本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

見ながらわかるDXの本・校了間近:『DXビジネスモデル 80事例に学ぶ利益を生み出す攻めの戦略』

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小野塚征志さんによる5月19日発売の新刊、『DXビジネスモデル』、校了作業、いよいよ佳境に入ってまいりました。確認校ゲラの検査中です。

DXビジネスモデル 80事例に学ぶ利益を生み出す攻めの戦略 (できるビジネス) 

www.amazon.co.jp

見開きで図を眺めながら「DXとは?」をイメージでつかめます。
ビジネスモデル図鑑として楽しめ、学びのある教科書としての情報、未来洞察も沢山です。
巻頭の推薦文は『DXスタートアップ革命』の監修者で新規事業家の守屋実さんからいただきました。
ビジネスの明日が見える作品として、読者の皆様と本作を共有できたら光栄です!

三津田治夫

ナチスの凄惨な殺戮と破壊の歴史を、作家が書く物語:『HHhH』(プラハ、1942年) (ローラン・ビネ著)

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オビにあるマリオ・バルガス・リョサの賛辞の通り、心に残る、忘れがたい作品だった。

この本のテーマは、「ナチス」と「プラハ」。

金髪の野獣と言われたナチス親衛隊のナンバー・ツーでユダヤ人大虐殺の首謀者、ラインハルト・ハイドリッヒと、それを追うチェコの2人の刺客を描いた一大ドラマである。

この作品のユニークさは、「歴史小説を書く小説」というスタイルにある。
作家は時折恋人に原稿を下読みさせたり、歴史小説とはいかなるものかと苦悩したり、その課程を作中随所に織り込む。
作家は、歴史小説が現実の行間をありもしない事実で埋めてしまうことに疑念を抱く。
その姿勢が率直で、真摯で、共感する。

本を手にした瞬間、いまの時代にどうしてナチスなのかとも思ったが、欧州諸国、とくにフランスではドイツの政治経済への不満が高く、その雰囲気を反映していることを察した。
ベストセラーには時代との整合性が必ず求められる。そもそもが、フランス人はドイツ人をあまり好きでない。
ヒトラーによるパリ陥落、シャルル・ドゴールのロンドン亡命政府という、大戦中の屈辱の歴史をはじめ、両国には諸々摩擦がある。
隣国同士は仲がよろしくないという状況は日本でもまったく同じ。

ナチスの報復としてリディツェ村の住民が虐殺された。住居が焼き払われ、重機により土地が消滅させられる破壊描写は壮絶。
なぜこんなことを人間がするのだろうか。
同様に、世界中の人たちは、広島や長崎を見て、なぜこんなことを人間がするのだろうかと思っているはず。それでも戦争や虐殺はいつまでもなくならない。人間は進化しているのだろうか、あるいは進化の過程でこうなっているのだろうかと、私は深い疑問を抱く。

ナチスや虐殺といった怒りと恐怖の描写と、プラハの街へと注ぐ愛と情の描写との対比が印象的。本当にこの作家は、プラハを愛している。歴史と芸術の古都プラハにまた行ってみたくなった。

400ページ近くある長編だが、一気に読める。
有史以来人類が続けている、権力と略奪、破壊の物語。

戦争のいまだからこそ、歴史がなにを行ってきたのか、ぜひ一読をお勧めする。

三津田治夫

ウクライナ、SNSが戦争を抑止することへの試練、期待

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ウクライナが戦争で目も当てられない。
1991年の湾岸戦争は衝撃的だったが、それ以上だ。
当時は欧州都市のテロが多発していた。
私は短波ラジオを携帯し、戦況を気にしながら学生最後の旅をしていた。
湾岸戦争終戦ポーランド・クラコフのユースホステルで知った。
同室になったユダヤ人青年から「志願兵としてベルリンに向かったが募集を終えていた。アメリカに帰る」と聞き、終戦を知った。

