本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

『紅い砂』(高嶋哲夫 著)を読んで ~社会変革と「壁」そして自由の本質(前編)~

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『紅い砂』高嶋哲夫 著、幻冬舎刊)は、元米兵ジャディスが率いる革命軍が内戦で中米コルドバの政権を奪取し、民主主義国家を樹立する、という物語だ。
独裁政治と薬物による暗黒経済が支配するコルドバの国民は、自由を得ようと、メキシコとの間に米国が築いた9メートルの「壁」を乗り越えようとする。
そこで発せられた一発の銃声から銃撃戦が始まる。女や子供たちなど多くのコルドバ国民が射殺される。この悲劇が物語のはじまりであり、物語の中心軸をなしている。

米国版での発刊が決まっており(英題:『The Wall』)、また本作品を脚本にしたハリウッドでの映画化が計画されている。
映画の台本として書かれただけありスケールが壮大で、臨場感が高い文体とともに、戦争と革命の場面に置かれたような錯覚を得る。
革命と平和、抑圧と自由という、平和な日常では考えることの少ない、人間の本質にかかわる問題を私は受け止めた。

いま、私たちの平和な日常は一変した。
私たちは自由を求めて、ウイルスという見えない敵との戦いに直面している。
そして私たち人類は、いつ来るかわからない見えない敵に備えた世界のリフォーム「革命」を行おうとしている。
いま、『紅い砂』が投げかけるメッセージは、心に深く食い入ってくる。

1988年に見た、革命前夜の東欧の姿
私は偶然、1988年、東欧革命の前夜を体験する機会があった。
『紅い砂』を読んでいると、作品の描写と東欧革命の体験がオーバーラップして頭から離れない。作中に登場する、メキシコとアメリカの国境に建造された「壁」がそれである。
東西社会の分断の象徴としてかつて存在したベルリンの「壁」のイメージを何度も重ね合わせた。
作品で描かれる「壁」は、政治経済と同時に、人間の心の流通を分断する。
この構造は、東西社会を分断していた「壁」とまったく同じである。

私が東欧に初めて足を運び入れたのは、1988年のことだった。
単に「飛行機を使わずドイツに行ってみたい」という冒険心から、バックパッカーとして日本をたった。
船舶で中国の上海かソ連のナホトカに行き、そこから列車で移動する必要がある。迷いながら、とくに深く考えず、ナホトカ港行きの旅客船コンスタンチン・チェルネンコ号に乗り、横浜から出航した。
ナホトカ港に着きハバロフスクまで列車で移動。そこからシベリア鉄道でモスクワまで移動した。

f:id:tech-dialoge:20200514183521j:plainコンスタンチン・チェルネンコ号の乗船パンフレット

当時はソビエト連邦が東側社会の中心として政治経済を掌握していた。
私が通う大学ではマルクス主義共産主義を連呼する学生運動の立て看板が随所に掲げられていた。共産主義に対する淡い夢と希望が、日本社会のどこかにまだ存在する雰囲気すらあった。
しかし私がハバロフスクからモスクワに行くまでの陸路で見た現実は、一度も体験したことのない極度の貧困であった。
食糧不足である。
そして、物不足。

f:id:tech-dialoge:20200514183618j:plain◎当時のソビエト連邦大使館で配布していた機関紙『今日のソ連邦
シベリア鉄道がモスクワに近づくにつれて、一日一日、食堂車からメニューが消えていく。
車両ですれ違うロシア人たちは、日本人を見るとコンパートメントに引き入れ、ホンダやソニーというブランド名を連呼し、「日本にはこうしたものがあふれているのか」と質問攻めをする。私も何度も質問された。
首都のモスクワに行っても物不足。
パン一つ買うにも半日は行列に並ぶ必要があった。

モノとコトの流通が分断された社会
モスクワからワルシャワに移動し、そこからクラコフ(ポーランド)、プラハ(旧チェコスロバキア)、ブダベスト(ハンガリー)、ベオグラード(旧ユーゴスラビア)、ブカレストルーマニア)、ソフィア(ブルガリア)、イスタンブール(トルコ)へと移動し、イスタンブールからパキスタン経由で日本に帰国した。2か月の旅だった。

当初はワルシャワプラハ経由で西ドイツに行く予定だったが、あまりにも衝撃的な光景が多く、また、東欧諸国の人々の日本人である私に対する強烈な好奇心の高さで(私はいつもどこかで誰かしら現地の人間と接触していた)、私自身の好奇心と相まって、私は東欧を出ることがなかった。

「あまりにも衝撃的な光景」とは、食糧不足と物不足に加え、情報不足である。
いわば、モノとコトの流通が遮断された社会である。
西側の経済制裁と東欧経済の破綻、さらに東欧諸国の情報統制により、自由に行き交うモノと情報がほとんどない。
なかなかイメージしづらいが、ロシアと東ヨーロッパ全体が、いまの北朝鮮のような状態、と考えればわかりやすいだろう。
あの広大な大陸が北朝鮮状態だったのである。

f:id:tech-dialoge:20200514183705j:plain◎東欧革命前のポーランド通貨「ズウォティ」紙幣。肖像は天文学者コペルニクス
ポーランドでは、ワルシャワでもクラコフでも、パン一つ買うのに半日以上行列に並んだ。
最低限の食料を手に入れるにも、この状態だった。
一方で「闇ドル」も存在した。
米ドル紙幣を、裏通りを歩く「闇ドル換金者」たちに渡すと、通常レートの数十倍で現地通貨(当時の通貨単位「ズウォティ」)に換金される。
またホテルなど外国人が出入りする施設では普通に闇ドルが流通していた。
クラコフではホテルのフルコース料理を闇ドル10ドルで注文した。
物不足の裏には、いびつな闇経済も存在していた。

