 :ヒトラーミュンヒェン一揆
1924年4月6日 :イタリア総選挙で国家ファシスト党が有効票の64.9%を獲得
●1929年 :『大衆の反逆』を発表(オルテガ46歳のとき)
●1932年7月 :国会議員選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が37.8%を獲得

第一次世界大戦終戦から10年を経て『大衆の反逆』が発表された。その間、大衆の支持によって成立したボルシェビズムとファシズムが世界に姿を現す。これらにオルテガは強い反感と危機感を抱いたのだ。ボルシェビズムもファシズムも古典的な支配・被支配の構造で成り立っており、これらは古代ギリシャ・ローマの失敗からまるで学んでいない。すなわち、ボルシェビズムもファシズムも、歴史的認識の希薄な大衆により生み出された産物である。

こんなのはまったくダメで、民衆は「生の計画を持つ人間」をリーダーに選び、高い意志を持ってリーダーとビジョンを共有し、リーダーに運命を託した「国民国家」の形成が必要であると、オルテガは結論づける。「国民国家」というキーワードでオルテガが声を上げたかったのは、「ヒトラームッソリーニは非常にまずいし、ロシアもかなりまずい。ヨーロッパの東と内部の双方から危機がやってきて、とてもよろしくない状況。だからヨーロッパよ、現実を直視し、立ち上がろうぜ!」である。『大衆の反逆』をもってオルテガは「ヨーロッパの覚醒」を呼びかけたのである。混迷の時代において彼は、時代に一矢報いるスペイン版のカントやヘーゲルになりたかったのに違いない。

彼の欧州中心主義の主張は、ヨーロッパで理想的な国民国家を生み、その成功事例を世界に示すという、高貴な志に基づく。作中では現在のEUを予言するような欧州連合の話が出てきたりもする。いわばこれは「未来志向」の本である。以下、本文から引用する。

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ヨーロッパ人にとって、時間は「これから」によって始まるのであり、「これ以前」から始まるのではない。
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東西ドイツが統一したときに大統領のヴァイツゼッカーは、「ドイツ統一によって世界は調和できるというモデルを欧州から発信する」と、歴史的な演説をしていたことを思い出す。その後のドイツはごらんの通り。ロシアやウクライナといった東方との外交問題、移民受け入れの問題、欧州での政治問題、歴史的問題、内外の複雑な問題は日本では考えられないほど山積し、未来は不透明だ。

明治維新以来日本人が経験したことがないような長期にわたる混迷と停滞の時代において、オルテガのような警鐘を激しく鳴らす言論人は登場しない。日本には論壇というものが存在しないのだろうか。いまはネットで世界中の言葉や映像がリアルタイムで詳細に閲覧できる(オルテガの時代にはまったく想像もつかなかった科学の大進歩)。発生した事実は生のまま共有され記録される。しかもそれらはアーカイブ化されていつでもアクセスできる。そんな時代だから、個人が目で見たり耳で聞いたりしたもので、判断が迫られる。それゆえに、言論にも宗教にもすがることのできない現代の日本人にとって、混迷は日増しに深まり続ける。個人レベルで見ても、不安にとらわれた人は多いし、心を病む人は多い。日本社会の構成員にそうした人たちが多いのが現実だ。オルテガの作品を通し、いまのわれわれの置かれた状況が鏡に映し出されたような印象だ。頼るべき言論も宗教もない現代の日本で、私たちはどうやってこの時代を乗り切っていけるのだろう。

そんな私の問いかけに対し、読書会のメンバーはただ「うーん」とうなるばかり。私も一緒にうなっていた。

最後にオルテガの言葉を引用する。

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人間の生は、望むと望まざるとにかかわらず、つねに未来のなにかに従事しているのである。
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三津田治夫

混迷の時代に「古典」を読む価値:『永遠平和のために』(エマニュエル・カント)