ウクライナといえば詩人ニコライ・ゴーゴリの故郷として非常に印象が深い。
土着民話を基づいた幻想文学やコサックの戦記物など、ウクライナを各方面から取材した作品を多く残している。
作家のドストエフスキーは「我々は『外套』の中から出てきた」とロシア文学のルーツを表現したが、この『外套』の作者がゴーゴリである。
プーシキンと並び、ロシア文学の父といわれている。
これもあって、私は、ロシア文学の故郷はウクライナであると認識しており、一度は行ってみたい憧れの土地でもあった。
そのウクライナが、ゴーゴリの時代から200年を経て、市民もろともロシアに攻められている。
私が生きているうちに、隣国が他国の民間人を露骨に攻撃することなど見ることはないと思っていた。
その意味でも、実に目も当てられない。

国境があってないようなあの地域には、ロシア正教など信仰の問題、人種の問題、タタール人襲来や共産主義革命の歴史、革命後のスターリンによる粛清など、日本人には知りえない歴史的・民族的課題が山積である。

歴史的・民族的課題とはつまり、歴史の摩擦が作り上げた心の課題だ。
日本のように「海」といった国家間を隔てる物理的で巨大な境界がないゆえ、彼らは民族としての境界(アイデンティティ)をノスタルジーやプライド、喜び、恨みとして心の中に持っている。
その心の状態を書き換える力が、戦争や革命といった暴力である。

国家の平和は国防によって守られる。
戦争を仕掛ける国家も必ず「国防のためにこうしている」という。
今回の戦争でもまったく同じである。
外から見ると戦争と国防は表裏一体だ。
当事者のマインドにより、戦争であるか国防であるかが180度変わる。

ウクライナを攻撃するロシアのプーチンが世界のやり玉にあがっている。
そして、ネガティブな次の事態も考えられる。
孤立したプーチンの暴走である。
ベルサイユ条約後にとったヒトラーの行動が想像できる。
ゼレンスキーがウクライナの亡命政府を立ち上げることもあるだろう。
習近平プーチンを説得してノーベル平和賞を取ることがあるかもしれない。

なにがあっても核の使用と世界大戦に発展しないことを祈っている。

国連が機能しなかった現実
本来は戦争の抑止力として国連が機能するはずだった。
しかし、今回はロシアの否決によって国連は機能不全に陥った。

国連の基本コンセプトは、エマニュエル・カントの『永遠平和のために』(1795年)によるものだ。
その中でカントは国家を、欲望も理性も持ったひとつの「人格」として捉えている。
基本、自然状態は戦争であり、戦争をしないことを求めながら国家を運営しようという考えである。

とはいえ、戦争は始まってしまった。
対話は平行線で、時間と力の戦いになった。
時間と力はネガティブな心の連鎖を生み出し続けている。

SNSによるポジティブな心の連鎖への希望
ネットによる人の「つながっているマインド」に、私は一つの希望を持っている。
世界中の人がネットでつながっていることが当たり前になった。
ウクライナを侵攻するロシア兵も、一個人としては現地に身内や知人がいる。
つながっているマインドを持ったロシア人たちに、「はい、敵だから機関銃で撃ち殺せ」といっても士気は上がらない。
これが戦闘への静かな抑止力につながっている。
ロシアの国営ニュース番組には平和を訴えるロシア人女性が乱入してきた。
誰からも止められずに、カメラワークも変わらず、キャスターは何事も起こっていないかのようにニュースを読み上げている。
情報が国民全体のマインドを変えてきた結果の一つである。

いまの状態でこの戦争がどんな結末になろうとも、プーチンが暴力を使わずにリーダーシップをとることはない。
その意味でも中国とアメリカの動きが今後の世界を大きく変える。