情報不足は、政府の統制によるものだった。
西側の情報は遮断されていたため、私のような日本人は街を歩いていると市民から声をかけられ、別室で質問攻めにあう。
とくに東側でも当時のワレサ議長による労働組合「連帯」を結成するなど先進的な国であったポーランドではそうしたことがよくあった。ワルシャワ市街では大学生に声をかけられ、彼らの寮に招かれ、5日間毎晩ウォッカを飲みながら、夜中まで日本のこと、自由のこと、民主主義のことを延々と質問され、語り合っていた。

クラコフでは修学旅行の小学生の集団とユースホステルで一緒になった。
ここでも子供たちからは質問攻めだった。そのある夜、屋外から機関銃の発砲音を子供たちと聞いた。子供たちは悲鳴を上げて怖がっていた。日中、マシンガンで武装警備する兵隊(ミリツィア)たちと街中でたびたびすれ違った。おそらく彼らが発砲したのだろう。

後編に続く)

三津田治夫

第11回飯田橋読書会の記録:『方丈記私記』(堀田善衛 著)~激動の時代に「文化」を冷静に直視した作家の肖像~

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今回読書会で取り上げた作品は、『方丈記私記』。
堀田善衛といえば大正・昭和・平成を生き抜いた評論家。
モンテーニュを扱った『ミシェル城館の主人』が文庫化され評価も高く、個人的にも読んでみたいと思っていた評論家である。
で、『方丈記私記』とは、平安末期の大作家、鴨長明の『方丈記』を、『私記』という形で自身のエッセイの中に組み込んでしまった、という作品。

京都の大火と東京大空襲の体験を重ねる、評論家、堀田善衛
堀田善衛第二次世界大戦時の東京大空襲の体験と、『方丈記』で描写される京都の大火を重ね合わせ、800年を超えて繰り返される都市の大混乱を個人的な記憶とともに書き綴る。

評論家の生々しい体験に戦乱の恐怖や天皇制に対する激しい怒りが伝わってくるが、後半はだんだんと作家論のようになってきて、前半のテンションが多少トーンダウン。

読書会の参加者からは、その後半が結構おもしろかったという意見や、どうも昭和の評論家にありがちな印象評論、美文で書かれた読書感想文に過ぎないという手厳しい意見もあったが、私が感じたのは、鴨長明の文章が堀田善衛の文章を「上書き」してしまっている、ということ。つまり、『方丈記』の文体は非常に強い。

そもそも800年以上も数え切れないほどの文筆作品の中での淘汰を経て、日本人の歴史に残ったエッセイの古典、古典中の古典である。エッセイの始祖といわれるモンテーニュですら、『エセー』を世に出したのは『方丈記』の300年後である。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」

という書き出しは、すでに日本人のDNAに組み込まれてしまっているはず。

たとえば、『方丈記』には有名な「福原京遷都」の描写がある。京都の町に火を打って福原に遷都しようと市民が移動しようとするがあえなく失敗し、焼け野原になった京の街に戻ってくるという話は、まるで目の前に起こっている現実かのような迫力がある。そうした感覚は、中学校の古典学習の記憶のレベルではなく、もはや、DNAに刻み込まれているのではなかろうか。

社会と文化に深い関心を持った鴨長明は、はたして世捨て人か?
読書会の後半は、「鴨長明とは何者か?」という人間論に移った。
まずはジャーナリスト。
神主の息子でそこそこの地位にあった鴨長明は、平安末期の混乱期を冷めた視線で見物していたという意味で、ジャーナリスト。
さらに、日本語の運用能力に長けていて、人に訴えかける力のある文章を書ける文筆家。
あと、当時最もハイカラな楽器であった琵琶の演奏に高度なテクニックを持っていたということからも、新しい物好きのミュージシャン。

最後は、よく言われる、住宅オタク。
自分好みの庵(いおり)を設計し、パーツを二両の牛車で山中に運び上げ、組み立て、都市を見下ろす山中で気ままに暮らしていた。

私はてっきり、鴨長明さんは庵を気が向いたら解体し、移動しながら生活していた、いまでいうキャンピングカー族のようなものかと思っていた。しかしそれはまったくの誤解だった。
これこそ、現代人の目で古代人の生活を見ようとしてしまう、誤りである。『方丈記』にはそんなことはひとつも書かれておらず、単に街で庵のパーツを町の職人に作らせ、それを掛けがねで組み立てやすいようにしていただけなのだ。

今回の読書会を通して明らかになったことは、「鴨長明は世捨て人なんかじゃないぞ」ということ。
上記の通り、住居や楽器といったきわめて世俗的な物欲は十分にあったし、世の中で起こっていることに敏感にアンテナを張り巡らせ、それを文章化して世に伝えようとする社会的な意欲すらあった。
この人、ひとつも世の中を捨てていない。
とかく現代人は、「庵」と聞いて「世捨て人」と結びつけたり、解体可能な住居と耳にして「キャンピングカー族の先駆け」などと、表面的なキーワードだけで物事を判断しようとする。

読書会でまとまったのは、鴨長明とは琵琶の演奏と日本語の運用能力に非常に高い技能を持った好事家で、その直筆の文章が800年を超えて残っていて、いまだに読み継がれているというのだから、それだけでも大変なこと。それを成し遂げたのが、鴨長明さんという大作家だ、という結論である。

かくして、堀田善衛の文章は遠のき、読書会の議論は「鴨長明さんとは何者か論」で幕を閉じた。それだけ、あの時代をしたたかに生き抜いた鴨長明という人物の存在感は鮮烈で、強烈であったともいえる。現代人からも学ぶところが多い。

三津田治夫

いま考える、生存のインフラ「文化」について

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見えない敵、新型コロナウイルスは、私たちの生活に覆いかぶさるよう日々情報を更新している。
さまざまな意味で、破壊的である。
先日は日本赤十字社が、ウイルスの次に来る脅威は「情報が与える恐怖」という啓蒙CMを流しはじめた。
新型コロナウイルスの感染が拡大した当初は感染防止のための情報が主だったが、ここにきて注意の矛先が情報リテラシーへと変化してきている。

▲情報と心、文化は一本につながる
一言で情報リテラシーとは、言葉に対する心の向き合い方だ。
出てきた言葉を取捨選択し、どう解釈するかという、自由な判断能力を養うことである。
この取捨選択と解釈を行うのは、人間の心、である。
新型コロナウイルスの脅威は、身体的であると同時に精神的であることが改めて確認されている。
こうした状況のなかで私たちの心を支えるものはなんだろうか。

現金、給料、社会的地位、勤める会社、
保有する資格数、学歴、家族や友人、恋人、
仲間たちとの絆、人間性……?