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「情報氾濫の時代」「ゴールの見えない混迷の時代」「リーダー不在の時代」などなど、いまの世の中、しばしばこのように表現される。
確かにその通りで、有史以来、時代の変わり目は必ず先行き不透明になる。
そんな時代に、時代を画す知性や知恵が現れるという意味で、ヘーゲルが言った「ミネルバのフクロウは夜飛び立つ」は、あまりにも有名な言葉だ。
いまのような時代の変わり目を読み解く材料として、今回はカントを取り上げる。
カントの作品でもページ数が少なく、また、昨今の国際情勢を鑑み、『永遠平和のために』を読んでみた。

カントが一貫して主張し、人間に要求するものは、「理性」と「幸福」の追求である。
そのためには「自律」をもって「自分の行動原理(格率)を普遍的法則にまで高めなさい」、という。
この大命題が、本書で語るカントの平和論の基盤をなす。

まずは戦争に関して。
歴史的に、「戦争をなにか人間性を高貴にするものとして賛美する。」という傾向があり、そこに、人間が戦争を起こす正当性の理論のベースにある、としている。

そして「宗教と言語による民族の分離」はえてして戦争の原因となりうるが、こうした分離には意味があり、決してネガティブな要因だけではない。すなわち、民族は分離しているからこそ、互いが競い、発展する動機になるのだ。

「互いの利己心を通じて諸民族を結合する。」

そしてカントのもう一つの主張は、「商業精神は戦争とは両立できない」という点。
この商業精神こそが、あらゆる民族を支配するようになると言う。
商業が支配する、現代社会を予言した言葉である。
しかし思うに、「商業精神は戦争とは両立できない」というカントの予言は外れてしまった。
以下は私の意見。

現代の商人は、戦争と両立できる商業精神を編み出した。
それが、武器商人の精神だ。
戦争はすればするほど、儲かる。
もしくは、戦争の脅威を人々に植え付ければ植え付けるほど、武器は売れる。
隣国が軍備を高めているという情報一つでイージス艦は売れるし、乱射事件が起これば拳銃火器は自衛のために売れる。
「軍備の拡大は論外」とカントは言うが、資本主義経済はそれを逆手に取り、商業精神と戦争を両立させてしまった。
消費なしに資本主義経済は成立しない。
その行き着くところが、最大の消費である戦争だった。
中東問題もリーマンショックもしかりで、ある意味資本主義経済も、21世紀において、限界に到達した。
資本家や政治家など、どれだけの数の権力を持った人間が、カントの次の言葉を現実として受け止めているのだろうか。

「汝の格率が普遍的法則になることを、汝が意志することができるように行為せよ。」

自分の行動原則に普遍性を持たせよ、ということだ。

この言葉を額面通りに受け取れば、武器を消費させ、武器を売買することで利潤の最大化を図るという発想自体、まったく成立しない。

人間は権力を持てば持つほど、このカントの言葉を冷静に理解するべきである。
彼のこの言葉を単なる理想と読むか、現実と読むか。

カントの言葉の読み方次第で、世界はまったく変わるはずだ。

三津田治夫

オープンソース黎明期の記録②:Perlの開発者、ラリー・ウォール氏独占インタビュー

 1998年、いまから19年前、Perlの開発者、ラリー・ウォール氏来日を記念してインタビューを実施した。ZDNet Japan(現IT Media)の記事として書いたその内容を、前回の基調講演の記事に続くものとして、アップしました。
 前回同様、コンピューティング世界史の一つとして、オープンソース黎明期の日本の様子を共有できたらと、ここに記事を再掲載します。

  * * * *

Perlの開発は一つのパフォーマンス」~ ラリー・ウォール自らを語る ~

 11月12日、都内のホテルにて行われていた「Perlカンファレンス」が終了した。Java対応の話や日本語の問題、またWindows NTで利用するPerl for Win32などと、従来のUNIXといった範疇でのみとらえることのできない、盛りだくさんの内容を取り込んでいた。また、あるカンファレンスでは、通訳者が手配できず英語のみでの説明となったが、急遽飛び入りで会場から通訳者が現れ、参加者が通訳を行うという一幕もあった。まさに“フリー”というか、Perlコミュニティの懐の深さや暖かさを味わうことができるカンファレンスだった。