人類には、さまざまな課題を知恵をもって乗り越えてきた歴史がある。

今回のウクライナ問題は地域の問題ではなく、明らかに人類の問題だ。
同時に、人類に突き付けられた試練であり試験である。

今回の戦争が恨みの連鎖を引き起こし、核の使用や世界大戦へと発展しないことを祈っている。

そして、今後の人類のために、教訓として記録され冷静に学習されることを願っている。

ウクライナに、世界に、永遠の平和を。

三津田治夫

詩人ニコライ・ゴーゴリの故郷ウクライナに、平和を

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ウクライナの状況は目も当てられない。
民間人のビルにロケットが撃ち込まれ、市街地に戦車の残骸が転がっているなど、あんな光景を私が生きている間に隣国で見ることは、想像もしたくなかった。
ウクライナが1日でも早く平和を取り戻すよう、同国の私が敬愛する詩人ニコライ・ゴーゴリによる『死せる魂』の書影をアップする。
岩波のリクエスト復刊によるものだが、学生時代私が添付のはがきでリクエストしたら復刊が実現した。
私以外にリクエストした人がいたのかは謎である。
その後、岩波書店特製のきれいな革製ブックカバーが送られてきた。
非常に気に入って使っていたが、ノヴァーリスの『青い花』に巻き付けて読んでいたら、それをポーランド旅行中にクラコフで落としてしまい、それっきりだ。
そんなポーランドも、ウクライナからの避難民を受け入れたり、軍備を置いたり、いつもながら「中欧」として痛い目に遭っている。
当然ポーランドでの危機意識も高い。
とても嫌な話だ。
リアルタイムで情報が伝搬するネット社会のいま、世界でも同時多発的に反戦運動が起こっている。
情報技術の進歩で世界は昔のような戦争はしづらい状態になっている。
そして、少しずつ世界平和に向かっている。
どうか、こうした時代が、過去へと逆行しないでもらいたい。
三津田治夫

『RubyではじめるWebアプリの作り方』のインタビューを収録しました

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『RubyではじめるWebアプリの作り方』
「本TUBE」動画の撮影にオーム社様撮影スタジオにお伺いしました。
中村優子さんの元女子アナ引き出しトーク力で、著者の久保秋真さんからITプログラマ話を多数いただきました。
帰路で久保秋さんがスタジオにPCを忘れてしまったことに気づきましたが、戻って無事回収。よかったです。
ノンプログラマ向けにどんな言葉が届くのか、とても楽しみです。
完成した動画は

www.youtube.com

です。ぜひご覧ください。

三津田治夫

第22回飯田橋読書会の記録:『見えない都市』(イタロ・カルヴィーノ著) ~都市を再定義した摩訶不思議な作品~

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今回は初のイタリア文学作品ということで、イタロ・カルヴィーノ(1923~1985年)の作品、『見えない都市』を取りあげることにした。
作品が発表されたのは1972年。
おりしも東西の列強がアジアの都市を奪還しようと火の粉をまきあげていたベトナム戦争のまっただ中であった。

読者を煙に巻く不思議な幻想文学
これはどんな作品かというと、一言で、幻想文学
マルコ・ポーロは見聞をフビライ・ハンに報告し対話するというやり取りを通し、言葉が都市を形成するという不思議な物語。
「読んでいて眠くなった」「ぼんやりしていた」などの意見が会場からいくつか出てきた。幻想文学にはうってつけな読者の反応とはこういうもので、あたかも読者を煙に巻くかのような描写表現が多々ある。そこはカルヴィーノの作風というか、文学の限界を取り壊そうとした彼のネオレアリズモ作家としての姿勢が貫かれている。

正直私も、読んでいてよくわからなかった。なにがわからないのかというと、「そもそも都市とはなんだ」という疑問。ビデオもカメラもネットもないマルコ・ポーロの時代。「見聞」だけが都市を伝える方法だった。
もちろん、計測したり筆写したりという方法で都市を伝えることもできる。しかしそれも見聞の域を脱しない。
私は東京都で働いているので、東京という都市を知っている。それは、子供のころから「東京は日本の首都です」と習っているから知っている。であれば、都市とは教育なのか、ということになる。そう考えると、都市とは言葉である、とも言える。あるいは、私は東京都で働くという体験を持っているので、東京が都市である、と認識しているのかもしれない。となると、都市とは体験なのか、という話になる。

