本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

大人の夏休み一泊体験。つくばで味わった無邪気な夏の写真日記

8月某日、今後の地方分散社会を視野に入れ、東京近郊地方での生活とはどういうものかを知るため、一泊でつくばの田舎暮らし体験を試みた。

体験取材ということで一日目はいろいろと考えながら行動していたが、二日目は「楽しい」という純粋な体験・印象ばかりが残った。
先導してくださったのは株式会社C60代表の谷藤賢一氏。

秋葉原からつくばエクスプレスで40分から広がる田舎の世界は、なんともいえない異郷の風景である。
居住している谷藤氏は慣れてしまったというが、慣れすぎないよう、異郷感覚を楽しむことを意識しているとおっしゃっていた。

朝から駅に集合し、みらい平駅前の不動産屋で物件を見たり、大型ショッピングセンターを見学したりなど、田舎と都会が混在した不思議な感覚にいちいち驚いていた。 

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谷藤氏が「こども社会塾」の教室とする古民家を訪問。
宿泊もできるらしい。 

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古民家の裏側はカフェにするという。現在はそのためにDIY建築中であった。 

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みらい平の駅前には巨大なショッピングセンターがあった。 

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内地に移動すると昭和の香りが漂うゴルフクラブがある。 

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牛久沼の岬には弘法大師が訪れた由来のあるお寺が建立。 

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岬のほとりから、牛久沼の対岸を眺めてみた。 

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岬の食堂で注文した串カツ。実に美味だった。 

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牛久沼には人間を恐れない白鳥がたくさんいた。意外にでかい。 

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谷藤氏のご自宅兼セミナースペースで、スローライフセミナーを拝聴した。 

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セミナースペースには薪ストーブが備え付けられていた。 

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ストーブにくべる薪の、薪割を体験した。その模範演技を実施する谷藤氏。薪がきれいに割れたときの爽快感といったらなかった。 

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ご自宅の庭には巨大な天体望遠鏡が。土星の輪がくっきりと見えるらしい。残念ながら雨天にてこれを見ることはできなかった。 

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近所の雑木林にて。樹液に群がるカブトムシとクワガタ。甲虫マニアには垂涎の光景である。 

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木からはハチの巣がぶら下がっていた。 

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おそらく生まれたばかりのカブトムシ。機敏な動きで、元気に木にしがみついていた。 

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秋の味覚、栗がたくさんなっていた。 

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公営のキャンプ場が充実。残念ながらコロナ対策で入場には制限がかかっていた。 

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野菜の直売場。ここが実に安く、おいしい。
つくばの大きな魅力は、食べ物がうまいことである。

         * * *

新しい生き方と働き方が模索される昨今、都会の特性と田舎の面白さを選びながら生きていける。そんな強みも感じた。
そもそも田舎は土地が安いし、食べ物がおいしい。
東京という魅力が日増しに減退する昨今、さまざまな生活圏を視野に入れるのは、地方分散社会という未来に向けて必要な考え方だ。

田舎の風景は、テレビやインターネットでいくらでも手に入る。
重要なのは、体で感じること。

ブルース・リーの映画ではないが、「考えるな、感じろ」、である。

感じるとは、味わうことではないか。

人生の味わいという、お金や時間で換算できなかったものが、この、つくばの一泊取材を終えることによって、これからの社会の新しい価値として生まれる予感がしてきた。

三津田治夫

東京ステーションギャラリーにてバウハウスの歴史を観覧。付録:オスカー・シュレンマーのエッセイ『人間と芸術像』

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「開校100年 きたれ、バウハウス ―造形教育の基礎―」と題し、東京ステーションギャラリーで展覧会が開催された。9月6日(日)の最終日もそろそろ近づいてきたので、猛暑日、足を運んでみた。

f:id:tech-dialoge:20200823182533j:plain◎出口には実際に座れるマルセル・ブロイアーのパイプ椅子があった

チケットは日時指定のオンライン予約制で、引き取りと支払いはローソンかミニストップで行うという大きな制約があった。
それでも会場では観客の数が多く(休日の上野の美術館や博物館よりも多いか同じぐらいの人口密度)、正直、驚いた。とくに、若いカップルが多かったのが印象的だった。