◎インタビューに応えるラリー・ウォール

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 こういったPerlコミュニティの立役者、来日したラリー・ウォール氏にインタビューを行った。同氏はPerlの開発者であるが、また同時に、このコミュニティの雰囲気を作る担い手でもある。彼のような、カルチャーをまるごと持ってきてしまうような人こそ、真のエヴァンゲリストといえるのではないだろうか。

-- お会いする前の印象は、ちょっと怖い人と感じていましたが……

ラリー・ウォール
 それはどこでも言われます。各地を回っていると、まるで教祖でもあがめるような態度で接してきますけど(と、信者がひれふすジェスチャをとる)(笑)、いつも僕は言ってますよ。「普通の人間だよ」ってね。

-- Perlを開発したきっかけは?

 以前、国家安全保障局(National Seculity Agency)のシステムのサポートを仕事としていました。通信にUSENETを使っていて、レポートを添付して送信するするというシステムを作っていました。そこで作業を楽にする手段はないものかと考え、Perlが生まれました。

 いつも「Perlは僕の作品」といっている。まあ、アーティストと同じで、自己実現の手段の1つがPerlなのです。Perlの開発はパフォーマンスでもあります。

-- いままでの職業遍歴を聞かせてください。

 大学を卒業して、System Development Corporationという会社でコンパイラの設計をやったり、JPL(ジェット推進研究所)にもいました。ここではマゼラン計画に携わりました。あの計画は成功を収めましたね。最近の話題ではマーズパスファインダーがありますが、残念ながらこのときにはもういませんでした。そのあとは、ハードディスクメーカーのSeagateに買収されたNetlabにいました。

 転職を続けていて、義兄に「もう先はないよ」といわれましたよ。しかし2年半前、ティム・オライリーから、「うちの専任で、Perlコミュニティの面倒を見てもらえないか」という話がありました。それで、僕はここにいるわけですけれど。

-- システム管理に長い間携わっていたようですが、どうして1人のシステム管理者が、プログラミング言語/インタープリタ(*注)を開発できてしまったのでしょうか?

 僕はシステム管理者というより、言語学者です。大学では、初めは化学史と音楽史を専攻していましたが、音楽を続けるには、自分の時間のすべてをそれに費やさなければならないことがわかったので、これは断念しました。他にもやりたいことがありましたし。卒業したときの専攻は、言語学とコンピュータでした。おかげで8年かかりましたけど。

-- なるほど。そのような知識的背景があったのですね。しかし音楽とは意外ですね。ちなみに楽器はなにをやっていたのですか?

 おもに弦楽器、クラシックのバイオリンやギターをやっていました。2週間前には遊びでコンボドラムをたたいていました。エキサイティングだったな(笑)。

-- Perlの開発を、パフォーマンスとかアーティスティックな活動とおっしゃっていますが、実際に著作物を読んでいてもそれは感じます。『Perlプログラミング』は、読み物としても非常に面白いです。そこで質問ですが、Perlの開発や著作にインスピレーションを与える芸術や創作はあるのでしょうか? また信奉する哲学とかはあるのですか? このような才能はどこからきているのでしょう?

 とんでもない、才能なんてないですよ。『Perlプログラミング』の成功に関しては、ティム・オライリーが僕にヴィジョンを与えてくれたことが最も大きいと思っています。彼には感謝しています。Randal L. Schwartzとの共著になっていますけど、本文はほとんど僕が書きました。

◎『Perlプログラミング』の日本語版初版

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 インスピレーションについては、僕はいろいろなものに広く浅く興味を持っているから、そのあたりが反映しているかもしれない。あと、音楽は聴くことも好きです。クラシックですが、マーラーはいいね。あと、創作なら、トルーキンの指輪物語は好きですよ。哲学というと僕の場合、神学とほぼイコールになります。クリスチャンとしての常識的な考えは持っているつもりですが、キリストという人物についても興味を抱いています。キリストはいろいろなことに関心を持っていて、比喩的な語り口などはとても面白い。クリエイティブな人物だと思っていますよ。

-- Perlに対して、日本人独特の反応はありますか?

