本書の副題に「あるいは制服の研究」とあるように、読書会の冒頭は平田オリザさんの学園劇『転校生』を私が観劇したエピソードからはじまった。
紀伊国屋書店でホールの入り口を探していると、制服を着た女子高生の集団が「上ですよ」と声をかけてくれた。で、「ありがとう! ちなみに、今日は見学?」と、高校演劇ふうの少女たちに声をかけると、視線を外して無言でそそくさと去っていってしまった。
「最近の演劇女子高生はシャイなのかなぁ」(基本、はきはきとした体育会系の子たちが多いと認識)と思いながら、開幕を待つ。
お芝居が始まると、なんと、先ほど歩き回っていた女子高生が舞台に立っているではないか。しかもよく見ると、30代前半に見受けられる女子高生も混じっている(10代はほぼ皆無)。
「ああ、先ほどの制服を着た女子高生の集団は、実は女優さんだったんだ」ということが、このときとなってようやく判明したのである。
なにが言いたいのかというと、ここでは完璧に、私は「制服の魔術」にすっかりやられてしまった、ということである。
この魔術が「ぺてん」の根底に流れているというのが、今回のテーマ『ぺてん師列伝』(種村季弘著)の主張するところである。
ぺてんと詐欺の本質を徹底討論
会場ではいつもながらの多彩な意見が飛び交った。
今回は書籍そのものの内容に加え、ぺてんと詐欺の本質について、個人の体験や意見から、徹底討論した。
まず、「装飾文体はよくない。回りくどい、説明が長い」といったスタイルの問題や、「女装家の話は気の毒でいまでは笑えないし、共感もできない」といった、ジェンダーにまつわる時代的な指摘、「ぺてん師と詐欺師の違いはどこにあるか? 詐欺罪はあるがぺてん罪はない」といった、ぺてんの本質にまつわる発言からはじまった。
「いまは、本書のような手口でだまされる人が絶滅している」という意見はなるほどであった。
本作品が描かれている背景は貴族の時代。
つまり、人々が「取る者と取られる者」とで明確に線引きされていた。
普段「取る者」とされている権力者がぺてん師に取られてしまったり、「取る者」の制服を着てぺてんを仕掛ける、という構図が成り立った時代だ。
『ぺてん師列伝』は19世紀、ドイツロマン主義の時代を背景とした作品である。
この時代の文学作品では変身や変貌の描写がしばしばとり入れられている。
E.T.A.ホフマンやシャミッソーが好んだドッペルゲンガー(自分が二人いる錯覚)の表現はその典型である。
19世紀文学の変身や変貌の描写が、「ぺてん師」の制服を借りて現実世界に躍り出てくるといったモデルが、本作品の中に埋め込まれている。
制服や権力が通用した時代はいまはもう失われている、という指摘への反論があった。
「いや、現代にも米空軍兵を偽った結婚詐欺クヒオ大佐事件があったではないか」「皇族に似せた衣装をまとった有栖川宮事件もあった」「見た目を整形して学歴まで詐称したショーンKもいた」など、ぺてんは形を変えていつの時代にも連綿と流れているという議論もあった。
ちなみにクヒオ大佐事件は、作者の種村季弘氏が生前の30年近く前、「こいつは絶対に俺の作品を研究していた」と言ってやまなかったことは私の記憶にいまだ新しい。
上記のショーンKが象徴するように、現代では制服の代わりに、美容整形による人間的「見た目」や、学歴・肩書といった「文字」が、ぺてんの道具として新たな役割を演じている。
そのほか、人は自信ありげな態度をとると相手から信用を獲得できるが、一方でその態度はうさん臭さにも転じる。学歴・肩書などの文字同様、態度も過剰であることで、ぺてんがばれる原因となる。
「いまは「見えない情報」のぺてんの時代では?」という指摘もあった。
オレオレ詐欺は制服も文字も使わず、話し言葉だけで仕掛けるぺてんの一つである。