f:id:tech-dialoge:20200823182641j:plainオスカー・シュレンマーの作品「脚を組んだ抽象的人物」
ホールの半ばでは、オスカー・シュレンマー(1888~1943)の舞踏、「トリアディッシェス・バレエ」の動画に見入ってしまった。ダンスと造形の魔術である。
「黄色」「バラ色」「黒」の3部構成、30分の作品で、YouTubehttps://youtu.be/mHQmnumnNgo)でも閲覧できる。
人間の「身体」に取り組んだというシュレンマーの紹介が記憶に深く残る。

いま、人々はアートに飢えているのか。あるいは、「開校100年 きたれ、バウハウス ―造形教育の基礎―」のマーケティングと宣伝の成功か。おそらく、双方だろう。

あの自由と知性、教養に満ちた創造性は、制約の多いまの時代から見たら、とても新鮮である。そして、学ぶことが多い。もしかしたら当時のアーティストも「こんなに制約の多い時代はない」と思っており、その反発としての創造性だったに違いない。

1918~1920年スペイン風邪が流行し、そのさなか1919年にバウハウスが開校したのも意味が深い。さらに1923年のミュンヘン一揆ナチスが活動を本格化し、1933年に政権を獲得。それと同時にバウハウスは解散させられている。ウイルス・芸術・ファシズムという世界史の三題噺を忘れてはならない。

最後に、関連記事と、昔私が訳したオスカー・シュレンマーのエッセイが出てきたので、掲載する。

◎関連記事
バウハウス ~引き継がれるべき、一つの歴史が終わったこと~
バウハウスを訪ねる旅(前編) ~ヴァイマール/ベルリン/デッサウ~
バウハウスを訪ねる旅(後編) ~ライプツィッヒ~

三津田治夫

 
『人間と芸術像』(オスカー・シュレンマー
劇場の歴史とは人間形態変遷の歴史だ。その「人間」とはすなわち、無邪気さと思慮深さ、自然性と芸術性の交換の中で、身体的・精神的な出来事の表現者だ。

形態変遷の手がかりとなるものは「フォルム」と「色彩」、つまり画家や彫刻家の持つ素材である。形態変遷の劇場は「空間」と「建築様式」といった、構築的なるフォルムの構造であり、バウマイスターの成果物だ。--このことを通じ、これら諸要素のインテグレーターと教育を受けた芸術家の役割が劇場という領域において成立する。

     * * *

われわれの時代の記号は「抽象」である。一方でそれは、できあがったある総体からの一部の分離として効果を与え、それにより分離自体に理不尽なものをもたらすか、あるいは分離を最大限にまで高めるかで、他方では一般化と抽象化において効果をもたらし、巨大なスケッチの中に一つの新しい総体を形成する。

われわれの時代の記号は「機械化」ともいえ、阻止不能なプロセスは生命と芸術の全領域をとらえて離さない。あらゆる機械化可能なものは機械化されうる。が、結果は以下の通りだ。つまり、機械化は不可能という認識である。

そしてとりわけ、われわれの時代の諸記号とは、新たな可能性である。それらは技術と発明により与えられ、そして完全に新しい前提条件を何度も生み出し、また大胆不敵な空想の実現をも許して希望を促す。