 ティム(オライリー)もいっていましたけど、来場者に女性が圧倒的に多いと感じました。サンノゼでは基調講演の来場者が1,000人以上いました。日本では全部で数百人でしたが、女性の数だけでみると、サンノゼの女性参加者と同じぐらい。これにはアメリカも見習うべきですね。

 あと、Perlの開発当初は、日本での普及は難しいと思っていましたが、Jperl(2バイト文字に対応したPerlの日本語実行環境)の登場とともに急速に普及したのは印象的です。

-- Perlというと、ウェブのホスティングやHTMLなどのテキスト処理用の言語として広く使われていますが、会計系の処理ではどのように使われているのでしょうか?
 会計系はパッケージソフトにまかせておくとして(笑)、近いものでは、株式や金融の市場分析モデルを算出するのによく使われています。

-- その理由はなんでしょう?
 とくにPerlは、ルーチンを拡張したり、調整したり、状況に合わせて処理を進化させることに優れた言語です。この点が理由だと思います。

-- そのほか、企業ではどのように使われていますか?
 やはりウェブ関連が中心ですが、ロボット系やネットワークスキャン、メールの一括配信などです。

-- ところで、余暇はなにをしていますか?
 最近は海水魚の飼育に凝っていて、水槽にハコフグを飼っています。合気道もやります。ちなみに子供たちには空手をやらせていますが。あとは、趣味でプログラミングもやりますよ。

-- どういったものを作ります?
 たとえば、電子メールや電話に、それぞれの発信者ごとに、着信すると奇妙なサウンドが鳴るような仕掛けです。あと、ハコフグの水槽のポンプを制御するプログラムも作りました。それぞれの家電がEthernetで接続されています。

-- 開発言語は?
 もちろんPerl! だけど、おもに使ったところはEthernetまわりですが。

-- Perlとインターネットのかかわりはどのように変わっていくと予測しますか?
 んん(と、苦笑しながら)、それには答えられない。それは、インターネットの未来を予言することと同じになるから。

 ただ、将来のPerl像というと、目下行っている、JPLJava Perl Lingo)によるJavaや、XML、COM、COLBA対応に最も力を入れています。

-- Perlはこれからもタダ(フリー)ですか?
 もちろん。

-- Perlのフリー文化と相対立するものにMicrosoftなどのパッケージソフトの文化があると思いますが、Perlとのかかわりはどうなっていくでしょうか?
 お互いはもっと協業関係を結ぶべきです。フリーウェアの文化は、インフラを自由に無料で利用できるというところにある。一方Microsoftは、インフラ提供でお金を取りたがっている。まあ、根本的な哲学が違っているわけで。フリーウェイは、東海岸は有料ですが、西海岸は無料。僕はカリフォルニア出身だし、インフラ利用には無料であることを支持します。

-- ありがとうございました。
 (最後に、ラリー・ウォール氏は鞄の中からごそごそと紙切れを取りだし、それを読む)

 DOUITASIMASITE!(笑)

◎インタビューの記念に、『Perlプログラミング』の本扉にいただいた直筆サインとラクダのスタンプ

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*注1:インタープリタ
 プログラミング言語の解釈ソフト。プログラミング言語は一般的にテキスト形式で書かれている。これを、CPUが解釈できるコード(いわゆるバイナリ)に翻訳するためのソフトウェア。インタープリタとはその1つで、実行時にプログラミング言語を1行ずつ読み込み、そのつど解釈する。PC関連の有名どころにVisual BasicやPostScriptがある。ちなみに、一括してバイナリに変換する解釈ソフトを「コンパイラ」という。

三津田治夫

 

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オープンソース黎明期の記録①:Perlの開発者、ラリー・ウォール氏来日基調講演

