本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

日本人の心のDNAを解き明かす古典評論:『本居宣長』(小林秀雄 著)

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ヴァレリーベルグソンユングモーツアルト志賀直哉など、好きなものを徹底追求し仕事と成果にした小林秀雄が最晩年の11年間を費やした対象が、国学者本居宣長である。

本居宣長に関するひとつの答えは、この人は宗教家であったということ。
小林秀雄は現代の科学者に欠如している実証主義以外の感性の問題を、賀茂真淵荻生徂徠の思想と対比しながら評論する。

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大著『古事記伝』なぞまず読めないし、上記の日本の思想家の本をひもとくとなると大変で、思考代行してくれた結果を美文でわかりやすく解説してくれる評論家の役割は大きい。

賀茂真淵が言葉にこだわったことに対し、宣長は言葉の内部に備わる「言霊」にこだわる。言葉には魂が宿り、さらに言葉には身体、肉体があるとまで宣長はいう。そして古代の日本人は、紫式部紀貫之のごとく「もののあはれ」を文章に残そうとした。宣長は「言霊」と「もののはわれ」の思想で独特な漢文で書かれた古事記を訓読し、いまの日本人が読める形にした。

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謎が多い国学者宣長だが、これを目前に手に取るように提示してくれた小林秀雄の仕事は偉い。また、国学とはなにか、国学とは言葉でできているということも、この評論を通してよくわかった。戦後70年を経て、現代の日本人はそれ以前の日本文化とはきっぱりと断絶しているかのように見えて、実は日本人の心の中には、こびりついて離れないDNAがある。『本居宣長』を通して、そうしたDNAを国学者は解き明かし、かつ、形成しているように見える。

三津田治夫

セミナー・レポート:10月4日(木)開催「本をプロデュースするほど楽しい仕事はない! ~ゼロからわかる出版プロデューサー入門~」~第13回 本とITを研究する会セミナー~

10月4日(木)、株式会社スターダイバー セミナースペースにおいて、同社代表取締役の米津香保里氏を講師に、「本をプロデュースするほど楽しい仕事はない! ~ゼロからわかる出版プロデューサー入門~」と題し、第13回本とITを研究する会セミナーを開催した。

◎講師をつとめる株式会社スターダイバー代表の米津香保里氏f:id:tech-dialoge:20181014200023j:plain

駆け足ながらも、テンポの良い解説と簡潔に抑えらえた要点で、ワークも含めた高密度な勉強会を以下内容で共有することができた。

1. 出版プロデュースほど面白い仕事はない
2. 未来の著者と出会うには?
3. 著者を口説く
4. 本の企画を作ってみよう
5. 出版社の編集者をその気にさせよう
6. 本づくりが始まったらなにをする?
7. 出版! 新しい景色が広がる世界
8. 出版プロデュースとお金の話
9. 企画書ワーク
10. 成功する出版プロデュース7つのポイント

本会の根幹は、「出版プロデューサー」のビジネススキルは出版などのコンテンツ制作において重要性が高く、さらには出版以外の、人や言葉にかかわるあらゆるビジネスに適用できる可能性がある、という考えのもとにある。
そのうえで同氏は、著者と編集者の間に立つ出版プロデューサーとしてのビジネスを主軸に、企業や経営者のブランディング、作家、ライターを生み出す学びの場の運営を手掛けるなど、幅広い活動に取り組んでいる。

「作家さんからコンテンツを引き出す産婆役」としての出版プロデューサー
出版プロデューサーとは、編集者と著者との間に立ってコンテンツの質を高める立場にある。企画を作り、著者を探し、著者と編集者を説得し、執筆の際の著者の伴走者や相談役になるという、「作家さんからコンテンツを引き出す産婆役」として重要な役割を演じる。

本来、「作家さんからコンテンツを引き出す産婆役」は、出版社に属する編集者の役割だった。それが読者の嗜好の多様化や専門性の細分化、編集者が企画の一点一点を細かくフォローすることが困難などの状況から、編集者が本づくりを一手に引き受けてコンテンツを作り上げることが難しくなってきた。
すでに本づくりの分業化が進んだ欧米では、編集者と著者との間に出版プロデューサーが立つというビジネススタイルが確立している。このような環境で、自費出版から世界的ベストセラーが生まれる(たとえばルトガー・ブレグマン著『隷属なき道』)など、さまざまな高価値コンテンツが発信されている。