時代形成であるべき劇場は、とりわけ時代に制約された芸術であり、こうした諸記号の前を通り過ぎてはならない。

     * * *

「舞台」と一般的に把握されているものは総体領域とも呼ばれよう。それは宗教的礼拝と簡素な大衆娯楽の中間に位置し、その双方は舞台たること、すなわち人間へ与える効果を目的として自然を抽象化した「描写」とは異なる。受動的な観衆と能動的な役者からなるこのような対象は、壮大な古代円形劇場から広場に備え付けられた原始的な板組のものまで、舞台のフォルムをも決定付ける。集約への欲求はのぞきからくりを、今日では舞台の「ユニバーサル」なフォルムを作り出した。「劇場」は舞台の根本的本質を描き出す。つまり、役に扮することと仮装、変身である。宗教儀礼と劇場の中間に横たわるものを「ショーの舞台を秩序ある公共施設として見る」と、劇場とカーニバルの中間にはサーカスとバラエティが存在する。すなわち、ショーの舞台とはアーティストによる公共施設なのだ。存在と世界の起源からなる問題は、そもそも言葉とは、行為であるのかフォルムであるのか、あるいは精神とは変化なのか形態なのか、また感覚は事件なのか現象なのか、これらは舞台という世界においても生命を持っており、そしてこれらの相違を文芸的あるいは音楽的事件という「脚本または音響舞台」へと身を委ねる、光学的事件としての「ショーの舞台」である。これらの類としての代表者に登場願おう。つまり、言葉や音響の密度を高める役割としての「詩人」(作家もしくは作曲家)、自分の姿を使って役をこなす者としての「役者」、そしてフォルムと色彩において舞台像を作り出す者としての舞台「芸術家」だ。

これらの類のすべては自分自身を構成し、自分自身の内面を完成させる能力がある。2つないし3つすべての類による相乗効果は(それらにあって1つはリーダーたる必要があるが)、数学的精緻さにまで成功が見込まれる重量分配が問題となる。これらを実行する者とはつまり、ユニバーサルな「演出家」である。

(原典:Idealist der Form, Briefe・Tagebuecher・Schriften, RECLAM LEIPZIG、訳:三津田治夫)

バウハウス ~引き継がれるべき、一つの歴史が終わったこと~

32年間、毎年必ずクリスマスカードの交換をしていたドイツの友人のコリンナから、昨年はカードが届かなかった。
非常に筆まめな方で、なにかあったのだろうか、暑中お見舞いでも出して様子を伺おうかと考えていたら、あまりパソコンを使わない彼女から珍しくメールが届いていた。
開くと、6月に彼女のお母様(ガブリエーレさん)が亡くなられていたとの通知だった。89歳だった。昨年末から重度の痴呆症で特養老人ホームに入っていたとのことだ。

私はこのお母様と2度お会いしている。
1度目は23年前に東京で。
池袋で職業訓練校の教師をしていたというガブリエーレさんのお兄様と、コリンナとの3人で来日された。
2度目は2011年にライプツィッヒのご自宅で。
このときの訪問記は、以下ブログに記している。

バウハウスを訪ねる旅(後編) ~ライプツィッヒ~
http://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2019/01/30/205655

f:id:tech-dialoge:20200815161826j:plain◎雑誌に掲載されたガブリエーレさんの旧宅正面(※)

f:id:tech-dialoge:20200815161901j:plain◎ガブリエーレさんの旧宅、南側バルコニー(※)

1931年のお生まれだから、ワイマール共和国末期。
物心ついたときにはドイツはナチス政権下にあった。
かつてご自宅で診療所を営んでおり、お母様も友人もお医者さんという、代々医師の家系である(友人は脳神経外科医)。
ライプツィッヒ近郊の町ツヴェンカウにある自宅兼診療所は、バウハウスの建築家であるアドルフ・ラーディングが設計した建物で、老朽化していたがオリジナルをとどめた素晴らしい建築だった。友人の祖父が、アドルフ・ラーディングと友人関係にあったという。

f:id:tech-dialoge:20200815161956j:plain◎壁面にしつらえられたオスカー・シュレンマーの巨大な作品(※)

f:id:tech-dialoge:20200815162033j:plain◎階段にはオスカー・シュレンマーの壁画(※)

室内にはオスカー・シュレンマーの巨大な彫刻がしつらえられ、時価総額にしたら何億になるのだろうというぐらいの、芸術作品そのものの中に住まわれていたのが、このお母様と友人だ。

