本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

第13回飯田橋読書会の記録:『白痴』『堕落論』(坂口安吾 著) ~文学作品を読み、「共感力」を高める。~

f:id:tech-dialoge:20200516000526j:plain

「小説を多く読むことが他人の心理状態の理解につながる」という研究成果があるらしい。文学作品を通じ、他者の考えについて想像することができるようになるという。

「共感の時代」といわれるいまこそ、文学作品の価値は高いといえる。いまの時代を豊かに生きていくためにも、文学作品を沢山読もう。

というわけで今回は、昭和の作家、坂口安吾の文芸作品『白痴』『堕落論』を取り上げる。これらは第2次世界大戦中の日本を舞台にした安吾の代表作。以下内容は、某月某日、都内某所で開かれた読書会の記録からお届けする。

安吾は女性を神格化したロマンチストだ」という、読書会メンバーの一人、某名門文学部出身の才媛M女史の発言が、この場の空気を一転させた。これは、安吾のほぼすべてを物語っている。

『白痴』は、戦時下の貧民窟で、知的障害を持つ女性が「肉体(身体)のみの女」として描かれている半幻想文学作品。女性の描き方からも表面的には女性蔑視と取られがちだが、安吾はそこに、肉体への神秘的な愛やあこがれを描きたかった。

私は副読本として『二七歳』を読んでいた。
これは、安吾の婚約者である作家、矢田津世子との出会いと死別までが描かれた自伝的短編。
安吾は旅館で知り合った仲居の女子やカフェの女給とすぐにできてしまいお泊まり旅行を気軽に繰り返すが、なぜか、矢田津世子には指一本触れない。
安吾は「別れ際に一度だけ接吻した」と告白しているが、それ以外、矢田津世子には指一本触れない。そんな幕引きで、安吾矢田津世子は別れた。

戦後、遺族から彼女が死んだことが告げられる葉書が舞い込み、『二七歳』は終わる。
安吾は、矢田津世子を最高の女と見ている(どんな容姿かは、検索してみてください)。
矢田津世子を神聖視しているからこそ、「彼女には指一本触れなかった」としている。
安吾のなにかのエッセイに、「矢田津世子の肉体に煩悶した」という記述があったことを記憶する。きっと彼は、まるで少年のように、妄想との戦いに苦しんだことが想像ができる。

安吾は女性を神格化したロマンチストだ」という、読書会冒頭での才媛M女史の発言が、ここでつながった。

『白痴』の中で、男の部屋に転がり込んできた女が、夜になり、男の布団の中に潜り込んできたが、指一本触れられなかったことに女が憮然としてしまうシーンがある。これには間違いなく、矢田津世子との安吾の体験が反映されている。

戦時下の日本を題材にしたエッセイ『堕落論』は、日本人は堕ちることで本質を見出せるはずであり、国家や制度、組織、軍隊というシステムではなく、この敗戦を機に日本人は「人間そのもの」に立ち返るべき、という論旨。

読書会では、当時は戦争という身体の危機にさらされていたが、「現代の危機はなにか?」という議論になった。

いまの日本人に最もリアリティの高い危機に「天変地異」がある。あとは、「起こりうるハイパーインフレ」という意見もあがった。これも安吾の論旨に立ってみたら、ハイパーインフレはシステムの問題であり、人間そのものの問題ではない。

ハイパーインフレが起こってすぐに人間が死ぬということはないが、精神的には深刻な危機が訪れる。金融の危機は、「もういままでの生活ができない」という、人間に対する未来への恐怖感を打ち出す。

とはいえ、見方を変えれば、いままでには存在しない「新しい生活」を選択するチャンスでもある。こう考えると、ハイパーインフレは大変な危機だという意識は、「敗戦したら大変なことになる、天皇制が崩壊したら大変なことになる」という、安吾の時代の日本人が抱いていた「危機」と、まったく同質ではないか。『堕落論』を読みながら、そんな話をしていた。

読書会のよくないところは、うんちく(知識のひけらかしあい)に終始してしまう点にある。
こういった弱点を回避しようと、今回は、各参加者の「本心」を言葉にしてもらうことにした。

ある意味本心をさらけ出すことは、気心が知れているとはいえ、大人の世界では危険が伴う。
内面からわき出た本心をあえてブロックし、世間が期待する自分、自分が期待する自分に「執着」して生きている大人は大多数だ。皮肉にもそれが「大人」の定義であったりもする。

しかしこの読書会は今回で13回を迎えたのだから、そろそろ自分という人間性の「内面」を共有してもよい時期なのでは、とも思った。

で、安吾の作品を読んで直感した、人生に対する本心の言葉として出てきたものは、「なるようになる」「これでいいのだ」だった。知的な男女たちが集まる場にしてはあまりにも素っ気ないというか、あまりにも素朴な発言に驚いた。

しかし多くの作品に触れて、「なるようになる」「これでいいのだ」という発言がこの読書会で出るというのは、非常に奥が深い。

人が自分の人生に対して「なるようになる」「これでいいのだ」と思えることは、最高の幸福だ。つまり、現在と未来に起こることすべてを受け入れている状況が、「なるようになる」「これでいいのだ」である。

どんな幸福も、どんな不幸も、事象として、ありのままを受け入れる態度。「なるようになる」「これでいいのだ」は、人間が執着から解放された、最も自由な状態ともいえる。

そんな意味で今回の読書会は、参加者全員の個人としての内面がはじめて表明された、貴重な会であった。

今回は読書会の様相を通し、昭和の文芸作品を取り上げた。

こうしたさまざまなエントリーを通して、本ブログが、書物とITの橋渡しとなり、「共感の時代」を生きるエンジニアやリーダーたちの糧になれば幸いである。

三津田治夫