本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

ディープブルーはなぜ勝ったのか?

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 しゃべり言葉に書き言葉、言葉にはいろいろあり、いずれも人間同士が考えを相手の頭脳に送り込むための媒体が言葉だ。人間同士の会話にはこうした言葉が使われるが、人がコンピュータに対して考えを送り込むために使う言葉は、いまのところ、プログラミング言語となる。今回は言葉とコンピュータについて考えてみる。

ある時、コンピュータは「言葉」を持った
 言葉の現代社会への最大の貢献は、戦後のコンピューティングの発展にあるといえるかもしれない。哲学は科学の生みの親であると共に、科学と相互に刺激を与えあうよきライバルでもある。哲学(論理学)と現代コンピューティングの接点が見られるようになったのは、20世紀初頭のウィーン学派からだ。それまでの哲学を語る言語は言葉だったが、ヴィトゲンシュタインやカルナップらのウィーン学派哲学者の間では、哲学の言語に数式が取り入れられた。
 ウィーン学派の活動は戦後アメリカに移った。彼らの思想はプログラミング言語として、ノイマン型コンピュータというハードウェア・アーキテクチャと結びつくことで、コンピューティングは猛ダッシュをかけるように、一気に加速した。

 コンピュータの制御は、古くは、スイッチや配線の組み合わせを変更することで行われていた。コンピュータに言葉を入力するためのインタフェース(キーボード)と専用の言語が開発され、コンピュータは「言葉」で制御することが可能となった。英数字の羅列からなる判読困難なアセンブリ言語を経て、人間の言葉に近い文法を持ったPascalやFORTLAN、会計や伝票の概念を取り入れたCOBOL、PL/1、人間の思考概念のモデルを取り入れたsmalltalkJavaなど、数々のプログラミング言語が開発された。 

人間の脳に近い振る舞いまでができるようになったコンピュータ
 コンピュータのハードウェアは、CPU(中央演算装置。当時はこんな言葉すらなかった)に真空管からトランジスタ、そして1959年に米TI社が開発したIC(中央集積回路)が実用化されることで、処理速度は飛躍的に高まった。それから時を経ずしてLSI、超LSIへと進化し、ムーアの法則に基づいてネズミ算式に中央演算装置は小型化と処理速度の高速化への道を突き進んでいった。中央演算装置の「超」高速化によって、いまやコンピュータは人間の脳に近い振る舞いまでができるようになった。

 それを証明する出来事が起こったのは1997年、私はいまでも昨日のことのように覚えている。IBMのスーパーコンピュータであるディープブルーが、チェスの世界チャンピオン(ただの世界チャンピオンではなく、数百年に一人出るか出ないかの天才プレイヤー)であるガルリ・カスパロフ氏を破ったその時だったろう。過去の積み手をデータベースに記録し、その中で最も王手(チェスだからチェックメイト)に近い手を算出するというそう複雑ではないアルゴリズムで、1秒間に2億手先を読める猛烈な演算速度と、精神的なプレッシャーおよび肉体的疲労を一切知らないその機械的な能力に、カスパロフ氏は辛くも敗北を喫した。負けが見えてきたときのカスパロフ氏の表情は見るからにやつれ、手先は小刻みに震えていた。後日同氏が語ったのは、「疲労とプレッシャーを見せない相手に恐怖を感じた」とのことだった。

 これによって、「一定の条件下で人間に勝る能力を人間が開発した」、ということが証明された(ちなみに次の試合では、カスパロフ氏は勝利を収めた)。
 産業革命の図式は「筋肉→蒸気機関」へのパラダイムシフトだったが、ディープブルーの勝利は「脳→コンピュータ」というパラダイムシフトを成し遂げたとも言い換えられる。

人間の脳がシミュレートされるのはそう遠い未来ではない
 ディープブルー対カスパロフ氏の対戦が終わったあとのことだったが、テレビで、IBMのエンジニア(名前は失念した)がインタビューされていた。そのときの発言が耳にこびりついていまでも忘れられない。

 インタビュアーが「ディープブルーはなぜ勝ったのか?」と聞くと、エンジニアはこう答える。「わからない」と。どのような条件でどのような勝ち手を読んだのか、あまりにも条件が複雑なためにわからない、というのだ。ログを丹念にトレースすればわかるのではないかと思ったが、そうでもないらしい。あまりにも複雑多岐で、条件を容易に再現することができないのだ。

 このときふと思ったのは、「人間の脳がシミュレートされるのはそう遠い未来ではないな」だった。まさに人間の脳も複雑多岐な条件で働いており、"Aという物体を目にしたら、脳のBという部位に情報が保存され、Cという行動を起こす"、などという機械的因果律は通用しない。Aという物体は一体なんだったか、どんな形で何色だったか、また、どのような感情でそれを目にしたのか。Aという物体は過去の記憶を想起させたか。またそれを目にしたときの身体のホルモンバランスはどのようだったかなど、「あまりにも複雑多岐で、再現することができない」条件により、人間の認識と行動は決定される。

