本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

いまを予見する貴重な講演の記録。ノーム・チョムスキー教授が示す、人間のこれからあるべき姿 ~来日講演『資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか』に行きました~

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2014年、上智大学四谷キャンパスで、『資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか』(Capitalist Democracy and the Prospects for Survival)と題するノーム・チョムスキー教授の講演を聞いてきた。現代資本主義の崩壊やポピュリズム政党の出現、そして、AIが社会を取り巻く未来を予感させる、貴重な内容だった。2014年3月6日(木)の講演をここに記録し、共有する。人間のこれからあるべき姿のヒントになるはずだ。

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チョムスキー教授といえばプログラミング技術の核ともいえる「生成文法」の理論を確立した言語学者で、同時に世界平和を強く訴える政治活動家でもある。9.11のときの発言や行動を通し、もっとラジカルで激しい語り口のアナーキストと思いきや、実際には穏和で冷静に事実を語る好々爺という印象が意外だった。

1日目のテーマは言語学で、今回参加した2日目のテーマは民主主義の未来。ジョン・ロックアダム・スミスといった啓蒙思想家の話を皮切りに、新自由主義ネオリベラリズム)を冷静かつ痛烈に批判する。

チョムスキー教授いわく、『国富論』で「神の見えざる手」を説いたアダム・スミスは資本主義の礼賛者でもなんでもなく、彼ほど資本主義が没落していく姿を予見していた人物はいなかったという。その没落とは、富裕層と貧しい人の間に横たわる貧富格差の拡大で、スミスの予見していた没落は現代資本主義経済の枠組みにおいてすでにはじまっている。

世界経済に混乱をもたらした金融危機がまさにそれで、その犯人を「人類の未来よりも明日のボーナスを大事にする経営者と政治家、そして彼らの間で動くロビイスト」と指摘する。そして、高い失業率と烈しい貧富格差が常態化するアメリカ社会の現状を、「現代の奴隷制」と表現。ウォール街の金融業界を筆頭に圧倒的な富が蓄積され、一方で弱者は搾取され続けるというシステムができあがっている。そうした金融企業が倒れかかっても政府の支援で救済され、利益を手にして彼らは再び富を蓄積する。その支援に使われる原資は、他でもない、貧者から吸い上げた税金である。そして人々から自由を奪い上げる。そうした不健全な循環はアメリカを中心に世界を支配している。

講演のタイトルである『資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか』(資本主義的民主制と生き残りの見通し)に答える形で、チョムスキー教授は「このままでは未来の展望なし」と断言。それを避けるためには、自由に情報へアクセスできるいまこそ、個人は現状を認知し、連帯し、立ち上がること。いまこそ啓蒙の時代である。「産業革命の時代に現れた啓蒙思想に学び、行動しなさい。われわれはどんな生き物なのかと、いま、問われているのだ」、と締めくくった。

拍手喝采のスタンディングオベーションに続き、質疑応答が開始。普天間移転問題や福島の原発事故など、日本人が抱える問題への見解を巡る、さまざまな質問が飛び交った。
普天間移転問題に関しては「日本人自身の問題だから、自らの責任で解決すること」と、日本人の主体性を指摘。福島の原発事故に関しては、「東電が隠している情報の真実を知ろうとすること。また、代替発電の手段も確立すべき。ドイツにはそれができつつある。日本のテクノロジーが結集すればそれができないわけがない」と回答。
どれもこれもチョムスキー教授ならではの判断と示唆に富むものばかりだった。

私は何度も挙手を試みたが採用されず、学生さんが十分に質問してくれればそれでいいだろうと思っていた。しかし、最後の質問で幸運にもその機会が与えられた。そこで根本的なことを2点、教授に聞いてみた。
1つ目は、自由の問題。「チョムスキー教授にとって、自由の本質とはなんでしょう。自由という言葉は、日本人の間で共有できていないと感じているので。」という質問。
そして2つ目は、「そうした個人の自由を手にするためには、どういった行動と考えが必要でしょうか。」

