本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

日本文化を再定義した社会派歴史学者の古典名著:『日本文化史』(家永三郎 著)

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ネット社会の現代、史実が限りなく事実であることは常識になりつつある。しかしかつては、史実が露骨に作り上げられる時代があった。
戦前までの日本がその最たるものとし、そこに警鐘を鳴らしたのが本書である。1959年に初版が発刊された古典であるが、歴史とはなにかを知るには格好のテキストである。

日本文化を見事に再定義
家永三郎といえば教科書裁判で名を残した歴史的な学者。子どもたちに誤った史実を伝えることでまた軍国主義に戻ると政府へ警告を発し、その姿勢を一貫して崩さなかった人物である。

作者によると、縄文時代の「物質を材料とする造形能力の高さと、社会を形成していく人間的自覚の低さ」のアンバランスを古代日本人の特徴として指摘。現代日本人の「人間的自覚の低さ」を暗示している表現にもとらえられる。

彼岸や盆などの宗教的儀礼も「明らかに仏教の仮面をかぶった民俗宗教の儀礼」ととらえ、日本人は仏教を呪術の一つとして受け取り、鎮護国家思想も日本人の仏教に対する独自解釈の一環であるとしている。

一方、10世紀、唐や新羅渤海が滅び日本との国交が途絶え、いわば鎖国状態の日本において、「後人の容易に追随できない文化をつくり出した」ことを評価する。
日本独自の「かな」の発展が文芸に寄与したことや、物語文学の写実的な表現力は特筆に値し、その真骨頂に『源氏物語』が書かれたのは世界文学の中でも画期的な現象である。

新古今和歌集に対する評価は実に見事だ。
「言葉のあやと幻想の翼をひろげることによって人工的に作為された実体のない観念の産物であった。そこには現実の地盤を失いながらも、過ぎし日の栄華をまだ忘れきることのできぬ斜陽階級の、哀愁にみちた自負の精神があざやかにうつし出されている。」

長い年月をかけてまざまな局面から評価がなされる文芸作品を、歯切れよくひとことで解説することがいまでは当たり前だが、かつてはそうしてしまうことが「芸術を軽々しく扱うのか。けしからん!」ということで、一つのタブーであった。
それゆえ芸術や文化、歴史はオブラートに何重にも包まれ、その都度、人それぞれに解釈されるべきものだった。言い換えればそれは「科学的ではない」。それを家永三郎は、「最大の危機」ととらえている。

戦争で傷ついた日本人への深い愛
あとがきに「過去の日本文化の輝かしい伝統は、世界文化史の一環として、その生命を復活し、日本民族は独自の文化的伝統をもって、世界人類の文化の向上のために寄与することが可能となるであろう。」とあるように、この本は、戦後14年目にして上梓された「本当の日本の復興と世界への仲間入り」という、作者の日本人への深い願いがこめられた作品である。

当時の日本人は敗戦という強烈なナショナルヒストリーを共有しており、中華人民共和国の成立や朝鮮戦争、東西冷戦といった、「戦後」が長らく続いていた。「もはや戦後ではない」といわれたのは1956年の話で、家永三郎はこの言葉を耳にし『日本文化史』を書くにいたったのではないかと想像する。「いや、まだまだ戦後ですよ。みなさん、本書を読んで覚醒しましょう」というメッセージが投げかけられているように思えてならない。

こう考えると、2019年のいまも「まだまだ戦後」なのかもしれないし、あるいは反対に東西冷戦構造もなく、核の傘もなく、アメリカの日本に対する強烈な要求もなく、「とっくに戦後は終了している」ゆえに、日本人は放置状態になり、かえって行き先を見失ってしまっているのかもしれない。

第二次世界大戦以来長い年月、日本人が主体性を持って行動することは「危険」と見なされてきた。日本人が主体性を持った行為は、第二次世界大戦中に日本政府がアジア大東亜共栄圏において取ってきた行動原理であり、その行動原理をエンジンとして持った国家が敗戦へといたった点がその理由だ。

「政治力経済力以外の第3の力」が発生しつつある「中世」としての現代
では、いまの日本人は、どういった主体性を持って、世界の人たちを説得し、行動へと移すことができるのだろうか。

幕末や戦後に見られたような、社会を動かす強い問題意識と熱意、リスクに向かう冒険心と熱意、そして自律心は、いまの日本人からはあまり見られない。

このまま、経済的にも文化的にも斜陽な国家へと陥ってしまうのだろうか。
たとえばスペインやポルトガルオーストリアのように。
いずれもすばらしい国であるが、世界に大きな影響力を与える国とはいえない。
言い方を変えれば、高度経済成長がストップした成熟国家である。

いまの日本の長きにおよぶ停滞は、すでになにかが起こっている最中なのかもしれない。この停滞を「歴史が激変する生みの苦しみの時代、1000年スパンで起こる“中世”だ」という見方もある。

テクノロジーに目を向ければ、社会は日増しに膨大なデータと化している。
音声や言語、映像はすべてデータ化され、AIの力はそのデータを材料に、私たちの想像を絶する膨大なアウトプットを生み出している。
人間の情報そのものや空間までもがデータ化され、意識の共同体とされてきた国家や社会が、もはや「データの共同体」と言われる時代になりつつある。

日本と世界は、従来の政治経済以外の新しい「力」を求めて模索を続け、発見しつつある時期であるともいえよう。換言すると現代は、「政治力経済力以外の第3の力」が発生しつつある「中世」である。
家永三郎の古典作品は、そんな洞察を与えてくれた。

三津田治夫