 つまりコンピュータも、複雑多岐な条件を限りなく記憶させ、力業で最大限高速にそれにアクセスすることができれば、より人間に近い振る舞いをするのではないか。そしてより複雑な記憶や認識の体系がコンピュータに育てば、もしかしたら創造的で生産的な活動もできるのではないだろうかと、未来への空想はつきない。空想とはいうものの、ドラえもんの「糸なし糸電話」や「壁掛けテレビ」は、携帯電話や液晶テレビとしてすでに商品化されている。空想侮るなかれ。コンピュータがもたらす創造的で生産的な未来に期待したい。

三津田治夫(2010年4月6日の記事)

「ブラックボックス」のジレンマ ~AI時代に感性を磨く大切な意味~

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 近ごろはどこに行くにもiPhoneGoogle Mapを利用している。
行き先の住所や名称をインプットすれば自分の位置がマッピングされ、リアルタイムで行くべき方向を画面や音声で指示してくれる。大変便利だ。
そこで最近気づいたことは、Google Mapを利用するようになって、道順の記憶が薄くなった、という点。以前は一度歩いた道は二度目に迷うということはほぼなかったが、最近はよく忘れる。そして「ま、Google Mapを開くか」と、iPhoneの画面を開き、行き先を聞き、たどり着くことができる。これは実に素晴らしいことだ。
しかし、道順を簡単に忘れてしまうのはどうしてかと冷静に考えてみてわかったことは、目的地にたどり着くために私は自分の感性を働かせず、iPhoneGoogle Mapというハードウェアとソフトウェアにすっかり任せきってしまっていた点。無意識のうちに自分の感性を外部の機械に完全に委譲していたのだった。

人間の五感を代替するコンピューティング
人間の記憶は五感を働かせれば働かせるほどより強く定着する。たとえば言葉や事象を身体に関連付けたり視覚や嗅覚、味覚、聴覚に変換するという記憶術もある。私が方向感覚や風景イメージなどの感性を働かせる代わりに、iPhoneに位置情報をセンシングさせ、その情報をGoogleの持つ地図情報にマッピングさせ、位置情報をGoogle Mapに表示させ、その情報を基に最短経路をGoogleのシステムに算出させたに過ぎない。いわば私が自分の脳内で働かせるべき五感を、iPhoneGoogle Mapというデバイスとソフトウェアに「肩代わり」させたのである。
これはいたって単純なわかりやすい例であるが、AIによる処理や判断は、この「肩代わり」がブラックボックス化されるのである。そこが、私たちに恐怖感を与えている大きな要因である。

ブラックボックスブラックボックスを無限に生むAI
AI(便宜上機械学習ディープラーニングによる処理もすべてAIとする)には「未学習」のものと「学習済み」のものがあり、人間同様、後者は学習の度合いにより賢さのレベルが変わる。そしてこれもまた人間同様で、賢さのレベルによりAIとしての商品価値が変わってくる。つまり賢いAIは商品価値が高く、そうでないAIはその逆だ。とはいえこれもまた人間同様で、商品価値の高低は絶対的でなく、サービスの内容や顧客の性質に応じ相対的なものである。それでもAIには精度というものが要求されるから、それなりの賢さのレベルが求められる。
そしてAIは、質の高いデータを与えれば(≒教育すれば)、より賢くなる。
たとえば、馬やロバ、ハマチ、ブリなどの画像データをAIに学ばせるとする。
同じ魚類でもハマチとブリを賢く見分けるためには人間同様、膨大な学習データを要する。それはデータ量だけではなく、質も問題になる。そのように育成されたAIを「モデル」という。
ここで人間がAIに与えるものは、学習データだけである。そして、どんなデータを与えればどんな判断をするAIに育つのかは、完全にトレースできない。それは、賢さのレベルが上がれば上がるほどそうなる。それが、「ブラックボックス」であるゆえんだ。
さらに、上記の過程で育ったAIモデルが読み込んだ学習データとアウトプットした判定データを他のAIが読み込み、処理が簡略化された新しいAIモデルを生成する。これを「蒸留モデル」と呼ぶ。処理が簡略化されるとはつまり、同じ処理内容でより高度なことができるようになる、ということでもある。そしてさらにブラックボックス化は進む。
どのような教育をAIに与えたらどのようなAIに育つかがわからないというブラックボックスと、AIがなにをどう判断するかがわからないというブラックボックスという、AIの内面的に、二つのブラックボックスが存在する。
同時に処理アルゴリズムの高度化や量子コンピュータなどによるハードウェアの高速化、クラウド技術による高度なネットワーク化などの、ITを取り巻く技術が同時並行的に高度化する。これにより2045年、AIは人間を超えシンギュラリティが起こる。そう、未来学者のレイ・カーツワイルは語っている。

