本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

詩人ニコライ・ゴーゴリの故郷ウクライナに、平和を

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ウクライナの状況は目も当てられない。
民間人のビルにロケットが撃ち込まれ、市街地に戦車の残骸が転がっているなど、あんな光景を私が生きている間に隣国で見ることは、想像もしたくなかった。
ウクライナが1日でも早く平和を取り戻すよう、同国の私が敬愛する詩人ニコライ・ゴーゴリによる『死せる魂』の書影をアップする。
岩波のリクエスト復刊によるものだが、学生時代私が添付のはがきでリクエストしたら復刊が実現した。
私以外にリクエストした人がいたのかは謎である。
その後、岩波書店特製のきれいな革製ブックカバーが送られてきた。
非常に気に入って使っていたが、ノヴァーリスの『青い花』に巻き付けて読んでいたら、それをポーランド旅行中にクラコフで落としてしまい、それっきりだ。
そんなポーランドも、ウクライナからの避難民を受け入れたり、軍備を置いたり、いつもながら「中欧」として痛い目に遭っている。
当然ポーランドでの危機意識も高い。
とても嫌な話だ。
リアルタイムで情報が伝搬するネット社会のいま、世界でも同時多発的に反戦運動が起こっている。
情報技術の進歩で世界は昔のような戦争はしづらい状態になっている。
そして、少しずつ世界平和に向かっている。
どうか、こうした時代が、過去へと逆行しないでもらいたい。
三津田治夫

『RubyではじめるWebアプリの作り方』のインタビューを収録しました

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『RubyではじめるWebアプリの作り方』
「本TUBE」動画の撮影にオーム社様撮影スタジオにお伺いしました。
中村優子さんの元女子アナ引き出しトーク力で、著者の久保秋真さんからITプログラマ話を多数いただきました。
帰路で久保秋さんがスタジオにPCを忘れてしまったことに気づきましたが、戻って無事回収。よかったです。
ノンプログラマ向けにどんな言葉が届くのか、とても楽しみです。
完成した動画は

www.youtube.com

です。ぜひご覧ください。

三津田治夫

第22回飯田橋読書会の記録:『見えない都市』(イタロ・カルヴィーノ著) ~都市を再定義した摩訶不思議な作品~

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今回は初のイタリア文学作品ということで、イタロ・カルヴィーノ(1923~1985年)の作品、『見えない都市』を取りあげることにした。
作品が発表されたのは1972年。
おりしも東西の列強がアジアの都市を奪還しようと火の粉をまきあげていたベトナム戦争のまっただ中であった。

読者を煙に巻く不思議な幻想文学
これはどんな作品かというと、一言で、幻想文学
マルコ・ポーロは見聞をフビライ・ハンに報告し対話するというやり取りを通し、言葉が都市を形成するという不思議な物語。
「読んでいて眠くなった」「ぼんやりしていた」などの意見が会場からいくつか出てきた。幻想文学にはうってつけな読者の反応とはこういうもので、あたかも読者を煙に巻くかのような描写表現が多々ある。そこはカルヴィーノの作風というか、文学の限界を取り壊そうとした彼のネオレアリズモ作家としての姿勢が貫かれている。

正直私も、読んでいてよくわからなかった。なにがわからないのかというと、「そもそも都市とはなんだ」という疑問。ビデオもカメラもネットもないマルコ・ポーロの時代。「見聞」だけが都市を伝える方法だった。
もちろん、計測したり筆写したりという方法で都市を伝えることもできる。しかしそれも見聞の域を脱しない。
私は東京都で働いているので、東京という都市を知っている。それは、子供のころから「東京は日本の首都です」と習っているから知っている。であれば、都市とは教育なのか、ということになる。そう考えると、都市とは言葉である、とも言える。あるいは、私は東京都で働くという体験を持っているので、東京が都市である、と認識しているのかもしれない。となると、都市とは体験なのか、という話になる。

マルコ・ポーロはあるのだかないのだかよくわからない都市の見聞を、さもありなんとフビライ汗(カン)に報告する。
そしてフビライの「朕の夢はただ精神か、さもなくば偶然の作りだしたものなのだ。」という独白に対してマルコ・ポーロは、「都市もまた、精神か偶然の産物であると信じられております。」といったように、答えになっているのだかなっていないのだかわからない曖昧な返答をする。それもあってかフビライは、「……つまるところ、そのほうの旅とは、まさに思い出のなかの旅なのだ!」といったいらだちを表明する。