 1998年、いまから19年も前の話になるが、Perlの開発者、ラリー・ウォール氏が来日した。そのときの基調講演の模様をZDNet Japan(現IT Media)の記事として書いた。
 ラリー・ウォールといえばオープンソースの神様で、私はこの基調講演に聴き入ってしまい、いまでも忘れられない貴重な思い出となっている。
 コンピューティング世界史の一つとして、オープンソース黎明期の日本の様子を共有できたらと、ここに記事を再掲載します。

  * * * *

あのLarry Wall氏が基調講演で登場
 11月11日、都内のホテルにて、O'Reilly Japan主催の「PerlカンファレンスJAPAN」が開幕した。12日まで行われる。初日の朝9時から行われた基調講演では、O'Reilly & Associates, Inc.のTim O'Reilly社長と、あのLarry Wall氏が登場した。

CGIデファクトスタンダードPerlの哲学を語る
 「あの」といわれても、読者にはピンとこない人がいるかも知れない。しかし知っている人には教祖的存在の人物である。彼は、ウェブのCGI言語として、いまやデファクトスタンダードといえる、フリーウェアのインタープリタPerl」の開発者だ。そしてまた、O'Reilly & Associates刊の通称“ラクダ本”と呼ばれる、世界で50万冊売れたというPerlの入門書、『プログラミングPerl』の著者でもある。プログラミング言語の開発者の声を生で聞く機会はなかなかない。心して耳を傾けた。

 Larry Wall氏は、自らが開発したPerlを、「美しくないが問題解決には最適の言語。我々の話し言葉でたとえると、台所で交わされる言葉のようなもの」と言い表す。少々謙遜の意味も込められているのだろうが、前述の『プログラミングPerl』の表紙の絵柄であるラクダに、「ラクダは醜い生き物だが、特定の作業をこなすには最適の生き物」という意味も込められているということからもうなづける。

日本製の時計を自慢するLarry Wall

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 『プログラミングPerl』の内容同様、Larry Wall氏はウィットとサービス精神に富んだイカす男だ。ちょっと飄々としたところもあり物静か、しかし絶えず笑いをとるという、サイレントななかにも鋭い切れ味を感じさせる。会場に登場するやいなや、「僕は日本に来日したというよりも、帰国したという気がする」と語り出す。その理由は、「左腕にしている時計も日本製、家に帰ればテレビはソニー、初めて買った車はホンダのアコードだ」といっている。

CとShellから出てきた真珠
 余談を終えて同氏は、Perlの設計哲学を語る。UNIXの世界で、データの操作性が高い言語として「C」を、そして、やりたいことを素早く作成できる手段として「Shell」をあげている。これらの両者の利点を兼ね備えた言語にsedawkがあるが、どちらかといえばShell寄りで、データの操作性は高いとはいえない。Cとshellの利点をフォローする言語として開発されたPerlを、「Perlは、Cとshellがぱっくり割れて、中から出てきた真珠である」と表現する。

 基調講演のテーマは、「Aikido for Programmers」と題されている。同氏が趣味で行っているともいう合気道。このテーマは、宇宙と人間の融合をはかる合気道という言葉を、コンピュータと人間の融合をはかるPerlと掛け合わせたものだ。また合気道は、「上達すればするほど動きが少なくなる。プログラミングも同じこと」とも付け加える。

 また今回は、同氏とのインタビューにも成功し、Perlの未来やLarry Wall氏のパーソナリティにも触れることができた。次回の記事として掲載する予定なので、お楽しみに。

三津田治夫

 

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AI時代に「人間の身体とは?」を問う:『知覚の現象学』(上・下)(メルロ・ポンティ著、みすず書房刊)

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「われわれは歴史の<頭>にも<足>にも心を奪われるべきではなくて、その全身にこそ専念すべきである。」