上記はいずれも正解だろうが、これらを下支えする重要な要素が一つだけある。
それは、「文化」である。

3月、ドイツのモニカ・グリュッタース文化相は「アーティストはいま、生命維持に必要不可欠な存在」と発表。
フリーランサーやアーティストに対して最大500億ユーロの支援を約束した。
個人が対象の場合、3か月分最大で9,000ユーロ(日本円換算で約100万円)の一括払いを受け取ることができる。
文化が「生命維持に必要不可欠な存在」として、国家レベルで守られている。
海外の動きを手放しに模倣する必要はまったくないが、文化と生命に対する考え方には見習うべきものが多い。

インフラとしての文化を支える先人の知恵
文化は心の空気や食品、栄養、インフラだ。
経済活動の内側と外側の双方に存在する。
私たちは、映画やドラマ、舞台を観て、音楽を聴き、カラオケを歌い、娯楽やビジネスの本を読む。
映画やドラマ、舞台の源流をたどると、エイゼンシュタインの古典映画やシェイクスピアの劇、ギリシャ悲喜劇へとたどり着く。
カラオケで歌われる歌謡曲やライブで演じられるポピュラー、ロックなど音楽は、ジャズやクラシックを祖先として受け継がれている。
娯楽として読まれる本は、源氏物語徒然草、民話や江戸の浄瑠璃夏目漱石森鴎外など文芸作品が根底に流れている。
そしてビジネス書は、ソクラテやヘーゲルの論理学やアリストテレス形而上学、カントやハイデッガー実存主義哲学、マルクスケインズの経済学、ゲーテやシュタイナーの教育学など、西洋哲学をベースに租借し、現代社会にフィットした文脈で書き換えられている。それがビジネスという文化を支えている。

私たちがいま触れている文化は、いずれもこうした古典が土台になっている。
古典とは、私たちが共有する文化として、生き残った人たちが大切に保管し、継承してきたものだ。
それは、私たちのような未来人に向けた先人からの贈り物である。

いまのような激動の時代に生きる私たちの心を生かす要素は、こうした贈り物が大きい。
文化は私たちの心を生かし、心を豊かにする。
生きる活力とアイデアを生み出す栄養素だ。
経済活動がいまのような「瀕死の状態」(これは国会答弁でいま聞こえてきた言葉だ)になると、文化の価値が反比例して高まる。
一方、経済状態が悪化することで、文化の未来への継承が後手に回る。

「きずな」「モノよりコト」へと向かう心の方向
1980年代後半のバブル経済期、企業はこぞって、手にした収益をゴッホやダリの高額な絵画彫刻に投資した歴史がある。
これに伴い、「文化はお金を持った人たちの道楽と投機」という社会的認識が強まった。
バブル経済がはじけて遭遇した阪神淡路大震災東日本大震災では、「モノは一瞬にして消滅する」現実を共同体験した。
「きずな」という精神的なキーワードが世にあふれ、「モノよりコト」という物体以外の価値が評価されはじめたのもこのころだ。
これら大震災の間には、地下鉄サリン事件金融危機リーマン・ショックが私たちを襲っている。

ここ30年を見ただけでも、これだけの危機に私たち日本人は襲われている。
「きずな」「モノよりコト」というキーワードが象徴するように、この期間を経て、私たちのマインドは大きく変化した。
そしていま、昔ながらの日本人の持つ精神性とはまた違った、不可逆的な精神の変化を私たちは遂げている。

日本人のマインドは激変した。
では、それを取り巻く社会や国家はどう変化しただろうか?
即答できる人は少ない。
この疑問を知人に投げかけたところ、「地下鉄サリン事件で駅からゴミ箱がなくなったのは大きな変化」と即答されたが、そのぐらいである。
それだけ、社会や国家の構造は、日本人のマインドの変化に追いついていないように見える。

いま、目の前にある文化を未来の私たちに継承する時期
目下の課題は、いま私たちが共有している文化を未来へと継承すること、である。
生き残った者として文化を継承する。
成熟社会に入った日本が、いま、文化の国になるかが問われている。

最後に繰り返したいのは、文化は心の空気や食品、栄養で、生きるためのインフラである、ということ。
アーティストを生かし、作品を残し、文化を未来の私たちへと継承する。
これが、いまを生きる私たちの役割ではないか。

私たちが誰にでもできる文化の未来への継承。
それを、私は「本を読み、語ること」と考えている。
本は最も身近な文化だ。
どんな本でもよい。
本から得た物語、そこで動いた心の状態を、人に語ること。
人と人との間にインスピレーションを生み出し、次の読者や作品を生み出す。
本との対話が、文化のタネを生み出す。
本が物語と心の循環を生み出す。

いまと似た、もしくはさらに苦境に立たされた未来の私たちに向け、文化を継承したい。
そして、心身ともに健康で、日々創造的に力強く、生きていきたい。

三津田治夫

第29回飯田橋読書会の記録:『本居宣長』(小林秀雄著)(後編)

前編から続く)

