本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

日本が第1位を獲得。観光魅了度ランキングが意味する、コンテンツの力

先日、世界経済フォーラムが発表した世界の観光魅了度ランキングで、日本が初の第1位を獲得した。
これは素晴らしいと思いつつ報道を聞いていた。
そして、昨年の第1位はスペイン(今年は第3位)だという。
何百年も前の世界大国であったスペインがいまは観光小国へと転じ、その地位を日本に譲った形である。

かつての地位をスペインから日本が奪ったという報道を耳にし、経済大国と言われた日本もスペインのような小国にシュリンクするのか……と、ネガティブな近未来を想像した。

ニュースを知る少し前のことだった。
仕事を通して、年々低下を感じさせずにはいられないここ20年の日本のITの技術レベルに関し、それが印象なのか現実なのか、真相を知りたく、日本の世界的な立ち位置を調査していた。

調査すると、2つの象徴的な結果が見えてきた。
一つは、日本のデジタル政府ランキングが世界第9位(前年7位)という結果で、もう一つは世界主要各国のデジタル競争力ランキングで前年から下がって64カ国中28位という結果だった(おのおの早稲田大学電子政府自治体研究所(2021年度)、スイス国際経営開発研究所(2021年)発表)。
世界の統計からも、日本のITの凋落ぶりが見て取れた。

近年のITの覇気がない印象から、知り合いのITエンジニアたちとは「日本もスペインみたいな国になるのだろう」などと、冗談半分でたびたび口にしていた。近未来の想像は、あながち想像だけでは済ませられなさそうである。

日本にはワンダーな特異さがある
スペインが大航海時代に戻って再び世界を制覇することは考えづらい。政治経済は他国に握られておりスペインが入る術はない。
日本も同様に、お家芸と言われたマネーやテクノロジー、モノづくりの力も、スペインと同様他国に握られつつある。
日本のITやものづくりのプレゼンスの低下や、成長が漸減する日本のGDP(世界第3位であるとはいえ)という現実が、日本の小国化を如実に匂わせている。

近ごろは地政学を扱った書籍が書店で話題になっている。
その関連で『新しい世界の資源地図』(ダニエル・ヤーギン著)を読んでいた。
その本文に日本という単語がほとんど出てこなかったところが印象的だった。
地政学から見ても、日本の世界的なプレゼンスがかげりを見せていることが読み取れる。

これらを踏まえ、観光魅了度ランキング1位が意味するものは、スペインと日本とでは相当異なるし、その結果を冷静に解釈して日本の未来の指針として持つべきではないか、と考えるに至った。

日本の第1位が意味するところは、パンデミックの中で東京オリンピックを開催したことや、感染による死亡者数の少なさなど、さまざまな意見がある。
これらを一言で集約すれば、「日本のワンダーな特異さ」がこの時代の中で世界から評価されたからだと理解している。

特異さの総体はコンテンツを成す
隣国とは基本的に仲が悪いという定説を差し引けば、日本は世界的に好感度が高い国である。

海外に行くと日本人がリスペクトされることは多い。
昭和の時代にそんなことを口にすると「お前は日本礼賛の民族主義者だ。けしからん」などと言われることもあったが、現実として、日本人の海外での他者からの見られ方は、概してポジティブだ。

東西欧米から日本を見て、日本はアジアを統治しようとした脅威であり、原爆によるホロコーストに遭った世界で唯一の国であり、太平洋戦争の敗戦からイタリアとドイツと一線をかくして戦争放棄を宣言した国であり、朝鮮戦争ベトナム戦争の米国の縦として後方支援しながら奇跡的な経済復活を遂げた国であり、地震津波という災害の国であり、清潔で礼儀正しく、時計やカメラからオートバイ、自動車、超高層建築まで、小から大までさまざまなモノを作るのが得意で、映画やアニメ、マンガ、ゲームといったソフトウェア/コンテンツ作りにも突出した力を世界にアウトプットする国である。

