宮本常一氏が長年のフィールドワークで獲得した「忘れられた日本人像」をまとめあげた渾身のルポタージュ。
1960年刊。半世紀以上前ですでに「忘れられた日本人」であるから、取材される人物は幕末や明治初期を生きた古い人物たちだ。
そのころ日本人は現在とはかなり異なった行動規範で生活を送っていた。
たとえば、社会的責任から解放された長老が共同体の決定権を握る年齢階梯制度があった。
女性たちが猥談をしながら精を出す農作業の風景。
若い女性が一人旅に出て人生を経験する物語。
文字よりもコトバで語られるものが重要な時代。
コトバを重んじる人ほど時間を気にする逸話、など。
盲目の老牛飼いが女性遍歴を語る「土佐源氏」が白眉
読んでいて感じたのは、盲目の老牛飼いが女性遍歴を語る「土佐源氏」や、夜這いの話など、エロ話が多い点だ。
しかもそれらは自然に語られている。
娘の結婚という「おめでたいこと」につながると、両親は夜這いに目をつぶる。
猥談をしながら農作業に精を出す女性たちにも、これに通底するものがある。
つまり、夜這いを通じた結婚による家族の形成、猥談がエネルギーを与える農作物の生産という、「生命そのものの生産」である。
生命の生産とエロティシズムには親和性が高い。
むしろ、エロティシズムそれ自体である。
近代化と共に生命の生産の場とエロティシズムが完全に分離され、エロティシズムは社会的統制の対象となった。
女性が屋外で猥談に興じることはないし、両親公認の夜這いがきっかけで結婚が成立するカップルもいない。
言い換えれば、農業など「生命そのものの生産」が、日本の産業のメインステージからおろされた。
エロティシズムが社会の表舞台にあった古き日本
いまではAIやロボットといった、「生命を模倣したものの生産」の時代である。
ゆえにエロティシズムは社会の裏舞台へと追いやられたともいえる。
今回の読書会では我々男3名に加え、妙齢の女性2名が参加。
猥談盛りだくさんなこの本がどう読まれるているのか、その反応にちょっとどきどきしたが、皆様大人で、「土佐源氏」などを冷静に談じていた。
自由闊達な議論が繰り広げられた印象的な読書会だった。
以下、『忘れられた日本人』からの私なりの走り書きをまとめてみた。
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・近代化により、制度が人間を支配する社会になった。
・家族制や、男女の性的関係(家族制の元となる)がかなり緩かった時代の日本。
・女性は本来自由だった(上記と関連)。
・近代化における「制度」のもとで、性的な社会的制約を設け、家族制を守り、国家を守るという、近代社会の黎明期が記された作品。
・万人が「コトバ」を持つ時代への過渡期が描かれている。
・本来、コトバは恐怖であり、武器であった。
・その意味で現代社会に生きる日本人たちの「心身の自由」は、どこにあるのか? どのように見出せばよいのか?
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