さて、『本居宣長』の中でとくに重要なキーワードは「もののあはれ」と「ものしり人」である。
そして根柢に流れているのは「音楽」だ。
本居宣長は知識万能を嫌っていた。
知識をつけたうえで、それを超える感性を備えなさい、ということを言っている。
そうした力で本居宣長は、古事記という誰も読むことができなかったものを日本人が読める言葉へと翻訳することに成功した。
そして本居宣長は、源氏物語を「もののあはれ」というキーワードで再評価し、中世の日本古典に新たな光を当てた。

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本居宣長が自分で設計した墓地(三重県・松坂)

本業は小児科の医師であり、本業で得たお金を竹筒にためて本を出版した。
そして出版費用を賄うために、出版物に広告を入れた。
日本初の出版広告を出した人物としても知られている。
生前にはなにを思ったのか、自分のお墓の図面を残している。
その図面は『本居宣長』に掲載されている。
本居宣長の愛する山桜が背後に植えられたお墓が、彼の故郷である松阪に実在する。

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宣長が描いた墓地の図面

テレビ文化以前に開花した最後の知識人

再び、小林秀雄に戻る。
古事記と一体化する本居宣長同様、小林秀雄も対象と一体化し、対象が憑依している。

「小林は感動を伝えたいだけなんだろう」
「『モオツァルト』の中で、急に出てきた旋律を楽譜におこしているが、小林は音楽と同一化している」
「同じように、小林の中に文書が浮かんできて、それを書くだけ」
「そういう、乗り移ってる感じが多い。憑依型。ランボーの作品を読んでも同じようになりきっている」
「この本に関しても本居になりきっている。古事記に入り込む本居に共感している点はよくわかる」

小林秀雄の『パイドロス』論を読んでもよくわかるが、この中でも小林秀雄ソクラテスになりきっている。
基本、この人のスタイルは、憑依型なのである。

「ある意味、20世紀の知識人、文学者。洗練されていない野蛮な時代の知識人である」
「テレビで大衆化した知識人が出る以前の“最後の知識人”という感じ」

という発言にも納得がいく。

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本居宣長が小児科を営んだ旧宅「鈴屋」(松坂)

はたして本居宣長は「知識不要論者」か?

読書会の終盤は「私と『本居宣長』」をテーマに語りあった。

「いまの瞬間まで肯定的に楽しめたんだが、実は自分にはネガティブな意見がある」

としながら、

「それは、小林も本居も言う、反知性主義。それは良くないと思っている」

という、小林秀雄本居宣長の本質的なあり方に疑問を投げかける発言があった。

「ある程度の知識量がないとどういう話かがわからないし、知識はやはり大事にしなければいけないだろう」
「しかしこの本では“そうではない”という点が疑問」
「知識がなくては読めないものに関し、最後の最後で知識を捨てろと言っているようなものだ」

という意見が出た。
これに対し、

「この本では、知識がなくてもよいとは言っていない」
「小林も本居も圧倒的な知識を持っている。そういう人が言っていることに逆説がある」

という冷静な反論があがったことは付け加えておく。
いわば小林も本居も、知識という「型」を身につけ、それを超越した「型破り」をせよ、ということを言っているのである。
これに関し、

「こういうことを批判されるときに返せるだけの知識を彼らは持っている」
「それは“批判を封じ込める”という危険性をはらんでいる」
「ある意味、二人ともいやみな人物」

という発言で、「知識不要論」にまとまりをつけていただいた。

類似の意見で、辛らつなものもあった。

「やはり小林はいやらしい人である」
「知識人の中でも自分はまったく別格なんだということが言いたいのだろう」
「識者といっても、お前らはモノを知っているだけで考えていないだろう、という語気を感じた」
ソクラテスソフィストの関係のようだ」

辛らつではあるが、的を射た表現である。

現代の評論家との絡みにおいて、以下のような貴重な意見もあがった。

「『本居宣長』ははっきり言ってさっぱりわからず、それ以降読まなかったし、感銘も受けなかった」
「ある対談で一生懸命小林のことを否定しているものがあった。なぜそこまで小林をクローズアップしているのかがわからなかった」
「他者も批判や肯定をしている中、小林がどれくらい大きな存在なのかがわからなかった」
「この本を読みながら思ったのは、彼ら後進の評論家は小林に相当大きな影響を受けたのだということ」
「小林をどう乗り越えればよいのかということを、彼らは無意識でやっていたのだろう」
「この本を読んで、別のことがわかった点がよかった」

やはり小林秀雄は、日本近代批評の父であることは間違いなさそうだ。


小林秀雄本居宣長に宛てた「ラブレター」

最後に、『本居宣長』に関して、

「この本は、小林が本居に宛てたラブレターではないか」

という、美しい比喩が聞こえてきた。

「小林が思うまま、熱情に身を任せて書いた、という感じがする」
「小林はきっと、誰にでもわかってほしいとは思っていないはず」
「原文を付けた後に自分の解釈を付け、それを解釈する方が大衆としてはわかりやすい」
「しかしそれをあえてしなかった。そこが、やはりラブレターなのかな」
「自分の思いをぶちまけたような本だったのか」

これには深く共感する。
小林秀雄古今東西のあらゆる芸術に心の赴くままに向かっていき、そして、「ラブレター」を送り続けた。
そうした愛と情熱の軌跡が、小林秀雄の紡ぎだした言葉、作品なのである。

最後は全体のまとめとして、以下の発言があがってきた。

小林秀雄の作品は好き嫌いがはっきり分かれる。
小林秀雄には「国語を大事にしよう」という意識を感じる。
・学ぶことはとても重要。人を説得したり論破するのは自分の能力を見せつけるだけで、意味のないこと。実際は作品に入って学ぶことが大切。
小林秀雄は対話を大事にする人物である。
・「もっと注目されるべき人物」として小林秀雄本居宣長を取りあげた。ここに小林秀雄の功績がある。
・いままで取り上げた本の中で最も読みにくかった。大変だった。時間がかかった。
・読んだ後の達成感は大きい。「やっと終わったぞ!」という大著だった。
・難しいけど楽しく読めた。
・「小林は本居の大ファン」ということがよくわかった。