前者に関してチョムスキー教授は、「自由とは本来誰もが生まれながらに持っているもので、それはルソーの時代から何百年も考え続けられた大問題である。自由とはつまり、他人からいわれたことでない、極めて自発的なもの。自分の意志で考え、行動する、それが自由」、と答えた。
そして後者に関しては、「他人との間に共感を生み、連帯すること。」

自由という、日常でも使われる言葉に対して明確な定義を耳にし、私は2つの両極な印象を得た。

一つは、自由とは、「大きな断絶の彼方にある。」
これを感じたのは、言葉の問題だ。「自由」という言葉を私たちは日常で使うが、その意味は欧米人との間でかなり異なる。日本人の考える自由とは、「自由気まま」や「勝手」といったものに近い。一方で欧米人の考える自由とは、個人の自由を保障する社会があり、そのために戦争や闘争を繰り返して力で得てきたもの、守ってきたもの。つまり、「自由」という言葉に対する体感がまったく異なる。

数年前、東西ドイツの統一を経験しその運動に参加していたドイツの友人に、市民参加型(民主主義なので市民が参加して当たり前といえば当たり前なのだが)のドイツの民主主義を問うたら、「日本に民主主義が入ってきてたかだか数十年。そうすぐに民主主義国家にはならないよ。ドイツの民主主義は運動や内戦を通しじわじわと時間をかけて市民に浸透してきたものだから。」といわれたのを思い出した。つまり、「自由」に対する体感が、日本人とドイツ人とではまったく異なる。彼らにおいては自由とは、身体の活動を通して手に入れ、守るものである。そうした体感が市民レベルでDNAに埋め込まれている。チョムスキー教授の発言から同様の印象を私は受け取った。

そして、その一方で得た印象は、自由とは、「すでに目の前にある。」
生まれながら持っており、自発的なものである自由は、日本人も持っている。ならば、「日本人の持つべき自由は、欧米人が持つ自由とは異なる」ということに気づく。自由が自発的なものである限り、「欧米式自由」の模倣で自由の実現は不可能だ。つまり、自由は自分で手にし、自分で守ること。かつて日本人が確立した自由へいたるメソッドの一つに「禅」がある。しかしこれは個人それぞれが持つ精神的な態度であり、西洋人の考える自由のように、個人の外部へと限りなく拡がり共有する自由ではない。あくまでも個人の自由にとどまる。これは、日本人と西欧人の宗教観の違いも起因するだろう。

しかし、自由を社会的に実現するソリューションとしての、「他人との間に共感を生み、連帯する」、という方法において、日本人はなにができるのかと考えさせられた。おそらく日本でも、SNSなどのネットの力がそれをになうのではないか。そのために個人は考え続け、対話を続けることが重要である。

しかしながら、いくら社会がフラット化しているとはいえ、ノーベル賞級の大学者さんに対面質問し、1,000円も払えばその人が書いた著作が手に入り(岩波文庫の『統辞構造論』は1,140円+税)、それをいつでもお茶の間や通勤電車の中で読むことができる。すごい時代になったものだという感動があった。時代の節目には(たとえば産業革命以降のイギリスやフランス、明治維新前後の日本など)、このようなこと(大変な人物や大変な出版物との出会い)が何度も何度も起こっていたはずである。

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講演が終了し、記念に著作を買おうと、行列の先頭に着くべく書籍販売コーナーに走った。出入り口の横で書籍販売のブースが設けられていたが、行列などどこにもなく、その場で買っているのは私一人。
あの質疑応答の熱さやスタンディングオベーションとの温度差の乖離に、ある種の肩すかしを食らったのは率直な印象である。

それにしても、素晴らしい講演だった。

チョムスキー教授、いつまでもお元気で、世界を啓蒙し続けてください!

※一部の写真はあくまでもイメージです。『統辞構造論』はまだ読んでいません。

三津田治夫