さらに、この「作家さん」という単語を「経営者」や「ライターさん」「デザイナーさん」「イベント主催者」など、「なにかをアウトプットしたい人」に置換することで、出版プロデューサーの技能から新たなビジネスモデルが生まれる可能性をも内包する。このような未来も本会では示唆されている。

勉強会の後半では二人一組になって「企画書ワーク」を実施。短時間で相手の興味や関心、活動内容を対話(インタビュー)により引き出し、それをもとに、対話相手をテーマにした書籍の企画書を作っていく演習である。対話のポイントとして、「語り手の自慢話を引き出す」を、講師の米津香保里氏は強調。語り手が目を輝かせ、自分の夢や至高体験を語り出したら、それこそがコンテンツの種になる。出版プロデューサーはここに着目し、枝葉を広げ、企画を磨き上げていく。

発表も含めて20分ほどの短いワークであったが、そのまま書籍や雑誌、Webの企画になるのではというレベルのユニークな企画案がいくつも出てきた。コミュニケーションの時代、対話の時代といわれるが、ワークを通して見方を変えると、本当のコミュニケーションとはなにか、相手の本質に迫る真の対話とはいったいどのようなものなのかを、改めて考えさせられた。

出版プロデューサーが日本のビジネスを活性化させる
私は司会進行役として同席し、23年間編集者として活動してきた立場からも、いろいろな気付きや学び、忘れかけていた本づくりの基本、耳の痛いこと、再確認することなど、得るものが多かった。また、いまの出版界にこそ重要な「作家さんからコンテンツを引き出す産婆役」としての出版プロデューサーの価値や、出版社の外にいるからこそ発揮できる価値、他業種への応用可能性など、気づきも多かった。

書籍やコンテンツは、作家さんとともに、編集と制作の力で生み出される。それが営業や物流、オンラインの力で受け手のもとへと届けられる。これをつかさどるのが、経営の力である。そして、出版社など企業の外から作家さんに働きかけ、プロジェクトを駆動し、ビジネスとしてコンテンツの価値を最大化するのが、出版プロデューサーの役割である。

出版プロデューサーの仕事が日本のコンテンツ業界にビジネスとして定着し、コンテンツを活性化し、ひいてはそのビジネスがさまさまな業界に適用され、日本が元気になることを期待したい。私個人としても、そのような未来が訪れることを心から期待している。

三津田治夫

共同体をつなぐナショナルヒストリーとはなにか?:『台湾海峡 一九四九』(龍應台 著)/『想像の共同体』(ベネジクト・アンダーソン 著)

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台湾海峡 一九四九』は、台湾人の心の琴線に触れる迫害や闘争の歴史が、物語やルポ、インタビュー、ときには母が息子に語りかける形式で描かれ、美しい文体と技巧に富んだ構成が読者の心をつかむ作品。

台湾、香港での驚異的ベストセラーが意味するもの
「一降りの刀で頭を真っ二つに切られたときの「痛み」をどう正確に記述するのか?」と、記憶により再現できない歴史の限界をショッキングな表現で物語る一方で、ドイツ人とのハーフである息子のフィリップに、1945年、2,000万人のドイツ人が旧ドイツ領から追放され「よそ者」として扱われてきた歴史を、台湾人が1949年に大陸から逃れ「外省人--よそ者」として扱われてきた歴史と重ね、冷静な口調で語りかける。

1948年の中国人民解放軍による長春の包囲戦で発生した30万の餓死者数を掲げ、「これほど大規模な戦争暴力でありながら、どうして長春包囲戦は南京大虐殺のように脚光を浴びないのか?」「どうして長春という都市は、レニングラードのように国際的知名度のある歴史都市として扱われないのか?」と、日本とロシアの歴史を重ね、民族間に共通する欺瞞を投げかける。

台湾および香港では42万部を販売する空前のベストセラーとなり、奥付には多くのページを割き読者の感謝の言葉や感想文が掲載されている。

国連から脱退し名目上世界からは国家として認められていない台湾。中国が我が国の一部だと暗黙の主張をしてはばからない台湾。そういった意識に取り巻かれた台湾の人に、このベストセラーはどういった意味を持つのだろうか。

龍應台という名実共に力のある作家が長い時間と莫大な費用のもとで『台湾海峡』を書き上げ、2009年に発刊された。そして3年後、政府に招かれ、初代文化省大臣になる。

小説家が歴史書のベストセラーを書き政府の大臣になるというキャリアパスを知り、この作品の意図と政府の意図の交点らしきものを見た。本書は読書会のテーマに取り上げられたのだが、そこで「意図の交点らしきもの」を口にすると、参加者の一人から、「龍應台はこの本でナショナルヒストリーを作ろうとしたのだろう」という意見を聞いた。これによりいままでの疑問や考えのすべてに筋が通った。