くせ者作家がくせ者国学者を取り上げた難物大著に皆様取り組んでいただき、本当にお疲れさまでした。
(この後は年末恒例の読書会忘年会の席として中華料理店に移動したことは言うまでもない……)

ちなみに、晩年を鎌倉に過ごした小林秀雄のお墓が、鎌倉の東慶寺にある(https://www.e-ohaka.com/guide/column/kobayashihideo/)。

近くには澁澤龍彦岩波茂雄小林勇のお墓もあり、出版の神様を拝みたい人にとってはうってつけの巡礼地である。

  *  *  *

次回、記念すべき第30回読書会で取り上げるテーマは、またまた趣を変え、戯曲である。
本会の中では評判のよくない戯曲というテーマ。
それでも次回は、『ガリレイの生涯』(ブレヒト)を取り上げる。
地動説を唱え、天動説を固持する教会と激しく対立した天文学者ガリレオ・ガリレイの人生を描く名著。
科学と権力の狭間に生きた男の戦いを読み、どことなく福島第1原発事故と権力の関係を感じるのは、私だけではないはずだ。

それでは次回も、お楽しみに。

三津田治夫

第29回飯田橋読書会の記録:『本居宣長』(小林秀雄著)(前編)

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小林秀雄と聞いて、皆さんはどんなイメージをお持ちだろうか?

「文章がよくわからない」
「国語の受験問題で苦しめられた」
「名前すら聞いたことがない」
「素晴らしい批評家」

など、多様な返答が返ってくるはずだ。
私の場合、小林秀雄というと父親の思い出が多い。
父の遺品から小林秀雄の書籍や初出の雑誌がたくさん出てきた。
しかし、作品自体に深く触れる機会は少なかった。
課題図書として『本居宣長』を読むことで、私と作家の距離が一気に近づいた。
これはうれしい出会いだった。
同時に、本居宣長という人物の意味や偉大さがよくわかる伝記して面白く読めた。

感性に身を任せて大成した、たぐい稀なる昭和の大評論家
作家について簡単に述べておこう。
小林秀雄(1902~1983年)は、明治と昭和を生きた評論家である。
日本近代批評の父ともいわれる人物だ。
もともとは詩人としてやっていくつもりだったが、文芸作品の紹介で評価が高まり、評論家として名を成す。
かつては「評論」というと、作品のことを外野で言うにすぎない二流の文人の仕事とされていた。
しかし小林秀雄の出現により評論は決定的な市民権を得た。
文芸作品としての評価が確立し、『本居宣長』にいたっては4000円の高額書籍ながらも異例の10万部を超えるベストセラーとなった。
小林秀雄本人の口によると、「鎌倉のうなぎ屋の女将までもが買ってくれた」という。
柄谷行人東浩紀など、現役の評論家が多数活躍しているが、彼ら評論家といわれる文人は、少なからず小林秀雄の影響を受けている。

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さらに小林秀雄は、「感性に身を任せて好きな芸術をとり上げる」ことで成功した、非常にまれで幸福な作家であった。
文芸では詩人のランボーボードレール、小説家のドストエフスキーヴァレリーバルザック紫式部志賀直哉横光利一、哲学者のソクラテスやアラン、ベルグソン、心理学者のユング、画家のゴッホ梅原龍三郎、音楽家モーツアルトなど、さまざまな芸術を古今東西から取り上げ、西欧文化に飢えた当時の日本人たちに広く紹介した。
それらは文筆におよばず、全国各地で行った講演会でも語りつくされた。

情報の専門家や細分化が詳細になされた現代では小林秀雄のような広範な仕事が評価されることはまず困難だろう。
また、ロジックが重視される現代、感性に身を任せた小林秀雄の作風にはさまざまな「つっこみ」が入るであろう。

それでも、小林秀雄にはいまだ根強いファンがいる。
そして、「小林秀雄はすごい!」という人は多い。
私は、学生時代に小林秀雄の作品をいくつか読んでもピンとこなかった。
しかし新潮社から出ている講演テープを聞いたときから少しずつ感化され、今回の『本居宣長』を読むことで「小林秀雄はすごい!」と、唸りをあげるにいたった次第だ。

文体と引用で攻めまくる、歯ごたえのある評伝作品
前置きが長くなったが、読書会での小林秀雄本居宣長』をめぐるメンバーが発した談話を、以下にまとめた。
読書会の雰囲気を共有できたら幸いである。

メンバーからは相変わらず自由闊達で多様な意見が飛び交った。

「正直言って結構わからないところもたくさんあったが、非常な充実感を得た」
「読みづらい本をやるのが読書会の目的なので、私はこれがなければ最後まで読まなかっただろう」
「言いたいことは少しだけわかったかなと思う」

といった、決して積極的ではない意見が多かった。
さらには、

「とても苦痛な本」
「読む気がそそられず、放置した時間が長くなってしまった」

などの声も聞こえてきた。

読書会でいつもながら展開される「まとまるのかなぁ」という怪しげな出だしの感覚と、終盤に従ってそれが収束される理性的な展開を期待しつつ、会場に飛び交う意見に身を任せることにした。

引用が命ともいうべき作品『本居宣長』に対して、その「引用がきつい」という声が多数からあがった。
しかしながらその引用にも、小林秀雄は深い意味を持たせていることがわかる。

