本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

「夏休み子供科学電話相談室」から学ぶ「どうして?」の力

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毎年夏になると、NHKラジオで恒例の「夏休み子供科学電話相談室」が放送されている。
最近は仕事で子供たちと接する機会が多い関係もあってか、
これを聞くたびに、子供たちの感性の豊かさに心が動かされる。
たとえば、

「どうして星は流れ星になって落ちてこないのですか?」
「どうして蜂は自分でとった蜜を人間に取られてしまうのですか?」
「どうして蝉の幼虫は硬い土を掘れるのですか?」
「蝉の幼虫は掘った土をどこに捨てているのですか?」

など、相談内容はバラエティに富み、聞いているだけでワクワクする。
大人は、生きていくために知識と情報を利用している。
同時に大人は、まかり間違えると知識と情報の奴隷にもなる。
子供の疑問提示力というフィルタにかけると、
そういった大人の弱点が改めて浮き彫りになる。

子供の持つ純粋な問いによる「どうして?」には、
とてつもないパワーが潜んでいる。
これはすなわち、生きるための創造性の源泉に他ならない。

夏休み子供科学電話相談室の中で、私に最も印象的だったものがある。
それは、小学5年生のシンジ君が出した
「どうして太陽は光っているのですか?」
を巡る問答だった。
先生による回答は、
「水素とヘリウムが核融合を起こしているんだよ。
シンジ君、核融合って、わかるよね?」
であった。
シンジ君は便宜上「うん!」と元気よく答えていた。
(もちろん、水素とヘリウムが核融合を小学生がわかるわけない)

私はなにが言いたいのかというと、子供は成長と共に「しったかぶり方」を学ぶ。
これに伴い、子供の素晴らしい「どうして?」の力も喪失していく、ということだ。

**「どうして?」の力を鍛える本当の意味**
子供たちは「どうして?」の力の喪失と共に、大人へと成長していく。
しったかぶりをする大人が多いのは、こうしたプロセスを経て成長した
子供たちの一つの結果である。
「どうして?」の力が衰退した中で疑問が発生すると、
人はたびたびGoogle検索に依存する。
Google検索は非常に便利でスピーディで、私もよく活用している。
むしろ、日常の疑問を解決する中、なくてはならない存在だ。
しかし忘れてはならないことがある。
これは、あくまでも「キーワードによるデータベース参照」に過ぎないということ。
疑問となる言葉をインプットすると、答えがアウトプットされてくるだけだ。

Google検索は、人間の「どうして?」の力を動かすものではない。
また、その力を鍛えるものでもない。
「どうして?」の力を動かすことは、ある意味精神的な苦痛が伴う。
それを回避するためにも、キーワードによるデータベース参照は
実に手っ取り早いし、精神衛生的にもよい。

とはいえ、「どうして?」の力を動かさないことには、その力は確実に錆びる。
だからこそ、大人になっても「どうして?」を持ち続け、動かし続けられる状況が、
非常に好ましいといえる。

狭い土地の中で多言語多人種がひしめき合い、価値観のるつぼの中で秩序を保つヨーロッパでは、
人が「どうして?」を持つことは当たり前である。
むしろ、「どうして?」を持たないと、生きていけない。
なぜなら、理由がわからないものに個人が判断を下すことができないから。

日本人の場合、他人や目上の人間に判断の多くをゆだねる。
だから、「どうして?」は、不要だ。
島国として海で他国から守られていた日本人にとって、かつてはこれで通用していた。

しかしもはや、ネット社会により国境や人種、性別の壁がなくなりつつある。
もはや、「どうして?」のない生き方は、通用しない。
本当の意味で、自律した判断能力が個人に求められる。
ゆえにいま、日本人は、「どうして?」の力を鍛えることが迫られている。

その「どうして?」の力を鍛えるのに最適なツールは、本を読むことである。
本を読むことは、自問自答の訓練である。
読書とは、本からの問いに答え、本に問い返すことを、延々と反復する作業である。

子供たちが持つみずみずしい「どうして?」の力を見習おう。

そして大人たちも、本を読み、生きる力として、「どうして?」の力を鍛えよう。

三津田治夫