本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

「本」とのスリリングな出会いを求めて ~いまこそ、読書会のすすめ~

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読書というと、じっと一人で読むもの、というイメージがあったが、最近はそうでもない。
非常にアクティブで、外交的なツールとしての本がある。
とくに近年、読書会が流行の兆しを見せている。
流行というよりもむしろ、定番の活動として世間に定着しつつある。
読書会とはまさに、本をツールにしたアクティビティである。
そして、本を使ったアクティビティを通し、人同士の出会いや発見、変化を楽しむことができる。
本を持って街に出て、集まり、読みあう。
今回はそんな、読書会についてお話ししたい。

読書会とは「出会い」である
読書会を一言でくくると「出会い」である。
以下のような出会いがある。

・本との出会い
・人との出会い
・自分との出会い
・歴史との出会い

そして読書の最終目標は「自分の変化」ではないかと思っている。
出会いを通して自分が変化し、喜び、苦しみ、成長する過程。
読書会では、このような個人内部での出会いと変化を、他人と共有する。
これにより、出会いと変化が掛け算で増えていく。
いわば、集合的な出会いと変化の場が、読書会である。

参加者が持ち寄った見知らぬ本と出会う。
これができるのも読書会の魅力だ。
興味のない本でも、読書会という制約があることで、どうしても読むことになる。
視界の外にあった本が、読書会により視界に入ってくる。
そうした本との出会いこそ、自分を変え、自分の糧となってくれる。
関心の埒外にあった本こそ、自分の血肉となること多々ある。
とても貴重な出会いだ。

古典は、読書会ならではの題材であるともいえる。
古典には、いますぐ必要な情報はあまり記述されていない。
記述の内容自体、普遍的で抽象度が高い。
「いま」という時代にピンポイントで合致した記述とは異なる。
緊急性の低さからも、なかなか自発的に古典を読まない。
極端なことを言う。
仕事のために書店で売れているビジネス書を読むか。
もしくは『国富論』や『資本論』を読むか。
こうした違いである。

もちろん、売れているビジネス書を読むときにも、読書会は有効だ。
この場合、読んだ意見や変化を読書会の場で共有する。
そこに価値がある。
自分がなんとも思わなかったページに他人が深く関心を示すこともある。
逆に、自分が興味を抱いていたページに他人がまったく関心を示さない場合もある。
これを、感情論や印象論ではなく、
「具体的に~だから好きだ」
「~だから関心がない、嫌悪する」
と発言しあうところに、読書会の意味がある。
つまり読書会とは、理論的な言葉を交わす場である。

感情論や印象論が読書会を支配するとどうなるか。
途端にその場は崩壊する。
個人攻撃や知識のひけらかしなども同類。
読書会は、理論的な大人の言葉を身につける場としても機能する。

読書会を自分で開いてみよう
読書会を動かし、継続させる。
それにはさまざまなノウハウが必要だ。
たとえば、選書のことや、参加者の発言の交通整理。
ホワイトボードへの板書、議事録の作成、など。
ファシリテーションの手法が大きくかかわってくる。
難しいことは言わずに、もっとカジュアルに開く読書会も面白い。
「知的なエンターテイメントの場」としての読書会もある。

一冊の本との出会いが、人との出会い、自分との出会いのきっかけになる。
そしてそれが、自他の変化を促す。

読書会ほど、面白いものはない。
読書会の場から、夢を共有し、未来を作ることも可能だ。

本と出会い、本を読み、自他の変化を楽しむ。
読書会を通し、そんな人たちが一人でも増えてくれたら、とてもうれしい。

本とITを研究する会では、読書会のファシリテーション講座を実施してきた。
これからも開催するつもりだ。

本を読むことをテーマにした学びは、会で継続的に開催している。
速読といった、ハイエンドな学びも用意している。

興味のある方はご参加いただきたい。

三津田治夫