宿命的なブラックボックス
このように見てわかるように、AIとは宿命的にブラックボックス化する。
これはすでに20年以上前に起こっていた出来事だ。1997年5月、IBMが開発したチェス対戦システムであるディープブルーが世界チャンピオンのカスパロフを破った。その出来事はいまだ記憶に新しい。このとき私が聞いたIBMのエンジニアのコメントが衝撃的だった。それは、「ディープブルーがなぜこのような手を打ったのかわからない。判断分岐が複雑すぎてトレースできない」ということだ。「えっ、ログでトレースできないのか!」と、私はこのとき深い衝撃を受けた。さらに印象的なものとして、現状の技術ではチェスまでならできるが、敵の駒を流用する将棋や、複雑なルールを持つ碁は、人間に勝てるコンピュータシステムを開発することは無理、と断言されていたのも記憶に新しい。しかし直近の歴史をご覧の通り、それが二十年も経たないうちに実現されてしまった。この文脈で読み取れば、レイ・カーツワイルが語っていることもあながち嘘ではなかろう。

人間の選ぶべき道は感性を磨き、自信を持つことだ
ブラックボックス化したコンピュータが暴走し反乱を起こすというのは、古くからのSFにある定番で、そうしたストーリーに人間が支配されているのではないか、という気もしてならない。言い換えると、「人間が作ったモノはブラックボックス化してはいけない」という暗黙のルールがある。クローン人間を作らないことや、DNA操作の使用範囲など、技術的には可能だが倫理的にやらないという、可能性をどこまで実行に移すのかという人間の感性の問題が大きくかかわる。
人間もまた、そもそもブラックボックスである。子供は白紙とよく言うが、子供には可能性と未来があるという性善説に基づき、義務教育が施される。知識と教養の基礎を身につけた子供たちは進学し、社会に出るが、その子たちがどういう情報をインプットし、それをどう判断し、どうアウトプットするかはわからない。知識と教養の基礎を身につけながらも、社会に出て暴力や窃盗、詐欺など、反社会的なアウトプットをなしてしまう人間も少数ではあるがいる。これもまた人間のブラックボックスたるゆえんだ。そして負のブラックボックスが集団化・社会化すると、闘争や紛争、恐慌、戦争が起こる。
人間とはなにかが問われるAIの時代、人間は自分の感性を磨き、その感性に自信を持つことだ。それが、人間が人間たるゆえんを保つ基盤になる。脳内の記憶をたどらず、風景を見ず、空気を感じることなく、iPhoneの画面に一点集中し、Google Mapに頼りっきりで町に出ることは、感性を磨き感性に自信を持つという活動を怠った結果である。利便性の高さを利用することと、できることなのに怠ることは、紙一重である。老若男女、これは同じである。

*  *  *

今回読んだ『AIの法律と論点』(西村あさひ法律事務所 福岡真之介 編著、商事法務刊)は、法律家が書いた専門書であるが、現代のAIが抱える問題をテクノロジーから倫理まで俯瞰的に捉え、文章や構成も読みやすくまとまっている。読み物としてのコラムも面白く、示唆に富む内容である。ここで書いた「ブラックボックスのジレンマ」も、同書から洞察を得た結果だ。AIはコンピューティングだけではなく、法律やルールという大きな柱に支えられている。こうした本ぜひ、読んでいただきたい。明日になにが起こるのかという、未来に対する感性が磨かれていくはずだ。

なお、8月31日(金)、この書籍の著者陣を招き、「AI自動運転で書き換わる 業界のルールと法規制」と題した勉強会を都内で開催する。ぜひ参加いただき、AIが書き換えていく世の中のリアルを会場で共有できたらと思う。

三津田治夫

AI自動運転に関する一つの提案 ~現代の産業革命を支える巨大な要素~

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AI自動運転のことを考えていて、ずいぶん昔、工場にロボットが大量導入されたころ、ロボットが暴走して人間にけがを負わせたり殺してしまったらどうするのかという議論がさんざんとなされていたことを思い出した。
しかし工場のロボットとAI自動運転の問題との間には、大きな隔たりがある。
自動運転は、工場という限定された空間ではなく、公道というオープンな空間で使われるロボットの話である。そして公道というオープンな空間では、起こることの限定は難しい。これに伴い、起こった問題の責任の所在を限定することが難しい。
これが、昨今の、AI自動運転を巡る最大の論点を構成している。

「なにが」車を運転するのか?
もう一つは、「なにが運転するか」である。
まず自動運転は、AIにより操作される。
AIは人間の五感の代わりにセンサーを用いる。
AIは人間の記憶や訓練結果の代わりに、データベースを用いる。
そしてそのAIは、プログラマーによりコーディングされる。
そしてコーディングは、発注者の仕様書に従い実施される。
そして仕様書は、発注者からのヒアリングにより記述される。
ここまでですでに、6つのシステムならびに人的要因が抜き出された。
つまり、自動運転により事故や過失などの問題が生じた場合、責任がどこに所在するのかという限定がメーカー側でも困難になるのだ。
ある意見では、プログラマーに責任が集中するというものもあり、あるいはデータベースに責任を帰する意見もある。
極言すれば、プログラマーが命の責任を問われうる時代になったのである。