「引用が多いので、読む人を選ぶ。誰がどういうことをしたのかという時代背景なども知らないと読みこなせない」
「10年以上かかって書かれているので、同じ引用がたくさん出てくる。読んでいて迷子になってしまった」
「引用に解釈をいれず、聴いたもの見たものにそのまま触れればよいのだということが書かれている」
「小林は本居がそういう人なんだということを伝えたく、何度も引用していた」
「そういう音楽的な人なのだと思った」

これらの意見は印象深い。

「引用はきつかったが、最後になってくると読み慣れてくる」
「この本に感謝するのは、古文が読めるようになったこと」

という、学習的な効果には私も共感した。
では、具体的にどんな引用がなされているのだろうか。
以下にその引用を孫引きしてみる。

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私達は、「萬の事しげ」き今の世に生きてゐるので、これをどうしやうもない。宣長は、文中に、次のやうな問ひを設けてある、「モシ、マハリトヲク、今日二ウトキヲ、キラハバ、和歌モ同ジ事也。誹諧コソ、今日ノ情態言語ニシテ、コレホド人二近ク、便ナルハアラジ。何ゾコレヲ トラザル」、答へて日はく、「スベテ、我方ニテ、連歌誹諧謠淨瑠璃小歌童謠ノルイ、音曲ノルイハ、ミナ和歌ノ內ニテ、其中ノ支流、一種ノ音節體製ナレバ、コレラニ對シテ、和歌ヲ論ズベキニアラズ。其中ニツイテ、雅俗アルヲ、風雅ノ道、ナンゾ雅ヲステテ、俗ヲトラン。本ヲオイテ、末ヲモトメンヤ。サレドモ又、コレモソノ人ノ好ミニ、マカスベシ」。その人の好みにまかすべし、といふ言葉は、此處だけではない。文中幾つ出て來る。「詩ガマサレリト思ハバ、詩ヲックルベシ、歌ガオモシロシト思ハバ、歌ヨムベシ。 又詩歌ハ事情ニトヲシ、誹諧が、今日ノ世情ニチカシト思ハバ、ソレニナラフベシ。又詩歌連誹、ミナ無盆トオモハバ、何ニテモ、好ムニシタガフベシ」。
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カギカッコ内のような引用が本書で延々と続くのである。

「いまは言語化しろと言われる時代だが、わからないものはわからないまま受け取ることがよいのではと思っている。その点で小林秀雄に共感できる」という意見は、言葉にとらわれた「ものしり人」を批判する本居宣長小林秀雄の姿勢と相通じる。

言葉ですべてを把握することはできない。
科学万能に傾きつつある昭和の日本に警鐘を鳴らしたのが小林秀雄だった、という解釈もできる。

感覚的な事物把握や描写にたけた小林秀雄に関し、

「この意見はいまだったら通用しないなという感覚もありつつ、鋭い視点が散見される。読むことに命をささげた人なんだということを感じた」

という、作家の知識と経験、情熱で作品を押し切る文章の力強さには共感する。

「本居が古典に寄り添う共感力に対し、小林が本居に共感しているということが強烈に感じられる」

という意見から、議論は文体論に移る。

「キーセンテンスを抜き出そうと思っても抜き出せなかった」
「キーセンテンスを抜き出しても必ずそのあとになにかが出てくる」
「独断の文章というか、キーセンテンスではなく「文章」として読ませる」
「やはり気合なんだと。小林に論理性はなくて、気合で勝負しているという感じ」
「喋っているのと同じで、語気の鋭さ、気合」
「それで最終的に伝わってくるのは、“小林はすごい”という一言につきる」
「小林の文に論理性はないが、キャッチコピーが上手い」
「小林が本居に入り込んでいて、本居は古事記に入り込んでいる」
「本居がすごい、ということよりも、小林がすごいという一言」

まさに小林秀雄という作家と『本居宣長』を端的に言い表した表現である。
これには納得がいった。
では、小林秀雄自身の文から、彼の力ある文体を引用してみよう。

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過去の作品に到る道は平坦となつて、もはや冒險を必要としないやうに見えるが、作品にもいろいろある。幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑はぬものとなつた、豊かな表現力を持つた傑作は、理解者、認識者の行ふ一種の冒險、實證的關係を踏み超えて來る、無私な全的な共感に出會ふ機會を待つてゐるのだ。機會がどんなに稀れであらうと、この機を捕へて新しく息を吹き返さうと願ってゐるものだ。物の譬へではない。不思議な事だが、さう考へなければ、或る種の古典の驚くべき永續性を考へる事はむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒險であつた。
———————

古典が古典足り得るのは、作品が「無私な全的な共感に出會ふ機會を待つてゐる」からであり、それを本居宣長は冒険として実践していた。というくだりを、小林秀雄は上記のように延々とレトリカルに解説する。
後編に続く)

三津田治夫

第30回飯田橋読書会の記録:『ガリレイの生涯』(ベルトルト・ブレヒト著)

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読書会、記念すべき第30回目に取り上げる作品は、戯曲である。
どんな激動の時代にも「保身でしたたかに生き延びる人」はいる。
その象徴的な一人が、今回読書会で取り上げた戯曲『ガリレイの生涯』(1943年)を発表した、ドイツの戯曲家で詩人、ベルトルト・ブレヒト(1898~1956年)である。
ブレヒト作品には日本にファンが多い。
代表作『三文オペラ』(1928年)はいまだ上演される機会が多々ある。
クルト・ワイル作曲の、ミュージカルの原型となった作品である。
そんなブレヒトのもう一つの代表作が、天文学者ガリレオ・ガリレイを主人公とした『ガリレイの生涯』である。