マルコ・ポーロはあるのだかないのだかよくわからない都市の見聞を、さもありなんとフビライ汗(カン)に報告する。
そしてフビライの「朕の夢はただ精神か、さもなくば偶然の作りだしたものなのだ。」という独白に対してマルコ・ポーロは、「都市もまた、精神か偶然の産物であると信じられております。」といったように、答えになっているのだかなっていないのだかわからない曖昧な返答をする。それもあってかフビライは、「……つまるところ、そのほうの旅とは、まさに思い出のなかの旅なのだ!」といったいらだちを表明する。

また、マルコ・ポーロの報告する都市にはすべてデスピーナ(ちなみにこれはモーツアルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』に登場するキーパーソンの女中名と同じ)やフェドーラ(昔Linuxディストリビューションに「フェドーラ・コア」があった)、ドロテーア、アンドレア、アナスタジアなどの女性の名前がついている。となると「都市とは欲望なのか?」「都市とはイメージか?」という読み方も出てくる。

都市というテーマに仮託したコミュニケーションの物語
物語の後半になってくるとマルコ・ポーロフビライの対話が半ば崩壊しはじめ、それはフビライの帝国の崩壊を予期させるような退廃的な雰囲気を醸し出す。となると都市とは対話ではないか、とも言えるはずだ。

読みながら会場内で議論を進めていくと、どうも『見えない都市』は、都市という一つのテーマに仮託した言葉の物語、あるいはコミュニケーションの物語なのでは、という結論に達した。

現代社会では、都市には高層建築物があって、自治体があって、商業と居住の空間があって、などの漠然とした定義がある。しかしかつては、都市という定義はなかった。そもそも都市とは概念上のものだったが、近代化と共に「見える化」されてきた。こうした、普段私たちがまったく考えもしなかった問題提起を、作者のカルヴィーノ幻想文学というスタイルで私たちに投げかけてくれた。

最後に、この本を象徴する一文を引用する。

「偉大なる汗(カン)は勝負に没頭しようと努めていた。しかし今ではその勝負の理由が彼の思念を逃れ去ってゆくのだった。ゲームの終わりはつねに勝利かあるいは敗北なのだ。だが何の? その真の収穫は何なのか? 王手をかけ、勝利者の手によって取り除かれる王のあとに残されるのは、ただ黒か白かの枡目ばかり。……すると、究極のその獲物は、帝国の色鮮かな宝物の数々とその幻の外皮にすぎず、ついにはただ滑らかに削った一片の嵌木、無となっているのだった……」

かくも偉大な皇帝フビライが帝国拡大に求める要素は都市でできていて、都市とは見えない概念であり、ゲームの碁盤であり、嵌木であり、無であった、というオチである。

ともかく不思議な作品なので、ぜひ一読いただき、ご賞味いただくことをおすすめする。

作家カルヴィーノについて
ついでに作家について。

イタロ・カルヴィーノ幻想文学から児童文学、文芸評論までをこなす20世紀イタリアを代表する多彩なインテリ。
戦時中はガリバルディ旅団のパルチザンとして反体制運動に関与し、戦後はハンガリー動乱が起こる1956年までイタリア共産党員として活動。
『見えない都市』をはじめ、『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』『不在の騎士』『レ・コスミコミケ』などの文学作品や、また『イタリア民話集』の編纂も手がけている。

本作を訳した米川良夫(よねかわりょうふ)は、父親が『ドストエフスキー全集』や『戦争と平和』の個人完訳を行ったロシア文学の大翻訳家米川正夫で、兄がロシア文学者の米川哲夫とポーランド文学者の米川和夫、叔母が生田流箏曲家の人間国宝米川文子という、そうそうたる血を引くサラブレッドである。同氏は本作『見えない都市』や『木のぼり男爵』など、カルヴィーノの作品を格調高い名訳で日本人に紹介してくれたイタリア文学者である。