東西ドイツ統一後は、あまりにも建物の保守にお金がかかるので、旧西ドイツのバイヤーに売却し、友人母子はライプツィッヒ中心街のマンションへと移転した。
2011年にお伺いしたときにはお母様は非常に元気で、毎晩夕食を友人と三人で食べ、うちの息子と娘におやつや小物をお土産として持たせてくれた。私が送った子供らの写真を大事に持ち、なにかと子供らを気にかけてくれていた。
ライプツィッヒのご自宅にはオスカー・シュレンマーの版画・絵画がたくさんコレクションされていた。コレクションを私に見せながら、一つ一つ細かにエピソードを語る彼女の笑顔が、いまでも忘れられない。本当に芸術を愛する方だった。

f:id:tech-dialoge:20200815162112j:plain◎ガブリエーレさんの旧宅室内(※)

ガブリエーレさんが見てきたものは世界史そのものだった。
ワイマール共和国の崩壊、ナチス政権、敗戦、東西ドイツの分割、ベルリンの壁の構築と崩壊、東西ドイツ統合後の経済問題、人種問題、など、激動の89年間であった。
バウハウスの支持者として、インテリとして、彼女はナチス共産主義政権から決してよい処遇を受けなかったことは容易に想像できる。が、彼女から直接そういった話を聞いたことは一度もない。
少なくとも、彼女の娘である私の友人が、旧東ドイツ時代から私と32年間も手紙の交換を通して革命や自由を語り合っていたのは、この母親の血を引くからこそであろう。

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ちなみに、この友人の私と共通の知人もずいぶん前に亡くなっているから、これで二人目である。年齢には勝てないとはいえ、あまりにも残念である。
メールには死亡通知ともに、カフカの以下の言葉が添えられていた。

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ゆっくりと落ちていく陽を眺めている。
するとびっくり。急に暗闇になった。
フランツ・カフカ
====

夕日のように人生を閉じられたガブリエーレさん、89年間、本当にお疲れさまでした。
どうかあちらの世界では、ごゆっくり、なさってください。
心から、ご冥福をお祈りします。

※出典:『HAEUSER』1990年1月号

三津田治夫

私の監修書籍『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』(プレジデント社)の見本が到着

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私の監修書籍『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』(プレジデント社)の見本が到着いたしました。
私がプログラマーとして編集者としてITに携わった29年間の総決算的書籍です。
2年越しの制作に粘り強く対応いただいた渡邉さん、岩崎さん、武田さん、成宮さん、お疲れさまでした。手作りの本づくりの底力が、読者や書店、同業者に伝わり、共感が得られることを願っています。プレジデント社の営業・業務の方々には丁寧にご対応いただき、心から感謝します。
正方形B5変形版で、手に取りやすくコンパクト、美しくまとまっています。
ITリテラシーを学ぶ第一歩の教科書として読んでいただけると嬉しいです。コ
ロナの影響でリモートワークの必要性が出てきたが「いまひとつ不安」な方は、本書が不安を解消してくれるでしょう。お子様や生徒さんから「ITってなに?」と聞かれたお父様お母様先生方は、本書を読まれることで返答に困ることはなくなるはずです。
ITの超入門書として、いままでにありそうでなかった本を作りました。
8月5日から順次配本されます。
書店でぜひお手に取ってご賞味いただき、お買い上げいただけましたら嬉しいです!

三津田治夫

セミナー・レポート:危機から見えた、新しい日本を考える ~高嶋哲夫氏によるオンライン・セミナーを開催~

f:id:tech-dialoge:20200727113016j:plain◎オンライン・セミナーの模様

7月21日(火)、作家の高嶋哲夫氏をお招きし、「アフター・コロナを考える「新しい日本の形、新しい日本の創造」」と題し、本とITを研究する会主催のオンライン・セミナーを64人で開催した。
高嶋哲夫氏は、『首都感染』(講談社刊)が「コロナを予言した書物」とされ、2010年の作品が今年の2~6月の4か月間で累計14万4000部を重版するという、出版史に異例の記録を残した小説家であることは言うまでもない。

オンライン・セミナーは「新型コロナウイルスがもたらしたもの」と「次なる試練」、そして「新しい日本の形」という3部構成で進められた。

f:id:tech-dialoge:20200727113101j:plain◎オンラインで登壇いただいた高嶋哲夫

コロナが現実性を加速させた日本の未来の姿
新型コロナウイルスがもたらしたもの」とは、一言でいえば隠されていた課題の露呈である。
政府の危機管理の甘さやIT化の遅れ、地方行政の弱さなどが指摘された。
もう一つは、あいまいな数字やキーワードが世の中に飛び交い、国民がそれに踊らされ混乱が生み出されたこと。
テレビやネットの錯綜した報道に、心身とも困憊する人たちは多い。