「保身でしたたかに生き延びる人」の視点で作品を読み解く
今回は「保身でしたたかに生き延びる人」として、作家ブレヒトを紹介する。
ユダヤブレヒトナチスに追われて母国ドイツを捨て、アメリカに亡命した。
戦後間もない1947年10月30日、今度は共産主義者として非米活動委員会の審問を受け、亡命先からも追われる。
この時期、奇しくもニューヨークでの『ガリレイの生涯』初公演中であった。
審問の翌日、ブレヒトはパリ経由でチューリヒに亡命。
1年間の滞在後、オーストリア国籍を取得。
1948年10月、プラハを経由してチェコスロバキア国境を越え東ドイツに到着。
東ベルリンに居を構え、創作活動に打ち込む。
1955年には共産主義者としてスターリン平和賞を受賞し、その翌年に死去している。

亡命を続けながら作家活動を中断することなく、そして作家として生き延びるため全体主義スターリンを賛美するまでにいたった。自由な作家として体制側につく人は少数だが、ブレヒトの場合はその一人であった。

そんな作家ブレヒトであるが、戯曲『ガリレイの生涯』の主人公である天文学者ガリレオ・ガリレイは、まさに「保身でしたたかに生き延びる人」として描かれているのである。

冒頭でネタバレになってしまうが、『ガリレイの生涯』のラストは次のとおり。
異端審問において、ガリレイは自説の地動説をやすやすと撤回する。
弟子のアンドレアはそれを知り師匠に絶望する。
が、実はその撤回はガリレイカソリックから破門されず生き延びるために教会を欺く方便にすぎずなかった。
裏では『新科学対話』を書きあげ、原稿を国外に運び出すことに成功。
ガリレイの保身により地動説は科学的定説として世に残り世界に流布される。
そして地動説は人類共有の知的財産になる、というストーリーだ。

話は読書会に移る。
会場内から第一にあがった声は「終末思想を感じる」であった。
ナチスが政権を取るとともに亡命生活を余儀なくされた作家の人生が作品に影を落としているところからくる印象である。
ブレヒトに関心はないが戯曲は面白かった」
「作家の名前も知らなかったが、作品自体は面白かった」
「人物の描写が面白かった」
ガリレイの娘の扱いがかわいそう」
「キャラの描きわけがはっきりしている」
など、まざまな意見が飛び交う中、総じて言えることは、「よくできた作品」であった。

ちなみにブレヒトは巧みに生き延びつつ58歳という若さで亡くなっているが、同時代ナチスに追われた作家のヴァルター・ベンヤミンは47歳で服毒自殺で命を落としている。そうみると、これでもブレヒトは「長生き」なのである。「ベンヤミンが早死にした理由は蔵書が多くブレヒトのように身軽に亡命することができなかったからでは」という発言があがったのは印象に残る。

ブレヒトと『ガリレイの生涯』は一つの合わせ鏡
ガリレイと異端審問の話から、後半はテーマが「宗教と科学」に移った。
科学とはギリシャで生み出されキリスト教世界で発展したものと思われているが、実はアラビアで発展し、その後キリスト教文化に引き渡され急展開したものである。
そこでトルコ観光に行ったメンバーから「イスタンブールに科学歴史博物館ができていたが、トルコ人は科学とイスラムの強い関係性を主張したかったのだろう」というコメントが出た。

そもそもなぜ科学がイスラム圏での発展を終えキリスト教圏で急成長を遂げたのだろうか。
その疑問を受け、キリスト教圏には「実験の伝統」があり、それが科学の発展を後押ししたのだという返答があった。
錬金術や人造人間の生成、不老不死薬の調合など、実験に実験を重ね試行錯誤を重ねる文化はキリスト教社会に連綿と息づいている。現代のシリコンバレー文化、スタートアップ文化、起業家文化の源流をたどると、アメリカのフロンティアスピリット(開拓者精神)やキリスト教社会の試行錯誤を重ねる実験文化にたどり着く。

ここで科学とイスラムキリスト教の話が出たが、「科学と仏教の関連ってあるのか?」という素朴な疑問もあがった。

ブレヒトの大著『作業日誌』からもわかるように、彼の創作は活力にみなぎっている。
そして周囲には多くの俳優や文化人らが取り巻く。
ブレヒトはそれら人脈を使い作家というよりもプロデューサーとして多数の作品を生み出し、歴史に名を遺した。
作品は大衆を動員する商業的な力が強く、その意味で現代の「ミニ・ブレヒト」が秋元康ではないかという意見も会場では一致した。

終盤近く、「ブレヒトとこの作品は合わせ鏡に見える」という意見が出た。
つまり、ガリレイは保身という一見不格好な行為により、科学という人類の貴重な知的財産を守った。
同じように、ブレヒトは保身により文芸という人類の貴重な知的財産を守った。
と、この作品を通して訴え、歴史に残したかったのではないか。
保身というしたたかさはブレヒトガリレイの共通点である。
つまり、ブレヒトは自分の保身という行為を美化するため、『ガリレイの生涯』を書いたはず、という推論である。

これに呼応し、「アーディストにしたたかさは重要。身変わりの早さや節操のなさも重要」という発言が、メンバーの一人である作家さんからあがった。
理由は、

「アーティストは売れなくちゃ困るから」
「アーティストは売れて長生きが必須条件だから」

という、創作の現場から出た生々しい発言であった。

マイノリティが社会でクリエイティブに生き残る鏡。
それが、ガリレイであるともいえる。

ブレヒトは保身を「美学」にまで昇華し、「アーティストの行動としての理想形」として自らの作家人生をガリレイの生涯に仮託し、作品を通して人々に伝えたのである。
そしてブレヒトは自己顕示欲の高さと同時に高いクリエイティビティと影響力をもって、ミュージカルという舞台の新スタイルを確立し、戯曲家詩人として業績を歴史に残したのである。

最後に、「なぜブレヒト東ドイツに行ったのか?」という疑問があがった。
西側に残っていれば作家としてもっと才能を発揮し、もっと長生きできたはず。
彼は共産主義者から転向することもなく、いうなれば要領の良さを貫徹することができなかった。
「保身は中途半端であった」ともいえる。
「作家と作品は全然違うもの」という皮肉で、この読書会は幕を閉じた。

