本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

顧客課題の解決を巡るイノベーションの物語:『陸王』(池井戸潤 著)

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2016年のベストセラーで、2017年にはテレビドラマにもなった作品。
書名を見て最初はオートバイの開発物語かと思いきや、実は老舗足袋メーカーがアスリート向けのランニングシューズを開発するというイノベーションの物語だった。
600ページはある大著。
前半の状況解説や場面展開が重く感じるが、後半三分の一がおもしろい。言い方を変えれば、読み方によりどのパートに面白みを感じるのかが明らかに分かれる作品である。

示唆に富んだビジネスエンターテイメント小説
二代目(メーカー)社長と従業員(事務員や職人)がチームワークと信頼のもとで「陸王」(競技用の運動靴)という名の聖杯を求めて冒険に出、苦難と成功にまみえ奮闘する。
受け身な二代目社長やその息子、「陸王」の開発を通して巡り会ったランナー、「陸王」の開発特許を持つ強欲経営者が、人との出会いや戦いを通して成長していく教養小説(Bildungsroman)でもある。
この作品は、冒険の物語、成長の物語など、さまざまな読み方が可能だが、私は後半三分の一を構成するビジネスの物語に共感した。
経営の本質とは収益と効率ではなくそれを支える人間とその心にあるというセオリーの提示。解決すべき課題は運動靴という商品を通して顧客であるランナーがより速く走ることであり、企業収益の最大化ではない。事業のゴール意識に本末転倒が発生している、という問題提起。そしてチャンスは過去にではなく、未来にしかない、ということ。
これらはエリヤフ・ゴールドラットの『ザ・ゴール』やクレイトン・クリステンセンの『ジョブ理論』、ドラッカーの『マネジメント』を彷彿させる。『陸王』は経営者が読んで面白い、示唆に富んだビジネスエンターテイメント小説である。

「童話」としての小説の価値
しかしこの「小説」とは、言い換えると「童話」でもある。
陸王」を生産するこはぜ屋は従業員も経営マインドに優れており、団結力も高い。新商品の開発物語以前に、このようなチームビルディングがどうなされたのかが本質的な関心である。小さな会社であれば、同僚の揚げ足の取りあいや目上の者が目下の者に嫌がらせをするなど、団結力を破壊するチームビルディングと逆方向の力が働きうる。
またこの作品では、制約に満ちた昭和のような背景をあえて現代に設定し、人間力のみで困難を乗り越えるという童話を描きたかったことは承知であるが、ECやSNSクラウドファウンディング、3Dプリンター、IoTなどの、ものづくりには切っても切り離せない技術概念がまったく除外されている。
言い換えると、テクノロジーが入り込んだ途端に童話の文脈がまったく成立しなくなることをこの作品が証明している。携帯やスマホがあったらシェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』が破綻してしまうことと同じである。

エンターテイメント小説の真骨頂
童話の仕掛けを張り巡らせる中にリアルな描写が織り込まれている点がエンターテイメント小説の真骨頂である。後半に出てくる、アメリカにわたり事業を短期間で拡大させた若者ベンチャー経営者がこはぜ屋の社長に自分の失敗談をさもありなんと語る描写が、あまりにもドキリとする。書きすぎるとネタバレになるので、また、文庫版もまだなので、版元さんのことを鑑み、この辺で。

三津田治夫