「次なる試練」は、東京を中心とした死者2万3000人の「首都直下型地震」と、東海から南海、四国にわたる死者32万人の「南海トラフ地震」の可能性である。
いずれも、30年以内の発生確率が70%と言われる、確度の高い大震災である。

f:id:tech-dialoge:20200727113142j:plain◎災害の模様が写真と動画で紹介された

新型コロナウイルスによる災害と併せて訪れる「次なる試練」に我々はどう備え、国家はどのような姿であるべきか。
それが、今回のオンラインセミナーのテーマである。
そして「新しい日本の形」としての提言が、ダメージを受けた地方を他の地方が支える、「道州制」という国家の新しいスタイル作りである。アメリカやドイツ、スイスなどで取り入れられている連邦制国家として、自然災害にも感染症など複数の同時災害にも耐えうる国家に日本が進化するための提言である。

利権を乗り越え、見えない敵から日本を守る
道州制を導入する利点の根拠の一つとして、次のことが述べられた。
日本の経済主体の大半が属する太平洋側が首都直下型地震南海トラフ地震により壊滅的になることで、日本の経済は停止する。道州制を導入することで地方が経済的な力を持てば、日本海側の力で太平洋側を支えることが可能である。

道州制に関する議論は、過去に何度も行われてはたち消えてきた。
第一に地方での受け入れが非常に困難で、その大きな理由は、利権である。
道州制では、都道府県で管轄されていたものが、北海道、東北州、関東州、中部州、近畿州、中国州、四国州、九州沖縄という割り方で再編成される。たとえば、沖縄県に入金されていた政府からの軍用地使用料の振込先は沖縄県ではなく九州沖縄に移行する。そこで「これは誰のお金?」となる。これが、最も単純化した利権の構造だ。

利権を書き換えるために、歴史的に行われてきたことがある。
それは、革命である。
内戦や粛清により利権の対立集団を「力」で排除する方法だ。
しかし、新型コロナウイルスという目に見えない敵に万人が直面したいま、こうした革命はまず考えづらい。
戦う敵は、私たちの外部に、情報として存在する。
同時に、私たちの内部に、体内に存在する。

新しい社会には新しいイメージを
新しい酒には新しい革袋を、ということわざがある。
新型コロナウイルスという新しい災害に遭遇したいま、私たちは新しい社会を迎え入れる必要がある。
新しい社会を阻むものには「人々の持つイメージもある」という発言は非常に印象深かった。
「東京都という首都に対する魅力的なイメージ」が、新しい社会の形づくりを阻むと、高嶋氏はいう。

いったい、このイメージとはどういうものだろうかと、私は考えた。
共同体は形成されたイメージで成り立っているという、政治学ベネディクト・アンダーソンの言葉を思い出した。
東京都でたとえれば、明治維新以降形成されたイメージにより、その魅力が固定されているといえる。

では、どうしたらこのイメージを新しく書き換えることができるのだろうか。
この場で語られた一つは、地域単位ではなく大学などの機関単位でのつながりによる、人やお金、モノの交流である。
機関単位で人のつながりをつかさどるとは、コミュニティの発想ともいえる。
さらに言えば、その機関は建物などの物体である必要はない。
ネット上のバーチャルな機関でもよい。
内閣府が提唱する、仮想(デジタル)空間と現実空間を高度に融合させたシステム「Society 5.0」が、これに近い。
エストニアではすでに税務処理の自動化なども含め、電子政府が作られつつある。
新しい日本の形としての道州制国家にいたる中間ステップとして、このSociety 5.0が機能するのかもしれない。
しかし、幕藩制時代から日本人の心に深く根差すイメージは、そう簡単には変わらないという意見もある。