 * * *

さて次回は、日本の原点、古典に帰ってみましょうというコンセプトで、最近はやりの親鸞を取り上げてみる。
お題は、『最後の親鸞』(吉本隆明著)と、『歎異抄』(親鸞)の二冊である。
私は数年前吉川英治の『親鸞』を人間親鸞、男性親鸞として面白く読ませていただいたが、はたして吉本隆明の描く親鸞とはどんな人物なのか。興味につきない。

では次回も読書会を、お楽しみに。

三津田治夫

「なんでこうなったのかわからない!」を言語化した不気味な傑作:『審判』(フランツ・カフカ 著)

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カフカの長編には『審判』のほかに『城』と『失踪者』があるが、その中でも最も暗く、恐ろしい作品だ。
カフカの作風に一貫したものは、「なんでこうなったのかわからない!」という理不尽さや因果関係のわからなさ、不気味さである。
ある意味、いまの「AI」への不安に近い。
AIは大量なデータから優れた結果をアウトプットするのだが、「なんでこうなったのかわからない!」という意味で、である。

『審判』に戻る。
ショッキングなラストシーンもそうだが、ある日突然男たちから銀行員のヨーゼフKが「有罪」を宣告され、その根拠探しと有罪からの脱出の試みは延々と続き、重々しい。
カフカ作品が「暗い」といわれるゆえんはここにある。

しかしカフカの他の作品と同じように、一定の距離をおいて読んでみると、これまたナンセンスだ。
そもそもどんな罪なのかはいっさい明かされないし、有罪であるという事実は男たちから告げられた宣告や周囲のうわさ話といった「言葉」の問題でしかない。
アパートの住民の女をつてに新展開をもくろんだり、弁護士の愛人に接近して罪の本質を探り出そうとしたり、いつもながら主人公は女を使って人生を新規開拓しようと右往左往する。
かしながらこの作品は『城』や『失踪者』のような、ある種の希望(自分探しや、新大陸での新しい生活)の要素が少ない。だから暗い。
もう一つは、ヨーゼフKの前に立ちはだかる不可解な「法」の世界は、カフカの父親そのものの象徴である。
理不尽極まりなく、息子の思考や行動を規制する父親の存在は、カフカにとっての「法」だ。

父子関係に悩まされ続け、カフカと同じ街プラハで活躍した大作曲家に、モーツアルトがいる。彼が父親の像をオペラ『ドン・ジョヴァンニ』に描き出していることはよく知られている。
『審判』でヨーゼフKは父親の象徴である「法」のもとで「犬のように」殺されるよう、ドン・ジョヴァンニは父親の象徴である騎士団長の亡霊に殺害される。

モーツアルトの父子関係はカフカほどは屈折しておらず、モーツアルトの父親は一言で言えば徹底した英才教育を息子に施した極度のスパルタ教育者。
カフカの父親は強烈な強制力を息子に行使したが、それは発展を促す教育者としての父親の強制力ではなく、禁止するための力、すなわち「法」としての強制力である(その辺の様相はカフカの『父への手紙』に詳しい)。

『審判』の作風の深刻さは、このような「法」が一貫して文体に流れているところにある。
もう一つ、この作品を読んでいて感じるのは、情景がよく目に浮かぶこと。事実いくつかの映画になっている。
ラストの聖堂や石切場のシーンは、映画のようにありありと情景が浮かんでくる(ちなみにオーソン・ウェルズ監督の『審判』(1963年)もおすすめ)。

『審判』こそ、ニーチェ風に言えば「万人に与える、万人向けでない本」かもしれない。
誰もが読んで楽しめる作品ではないが、間違いなくカフカの時空を越えた不思議な世界に入り込むことができる。
また、不可解かつ超現実的な独自の世界観を読み取ることができる。読む人を選ぶが、時代を画した名作であることには間違いはない。

三津田治夫