共同体は人間の「意識」の中にしかない
この本と並行し、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を読んでいた。
国家や民族といった共同体はそもそも人間の意識の中にしかなく、その意識は宗教や言語、教育、物語、地図、博物館などの外的要素で作り出されるという理論。古今東西(とりわけ東南アジア)の膨大な資料や情報を(いささかペダンチックに)引用し、その理論の正当性を証明している。

龍應台は『台湾海峡』という「物語」(ナショナルヒストリー)を通し、台湾人という民族の意識を作るという明確な意図があった。台湾人はこの本により、想像の共同体の一員となったともいえる。

歴史とは事実の積み重ねではない。
歴史には合理的な意図がある。
日本人のナショナルヒストリーを考えてみた。

渡来人の飛鳥文化、貴族と文学の栄えた平安時代、弱肉強食の戦国時代、徳川幕府による国家統一鎖国明治維新と開国、アジア帝国主義軍国主義、原爆投下、敗戦、平和国家としての奇跡の復興、西欧への仲間入り、日米同盟、高度成長、先進国化、大震災、成熟社会……。

こうしたキーワードを使い、日本人のナショナルヒストリーはさまざまなメディアで書き上げられている。

震災を境にナショナルヒストリーを再構築する日本
たとえば8月21日、24年5ヶ月の編纂期間を経て完成した『昭和天皇実録』が、天皇・皇后両陛下に献上された。2015年からの出版を控え、現在その原稿は版元の落札を待っている。ここで、昭和という歴史が改めて物語として編集される。上記のようなキーワードで、日本人の新たなナショナルヒストリーが書き上げられる。私が生きて、見てきた昭和とは、まったく異なった物語が編み出されるに違いない。

その一週間前の8月12日には、ロシアが国後島および択捉島を含む北方領土地域で1,000人規模の軍事演習をはじめている。日本政府が抗議するにいたり、事実上プーチン氏の来日がご破算になった。南に目を向ければ尖閣諸島を挟んで日本と中国、台湾が一触即発のにらみをきかせており、国民が「日本人とはなにか」という自問自答に駆られる材料がメディアを通して軒並み並べられている。

これに呼応した形で、8月23日、陸上自衛隊東富士演習場で「離島奪回」という非常にタイムリーな目標を想定した実弾演習を実施している。演習に参加した自衛隊員らは約2,300人。戦車や装甲車約80両、火砲約60門、航空機約20機、使用した弾薬は3億5,000万円分で実に44トン。過去最大規模である。

メディアを賑わせる北方領土尖閣諸島の問題を背景に、離島奪回を想定した過去最大規模の実弾軍事演習と、『昭和天皇実録』完成のタイミングは、決して偶然ではない。

日本はいま、ナショナルヒストリーを再構築している。これにより民族意識を新たに構築しようとする動きが、報道を通して強く伝わってくる。

政府は7月1日、集団的自衛権を行使するべく憲法解釈を変更した。自衛隊の「自衛」の解釈の幅が広まることは、軍事活動の範囲が拡大することへの強い懸念材料だ。この「自衛」という言葉がくせ者であることは歴史が証明している。ときには、攻撃や侵略という言葉とすり替わる危険性がある。

ナチスポーランドを攻撃したのも、「ポーランドは危険な国だからいまのうちにおさえておく。これは「予防」であって侵略ではない」という根拠だった。
その後戦火は拡大し、第二次世界大戦のきっかけとなりナチスが侵略を繰り返したのは周知の通りである。言葉のすり替えは、いつの時代にも起こっている。

日本が太平洋戦争に突き進んだのも、国民の疑問や不信感を抱えたままでそうなったのではない。戦争にいたるまで計画的にナショナルヒストリーを再構築し、綿密なメディア操作を行い、政府の意図する方向に世論と国民を持って行った。言い換えれば、「戦争以外に選択肢はないのだよ」という方向に世論を運搬した。そうした動きの端緒が最近の日本に見え隠れしているのを感じるのは、私だけでないはずだ。