参考までに、保身を研究した名著として、シュテファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像』や、エリアス・カネッティの『群衆と権力』がある。機会があったら読書会で取りあげてみたい。

  * * *

次回もまったく趣向を変えながら、一つだけの共通点。
それは、戯曲家の作品である、ということ。

福田恒存の『人間・この劇的なるもの』を取り上げます。
人間の存在とその悩みに対峙する作品。
「「生」に迷える若き日に必携の不朽の人間論。」とされています(Amazon調べ)。
人間論とは、読書会でかつて扱ったことがなく、いままで同様崇高なジャンル。
果たしてどのような議論になるのか。

次回も開催できる日まで、お楽しみに。

三津田治夫

自由で健康な心身で乗り越える、「情報」との戦い

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一次情報にあたることで、情報としての毒性から逃れる
新型コロナウイルスを書くことは、無闇に読む人の恐怖心を煽るというリスクがある。しかし恐怖心とは、「自分の力でコントロールできる」と気付くことにより、低減、もしくは消滅する。
ここでは、「自分の力でコントロールできる」ことを取り上げる。

まず、十分な睡眠と食事、ストレスをためないなど、普段通りの健康管理に加え、高齢者への配慮、手洗いの実施、人が密集する場所、近距離での会話を避け、マスク着用など飛沫感染の防止を行う。具体的な行動として、自分でできることはたくさんある。

そしてもう一つ、コントロール可能な重要なものがある。
それは「情報」である。
身体的でないゆえ抽象的になりがちな「情報」だが、この情報に対するつき合い方を、次に考えていきたい。

まず、厚生労働省https://www.mhlw.go.jp/index.html)が発信する一次情報を信頼し、ワイドショーやニュースサイトなど広告収入で運営される商用情報には「話半分」ぐらいで、基本目を向けないことをお勧めする。

厄介なのは、ウイルスとしての毒性よりも、「情報としての毒性」である。
ウイルスは目に見えない。
情報と物体の中間的存在である。
現に、新型コロナウイルスの報道が増えると同時に、うつ症状や体調不良を訴える人、そして長引く外出禁止や自粛ムードで「コロナ疲れ」になる人が増えている。こうなると新型コロナウイルス以外の疾患が気になる。
類似の動きは、株価の暴落である。
リーマンショック以来の市場の混乱で、個人のみならず社会経済的にも、ウイルスは情報に感染している。

自分の意思で自由に情報へと向き合う力をつける
こんな時期の私たちにいまできることは、情報リテラシーを高めることである。
今回の情報感染への混乱ぶりは、明らかに情報リテラシーと関連している。
正確な情報を取りに行こうとはせず、目の前を通過した情報に反応し、飛びつく。情報の誤読はここから発生する。

テレビでは視聴率が上がり、Webではページビューやユニークユーザー数が増えるなど、商品販売へと結びつくことで情報発信が成り立っている。これら数値を上げるため最も低コストで効果の高い方法は、受け手の恐怖心を煽り、判断力を低下させることだ。
低下した判断力でチャンネルを選択させ、リンクをクリックさせるという、残念な現実が少なからず存在する。
こうした商業原理の中に、情報としての新型コロナウイルスが網目のように織り込まれていることを忘れてはならない。

情報の真贋を見極める目を養うためには、なにが必要だろうか。
それは、恐怖に惑わされることなく、自分の意思で文字に触れることである。
その一番の近道は、本を読むこと。

新型コロナウイルス騒動を機に、書籍の販売冊数がにわかに上がっている。
登校できない子供たちはドリルや学習参考書を開いて家で勉強している。
在宅勤務の機会にじっくりと本に触れようという大人たちも増えている。

志村けんさんなど命を落とされた方たちには心苦しいが、新型コロナウイルスは、新しい情報への接し方を私たちが学ぶ一つの機会を与えてくれた。
降りかかった単なる災難ではなく、人類進化の機会である。

免疫や抗体を持った人種が生き残り、持たない人種が滅亡するという、身体的な問題ではない。
新型コロナウイルスは、情報判断に対する免疫や抗体を自由な思考として脳内に持っているかが問われるウイルスと解釈できる。

世界が変わる大きなきっかけが訪れた
いまこそ、本を読み、情報リテラシーを養う機会である。
そしてウイルスの収束と共に、集まり、議論し、情報リテラシー集合知として高める。
いまはその準備の時期である。
本の読まれ方そのものや、読まれるジャンルにも、いままでにない多様性がもたらされるだろう。そして出版業界の再編にもかかわる話へと、音もなくじわじわと発展するだろう。

ふと、坂口安吾のエッセイ『堕落論』を思い出した。
第二次世界大戦直後に発表された作品で、敗戦で日本人が堕ちるところまで堕ち、失うものがなにもないゼロベースから日本人が自分の意志でどう立ち上がるかを示唆した、日本の再編と復興を予言した作品であるとも言われる。いま読んで、決して古さを感じさせない。

グローバル化したいま、新型コロナウイルスは、日本だけではなく、世界共通の問題である。
この問題をきっかけに世界がゼロベースの同じ土俵に立った。
宗教や人種の分断、政治経済の分断、情報の分断など、すべてが露呈した。
露呈した事実を世界が改め協調しないことには、人類は生き延びられない。
そんな状況を世界で共有するにいたった。
戦争などしている場合でないのは言うまでもない。
世界レベルの再編と復興が、いま起こっている。
ここ1、2年で、世界は不可逆的に大きく進化する。

改めて、私たちの環境対応・生存能力で、この危機は必ず克服できると信じる。

朝の来ない夜はない。

心身ともに、自由な意思を保ち、健康に生き抜いていこう。

三津田治夫