本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

『紅い砂』(高嶋哲夫 著)を読んで ~社会変革と「壁」そして自由の本質(後編)~

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前編から続く)

警察が強権をふるう監視社会
当時の東ドイツでは西ドイツのテレビ放送を傍受することができた。
これにより東ドイツの人たちも西ドイツの情報を持っていたが、傍受した内容を学校や町中などで口にすると、市民に紛れた秘密警察(ゲハイムディーンスト)に密告されるという監視社会だった。
ベルリンの壁崩壊の前夜には、教会という守られた施設に市民が集まり、牧師の説教を聞く体裁をとって情報交換を行っていた。

プラハに移動すると、ホテルもユースホステルもどこも満員。
寝る場所を求めてプラハ中央駅に向かった。
バックパッカーが40人ほどホームで寝ていたので、私もそこに加わると、警察官に追われた。警棒で殴られ、痛い思いをした。当時の東欧は、たえず警察や軍隊が市民をにらみをきかせていた。

ハイパーインフレと独裁政治が支配する旧ユーゴスラビアルーマニア
当時の内紛寸前のユーゴスラビアでは、インフレが激しかった。なにを買うにもゼロのたくさんついた値段で、紙コップ一杯の水を飲むのにも多くの紙幣が必要だった。

f:id:tech-dialoge:20200515144552j:plain◎東欧革命前のユーゴスラビア通貨「ディナール」紙幣。単位が4か国語で記述されている

首都ベオグラードでは、数十ドルの換金だったが、駅の換金所ではおびただしい厚さの貨幣の札束を渡された。貨幣単位(当時の通貨単位「ディナール」)の繰り上げスピードに伴った高額紙幣の印刷が追い付いていないのだ。換金した札束の厚さで、日本から持参した愛用の財布が壊れた。
その後私はルーマニアブカレストに行き、6日後にベオグラードで換金すると、前回よりも2割は多い札束が渡された。あとで気づいたのだが、6日間でこれだけのインフレが進んでいたのである。

f:id:tech-dialoge:20200515205315j:plain◎当時のバックパッカーの必需品、トーマスクックの時刻表
ユーゴスラビアからルーマニアへの移動時、国境に近づくと、向かいの座席にいた男から「どうかこれを隠し持ってくれ」と懇願され、大きなビニール袋を手渡された。
国境警備隊のパスポートコントロールで男は連行された(男はなぜか私に投げキッスをし、両手を振って笑っていた)。袋を開けると、中からは密輸品の粉コーヒーとコンドームが大量に出てきた。ルーマニアのさらに深刻な食糧不足、物不足を予感し、ぞっとした。

f:id:tech-dialoge:20200515144633j:plain◎東欧革命前のルーマニア通貨「レイ」紙幣
予想通り、ルーマニアでの食糧不足は最も深刻だった。
並んでもまともに食べられるものがなかった。
かろうじて長時間の行列で手に入ったものは、石のように固く歯の立たないフランスパンだった。
ちなみにこのパン、いつか食べると思いながら携行したが、とうてい食べられる代物ではなかったので、ブルガリアの首都ソフィアの公園のゴミ箱に捨てることにした。街を歩いて数十分後にそのゴミ箱を覗いてみると、そのパンは誰かに拾われ、なくなっていた。
ブルガリアでも同様に食糧不足は深刻だった。

ルーマニアでは、旅館やホテルで出てくるパン類しか食べるものがない。
ベオグラードに戻る途中、中都市ティミショアラに宿泊したとき、レストランの入口でボーイが「俺は日本のファンだ。カラテをやっている」と言い出し、ポーズをとっている。そこでまた質問攻めが始まった。私が食べ物を探している旨を告げると厨房まで通され、その場で調理した料理を内緒で山ほど食べさせてもらった。それだけ、私のような西側の情報を持つ人間は貴重だった。

ルーマニアの首都ブカレストにある大統領官邸の周囲には機関銃を持った兵士が市民を追い回し、首都では味わうことのまずない不気味な緊迫感が漂っていた。街中で沈黙する市民の空気、深刻な食料不足を通じ、東欧では最も衝撃的な印象を受けた。国家の崩壊とはこういう状態からはじまるのだということを、空腹と共に体で感じた。

私がルーマニアを訪問した翌年の1989年12月、ベルリンの壁が崩壊した翌月、独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領は革命軍の手で公開処刑された。この模様は当時のニュースでも頻繁に取り上げられた。また、世界史が示すとおりだ。

f:id:tech-dialoge:20200515144748j:plain◎革命後の、チャウシェスクの子供らのその後を取材した新聞記事(1992年2月18日 朝日新聞
ベルリンの壁崩壊後、東ドイツは国家として統合、消滅。
ユーゴスラビアも激しい内戦を経て国家として分裂、消滅した。
統合、分裂という異なった方向性ではあるが、国家という体制は空気のように消えてなくなってしまった。

この旅でクラコフで知り合ったドイツの友人の一人が、ベルリンの壁崩の4年後、27歳で自殺してしまった。理由はわからない。
あまりのショックで、私はどうしてよいかわからなかった。
それから10年以上たち、私は思い切って、友人のご両親に手紙を出した。とても丁重な内容の返信が返ってきた。ライプツィッヒの諸国民の戦い記念碑そばの墓地に埋葬されているそうだ。毎週彼女を墓参しているとのこと。私はまだ花の一つも添えていない。この時期の記憶として、これは最もショッキングだった。

自由の本質は、自ら手に入れるもの
東西ベルリン間同様、アメリカ・メキシコ間に築かれた「壁」は、単なる物体ではなかった。その壁は、人間の身体の移動だけではなく、モノとコトの流通を分断し、人間からさまざまな自由を剥奪する壁であった。
ベルリンの壁を西側へ越えようと、多くの東側の人たちが射殺された。『紅い砂』で描かれる壁でも、自由への壁を乗り越えようとした多くのコルドバ国民が射殺される。

なぜ革命が起こるのだろうか。
『紅い砂』を読みながら、旧東欧革命前夜の体験を再び回想した。
双方に共通するのは、「奪われた自由の獲得」である。
移動の自由、文化的な生活を送る自由、情報を得る自由、など、人が最も感じる苦痛は、自由の剥奪である。
そして、旧東欧やいまの北朝鮮、あるいは私たちが暮らす民主主義国家でも、情報を「壁」で遮断することで、多かれ少なかれ、壁の向こうの「自由」を見えなくする。

外出禁止や経済活動の停止で、モノとコトの自由な流通が分断された。移動の自由、文化的な生活を送る自由はこうして奪われている。
そこで私たちに残された重要な自由が、情報を選択し、判断する自由である点を知ることを忘れてはならない。

いま、敵は人間ではない。
ウイルスである。
全人類が同時に当事者となってしまった。
こうなると、「壁」どころではない。
あるいは、「宗教」や「人種」でもない。
いままでにない戦いと革命・社会変革の時代が訪れた。

私たちは、目に見えない敵であり目に見えない「壁」であるウイルスから自由になろうと闘っている。
そして、ポスト・コロナ社会を迎えるための革命・社会変革の準備を着々と行っている。
『紅い砂』は、自由とはなにか、「壁」とななにか、戦うとはなにかを、中米の革命劇を通して教えてくれる。
自由とは、勝手に落ちてくるものではない。
自らの意思で手に入れるものだ。
普段考える機会の少なかった、そしていまこそ重要な課題を体験し、考えさせてくれる貴重な作品である。そのきっかけとしても、ぜひ『紅い砂』の一読をお勧めする。

(おわり)

三津田治夫