戦争を抑止する文明の利器としての「メディア」の役割はとても重要
こうした状況下で大切なのは、歴史とメディアを知ること。
歴史において政府はメディアを駆使し、戦争へと流れる集団的意識、つまり世論を作り上げる。こうした歴史が日本と世界に大変な傷を与えたことを忘れてはならない。もちろん、傷を与えたという意味では、勝戦国も同様である。「ああ、またか」と、戦争が決して起こらないよう、国民として世論の流れには注意深く目を向けていく必要がある。

ネットや機器の発展でメディアがあらゆる人へと普及した昨今、これらは戦争を抑止する文明の利器である。そう、私は信じたい。

三津田治夫(2014年9月26日の記事から)

市場に疑問を投げかける、日本の出版衰退史を描いた文学エッセイ ~『日本文学盛衰史 戦後文学篇』(講談社刊、高橋源一郎著)~

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日本文学盛衰史』の続編という位置づけで戦後現代文学をメインテーマに据えた作品。作者の高橋源一郎氏の絶妙なレトリックの中、彼の文学に対する愛、出版に対する情、近代に対する憧憬が立像のように浮かび上がってくる。

言葉から「抵抗」が失われた現代
冒頭は井上光晴主演、原一男監督のドキュメンタリー映画全身小説家』からはじまる。作者の大学の教え子たちにこの映画を見せたときの模様と学生らの感想は実に隔世感がある、という内容。平成の若者からすると井上光晴はもはや昭和の変わったおじさんでしかなく、「近代」という概念(第二次世界大戦までに支配的だった考え方)が失われた現代に生きる学生たちにとって、映画に出演する井上光晴から大文学者としての価値を発見することは難しい。同様に「「近代文学」は「近代」という「コンテクスト」抜きでは、読むことができ」ずに、「「近代」が失せつつあるいま、読むことが困難になりつつある」とも結論づけている。

次は、戦後現代文学作品として石坂洋二郎の『光る海』を取り上げる。石坂洋二郎は戦後日本人の解放された性をテーマに若者とその親の世代の対話を描くわけだが、若者同士の不自然な会話や、若者が両親に向かってその夫婦生活を真顔で問うなど、「ありえねえ」描写があまりにも多い。それもまた、作者の目が捉えた戦後現代文学の一側面である。

戦後の代表的な作家である井上光晴も石坂洋二郎も、戦後現代文学というパブリックイメージを築いている。これは、高橋源一郎氏が内田裕也東京都知事選立候補の演説を聞いたときに得たネガティブな第一印象を振り返り、「文学が世間で扱われているときと同じ」パブリックイメージに支配された読者の姿に気づいたという。内田裕也の演説は都知事選とはほど遠い、自らのロック観、自分史が英語で語られたもので、聴者の多くはそれに違和感を覚えた。その違和感こそが、時代が共有したパブリックイメージである。

その違和感の対極にあるものが、売れている(多くの)人気ビジネス書に代表される文章で、それは「およそ「抵抗」というものがない」「超電導物質みたいな」「スタートした瞬間に、目的地の到着している」文章である。かつて文学は社会に抵抗し、文学は若者の社会への抵抗に寄り添う媒体であった。しかし「近代」が失われたいま、若者はある時期において社会に抵抗するという概念はすっかり消え去った。戦争や革命といった「近代」の精神から生まれ出た抵抗の象徴であるロックやパンクが、その発生過程を体感していない平成世代に新鮮に映るのには意味があるだろう(無意識に「平成世代」という単語を使ったが、思えば私は「現代っ子」や「新人類」と言われたものだ)。

「およそ「抵抗」というものがない」「超電導物質みたいな」文章が書店や出版社の収益を支配する(収益のために依存せざるをえない)風潮は、「消費者」マインドが出版界にも蔓延し、「貨幣経済が社会の全局面にまで浸透した結果生まれた」と作者は分析する。「抵抗」は多数決優位の市場主義経済にはまったくフィットしない。だからこそ底なしの「出版不況」が日本を襲っているとも換言できる。

出版とは、人が生きるのに必要な「言葉」の提供活動である
出版とは、人が生きるのに必要な「言葉」(としての基礎知識)の提供活動である。出版界が市場主義経済に飲み込まれれば、読者と「抵抗」を共有することはできない。これに伴って、読者が受け容れに抵抗のない出版物が評価され、多数決の原理で「「わかるもの」ですます、「わからない」ものは見ずにすます(似てるけど違う)、「わかった」ふりをする、--といった通念が社会に満ち溢れる。」のである。出版不況とは市場の荒廃といった経済の危機であると同時に、人間そのものの荒廃をも生み出す精神の危機である。