エンジニアリングの再定義と業界の再編が起こる
極めて身体から離れた仕事がプログラミングだと思われていたが、AI時代の今日において、実に身体的な仕事に変化したのだともいえる。
言い換えると、AIの時代とは、人間とはなにかを再確認するとともに、「プログラマーって誰?」「エンジニアリングってなに?」を再確認する時代でもあるのだ。
再認識という観点から、AIの時代には、自動車業界、プログラミング業界、もろもろが大きく再編される。
トヨタは、内燃機関の部門が大幅に削減されることで、従業員数がいまの三分の一になるという話もある。
これに伴って内燃機関の設計をするエンジニアや、設計ソフトや基幹システムを開発するプログラマーなども、大きな業態転換が迫られている。
その時期は遠い未来ではない。
すでにいま、ここにきている。

働き方改革」にもつながっている、AI自動運転ムーブメント
それは、政府が掲げる働き方改革にもつながってくる。
トヨタをはじめ大企業たちには上記業態転換が喫緊の課題となっている。
そして、イノベーションだスタートアップだというキーワードやおぼろげな意識はあるものの、100億円規模の売り上げでないと認められない、小さなスタートアップは許されない、融資条件が云々などの制約で、思考と行動が停止する。
企業は働き方改革というお題目のもとで、見込みが立たない収益の代わりに従業員数を減らすことで存続の活路を見出そうとしている。収益の見込みが立たなければその企業の納税は減り、政府の国債発行数は増加して銀行金利は上がり、株価が下がり経済が冷え込み、国力が低下し政府の国民への教育や事業政策への活動資金は手薄になる。負のスパイラルは昔の小泉政権のように、自己責任という怪しげなキーワードを生みはじめる怖れもある。

AI自動運転は、現代の産業革命を支える巨大な要素
いまは、AIというコンピューティングが、人間や社会、組織の意味や容態を大きく書き換えていく時代だ。
かつては人間や牛馬の筋肉を代替する蒸気機関が人間や社会、組織の意味や容態を書き換えてきたように、現代は、人間の知能を代替するAIが、人間や社会、組織の意味や容態を大きく書き換えている。
蒸気機関とAIとの最大の相違点は、手で掴むことができる物体であることと、それができない情報であること、である。
さらに情報は、デジタル化・ネットワーク化されている。
これにより瞬時にコピー・蓄積・転送が可能である。
すなわち、人間が持つ時間や空間という概念を大きく書き換えるものが、AIというコンピューティングがもたらした、現代の産業革命である。

こうした大きな波を構成する1つの巨大なエレメントが、AI自動運転である。
AI自動運転は、ソフトウェア技術とハードウェア技術の集大成だ。それは、手足の代わりに車輪を持つ、人間とともに暮らす大型ロボットである。

AI自動運転が教えてくれる私たちの未来
AIで自動運転される車社会と、私たち人間はどう共存するか。
これが、いまの私たちに突きつけられた、大きな課題である。
ここから、課題を構成する要素として、業界のこと、組織のこと、技術のことを徹底的に考察する。
これにより我々日本人は、あたふたせず、方向性を見据え、動くことができるはずだ。

そんな、AI自動運転時代のいまへのアプローチを、私は提言したい。

三津田治夫

2020年から必修化されるプログラミング教育への意見 ~なにを主眼に見据えるべきか?~

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2020年から子供たちにプログラミング教育が実施される。
この計画が果たして日本の教育に根付き、そして日本は欧米列強と並んでソフトウェア開発立国となることができるのだろうか。そして、日本がすべきプログラミング教育は、どこに主眼を置くべきか。
これらについて考えていきたい。

可能性としての三つの方向性
可能性として、三つの方向性がある。
一つは、日本ならではのゆとりや協調の文化と、西欧流のロジカルシンキングが合体した独自のカリキュラムにより、子供たちには立派なソフトウェア思考が身につく、というストーリー。
そしてもう一つは、日本の英語教育のように、何年学んでも一向に身につかず英会話学校に通うことで実用性が得られるといったような、お勉強のためのプログラミング教育。
そして最後は、学校ではそこそこ学んで、もっと強化したい場合はプログラミング学校で学びを付加するというもの。
一番目が最も理想的だが、二番目以降はいままでの日本の教育の流れから見ても、あながちないともいえなさそうだ。

お勉強のためのプログラミング教育とは、言ってみたら、暗記力や即答力の高さを競うような教育で、これからの時代にはあまりフィットしない。暗記はコンピュータが得意で、即答はスマートスピーカーやAIの専門領域だ。そのため、これからの教育に必要な大命題は、人間ならではのもの、人間にしか持ち得ないものを伸ばすことである。

コンピュータになくて人間にある決定的なものとは?
コンピュータになくて人間にある決定的なものとはなにか?
それは、死である。
そして、死までの時間の概念である。
今後のプログラミング教育のキモは、おそらくここにあると私は考えている。
ロジカルシンキングと死とは、どういった関係にあるのか。
プログラミングに死なんて、バカな。
そういった意見もあろう。
いままではそれで通用したが、これからは、死せるものとして、死を意識して生きることができる唯一の生物として、人間がどのように社会に自分の生命を投影できるのかを突き詰めることが、教育の柱になっていくはずである。
なんのために自分は生き、なんのために自分の命を社会に投影していくのか。そうした決意は、偏差値や答案の点数では計測できない、新しい価値基準により育まれる。
倫理やしつけの次元から、より高い次元をゴールに据えた教育である。