政治哲学者のユルゲン・ハーバーマスの言葉を思い出す。次のように語っている。

「イメージはそのつど空間と時間において個別化されている個々の主観に属するのに対して、思想はそもそもコミュニケーションされうるためには、意味内容を変えることなく個人の意識の境界を越えるものでなければならない。」

イメージは各個人の主観でしかなく、考え(思想)が他者と共有(コミュニケーション)されるためには、その主観を超えるものでなくてはならない。つまり、漠然としたイメージが共有されるには、具体的な考えへと昇華され、言語化される必要があるのだ。
国家や人種、宗教、言語を超えた新しい社会の形を模索するハーバーマスの象徴的な言葉である。

イメージの共有を促す対話の力
道州制電子政府の導入という発想は重要だが、それを具現化するためにも、イメージの言語化と共有はさらに重要である。
生活とはなんなのか、災害とはなんなのか、首都とはなんなのか、地方とはなんなのか、日本とはなんなのか、世界とはなんなのか……。
私たち個々の内面が持つイメージを言語化し、共有することが、いまこそ重要である。
その出発点が、対話と議論である。
人と人との接触が阻まれるいまであっても、意識して、対話と議論を深めていく場は持ち続けていきたい。
今回のオンライン・セミナーを通し、改めて感じた。

質疑応答と交流を含め2時間ほど、高嶋哲夫氏は私たち一人一人の将来にかかわる、大きな課題を投げかけてくれた。
同時に、これからの時代を読み解くための知恵も共有することができた。
いま、全人類は試され、災害大国である日本は試練に直面している。
小説家という、身体から言葉を紡ぎ出す仕事をする方からの言葉を参加者全員で共有できたのは、貴重な体験だった。この日は各人にとって、一つの歴史となるだろう。

      * * *

日本人は「会社教・日本教の信者だ」「保守的だ」といわれ続けてきた。
しかし、退職金制度や終身雇用、年功序列はなくなり、GDP右肩上がり神話や、日本が世界に名をとどろかす時代ではなくなり、会社教・日本教の信者数は激減した。
そして保守的である日本人でも、1990年代後半に「まず日本では普及しない」と言われたネット決済を一気に受け入れた。その他スマートフォンSNSなどのネット社会も、日本人は一気に受け入れた。
日本人は狂信的ではないし、極度に保守的でもない。ある意味、生き延びるためにはこだわり持たない「したたかな人種」である。いまこそ、そのしたたかさを発揮する時期ではないか。

高嶋哲夫氏による今回のオンライン・セミナーが、新しい社会づくりに向けた、一人一人のイメージを書き換え、共有する言葉を持つきっかけになることを願っている。

三津田治夫

本を読むにもノウハウがある ~あなたの読書を「最適化」しよう~

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人は本を読む必要があるのだろうか?
教養や趣味、娯楽など、読書にはいろいろなゴールがある。
今回は、編集者として、また、一人の本好きとして、「情報収集のため」と「知識のため」をゴールに、「本の読み方」のお話をお届けしたい。

そもそも「情報収集」と「知識」のために読書が必要かというと、やはり「必要」と断言する。
読書には、Webではまず得られない「経験」がそこにあるからだ。
これらを頭に入れるだけでも、読書のノウハウの一つを手にしたことになるはずである。

1)本は編集されている
本は基本、編集制作者の手で編集されている。
査読や校正が何度も行われ、ページの並びなどが考慮されており、正確性と読みやすさが担保されている。

2)コンテクストで内容の記憶定着力を高められる
ページの並びがコンテクスト(文脈)を形成している。
これにより、手にした情報と知識が自分の中で「物語」となり、より深く記憶に定着する。

3)アクセス性の高さ
自分の読みたい場所に飛んだり、戻ったりが容易にできる。
また、ページ順に従わずに読むことで、「自分の文脈」で読み進めることもできる。

4)一覧性の高さ
上記と関連するが、数冊の本を並べるなどで、複数の情報を素早く一覧することができる。

上記4点を見ただけでも、少なからず、読書ならではの価値の高い体験が得られることがわかっていただけるはずだ。
「読書」とは、本という、古くからの完成されたメディアから、情報と知識を引き出してくる行為であるとも換言できる。