また、マルコ・ポーロの報告する都市にはすべてデスピーナ(ちなみにこれはモーツアルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』に登場するキーパーソンの女中名と同じ)やフェドーラ(昔Linuxディストリビューションに「フェドーラ・コア」があった)、ドロテーア、アンドレア、アナスタジアなどの女性の名前がついている。となると「都市とは欲望なのか?」「都市とはイメージか?」という読み方も出てくる。

都市というテーマに仮託したコミュニケーションの物語
物語の後半になってくるとマルコ・ポーロフビライの対話が半ば崩壊しはじめ、それはフビライの帝国の崩壊を予期させるような退廃的な雰囲気を醸し出す。となると都市とは対話ではないか、とも言えるはずだ。

読みながら会場内で議論を進めていくと、どうも『見えない都市』は、都市という一つのテーマに仮託した言葉の物語、あるいはコミュニケーションの物語なのでは、という結論に達した。

現代社会では、都市には高層建築物があって、自治体があって、商業と居住の空間があって、などの漠然とした定義がある。しかしかつては、都市という定義はなかった。そもそも都市とは概念上のものだったが、近代化と共に「見える化」されてきた。こうした、普段私たちがまったく考えもしなかった問題提起を、作者のカルヴィーノ幻想文学というスタイルで私たちに投げかけてくれた。

最後に、この本を象徴する一文を引用する。

「偉大なる汗(カン)は勝負に没頭しようと努めていた。しかし今ではその勝負の理由が彼の思念を逃れ去ってゆくのだった。ゲームの終わりはつねに勝利かあるいは敗北なのだ。だが何の? その真の収穫は何なのか? 王手をかけ、勝利者の手によって取り除かれる王のあとに残されるのは、ただ黒か白かの枡目ばかり。……すると、究極のその獲物は、帝国の色鮮かな宝物の数々とその幻の外皮にすぎず、ついにはただ滑らかに削った一片の嵌木、無となっているのだった……」

かくも偉大な皇帝フビライが帝国拡大に求める要素は都市でできていて、都市とは見えない概念であり、ゲームの碁盤であり、嵌木であり、無であった、というオチである。

ともかく不思議な作品なので、ぜひ一読いただき、ご賞味いただくことをおすすめする。

作家カルヴィーノについて
ついでに作家について。

イタロ・カルヴィーノ幻想文学から児童文学、文芸評論までをこなす20世紀イタリアを代表する多彩なインテリ。
戦時中はガリバルディ旅団のパルチザンとして反体制運動に関与し、戦後はハンガリー動乱が起こる1956年までイタリア共産党員として活動。
『見えない都市』をはじめ、『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』『不在の騎士』『レ・コスミコミケ』などの文学作品や、また『イタリア民話集』の編纂も手がけている。

本作を訳した米川良夫(よねかわりょうふ)は、父親が『ドストエフスキー全集』や『戦争と平和』の個人完訳を行ったロシア文学の大翻訳家米川正夫で、兄がロシア文学者の米川哲夫とポーランド文学者の米川和夫、叔母が生田流箏曲家の人間国宝米川文子という、そうそうたる血を引くサラブレッドである。同氏は本作『見えない都市』や『木のぼり男爵』など、カルヴィーノの作品を格調高い名訳で日本人に紹介してくれたイタリア文学者である。

 * * *

さて次回は、日本の原点、古典に帰ってみましょうというコンセプトで、最近はやりの親鸞を取り上げてみる。
お題は、『最後の親鸞』(吉本隆明著)と、『歎異抄』(親鸞)の二冊である。
私は数年前吉川英治の『親鸞』を人間親鸞、男性親鸞として面白く読ませていただいたが、はたして吉本隆明の描く親鸞とはどんな人物なのか。興味につきない。

では次回も読書会を、お楽しみに。

三津田治夫

「なんでこうなったのかわからない!」を言語化した不気味な傑作:『審判』(フランツ・カフカ 著)