教育の根幹に哲学を据える
その教育の根幹はどこにあるのか。
それは、哲学にある。
プログラミングの基盤には、言語学がある。
そして言語学の基盤には、哲学がある。
言語とは、哲学の要素であると同時に、哲学の研究対象でもある。

日本のプログラミング教育で私が一番恐れていることは、HTTPを発明した人は誰で、それは西暦何年で、バブルソートアルゴリズムはこうで、TCP/IPのパケットは何ビットで、などの事項を暗記させ、答案を書かせ点数を競わせるような教育だ。
遠くに本物のゴールを見据えずにいると、上記事態に陥りうる。
目前の事項を暗記するのではなく、人間の遠くで近くにある「命の問題」と向き合うことが、プログラミング教育の本当の意義ではないか。
プログラミングは、人間のコミュニケーションを促し、人間の生活を豊かにする道具だ。その道具をいかに使うかという素養を育むことが、プログラミング教育の主眼である。
暗記力や即答力も、確かに、人間の持つ身体能力としては立派な価値がある。しかし、AI時代のプログラミング教育において、もはや優先順位は低い。

最も大切なことは、生命との向き合い
最も大切なことは、子供たちが自分という命に向き合うこと。
その際に行われることは、自分との対話である。
そして対話のための道具が、言葉である。
言葉による自分という生命との対話とは、すなわち、哲学である。
プログラミング教育の基盤には、命、言葉、対話という、哲学が動かし難く備わっている必要がある。
そこでまた、デカルトの哲学はどうだ、ヴィトゲンシュタインの哲学はどうだという、哲学論は不要だ。

*   *   *
 

言葉による自分という生命との対話は、教育の出発点であり、ゴールでもある。
こうした枠組みを見据えるか否かで、日本のプログラミング教育の成否は大きく別れる。
子供のうちから、言葉、生命、対話の大切さを、しっかりと植えつけていく。
そこから因数分解すれば、何をすべきかが、自ずとわかってくるはず。
そのためにも発想を転換し、もう一度プログラミング教育の意義を見直す。
その上で、子供たちのためにできることを考える。
子供は大人の鏡である。
子供のプログラミング教育とはすなわち、大人のプログラミング教育でもあることを忘れてはならない。

三津田治夫

「言文一致」を初導入した明治のサラリーマン文学 ~『浮雲』 二葉亭四迷~

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 明治20年に発表された『浮雲』を著した二葉亭四迷の名前は、「言文一致小説」の創設者として文学史に残されている。
 いまでは小説で会話体が出てくるのは当たり前だが、昔は口語文語というのがあって、明確に使い分けられていた。
 二葉亭四迷はそうした境界線をなくそうとしたわけで、読み物なんだから普段使っている口語も入れようよ、という運動をして、大衆小説にその技法を織り込んで成果を残した人である。

「言文一致」を日本文学に定着させた金字塔的作品
 ロシア語に堪能(さらに人造の国際言語「エスペラント語」にも堪能)な二葉亭四迷ツルゲーネフの作品の翻訳でも有名だが、彼は東京外語大学ロシア語学科のOBだから島田雅彦の先輩に当たる。
 彼は言葉を理論的に知る語学者だからこそ、日本語を語学としてとらえ、整理し、それまでにはなかった「言文一致」の技法を小説に取り入れることができたのだろう。
 23歳の主人公、内海は、子供のときから叔父に引き取られていて(叔父との関係というのは漱石の作品でもよく登場する)、そこの娘、勢子に恋してしまう。
 いとこへの恋愛なんていまでは考えられないが、当時としてはいとことの結婚などもあったのだから別に不思議ではない。
 叔母のお政からも、内海は娘の旦那にと公認されていた。
 内海には職場のライバルに、本田という男がいた。嫌みでおべっか使いの男だ。
 あるとき内海は職場から人数減らしのメンバーに加えられ、リストラされた。
 その間本田は上司にごまをすって昇進、昇級する。

 叔母のお政は、内海がリストラされたとたん、本田へと気が変わり、娘のお勢を彼と結婚させようとする。
 就職活動に手間取る内海だったが、復職のための口をきいてやるという本田の意向にプライドが許さず、一言で断った。
 他人がいる前で内海は、本田から「痩我慢なら大抵にしろ」と吐きかけられ、本田とは完全に敵対関係となる。

 そんなこんなでもお勢は自由人というか、本田にくっついたり、内海にくっついたりと、あっちこっちへふらふらしている。
 ちなみに「くっつく」と言っても、結婚したりつきあったりするわけではなく、「仲良し」になるぐらい。言葉で相手に「好きよ」とか「嫌い」とか言っている子供じみたレベル。
 そうしたお勢は訳がわからないが、お勢に振り回され続ける内海の態度もまたわからない。
 小説の最後は、内海が、お勢に告白しようかどうかと悩むところで終わる。

リストラに苦悩する明治人の微妙なメンタリティがうごめく作品
 いまの人がこの作品を読んだら、告白せずに悶々とする内海はなにをしているんだろうかと悩むかもしれない。
 これもまた明治人のメンタリティなのだろうか。告白することが男の恥、というか、当時は自由恋愛の考えすらなかっただろう。
 まあ、18歳ぐらいになると、いきなり両親が連れてきた人と結婚してしまうような時代だから、異性に対する対応やあり方はいまとはまったく異なる。