日常的に、読書についてさまざまな質問や相談を受けることが多い。
そこには、本を読みたいという欲求があるからに他ならない。
ときにはその内容が私自身への問いかけにもなることもあり、有意義な時間をいただくとこも多い。
そこで、具体的な読書のノウハウをFAQ形式でお伝えしたい。
読書が苦手という方には、ぜひ参考にしていただきたい。

一冊の本は何度も読んだ方がよいのか?
答えは、「イエス」である。
1度の精読でもよいが、2度、3度読むことで、情報や知識として最も自分の身になる。

毎回、最初から最後まで読む必要はない。
自分の心に引っかかった文章や文字にラインを引き、そこを何度も読むだけでもよい。
さらに言えば、これらをタイプインし、アウトプットし、毎日持ち歩いて反復読みしてもよい。
そうすることで、本の中の、自分の心に響いた情報や知識のエッセンスを、より自分のものにすることができる。

本に自分の言葉を書き込むのも効果的だ。
気づいたこと、要点、反論、ときには誤字訂正など、「本との対話」として、自分の言葉を書き込む。
すると、その本に対する理解は一気に高まる。

しかし、本を汚したくない、という人もいるだろう。
一方、蛍光マーカーで汚しながら読むという人もいる。
読み方はさまざまだが、マーケットプレイスで売ることはあまり考えずに、躊躇なく、本は買って汚すことをお勧めする。
汚した分だけ、本の情報や知識は、自分のものになる。

ページ全体を折ったり、ページの角に折り目を入れながら読む人も多いだろう。
折り目を付けるだけで、他のページへのアクセス性も高まるから不思議なものだ。
私の場合は、「付箋」を使用している。
付箋なら、新しい発見などがあった際、すぐに貼り替えができるうえに、色分けすることで、気になるページを区分できる。
最近は、ライン引きせずに済むような、ページ内部に貼る付箋もある。
いろいろな付箋を活用することで、読書体験をより高めることができる。

本はどこで読むのがよいのか?
まずは、読書する時間の確保できる場所こそが、本を読む場所だ。
「本を読む時間も、時間を確保できる場所もなかなかない」という人も多いだろう。
となると、よく使われる場所は、通勤電車内だろう。
私は長年長距離通勤(片道80分)だったので、その間、いろいろな本を読むことができた。
ただ、乗車時間が短かったり、往復がラッシュアワーでそれどころでない、という、状況に恵まれない人も多い。
そのような方には、「貪欲に読む場所と時間を探す」ことをお勧めする。

ランチタイムは食事をしながら会議室や公園で読書する、待ち時間や移動の空き時間には喫茶店や駅のベンチで読書する、など、断片的な時間ではあるがさまざまな捻出方法が考えられえる。
「細切れでの読書は文脈が分断されるので、なかなか頭に入ってこないのではないか」という不安の声もあるだろう。
しかし、10分あれば、断片的な読書は案外成立するのだ。
そうした読書の細切れを連結させる意味でも、付箋貼りやライン引きは、とても有効である。
再読する際に付箋やラインをたどることで、文脈が一気に再構築される。

また、新書や文庫といった、携行性の高い本はお勧めする。
読む場所を選ばないのが最大のメリットだ。
価格も比較的安いので手軽に手に入り、家での置き場にも困らない。

複数の本を並行して読んでもよいか?
結論から言うと「よい」である。
しかし、これには慣れが必要だ。
いわゆる「読書家」がこの方法で本を読む。
複数並行読みは情報収集に威力を発揮する読み方だが、不慣れだと、なんだかわけがわからなくなってくる。
なので最初は、「関連性が高い本」を複数冊選択して読むことをお勧めする。
自己啓発、経営、IT、化学、ビジネス読み物など、それぞれの本に自分で納得する関連性さえできれば、複数の本を並行して読むことは徐々に苦でなくなってくる。
慣れてくると、哲学や思想、芸術など、「古典」と複数並行して読むこともできる。
これができるようになると、本から得られる世界観や時間空間の感覚が劇的に広くなる。
と同時に、「情報収集と知識」の幅も一気に広くなる。
手にした情報収集と知識の扱い方次第で、間違いなく人生が豊かになるのである。

