本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

「人間を手段にしてはいけない」を説く古典名著:『人倫の形而上学の基礎づけ』(エマニュエル・カント著)

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これはいわば、『プロレゴーメナ』の実装編である。
訳者による前書きで「『人倫の形而上学の基礎づけ』を先に読んだ方がよい」とされている通り、その読み方をお勧めする。

『人倫の形而上学の基礎づけ』は豊富な具体例が添えられ、一つの事柄がいろいろな方面から語られていて、わかりやすい。難解といわれるカントの理論をより身近に感じさせてくれる作品だ。

人間を手段とすれば強盗も殺人も成立する
本書の特徴は、ア・プリオリの法則を人間の本性に適用したところにある。
カント曰く、すべての人間はア・プリオリに、幸福を追求する欲求を持っている、という。この定義を起点にカントの倫理学が展開される。

ポイントは2点。
一点は、人間を手段にしないこと。仮に人間を手段にしてもよいという論法が成り立てば、目的のためならば人からものを盗んだり、人から命を奪うことも許されてしまう。

そしてもう一点は、自分の行動原則(カントは「格率」という言葉を使っている)を自然にかなった普遍的法則と合致させよ、ということ。これはかなり厳しい指摘だ。

たとえば、人は守れない約束をしてはならない。なぜならば、それは人が幸福を追求するという普遍的自然法則に適合しないから。守れない約束をするという行為は、その時点ではその人個人の利益(一時的な信用の獲得や快楽)になろう。しかしこれが社会的に一般化することで、不正や不実がまかり通り、社会自体が成立しなくなる。ゆえに、これは普遍的自然法則に適合しない。

そこで登場するキーワードが、「自律」である。
自発的に、自分の意志で行動することにのみ、理性が伴う。
他人からの命令による行動を「他律」と呼び、そこに理性は伴わない。
言い換えれば他律とは、自分が手段とされ、他人を目標とすることだ。
カントの言葉を引いてみる。

「人間は物件ではなく、したがって単に手段としてのみ用いられるものではなく、あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない。ゆえに私は、私という人間を勝手に扱って不具にしたり病気にしたり殺したりすることはできないのである。」

自律こそが自由の本質である
理性は自分の中にしかない。
決して他人から命令されるものではない。
再びカントの言葉。

「自由の概念は意志の自律の説明のための鍵である。」

結局のところカントのいう形而上学は、自由の概念が根本にある。
自由のために自律せよ、と、カントは言う。
自律があってこそ自由があり、自由があってこそ倫理がある。
そしてそこには、人間の恣意や心が介在しない善なる意志がある。

のちカントは、カント理論の抽象度を高めたさらなる実装編『永遠平和のために』を書き上げている。

カントの卓越したところは、学問を理論にとどめず、「実用」にした点にある。
彼によると、学問とは事物を人にわかりやすく整理し、人に伝えるための技術であると言う。そしてその本質に「実践」がある。

反論を承知で言ってしまえば、カントを読んでしまうと、ニーチェハイデッガーも、カントの赤ちゃんのように思えてならない。

偉大な巨人の作品に触れさせていただいた印象だった。

三津田治夫