 それとこの作品では、昇進や昇給、そして職を失ってしまったことへの内海のコンプレックスがしつこく描かれている。
 官僚主義が日本に輸入されて間もない明治20年という時期に、作者が目にした「これ変だよね」という疑問の投げかけないし批判である。
 その辺に目をつけた二葉亭四迷ロシア文学に精通していたのは関係が深い。

 ロシア文学で官僚制批判といえば、決して忘れられない名前がニコライ・ゴーゴリだ。
 二葉亭四迷自身もゴーゴリの作品の翻訳を残しており、岩波書店の全集を見ると『狂人日記』『肖像画』『むかしの人』の3作品が収録されている。
 ゴーゴリは、組織やお金自体にしか人生の喜びを見いだせない悲しい人物の肖像を巧みに描き出す。
 たとえば、昇給して一所懸命買った外套が盗まれて人生のすべてを失ってしまう官吏や、勲章欲しさのあまり気が狂って自分が勲章に変身して歩き回ってしまう男、死んだ農夫の戸籍を買い集めて事業を企む詐欺師など、いずれも組織やお金にとりつかれて、「それがすべて」になってしまったかわいそうな男(小人物)たちばかりだ。

口語が文学に組み入られるということ自体、実に画期的な出来事だった
 内海のイヤミなライバル、本田に関する描写を、言文一致を確認してみるという観点から、引用してみたい。

 件の狆を御覧じて課長殿が
「此奴(こいつ)妙な貌(かお)をしているじゃアないか、ウー」
ト御意遊ばすと、昇(本田のこと)も
「左様で御座います、チト妙な貌をしております」
ト申上げ、夫人が傍から
「それでも狆はこんなに貌のくしゃんだ方が好いのだと申します」
ト仰しゃると、昇も
「成程夫人の仰の通り狆はこんなに
貌のくしゃんだ方が好いのだと申ます」
ト申上げて、御愛嬌にチョイト
狆の頭をなでて見たとか。

 こういう風に、本文中に口語が組み込まれてくるわけだ。

 こうした言葉の斬新な扱いは、明治人の目に、「新しいメディア」として新鮮に映り、読者は純粋な感動を覚えたことであろう。

 本田は、上司の言うことにそうですねそうですねと追従し、かたやその奥様が逆のことを言うとそれに追従するという具合に上司夫婦に取り入り、昇進昇給という手柄を手にしていったという、嫌らしい彼の仕事術が巧みに描かれた一文である。

 ちなみに言文一致の口語の対極をなす文語として、作者は皮肉っぽく内海の母親の手紙を取り上げている。以下引用する。

こう申せばそなたにはお笑い被成(なされ)候かは存じ不申(もうさず)候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧(もと)のように成り被成(なされ)候ように○○(どこそこ)のお祖師さまへ茶断(ちゃだち)して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度(なされたく)念じまいらせそろ。

(以上引用新潮文庫より)

 内海のリストラ報告に対する母からの返信で、願掛けをしたからあんたもしっかりと就職活動しなさいよ、と、息子の復職を心から祈る、親心があふれるくだりだ。

 小説『浮雲』は、内容的には深みのある作品ではないし、また、未完の作品でもある(もしかしたら作者はあっと驚く奇想天外なエンディングを考えていたのかも)。
 それでも、どんどん読み進ませてしまう牽引力のある作品で(通勤中読んでいて、気がついたら隣の駅の乃木坂にまで乗り過ごしてしまった)、それは作者の言葉に対する深い洞察と配慮があったからだろう。

 小説は、内容もしかり、コンセプトもしかりだが、この、文体もまた価値として重要な位置を占めるのだなと、この本を通して改めて感じさせられた。

三津田治夫

セミナー・レポート:6月29日(金)開催「人にしっかりと伝わる アクティブ・ライティング入門」~第5回分科会 本とITを研究する会セミナー~

6月29日(金)、「人にしっかりと伝わる アクティブ・ライティング入門」と題し、株式会社ツークンフト・ワークスの三津田治夫を講師に、会議室MIXER(日本橋本町)にて第5回分科会セミナーを開催した。

ライティングを受け身ではなくアクティブに行うことに焦点を当てた本セミナー、会場から多数の質問やコメントが飛び交う対話の多い場になった。

今回は会場から出てきた反応やそのやり取りから、印象的なものをまとめてお届けする。

◎講義では熱心な対話が続いたf:id:tech-dialoge:20180713125015j:plain

ライティングを阻むボトルネックとは?
文章を書くには、「テーマ選定」と「時間管理」、「モチベーション維持」の3つが大切である。その中で最もボトルネックになるものはなにか、という質問に答えた。ライティングが進まないときの一番のボトルネックは「テーマ選定」である。テーマとはすなわち「行き先」。行き先がわからなければモチベーションは続かないし、それに伴い時間管理の意識も欠如する。そのため私は、このセミナーでの説明や著者さんたちとのやり取りにおいて、「なにをテーマにするか」を第一に明確化するようにしている。そしてさらに、「なんのためにそのテーマを取り上げるのか」を明確にする。「なにを」と「なんのために」を不明瞭なままライティングを進めると、往々にして破綻する。たとえば本エントリーの「なにを」は「6月29日(金)のセミナーを」であり、「なんのために」は「出来事の記録とレポートのために」である。