象徴的な事件として、先日9月25日、日本の文学と出版文化を支え続けた大手老舗版元(〇〇文庫の百冊とかやっているところ)が月刊誌で差別的な記事を掲載してSNSで炎上、あえなく休刊という残念なニュースがあった。編集部の記事チェック体制云々という問題ではない。記者の人生観や世界観という問題、そこに賃金を支払う版元の、「精神的出版不況」という問題は大きい。版元のお財布事情からすると、今回の事件をきっかけに月刊誌という赤字コンテンツを体よく「リストラ」する口実になったはず。それだけ出版界は精神的にも荒廃している。

高橋源一郎氏の軽妙な文体で、ときにはツイッター小林秀雄大岡昇平を降臨させSNS上で文学談義をはじめたりなど、「ありえねえ」を逆手に取った笑える試みが多数取り入れられている。が、明るくイケイケの作品でないことだけははっきりと言える。本エントリーのタイトルにも書いたように、『日本文学盛衰史 戦後文学篇』は「日本出版衰退史」ともいえ、文学と共に出版が消え去っていく近未来を示唆するちょっと怖い作品である。

市場主義経済のはるか外側に出版「市場」ができつつある
最後に、「近代」と「抵抗」が失われた現代、文学とは一体どういった役割を持ちうるのだろうか。それを伝える作者の言葉が印象的だった。

一つは、「人びとがいて、人びとによるばらばらのコミュニケーションが奇蹟のように存在してる、ということを伝えるために小説は存在している。」と、高度なコミュニケーション媒体としての文学の役割である。
もう一つは、「小説とは、共同体のひな型、もっとも小さな共同体であり、やがてやって来る共同体の内実を予見する能力を持っている」とあるように、東日本大震災以来日本人が強く意識しはじめた「共同体」を構成する、原子としての文学である。共同体とは物理的な地域だけではなく、個人の身体や心、その集まりである集団の心や意識のすべてを指す。そして共同体の未来を予見する力を内包する言葉の集合・構成が、文学である。

近代文学といまの「出版」はご覧の通り、風前のともしびである。しかし人間が生き続ける限り、言葉のともしびが消えることはない。だから、出版という仕事は決してなくならない。風前のともしびを乗り越え、出版という仕事は淘汰され、再構築される。市場主義経済のはるか外側に、人と人をつなぐコミュニケーションの道具として、文学は出版とともに新たな力を発揮しつつある。それだけ社会は変容している。『日本文学盛衰史 戦後文学篇』は、そんな、まだ見えていないが心の中にすでにできあがっている、いままでにない出版「市場」を可視化させてくれた作品であった。

三津田治夫

顧客課題の解決を巡るイノベーションの物語:『陸王』(池井戸潤 著)

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2016年のベストセラーで、2017年にはテレビドラマにもなった作品。
書名を見て最初はオートバイの開発物語かと思いきや、実は老舗足袋メーカーがアスリート向けのランニングシューズを開発するというイノベーションの物語だった。
600ページはある大著。
前半の状況解説や場面展開が重く感じるが、後半三分の一がおもしろい。言い方を変えれば、読み方によりどのパートに面白みを感じるのかが明らかに分かれる作品である。

示唆に富んだビジネスエンターテイメント小説
二代目(メーカー)社長と従業員(事務員や職人)がチームワークと信頼のもとで「陸王」(競技用の運動靴)という名の聖杯を求めて冒険に出、苦難と成功にまみえ奮闘する。
受け身な二代目社長やその息子、「陸王」の開発を通して巡り会ったランナー、「陸王」の開発特許を持つ強欲経営者が、人との出会いや戦いを通して成長していく教養小説(Bildungsroman)でもある。
この作品は、冒険の物語、成長の物語など、さまざまな読み方が可能だが、私は後半三分の一を構成するビジネスの物語に共感した。
経営の本質とは収益と効率ではなくそれを支える人間とその心にあるというセオリーの提示。解決すべき課題は運動靴という商品を通して顧客であるランナーがより速く走ることであり、企業収益の最大化ではない。事業のゴール意識に本末転倒が発生している、という問題提起。そしてチャンスは過去にではなく、未来にしかない、ということ。
これらはエリヤフ・ゴールドラットの『ザ・ゴール』やクレイトン・クリステンセンの『ジョブ理論』、ドラッカーの『マネジメント』を彷彿させる。『陸王』は経営者が読んで面白い、示唆に富んだビジネスエンターテイメント小説である。