日本が誇るSF大作『攻殻機動隊』はハリウッドで映画化され、スカーレット・ヨハンソン扮する草薙素子は「自分ってなに?」の自分探しをはじめる。原作では「生命とは思考か、記憶か?」「生命とは身体か?」「そもそも生命とはなに?」が根底のテーマに据えられたすばらしい作品だ。その意味で原点となった映画『ブレードランナー』は偉大な作品といえる。

と、人は「心と身体」の問題に悩んでおり、すでに成人した大人たちもがいまや自分探しをはじめている。世の中が複雑化した今日的現象である。動乱の世界の中では必ずこうした「存在への疑問」が人々を取り巻く。『知覚の現象学』は、1945年、第二次世界大戦のさなかという動乱の時期に出現した作品だ。

経験主義、観念論からの決別を図り、「人間的認識がかならず自己の身体をつうじてでなければ生起し得ないことを徹底的に明らかにすること」を出発点とし、現象学という、哲学の新分野に深く切り込んだ野心作である。非常な大著で、2ヶ月をかけてようやく読み終えた。
この本の中の表現は、『攻殻機動隊』に戻るとさながらバトーの詩的なセリフとしてそのまま使えそうなものばかり。引用を交えながら、ポイントを押さえていく。

「身体と意識とは相互に限界を劃し合っているものではなく、両者は並行的にしか存在し得ないのだ。」と、デカルトの「我思うゆえに我あり」を批判的に捉えている。つまり、「我思うゆえに、我が思うことを我が知る」である。この「知る」という能動的な活動を通じ、意識が実存に「再統合」される。
さらにこうも言う。
「私はコギトを実行することができ、本気で意欲したり愛したり信じたりしているとの確信をもつことができるが、それはただ、それに先立ってまず実際に意欲したり愛したり信じたりして、自分自身の実存を果たすという条件においてだ。」
意欲や愛といった意識は、存在に意味を与える条件でもあり、人間の持つ意欲だ。これが、彼の哲学が、身体の哲学と言われるゆえんでもある。

身体と意識の統合という認識を出発点とし、彼の理論が展開される。
まずは、感受する対象として、「言葉」が取り上げられる。
「自己の身体が世界のなかにある在り方は、ちょうど心臓が生体のなかにある在り方と同様である。」と、生命を持った身体は、世界を動かす装置でもあり、世界そのものでもある。さらに「人が自分の身体でもって知覚する場合、身体は自然的自我であり、いわば知覚の主体でもあるからである。」「私は身体をとおしてはじめて世界へいたる。」と、身体は世界そのものであると同時に、その世界を知覚する主体でもあるのだ。
「身体に附与される重要性、愛のもつ諸葛藤は、他者にとっての対象〔客体〕であると同時に私にとっての主体でもあるといような、私の身体の形而上学的構造に基づくより一般的なドラマと結びついている。」とあるように、身体は愛やドラマ、つまり言葉を形成する主体である。
そして人間が言葉を獲得する過程を、「事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである。」としている。
信仰にも言葉がベースにあり、「神はもろもろの存在物を名づけることのよってそれらを創造したのだし、呪術はそれらについて語ることによってそれらのうえに働きかけるわけである。」とし、コンテクストにより言葉の要素に意味が与えられる。
「文こそが各単語にその意味をあたえるのであり、相異なるさまざまな文脈のなかでもちいられてきたからこそ各単語は、絶対的に固定化することなぞ不可能な或る意味をすこしずつ帯びるようになってゆくのである。」
身体と言葉、理念を、次のようにまとめる。
「身体と自動能力とをもった人間が存在しなかったならば、言葉は存在しなかったであろうし、理念も存在しなかったであろう。」

話はさらに、われわれの身体が共有する「時間」へと移行する。
「時間の<綜合>は移行の綜合、つまりは自己を展開する生の運動だということになるし、この綜合を実現するには、この生を生きる以外に仕方はない。」
時間と自己との統合は、「この生を生きる」ことにほかならない。時間の中で活発に生命を展開し、生きることが、「この生を生きる」である。時間の流れにおいて「考える」ことで、人は生命を持って実存する。
「われわれが過去にあり、現在にあり、未来にあるからこそ、われわれは時間というこの言葉のもとに何ごとかを考えることができるのだ。」と、実存をいみじくも表現する。