上記の「時間管理」に関連し、「ライティングの時間をどう配分するか?」、また「書き上がりまでの時間をどう見積もるのか?」という質問があった。

「時間をどう配分するか」は換言すると、自分に与えられた限られた時間をどのようにライティングの時間に配分するかで、職業文筆家でない限り、本業以外の時間を充てる必要がある。そのうえで「書く場所を選ばない」という発想も重要になる。これを実現する行動として、ノートPCとインターネット接続機器の常時携行やクラウドでのファイル管理は最低限必要であることを説明した。

さらにライティングには、書くだけではなく、推敲・校正、他者の査読(レビュー)が必要になる。「推敲・校正に具体的にどのぐらい時間がかかるのか?」という質問に対し、私の場合だとA4の用紙4ページでライティングに2時間、推敲に2時間、合計でおおむね4時間かかることを伝えた。非常にライティングの早い人、その逆の人、個人差にかなりの開きがあるが、これは一つの例である。

◎講義中盤、ワークの模様f:id:tech-dialoge:20180713125119j:plain

時短を促進する「アジャイル」なライティング
ライティングの時間を短縮するには、「大きな手戻りを減らす」という、もの作りの基本的なルールを応用することが効果的だ。その例として、全文が書き上がってから原稿の査読を実施するのではなく、章単位、もしくは節単位で実施する、という手法を紹介した。ソフトウェア開発で言う「アジャイル」をライティングに応用したもので、細かく原稿をリリースし、レビューアーからフィードバックを受け、その内容を反映して再びリリースするという、イテレーションを繰り返す。これにより大きな手戻りを防ぐことが可能になる。実際に数百ページにおよぶ原稿をすべて書き直し、という事態もときどきある。これにより途中で力尽きてしまい執筆のプロジェクトが中断、という残念な結果も起こりうる。

「途中で力尽きて」を念頭に置くことで、執筆速度(ヴェロシティ)の計測や校閲・推敲、査読時間の見積もりや、時間配分の重要さがわかる。これらを把握することで、1年や2年におよぶ長期のライティング(とくに書籍)にも持ちこたえることができる。

ちなみにこうした「「計測」や「見積もり」は具体的にどうしたらよいのか?」という質問があがったが、これは至極単純な回答。「ストップウォッチで計測する」である。どのぐらいの文字数をどのぐらいの時間で書くことができたのか、計測値をメモする。スマートフォンの機能を使ってもよいし、タイマーつきのデジタル時計やクロノグラフを使って、ライティングにかかった時間を計測する。自分の執筆速度を掴むことができれば、1週間で、1ヶ月で、1年でどのぐらいの文章が書けるかの見積もりができる。私の場合、SE時代の20代、自分の作業時間をクロノグラフで逐一記録していた。これによりシステムのトラブルシューティングや開発にどれだけの時間がかかるのかが正確に見積もれるようになった。

査読には人選が重要であることも指摘。「読んでもらいたい人」に近い属性の人に査読してもらうことが、ライティングを短時間で終わらせるためのベストプラクティスだ。逆に、読んでもらいたい人から遠い属性の人に査読してもらうことは、意外なコメントが得られるという半面、手戻りが増える可能性もあるので要注意である。

文章の価値を高める「コンテキスト」と「コミュニケーション」
文章にはコンテキスト(文脈)が大切である。これに関して会場から、「自分はある人の文章に深く共感できるのに、それに賛同する人が少ないときがある。ある教授の解説はよくわかるのに、他の人はわかりづらいという、大学の講義でも似たようなことがある。それはなぜか?」という質問があった。これはまさに、コンテキストの問題である。その人が書き手(や教授)とコンテキストを共有したから、その人は文章や講義に共感できている。コンテキストとはその人の人生観や世界観、価値観など、その人が持つ人間性や身体性が色濃く反映した「価値」である。文章においても、言葉の流れや表現方法、章や節の配列の優先順位などによって、コンテキストが形成される。文豪やベストセラー作家は、多くの読者とコンテキストを共有する。ゆえに彼らは、文豪、ベストセラー作家と呼ばれる。このコンテキストにはいろいろな性質があるが、大きく分けて、時間をかけて大量な読者と共有されるコンテキストや、短時間で大量な読者と共有されるコンテキストの2つがある。文学で言い換えると、前者は古典文学で、後者は大衆文学である。

ライティングとはコミュニケーションのツールであることも指摘。
すなわち、自分との対話、読者との対話を促すためのツールである。
親子関係を例にとっても、大学の論文の査読を通して父子関係がよくなったり、メールを通して普段は話さないことを伝えられるようになったり、ライティングという行為で人間同士の関係性を大きく書き換えることができる。最近ではめっきり使われなくなった「ラブレター」も、まさに、ライティングという行為を通した人間同士の関係性の書き換え、である。同様に、ライティングはビジネスにおいても重要な役割を演じている。クライアントへ送付するメールマガジンやWebコンテンツなども、ライティングという行為を通したビジネスにおける人間同士の関係性の書き換えである。