「童話」としての小説の価値
しかしこの「小説」とは、言い換えると「童話」でもある。
陸王」を生産するこはぜ屋は従業員も経営マインドに優れており、団結力も高い。新商品の開発物語以前に、このようなチームビルディングがどうなされたのかが本質的な関心である。小さな会社であれば、同僚の揚げ足の取りあいや目上の者が目下の者に嫌がらせをするなど、団結力を破壊するチームビルディングと逆方向の力が働きうる。
またこの作品では、制約に満ちた昭和のような背景をあえて現代に設定し、人間力のみで困難を乗り越えるという童話を描きたかったことは承知であるが、ECやSNSクラウドファウンディング、3Dプリンター、IoTなどの、ものづくりには切っても切り離せない技術概念がまったく除外されている。
言い換えると、テクノロジーが入り込んだ途端に童話の文脈がまったく成立しなくなることをこの作品が証明している。携帯やスマホがあったらシェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』が破綻してしまうことと同じである。

エンターテイメント小説の真骨頂
童話の仕掛けを張り巡らせる中にリアルな描写が織り込まれている点がエンターテイメント小説の真骨頂である。後半に出てくる、アメリカにわたり事業を短期間で拡大させた若者ベンチャー経営者がこはぜ屋の社長に自分の失敗談をさもありなんと語る描写が、あまりにもドキリとする。書きすぎるとネタバレになるので、また、文庫版もまだなので、版元さんのことを鑑み、この辺で。

三津田治夫

 

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セミナー・レポート:8月31日(金)開催「AI自動運転で書き換わる 業界のルールと法規制」~第11回 本とITを研究する会セミナー~

8月31日(金)ハロー会議室秋葉原駅前B会議室にて、「AI自動運転で書き換わる 業界のルールと法規制」と題し、第11回 本とITを研究する会セミナーを開催した。
登壇者には西村あさひ法律事務所から福岡真之介弁護士、矢﨑稔人弁護士、鈴木悠介弁護士をお招きした。残暑厳しい中、多くの参加者が会場へ駆けつけてくれた。

◎残暑厳しい中、参加者たちが集う会場f:id:tech-dialoge:20180911201856j:plain

2020年をめどに実用化が計画されている自動運転に関し、責任の所在や社会のルールが書き換わると共に、倫理観や業界地図までが書き換わるというストーリーを、自動運転に多角的な知見を持つ法律家たちから貴重な話を聞くことができた。

まず、自動運転の定義から。自動運転とは、人間が車を運転する際に行っている「認知・操作・判断」という活動をコンピュータや機械が肩代わりするものである。「認知」の領域ではデジタル地図やカメラ・超音波測定器など、データやセンサー類が担い、「操作」の領域ではブレーキやハンドルなどを司る機器が担う。これらは高度化を求め日進月歩で技術が進化している。そして「判断」の領域は、今回の本題であるAIの分野が担い、ソフトウェア工学において急速な進歩を遂げている。

◎自動運転の概論を解説する矢﨑稔人弁護士f:id:tech-dialoge:20180911203200j:plain


議論の余地が多い「レベル3」。そして、新たなシステム開発プロセス
自動運転の導入により、人間よりも正確で過失が少ないことから、交通事故が軽減できる、渋滞を緩和できる、燃費向上でエネルギー資源の消費節減や環境保護につながる、ドライバーの負担減につながる、などが期待されている。そして最も期待されているものが、自動運転とはいわば「汎用性の高い技術のデパート」で、高度な技術の集大成だ。これにより各産業は活性化し、いままでにない産業やビジネスモデルが出現する、という期待である。

自動運転にはレベル0からレベル5までが存在する。レベルは技術進歩の度合いと連携しており、レベル0は完全手動運転で、レベル5が完全自動運転だ。自動運転に移行すると、従来人間が行っていた判断と操作がコンピュータと機械に委譲されるので、これにより「誰が事故の責任を取るのか」という、民事責任が問われることになる。
また、自動運転ならではの事故も起こりうる。たとえば車の前にビニール袋が飛んできて、人間の判断ならそのまま通過してしまうが、AIはそれを損害をもたらす物体と判断し、急ブレーキや急ハンドルをかけ事故にいたるという、刑事責任が問われるケースも考えられる。過去の有名な事件で、三菱自動車リコール隠し問題がある。トラックの車輪が外れて死傷者を出したこの事故では、メーカー側の担当者に1年半の禁固刑が言い渡された。