乱読はよいか?
複数の本を並行して読むことと似ているが、一冊ずつ乱読を繰り返す人もいる。
これも読書家がとる読書方法である。
関連性のまったくなさそうな本を手あたり次第に読む。
言い換えると、読みたいと思った本を、欲求に従って読む「冒険的読書」である。

しかし情報収集と知識の向上に関しては、あまり効率的とは言えない。
本と本の関連性が少ないので、文脈として読んだ内容を自分のものにすることが困難だからだ。
だが、読書の一スタイルとしてありなので、ときには目的を捨て、欲求に身を任せて本を読むのもよいだろう。
これにより、自分なりの新しい読書スタイルとの出会いもあるはずだ。

偏読はよいか?
偏った読書は、本を読むという行為の入り口として否定はしない。
しかし、長く続けることはお勧めしない。
とはいえ私も、学生時代は偏読家だった。
何年か、ロシア文学しか読まなかった時期があった。
しかし卒業を迎える時期ぐらいからか、とたんに偏読がおさまった。
新しい世界との出会い、書物の「横展開」ができるようになったからだ。
そこから、本を読む喜びもさらに深まった。
そんな個人的読書体験があったこともあり、「未来の横展開を視野に入れた偏読はよい」、と考える。

        * * *

上記の通り、本を読む「読書」という行為には「これ」というスタイルがない。
細分化すれば、まだまだ読む方法があるはずだ。
さまざまなスタイルを知りながら読むことで、自分なりのスタイルができあがってくる。
いわば、柔道や空手の「型」を身につけると、あるときから自分なりの「型破り」が出てくる。
そうなったら読書は一層面白い。
本は楽しむものである。いろいろな本に触れ、本を読むという行為自体を楽しみ、自分なりのスタイルを見つけていただけたら、この上なくうれしい。

三津田治夫

7月7日(火)、ピアニストの高橋望氏による第1回ブック・トーク大会、開催しました

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7月7日(火)「withコロナ時代に捧ぐ読書の快楽 第1回 ブック・トーク大会」、無事終了しました。
60分足らずで以下11冊を高橋望さんに猛スピードで紹介いただきました。

モーツァルトの手紙』(高橋英郎訳、小学館
方丈記』(鴨長明著、高橋源一郎現代語訳、河出書房)
『オペラと歌舞伎』(永田由幸著、水曜社)
『宇宙を聴く』(茂木一衛著、春秋社)
『忘却の整理学』(外山滋比古著、筑摩書房
『歌舞伎ナビ』(渡辺保著、マガジンハウス)
ロッシーニと料理』(水谷彰良著、透土社)
リヒテル』(ブルーノ・モンサンジュン著、筑摩書房
『雑の思想』(辻信一、高橋源一郎共著、大月書店)
長谷川利行の絵~芸術家と時代』(大塚信一著、作品社)
『珈琲屋』(大坊勝次、森光宗男共著、新潮社)

その後の質疑応答や意見交換では音楽や哲学、形而上学、数学の話など、多岐にわたり、90分ではまず終わらない勢いでした。非常に興味深く、楽しい時間でした。
高橋望さんのピアノルームからの中継で、ときどきベーゼンドルファーを弾きながら本を語っていただく高橋望さんのブック・トークのスタイルは斬新でした。
しかしながら、本の話をしていると、エンドレス。
実に面白い。
一冊の本を通して、その人の人生や世界観、価値観が浮き彫りになります。
見方を換えると、本を語るって、結構怖い(勇気がいる)し、ときには恥ずかしい。
この、恐怖や恥じらいを乗り越えたところに、本当の人間同士の、本心からの「共有」「共感」があると、今回改めて感じました。
8月1日にも開催しますので、ぜひ、高橋望さんのトークと、博覧強記の世界に浸っていただき、「共有」「共感」の場を過ごしたいと思います。
興味のある方、ぜひご参集ください!

三津田治夫