『ぺてん師列伝』はぺてん師の立場で描かれており、犠牲者の視点が欠落しているという同情的な意見もあった。言い換えると、本作のぺてん師とは、体制を欺く痛快な存在として描かれていてる、ともいえる。
「被害者としてだまされる人は、だまされたくて騙されているのでは?」という声も聞かれた。
被害者は信じ切っていて、かつ、信じたい。
周囲のことを、「自分が思いたいように思い、見たいように見たい」という、ねじ曲がった現実把握の構造が被害者の心理に潜んでいるはずである。
作中でさまざまなペテン師が出てくる。
Webを検索するとフォイクトとドメラの名前はよく引っかかってくるが、その他はなかなか出てこない。
このことから、「もしかしたらこの作品自体が種村季弘氏が書き上げ読者にしかけた、”ぺてん“では」という、鋭い指摘もあった。
ぺてんとは信用の前借である
「企業とぺてん」という話題にも展開した。
「ぺてん罪」という言葉がないぐらい、そもそもぺてんとは詐欺よりも軽い言葉であることを再確認しながらも、ペテン≒詐欺ととらえることで、企業とのかかわりを考えてみた。
まず私の印象に残るのは、ITバブル真っ只中の1990年代後半に起こった「技術詐欺」である。
当時、仕事仲間のある事業家が、「FTPを使って動画を高速ストリーミングできるシステムを開発したアメリカ人がいる。そこからソフトを卸してうちで売る」と、幕張メッセにブースまで出して気勢を上げていたことを覚えている。
「ファイル転送プロトコルであるFTPで果たしてそんなことができるのか?」と思いつつ黙って聞いていたが、後日見事にそれが詐欺であることが発覚。その事業家は会社をたたんでそれから後消息不明だ。
企業に関し、「「できる」と思ったけれども「できない」ことがわかってきたことで結果として詐欺になる」という事実がある、という指摘もあった。
上記のFTPストリーミングの事件も、インターネットに関する情報がまだ神秘的だった当時、これにもしかしたら該当したのかもしれない。
上記でも述べた通り、「経歴を盛る」は企業詐欺での常套手段。
「誰々という有名人が友だち」という手口がよく使われる。
ねずみ講とほぼ一緒のマルチ商法や、「上がる」と強烈な営業をかけて老人に買わせる投資信託、「豊田商事事件」や「円天事件」に代表される組織的大規模詐欺も企業の中にはしばしば見られる。
各方面からぺてんを論じた最後は、「ぺてんと私」を各人に語っていただいた。
「自分は気持ちよく知らないうちに騙されているかもしれない」「自分も知らないうちに他人を騙しているかもしれない」という発言や、「ビジネスは騙しで成立しているのでは」という極論、「いや、継続性がないとビジネスは成立しないからそうではない」という冷静な反論も見受けられた。
「ぺてんとは信用の前借である。その信用を返済しない点がぺてんたるゆえんだ」という、非常に冷静な判断を聞くことができた。
7月に軽井沢合宿で取り上げたダニエル・カーネマンの「行動経済学」でも詳細に研究されていたが、人間にとって「なにが真実なのか」は、すべて「信じる」が決定づけている。自分が「OK」とした人を信じ、かつ、その人に社会性があれば、その人はぺてん師ではない、
逆に、自分が「OK」とした人を信じ、かつ、その人が反社会的であれば、その人はぺてん師である。
しかしその人の社会性も、時代の変化とともに反社会的と評価され、ペテン師へと変じることもある。
ぺてんとは、個人の評価や他人の評価、時間の経過など、さまざまな要素が複雑に絡み合って生まれるものである。
本人が気持ちよくあと腐れなく騙されればそれでよいのでは、という極論に達することも可能だ。
もはやここまで行くと、ペテンではない。
一つの芸術である。
『ぺてん師列伝』を読むことで、人間とはどこまでが騙されておりどこからが騙されていないのかを無自覚な生き物であることが、改めて痛感させられた。
三津田治夫