◎自動運転のレベルと法規制についてひもとく福岡真之介弁護士f:id:tech-dialoge:20180911203235j:plain

こうした事例を踏まえると、自動運転の「レベル」が課題になる。完全自動運転に移行する過程にはレベル3があり、これはちょうど、手動と自動が混在した状態である。つまりこのレベル3では、ある特定の条件下で自動運転よりも手動運転が優先される「オーバーライド」が発生する。
たとえば、AIが判断できない問題に突き当たると、自動運転システムは「オーバーライド」として、判断と操作を運転者に「返上」するである。そこで事故を起こした場合、どこに責任の所在を求めるのか、という議論もある。センサーの不調や故障により死傷事故が起こった場合は現状ではメーカー側に業務上過失致死傷罪が適用されるが、このレベル3においてはドライバーの責任とメーカーの責任の切り分けが難しく、議論の余地が多い。

自動運転には予見できないリスクが山積だが、現在年間4000人の交通事故死者が自動運転の導入により2000人に半減できるのなら導入する価値は十分にあり、前述の環境問題や産業の活性化のことも踏まえると、自動運転は明らかに普及し、産業領域としての発展を後押しするものとして確実である。

自動運転のAIシステム開発に関し、従来の開発プロセスではカバーしきれない点も指摘。開発プロセスにより工数と見積もりが決まるので、これは発注者と受注者であるエンジニアにとって重要な課題だ。
AIシステム開発における最大の特徴は、従来のように処理のロジックを積み上げていくのではなく、インプットされる入力データと期待される結果データが初めにありきで、それに従ってAIシステムが作られ学習すると共に、最適化されていく。その開発工程はアジャイル型に近いが、システムの開発はエンジニアが行うが大元のデータの提供は発注者が行うなど、発注者と受注者の関係性や責任の重みも変わってくる。システム開発の現場でも、ワークスタイルから契約方法、収益の構造までが大きく変化する。

「トロッコ問題」は、もはや思考実験ではない
後半は、AI自動運転社会における倫理について議論が進められた。人間の判断は、最大多数の最大幸福を目指す「功利主義」と、人間を何らかの目的を達成するための手段としてはならないという道徳律による「義務論」という、二つの倫理観の間で揺れ動いている。このように人間の倫理的判断にはたえずノイズが入り、なにを目的として最優先するのかがぶれる。一方でAIは、目的に対してぶれず、極めて合理的な判断を下す。ある人にとっての正解がある人にとっての不正解である倫理の問題を、AIならどう解決するのか。AIの発展における最大の課題だとも言える。

◎自動運転時代の「倫理」を語る鈴木悠介弁護士f:id:tech-dialoge:20180911203304j:plain

倫理に関する思考実験に、「トロッコ問題」「歩道橋問題」「ブリッジ問題」がある。

まず「トロッコ問題」は、トロッコが左に進めば人が一人ひき殺され、右に進めば5人がひき殺される。あなたならどちらにポイントを切り替えるか、という問題である。
「歩道橋問題」は、歩道橋の上に太った男がおり、その下の線路には5人が横たわっている。太った男を突き落とせばトロッコは停止し5人は救われるが、太った男は命を落とす。その際にあなたは太った男を突き落とすか、という問題。
最後の「ブリッジ問題」は、橋の反対車線を走る40人を乗せたスクールバスが車線を越えてこちらに走行してきた。自分の車がスピードを上げて通過すればスクールバスは確実に谷底に転落する。逆に自分の車が犠牲になれば自分は命を落とすがスクールバスは停止し40人の命が救われる。あなたならその犠牲になるか、という問題。

AIは生命の価値を判断できるのか?
「ブリッジ問題」は最も自動運転の話に適用しやすい。「犠牲」のプログラムが組み込まれた自動運転車を購入したいドライバーがどれだけいるのか、という商業的な問題もかかわってくる。少人数の命を犠牲にして多人数の命を救えばよいのか。平均余命が長い人間を救うべきか、あるいは納税額の低い人間を犠牲にして納税額の高い人間を救うべきかという、生命の価値判断基準をAIに設定することができるのか、という議論も出てくる。もしくはこの価値判断基準は、膨大なインプットを通してAIが学習し、人間が想像もつかない新たな価値判断基準を持ち出すだろう。