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カフカの長編には『審判』のほかに『城』と『失踪者』があるが、その中でも最も暗く、恐ろしい作品だ。
カフカの作風に一貫したものは、「なんでこうなったのかわからない!」という理不尽さや因果関係のわからなさ、不気味さである。
ある意味、いまの「AI」への不安に近い。
AIは大量なデータから優れた結果をアウトプットするのだが、「なんでこうなったのかわからない!」という意味で、である。

『審判』に戻る。
ショッキングなラストシーンもそうだが、ある日突然男たちから銀行員のヨーゼフKが「有罪」を宣告され、その根拠探しと有罪からの脱出の試みは延々と続き、重々しい。
カフカ作品が「暗い」といわれるゆえんはここにある。

しかしカフカの他の作品と同じように、一定の距離をおいて読んでみると、これまたナンセンスだ。
そもそもどんな罪なのかはいっさい明かされないし、有罪であるという事実は男たちから告げられた宣告や周囲のうわさ話といった「言葉」の問題でしかない。
アパートの住民の女をつてに新展開をもくろんだり、弁護士の愛人に接近して罪の本質を探り出そうとしたり、いつもながら主人公は女を使って人生を新規開拓しようと右往左往する。
かしながらこの作品は『城』や『失踪者』のような、ある種の希望(自分探しや、新大陸での新しい生活)の要素が少ない。だから暗い。
もう一つは、ヨーゼフKの前に立ちはだかる不可解な「法」の世界は、カフカの父親そのものの象徴である。
理不尽極まりなく、息子の思考や行動を規制する父親の存在は、カフカにとっての「法」だ。

父子関係に悩まされ続け、カフカと同じ街プラハで活躍した大作曲家に、モーツアルトがいる。彼が父親の像をオペラ『ドン・ジョヴァンニ』に描き出していることはよく知られている。
『審判』でヨーゼフKは父親の象徴である「法」のもとで「犬のように」殺されるよう、ドン・ジョヴァンニは父親の象徴である騎士団長の亡霊に殺害される。

モーツアルトの父子関係はカフカほどは屈折しておらず、モーツアルトの父親は一言で言えば徹底した英才教育を息子に施した極度のスパルタ教育者。
カフカの父親は強烈な強制力を息子に行使したが、それは発展を促す教育者としての父親の強制力ではなく、禁止するための力、すなわち「法」としての強制力である(その辺の様相はカフカの『父への手紙』に詳しい)。

『審判』の作風の深刻さは、このような「法」が一貫して文体に流れているところにある。
もう一つ、この作品を読んでいて感じるのは、情景がよく目に浮かぶこと。事実いくつかの映画になっている。
ラストの聖堂や石切場のシーンは、映画のようにありありと情景が浮かんでくる(ちなみにオーソン・ウェルズ監督の『審判』(1963年)もおすすめ)。

『審判』こそ、ニーチェ風に言えば「万人に与える、万人向けでない本」かもしれない。
誰もが読んで楽しめる作品ではないが、間違いなくカフカの時空を越えた不思議な世界に入り込むことができる。
また、不可解かつ超現実的な独自の世界観を読み取ることができる。読む人を選ぶが、時代を画した名作であることには間違いはない。

三津田治夫

文化と日常の不思議な関係

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今回のコロナ禍で「文化」という言葉が海の向こうからはたびたび聞こえてきた。
飲食店や舞台、ライブなど、言葉や作品の対話がリアルに交わされる場が閉鎖されたため。
しかしこの状況に日本で、「文化」という言葉が使われることが少なかった気がする。
「文化」という言葉に、
 
「実生活から遠く離れた非現実なもの」
「時間とお金にゆとりがある人にのみ与えられるもの」

というイメージを持った日本人が多いと推測するが、どうだろう。 
駅前の居酒屋で大きなビジネスや壮大な歴史・哲学が話されることもある。
街の小さな書店で壮大な文学作品を手にすることもある。
舞台や映画館では質の高いパフォーマンスが世界から定期的に送り届けられている。
こうした文化に日本人も日常で接しているのに、である。
逆に、日本では文化が日常生活の中に溶け込んでいるからさほど意識しないで人々が生活している、という意味なのだろうか。

三津田治夫

DXの「D」と「X」の深い断絶をつなぐメディアとコンテンツのお役目

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DX(デジタル・トランスフォーメーション)という単語が世に知れ渡って久しい。