「時間の中では、存在するということと通過するということとが同義語なのであるから、出来事は過去になるからといって、存在するのをやめるわけではない。」
過去も現在も、存在である。となると、存在しない「未来」の扱いはどうなるのか。
「ましてや未来が意識の内容でもって組立てられるということはありえない。すなわち、未来は存在したこともなければ、過去のようにわれわれのうちにその痕跡をのこすこともありえないのだから、どれほど曖昧なかたちでであろうと、なんらかの事実的内容が未来の証人として通用するということはありえないのである。だからこそ人びとは、未来の現在にたいする関係を説明するのに、それを現在の過去にたいする関係に同化することしか思いつけないのであろう。」
人は、未来とは、過去によってでしかイメージできない。まったくの未知の、知り得ないものが、未来である。

共有する生活や運命という媒介を通して、時間は、人の社会的意識に影響を与える。
「たとえ階級意識が生まれるとしても、それは、日傭労働者が革命的になろうと決意し、それに応じて己れの現実の身分に価値附与するからではなく、彼が己れの生活と工場労働者の生活の同周期性と、彼らの運命の共通性とを具体的に感じとったからなのである。」
私たちの属する社会的な階級やステータスも、こうした時間意識を通して形成される。ある人の生活や運命を見て、自分との距離や温度を共感することで、その人の階級意識は形成される。

のべで700ページを超える大著、難解をもって名が知られる『知覚の現象学』を、身体、言葉、時間という3つの切り口で、駆け足で取り上げた。
この本が難解なところは、起点が膨大な「批判」により構成されている点にある。私が気づいたところだけでも、デカルト、カント、ヘーゲルスピノザライプニッツフッサールベルグソンハイデッガーニーチェフロイトなど、批判の対象は膨大である。中でもメルロ・ポンティは、フッサールハイデッガーベルグソンにはポジティブな影響を受けているようだ。反して、カントの「理性・悟性・感性」やフロイトの「エス・自我・超自我」といった「階層的な思想」には反感を持っている。むしろ、世界は再帰的で入り組んでおり、安易にフレームワーク化できないというスピノザ的な思想が、メルロ・ポンティが本質的に持つ思想であるように見受けられる。メルロ・ポンティが日本人に人気の高い思想家であるゆえんは、そこにあるのだろう。本来、日本人は階層的な思想を持たず、上下左右前後が不問な、八百万の神がいたるところに存在して縁起をなしている。日本人は「信じるものの多様化」を容認する人種だ。西洋や中東を支配するキリスト教イスラム教、ユダヤ教という、一神教社会にはあり得ない思想である。メルロ・ポンティの複雑さや神秘性は、こうした多様化にも共通している。

上記はあくまでも私の個人的な解釈で、「メルロ・ポンティの現象学ってこういうものか」というイメージを共有できたら、という意味でまとめてみた。そもそも、いままで私は一度も、メルロ・ポンティの現象学について他人と議論したことがない。

この本に手を出したのは、私の個人的な好奇心でしかなく、「身体」というテーマに強い関心を覚えたからだ。どうもいまの時代、ネット上の文字や画像といった「データ」や、「AI」が社会の前面に出てきており、これらがあたかも社会を形成しているかのような錯覚にとらわれているように思える。そしてふと、いまの人間に残された決定打はなにかと思案しているところに、「身体」というキーワードが落ちてきた。「データ」や「AI」は、人間の身体の派生物でしかない。人類の未来を握る主体は、身体の派生物ではなく、「身体そのもの」だ。それを再確認したかった。そして、身体とはなにかを知りたかった。この本に手を伸ばしたのは、そうした軽い好奇心からだった。

そんななので、「メルロ・ポンティの現象学って、本当はこうだよ!」というコメントなどがあったら、ぜひご教示いただきたい。

三津田治夫