上記のような是非が問われる倫理の問題は、臓器移植や代理母などで議論された医療の問題によく当てはまる。科学の発展と共に出現した未知の問題を解決する一つの手段として、「AI倫理委員会」を設立し、そこに判断を仰ぐという方法が考えられる。知識人や経営責任者を中心としたこのような対話の場を設けることは、未知の問題に取り組むための重要なソリューションである。

産業やサービスの巨大なプラットフォームになる
自動運転車これまで述べたような、自動運転を巡り変化を遂げる法規制やシステム開発、倫理観を知ることで、ビジネスモデルの激変は容易に想像がつくはずである。自動車メーカーが車を製造して販売し、その収益を企業の資金にするという、従来のビジネスモデルは大きく変化する。そして自動運転車はもはや自動車ではなく、産業やサービスの巨大なプラットフォームに変貌する。
たとえば、タクシーが無料で乗車できる代わりに、乗客が車内で広告を閲覧したりアンケートに答えたり物品を購入するなどの対価を支払う、というビジネスも考えられる。また、それに伴った自動車保険商品の販売や、車内の広告システムの開発や販売も出現する。さらに新しい税制も生まれ、行政におけるお金の流れも変化する。そして産業は着実にシフトし、新たな広がりを見せる。

*  *  *

AI自動運転の公道での本格運用は、さまざまな未知の問題をはらんでいる。しかし、その道を進まないという選択肢はない。携帯電話が普及したころは、そのようなものに毎月何千円もの固定費を支払うという感覚はほとんどなかった。しかしいまでは水道やガス、電気料金などの公共料金を払う感覚で通話料が支払われている。また、携帯電話が人体におよぼす電磁波の問題などにもあまり触れられる機会はない。
インターネットが普及し始めた1995年ごろは、企業がインターネットを導入することなど情報漏洩のリスクが高く危険と認識され、多くの企業は導入をためらった。一部の大企業は導入するものの、問い合わせ先電話番号を前面的に掲載する企業はほとんどなかった。
逆の例を言えば、原発はかつて「とても安全でクリーンなシステム」としてマスコミや政府がキャンペーンを行い、社会全体が危機意識を抱くことはなかった。ましてや廃炉など、人類と産業の発展を阻害する「遅れた」考えであった。2011年東日本大震災に見舞われたいまでは、ご覧の通りの評価である。

AI自動運転が普及すれば、歩行者やドライバーはAI自動運転車との新しい付き合い方を学ぶだろう。自動車の出現により自動車事故という新たな問題が発生したが、それを補ってあまりある利得があると社会は受け容れている。
AI自動運転車が社会に受け容れられる日は目前に迫っている。それに備え、新たなビジネスモデルや未来を考えていきたい。この思考方法のヒントを、本セミナーでは法規制とシステム開発、倫理という三つの切り口で福岡真之介弁護士、矢﨑稔人弁護士、鈴木悠介弁護士に提示していただいた。この場で共有した知見が明日の繁栄を生み出すことに注目したい。

三津田治夫

ジャニーズの芸能人が執筆した現代版『ウイリアム・ウィルソン』:『ピンクとグレー』(加藤シゲアキ 著)

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この作品は、「芸能人だから……」という先入観を完全に捨てさせてくれた。
文芸作品としての価値が高い。

いままで、文壇や版元が、芸能人の出版界への流入を意図的にシャットアウトしていたのではなかろうか。
つまり「こっちの領域には来ないでくれ」と。

以前私が、ももクロ主演の映画『幕が上がる』に感動し、それを人に伝えると、「いつから三津田はモノノフになったんだ」「たかがアイドル映画ではないか」と言われたことは記憶に新しい。
私には、単に「作品」しか目に入らなかった。
クリエイターがアイドルであれ作家であれ芸術家であれ、いいものはイイし、だめなものはダメ。
作品を作ったクリエイターに、職業や性別、人種、年齢、貴賎の、境界線はどこにもない。

芸能人の名前やゴシップ性でのみ本を作り、売り切るという、出版社がかつて持っていた悪癖こそが、「芸能人だから……」という、著作に対するネガティブな先入観を植え付たのではなかろうか。
これは出版界の罪である。

で、話は加藤シゲアキ『ピンクとグレー』に戻る。
本当にこの作品は20代の若者が書いたのだろうか。
文体と語彙に高い知性を感じる。

この作品はいわば、ポオの名作『ウイリアム・ウィルソン』の現代版だ。
内容詳細はネタバレになるから、Amazonなどに譲ることにする。

閃光スクランブル』もぜひ読んでいただきたい。
こちらも傑作。

三津田治夫

 

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