1年前のいまごろは、

「一過性のバズワードだろう」
「一年後には陳腐化する言葉だ」

という意見が方々から聞こえてきた。
しかしそれどころか、DXはまだまだ世の中に浸透していない。
政府は年頭に「新しい資本主義」を実現するために、デジタル化やイノベーションを社会課題ととらえ、これらを経済成長のエンジンにすると表明している。
言い換えると、デジタル化やイノベーションはこれからの課題であると、政府がはっきりと認めた形だ。
デジタル化とイノベーション(非連続的な進化)とは、言い換えると、まさにDXである。

「D」(デジタル)と「X」(社会変革)の深い断絶
このような状況を踏まえて、私はさまざまなITエンジニアや経営者たちと対話を続けてきた。
その中で一点、気になることが出てきた。
それは、DXとはいえ、そもそも「D」(デジタル)と「X」(社会変革)がバラバラなのではないか、という疑問だ。
本来デジタルとは、社会変革のために発明された道具であるのにもかかわらず、である。

デジタル化を担うITエンジニアたちと組織経営を担うITを使う人たちとの間には、本質的に深い溝が見える。とくに、政府がDXと言い出したあたりから、ますます感じるようになってきた。

たとえば、ITエンジニアたちは「提案型のITエンジニアリングをしている」としばしば口にする。
が、実際にシステムを使う組織経営の現場にどのような提案がどれだけ届いているのか、定かではない。
ITエンジニアたちは、現場のフィードバックの重さを、どれだけ肌身で理解しているのであろうか。
逆に組織経営者で、どのようなデジタル化でどのような価値が生まれるのかを知っている人がどれだけいるのかも、定かではない。
組織経営者は、ITの可能性の深さと柔軟さが、どのような現場でどのように生み出されているのかを、どれだけ肌身で理解しているのであろうか。
ITエンジニアと組織経営をになう人たちの間には、深い断絶がある。

そこでよく、「対話」という言葉が出てくる。
ITエンジニアたちと経営者などITを使う人たちとの間で「対話しましょう」「話せばわかる」という論調だ。
対話はとても重要である。
しかし、国内のシステム開発の現場には、対話以前の本質的な課題が横たわっている。
数値統計で見たわけではないが、あくまでも、31年間ITにかかわる仕事をしてきて私が体感した「臭い」である。

対話以前の本質的な課題とは具体的になにか?
取引先との関係が変わってしまうこと、「このまま働き続けられるのか」という従業員の不安の高まりなど、経営者がDXに消極的になる要因は多い。
また、IT企業そのものが「DXの発注があればお手伝いはするが自社内までDXするのは消極的」というのも本音だろう。

しかし、目前に解決すべき課題がある。
それは「共通言語」の課題である。
つまり、ITエンジニアたちのマインドとITを使う人たちのマインドの間に、共通言語が足りていないのだ。
日本人とフィンランド人が互いの言語で対話するぐらいの断絶がある。
対話という、言葉によるマインドの流通を実現するには、語学に励むか、通訳を入れるかの、いずれかだ。
こうした課題を解決するために、私はITの図解書籍『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』(プレジデント社刊)を監修させていただいた。
発刊後、読者たちからたびたび耳にした言葉がある。
それは、「それでもITは難しい」であった。
これにはいささか驚いた。が、まぎれもない現実である。
そして日増しに、「それでもITは難しい」(もしくは無関心)の人が増えてきているようにも感じる。
ITは日進月歩で進化し、複雑化している。
この進化による複雑化ゆえに、組織経営者などITを使う人たちの無知を利用するビジネスモデルがますます強固になるという悪循環も、「それでもITは難しい」に拍車をかけるのだろう。

共通言語を持つことで、ITエンジニアたちとITを使う人たちとの間に、互いへのリスペクトが生まれる。
違いを尊重し受け入れることから質の高い対話が成立する。
これにより、相手の無知を利用するというようなレベルの意識もなくなる。

