本とITを研究する

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「ボヘミアン・ラプソディ」と「ゴルトベルク変奏曲」が見せてくれた、「体験」を進化させるテクノロジーの力

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映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットで、空前のクイーンブーム到来と言われている。第91回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、1月時点で累計興行収入100億4168万7580円、観客動員は727万904人に到達したそうだ。
クイーン世代の中高年に限定されず、子供からお年寄りまで、まさに老若男女を問わず感動の渦に巻き込んでいる。

私はど真ん中のクイーン世代よりは少し下で、小学生時代にクイーンの存在を意識しはじめたのはアルバム『Jazz』がリリースされたころで、まともに聴いた『The Game』がリリースされたのが中学生のとき、「レディオ・ガガ」を武道館で合唱したのは高校生のときだった。以来、35年以上クイーンを愛聴している。

クイーンとバッハの間に存在する共通点
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を11月から通算4回観て、そして新年、縁あってバッハの「ゴルトベルク変奏曲」(BWV988)を聴く機会があった。深く心を動かす双方の出会いに、思わず強烈なつながりを発見した体験をここに記しておく。

そのつながりとは、「音楽とテクノロジー」である。
ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットになったのは、シナリオや演技、細部の作りこみが大きいが、最大の要因は、その音響である。デジタル技術を総動員し、フレディ・マーキュリーのヴォーカルそっくりさんを使ってその音源を加工したものまで含まれている。テクノロジーはデジタルとアナログの境界をあいまいにし本物と偽物の境界をあいまいにするが、もはや、その偽物は「作品」にまで昇華している。そうしたデジタルの力を最大限発揮した映画が「ボヘミアン・ラプソディ」である。

もう一つ、「ボヘミアン・ラプソディ」は映画ならではの特性をフル動員した作品である。通常の上映だけでなく、ドルビー・アトモスやIMAXなどの特殊音響設備での上映(ラストの「ライブエイド」の音響が圧巻)もさることながら、「応援上映」という声出しOKの実にアナログな形態まで取り揃えている。クイーンとテクノロジーの共演は、自宅のブルーレイではまず不可能な「体験」を、この映画を通して惜しげもなく提供してくれているのだ。

そして新年、新たに出会ったのが、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(BWV988)である。
クイーン同様、バッハにも心が深く動かされた。
ゴルトベルク変奏曲」はグレン・グールドの後期の録音しか聞いたことがなく、ルーテル市ヶ谷ホールで出会った演奏家の高橋望さんによる「ゴルトベルク変奏曲」は、「こんな曲だったとは……」という、心が揺さぶられる体験、まさに新たなバッハとの出会いであった。

そして、バッハとテクノロジーをつなぐものがある。それは、楽器である。
クラシックの楽器が一通りそろったのがバッハの時代である。
オルガンやチェンバロなど、その時代の古楽器をベースに、楽器は進化を遂げてきた。
バッハは作曲家として時代を画した大人物(ここでいうバッハとはJ.Sバッハで、子孫らと区別して「大バッハ」ともいう)だが、当時はオルガンの調律師としても優れた技術を持っていた。いうなれば作曲というソフトウェアの開発と、オルガンの調律というハードウェアの保守という、二つの技術的なスキルセットを備えた人物である。

クイーンは映画館とステージで表現、バッハはCDと教会で表現
ドルビー・アトモスやIMAXといった特殊な音響体験を提供する場が現代では映画館であるが、バッハの時代は教会で音響体験を提供していた。教会はいうまでもなく宗教的な設備で、集客し、コミュニケーションし、情報交換の場を提供するコミュニティである。そうした場で牧師が聖書を読み、神を語り、傾聴の体験を深めるためのツールとして、オルガンや声楽が使用された。晩年のバッハは教会専属職業音楽家で、布教という、人の心を動かす「体験」を醸成するための楽曲を多数作り上げた。その作品は楽譜という言語で記述されているからこそ、宗教という枠組みを飛び出して現代にまで形をとどめている。楽譜のライティングだけではなく、楽団のディレクションをしていたというバッハのリーダーシップも、彼の天才性を物語る能力の一つである。

バッハの曲は、実に緻密に、数学的でロジカルな楽譜で構築されている。それ故に、さまざまなアーティストがさまざまな解釈を施すことが可能であり、膨大な解釈の演奏が許されている。そして、時代が変わり楽器が進化した現代でも、バッハは演奏され、愛聴され続けている。

映画のタイトルにもなった初期クイーンの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」は、映画の中で、クラシックをベースにした前代未聞のロックを作るのだとフレディが制作者に激しくプレゼンする場面で描かれている。「ボヘミアン・ラプソディ」はオペラの要素を交えたれっきとしたクラシック派生音楽だが、多かれ少なかれ、ほとんどの西洋音楽は、バッハやモーツアルトなど古典派クラシック音楽の作曲技法をベースに作られている。

クイーンと商業、バッハと宗教
バッハは「宗教」を背景に音楽をあまねく人に伝えてきたが、クイーンの背景に「商業」がある点にも改めて気づかされた。
かつて芸術作品は宗教という権力を背景に作られ、伝えられてきたが、いまの芸術作品は商業という権力を背景に作られ、伝えられている。ここでいう「いまの芸術作品」とは、「ボヘミアン・ラプソディ」といった商業映画や商業音楽を含めた、クリエイターが創作し商業的に流通させているものすべてを指す。

ゆえに、宗教的なものが芸術的であるとは断定できない。
商品としての芸術作品は世の中にあふれかえっている。
その意味でアップルの創業者スティーブ・ジョブズも、商業とテクノロジーを通して自分のアート作品を伝えた人物である。

現代のアートを推進する商業とテクノロジー
宗教が数々の戦争と悲劇を生み出したように、商業も同様である。資源を巡った戦争や環境破壊、商業支配による個人の自由や人権の侵害など、課題は後を絶たない。それだけ、モラルや法規制を支配した宗教や政治を飛び越え、商業は世の中を支配している。世界経済で力を持つGAFAのように、ここまで商業が権力を持った時代はいままでなかったのではなかろうか。つまり商業も宗教同様、毒にも薬にもなる。

宗教という権力を背景に芸術作品と時代を作り上げたバッハと同じく、商業という権力を背景に芸術作品と時代を作り上げたクイーンは、300年後には「クラシックアーティストの一人」として語り継がれることであろう。

そして商業を通してテクノロジーは芸術作品を進化させ、映画はVRやARのような技術を導入し、観客の体験を日々高度化させるであろう。

しかしながら最後に、バッハとクイーンの決定的なスケールの違いを示しておかなければならない。それは、クイーンを天才的なアプリケーション開発者にたとえるとするなら、バッハは何百年も使える普遍的なフレームワークを開発した天才エンジニアである。彼が残した楽譜があるからこそ、アーティストは演奏というさまざまなソフトウェアを開発し、エンドユーザー(リスナー)に提供できるのだ。クイーンのような天才の演じる一回性の音楽ではない。誰が演じてもバッハはバッハである。そうしたフレームワークを残したバッハは、偉大である。

クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」とバッハの「ゴルトベルク変奏曲」との「胸アツ」な出会いで、テクノロジーを巡ったさまざまなつながりが見えてきた次第である。

三津田治夫

 

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