ポジティブな循環の形成がブランディングを成功に導く
「本で自己ブランドを作ることは本当にできるのか? できるのであれば、それは自分で作るのか、人に作ってもらうのか?」という質問があった。

商業出版では一般的に出版社が著者のブランディングを行うが、最近は経費節減のためにそれができない出版社が増えてきた。その意味も含めて出版社は著者の持つ社会的影響力を重視する。著者のSNSでのフォロワー数や発言数を気にする出版社が多い理由の一つにはこれがある。

「本で自己ブランドを作ることは本当にできるのか?」に一言で返答すると、答えは「Yes」である。かつては出版社や新聞社、放送局、広告代理店などのメディアを使うことだけがブランディングの手段だったが、いまではネットを使った自己ブランディングが容易に可能になった。本という自分の身体から出てきた言葉のメディアが作られれば、自己ブランディングはさらに現実的になる。SNSやWebを通し、自分の書いた本の抜粋を紹介し、作品をPRし、その本を読んでもらうことで自分という人となりを知ってもらう。この行動がポジティブに積み重なることで、自己ブランドが形成されていく。この積み重ねの中でリツイートや口コミの輪が広がれば、さらにブランドは形成されていく。そしてブランドが強固になれば、それが企業家であれば事業ブランドが高まり、文筆家であれば愛読者や原稿の発注が増えるなど、ポジティブな循環が形成される。こうしたポジティブな循環の発生を念頭に置いたアクティブな活動は重要である。

最後に、会場からの要望として、「本づくりの際に編集者は筆者にどのような働きかけをするのか。本の販促のこと知りたい」という声が上がった。どこかの機会で取り上げられたらと思っている。

三津田治夫

 

当ブログ運営会社

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「人間を手段にしてはいけない」を説く古典名著:『人倫の形而上学の基礎づけ』(エマニュエル・カント著)

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これはいわば、『プロレゴーメナ』の実装編である。
訳者による前書きで「『人倫の形而上学の基礎づけ』を先に読んだ方がよい」とされている通り、その読み方をお勧めする。

『人倫の形而上学の基礎づけ』は豊富な具体例が添えられ、一つの事柄がいろいろな方面から語られていて、わかりやすい。難解といわれるカントの理論をより身近に感じさせてくれる作品だ。

人間を手段とすれば強盗も殺人も成立する
本書の特徴は、ア・プリオリの法則を人間の本性に適用したところにある。
カント曰く、すべての人間はア・プリオリに、幸福を追求する欲求を持っている、という。この定義を起点にカントの倫理学が展開される。

ポイントは2点。
一点は、人間を手段にしないこと。仮に人間を手段にしてもよいという論法が成り立てば、目的のためならば人からものを盗んだり、人から命を奪うことも許されてしまう。

そしてもう一点は、自分の行動原則(カントは「格率」という言葉を使っている)を自然にかなった普遍的法則と合致させよ、ということ。これはかなり厳しい指摘だ。

たとえば、人は守れない約束をしてはならない。なぜならば、それは人が幸福を追求するという普遍的自然法則に適合しないから。守れない約束をするという行為は、その時点ではその人個人の利益(一時的な信用の獲得や快楽)になろう。しかしこれが社会的に一般化することで、不正や不実がまかり通り、社会自体が成立しなくなる。ゆえに、これは普遍的自然法則に適合しない。

そこで登場するキーワードが、「自律」である。
自発的に、自分の意志で行動することにのみ、理性が伴う。
他人からの命令による行動を「他律」と呼び、そこに理性は伴わない。
言い換えれば他律とは、自分が手段とされ、他人を目標とすることだ。
カントの言葉を引いてみる。

「人間は物件ではなく、したがって単に手段としてのみ用いられるものではなく、あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない。ゆえに私は、私という人間を勝手に扱って不具にしたり病気にしたり殺したりすることはできないのである。」

自律こそが自由の本質である
理性は自分の中にしかない。
決して他人から命令されるものではない。
再びカントの言葉。

「自由の概念は意志の自律の説明のための鍵である。」

結局のところカントのいう形而上学は、自由の概念が根本にある。
自由のために自律せよ、と、カントは言う。
自律があってこそ自由があり、自由があってこそ倫理がある。
そしてそこには、人間の恣意や心が介在しない善なる意志がある。

のちカントは、カント理論の抽象度を高めたさらなる実装編『永遠平和のために』を書き上げている。

カントの卓越したところは、学問を理論にとどめず、「実用」にした点にある。
彼によると、学問とは事物を人にわかりやすく整理し、人に伝えるための技術であると言う。そしてその本質に「実践」がある。

反論を承知で言ってしまえば、カントを読んでしまうと、ニーチェハイデッガーも、カントの赤ちゃんのように思えてならない。

偉大な巨人の作品に触れさせていただいた印象だった。

三津田治夫