「D」と「X」の乖離はこれからもますます広がる
日本のこどものIT教育は先進国の中でも群を抜いて低い。
加えて、2025年には45万人のIT人材不足が予想されている。
目前の課題は山積である。
これら課題は個別ではなく、「課題のセット」である。
ITを使う多様な人たちの多様な要求は日増しに厳しくなり、それと連動して技術の複雑化は進む。
データの大量化、処理の高速化、データと処理の分散化・小型化、センシング技術の多様化、大量データと高速処理を利用したAIによる自動化、これらに伴う量子コンピュータなどハードウェアのイノベーション、など、さまざまな要素が複雑化を加速させる。
「それでもITは難しい」という、共通言語を持たない人たちの増加が止まるはずがない。
「D」と「X」の乖離はますます激しくなる。
残念だが、マインド共有のディストピアが手に取るように見えてくる。

課題のセットを因数分解し、一つ一つ解いていくことが、課題解決の糸口である。

ITと使う人をつなぐ「第3の知識」を届ける、メディアとコンテンツの力
課題のセットは、「教育」の分野と「ビジネス」の分野に大別できる。
双方において共通言語を持ち、全体のマインドセットをリアルタイムで更新し、最適化していくことが目標である。

ITエンジニアたちとITを使う人たちの間で共通言語を持つために私がやっていることは、書籍や雑誌、電子、Webによるメディアとコンテンツづくりだ。

「D」と「X」の乖離がますます激しくなるこれから、そこに歯止めをかけるために、メディアとコンテンツが大きな役割を演じると考える。
私の仕事の役目は、「それでもITは難しい」という人を、メディアとコンテンツの力、編集力、制作力を通して、一人でも減らすことだ。
WebとSNS、メール、紙、オフラインを通し「それでもITは難しい」という人を一人でも減らす。
さらに、ITの言葉を、誰もがわかるように通訳する。
言い換えれば、DXに向けて、人のITへの無知を減らすことだ。
ITエンジニアの言葉とITを使う人たちの言葉の乖離を「語学」で解消する。
語学の本質は単語や文法、発音記号の暗記ではない。
マインドセットを書き換えることだ。
さらに、双方の言葉の乖離を「通訳」で解消する。
メディアとコンテンツを通して「語学」と「通訳」による双方の言葉の乖離を解消する。
これにより「D」と「X」を接近させる。
このままでは、ITとITを使う人たちのニーズの急激な変化と多様化に反比例し、「D」と「X」の乖離はますます広がる。
双方をより接近させるいまの社会の必然的なテーマが、「語学」と「通訳」だ。

Pythonプログラミングの知識でもない、MBAでもない。
確かに各々は重要な知識だ。
それを踏まえたうえで、「語学」と「通訳」を通して「D」と「X」をつなぐ「第3の知識」の獲得が必要だ。
従来の文系と理系をつなぐリベラルアーツの発想をITに導入するイメージに近い。

ITの根底にも文化と歴史が流れている。
なぜ、中学の国語の授業で万葉集を学ぶ必要があるのだろうか。
それは、国語の本質を知るためだ。
これにより初めて、共通言語としての国語を手にすることができる。
同様に、ITの共通言語を手にするために、歴史を学ぶ。
周辺の文化を学ぶ。
それがどうしても困難な人には、万葉集の現代文解釈のように、通訳を入れる。
そして、言葉によるITマインドの流通を実現させ、DXの道幅を広げていく。

「D」と「X」の断絶をつなぐメディアの取り組みに興味のある方は、ぜひ私までお声がけいただきたい。
課題解決に貢献できたら幸いである。

三津田治夫

来週2月3日(木)19時に、交流会を有楽町で実施いたします。

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来週2月3日(木)19時に、以下交流会を有楽町で実施いたします。

bit.ly

2020年、クリエイターとITエンジニアを中心に、学びや考え、アウトプットを共有する「知活人」(ちいきじん)プロジェクトを立ち上げました。
上記は、そのオフライン初顔合わせイベントです。

イベントの趣旨は、2年間の活動報告とこれからの活動を交えた、参加者同士の交流会です。

モノやコトを開発しているエンジニアやクリエイター、文章を書いている人、経営者、社会活動家、地方リモートワークの達人など、いろいろなことを手掛ける(濃い)方が来られる予定です。

ぜひご参加いただき、交流の輪を広げていただけたら嬉しいです。
この場で、知活人3年目の活動の方向性も共有できたらと考えております。
また、この場で新しいプロジェクトが立ち上がったら面白いです。

参加、ご検討いただけましたら幸いです。

またお目にかかり、対話できることを、
心から楽しみにしております!

三津田治夫