日本が観光魅了度ランキング1位になったのは、上記のように構成された総合的要素全体が「コンテンツ」として、海外の人たちから受け入れられている結果である。

クリエイターと売り手の対称性が成長のカギを握る
ニューヨークに行けば自由の女神があり、トルコにいげはガラタ橋があり、ワルシャワに行けば文化科学宮殿がある。バチカンに行けばサン・ピエトロ大聖堂があり、ハワイに行けばダイヤモンドヘッドがある。
観光地には見どころや風情がたくさんあるが、自然から歴史・文化、プロダクトまで、狭い島国の日本においてその数が桁違いに多い。
日本は総体として巨大なコンテンツをなしている。

では、コンテンツとは何か?
自然や歴史・文化と組み合わさったソフトウェアである。
日本人はソフトウェアを大量に持っている。
それでもGDPは漸減し、モノづくりの力もITの力も漸減している。
それはどういった理由からか?
一言で言えば、営業とマーケティング、売り方・見せ方である。

本来リソースの少ない日本人が持つアイデアやコンテンツは、我々が持つ最後の産業である。
日本人の持つアイデアやコンテンツを海外に安価に売り渡し、営業やマーケティングの力を持った人たちに上手に取られる構造に入ることはあってはならないが、起こりうる事態だ。

ある意味営業やマーケティングは、かつての金融ビジネスのような
「知らない人から取る」「知る人が蓄財する」「その蓄財のトリクルダウン
(下層への社会的分散)が期待される」という、幻想の構造の中で機能していた。
従来の資本主義社会でこれがシステム的に起こり得ないことは
トマ・ピケティによって明らかにされた。

営業やマーケティングの担当で、収益の源泉が「コンテンツ」にあることを知らない人は少ないだろう。
一方で、コンテンツ・クリエイターに、自分たちが作り出したもののどこに収益の源泉があるかを知らない人は相当多い。
知ったとしても、売り方をわからない人は多い。
それにより買い手が見つからなかったり、適正な値付けができずに安売りしたり、不安からコンテンツにロックをかけてしまうなど、コンテンツと市場とのアンマッチが起こる。
そこに求められるのは、営業とマーケティングの力だ。
さらに求められるのは、営業とマーケティングの一段高い抽象度に立ち、適正な値付けと市場とコンテンツをマッチングする、プロデューサーの力だ。

モノやアウトプットをつくり上げるコンテンツ・クリエイターには、収益の源泉を編み出す存在であるというプライドを崩さず、同時に、営業とマーケティングとプロデュースの力がコンテンツを市場に送り届ける、ということを意識してほしい。

クリエイターが上ということはないし、営業マンが上ということもない。
マーケターもプロデューサーも同様だ。
それぞれの立場でそれぞれが責任を負う。
四者が対称的な存在として互いの仕事をリスペクトしあう。
そこではじめて、コンテンツは市場へと届けられる。

このフラットな四者対称の成立において、日本のコンテンツ産業は成長し、成長規模に応じ日本の世界でのプレゼンスは高まる。

さて、10年後の2032年、日本の産業構造はどう変容しているのか。
コンテンツのフェアな取引で世界を率いる日本の未来。
ぜひ見てみたい。

三津田治夫

『DXビジネスモデル』の紹介記事を寄稿させていただきました

サイト「経営者テラス」に、当方が運営する株式会社ツークンフト・ワークスがプロデュースを担当させていただいた『DXビジネスモデル』(小野塚征志著)の以下紹介記事を寄稿させていただきました。
keieishaterrace.jp

本作の編集制作時つねに念頭に置いていた、DXの本質を書かせていただきました。
著作『DXビジネスモデル』の理解を深めるために、またDXとはなにかを知るために、お読みいただけましたら幸甚です。

三津田治夫

20年以上前に開発された非接触決済システムの化石「The Java Ring」

サンフランシスコのモスコーニセンターで1998年に開かれた「JavaOne」にて、当時の上司が取材に行った際手土産に買ってきてくれた歴史的なお品物が「The Java Ring」である。

この指輪の中にはJavaでセキュリティが確保された接触型の個人情報(64ビットのIDや氏名など)が保存されている。これを使ってJavaOneの入場管理をしていた。

これを手にした瞬間は「いったいなに使う?」「面白いが普及するのか?」と感じたが、いまでは当たり前。Apple WatchPASMOなど非接触決済システムの元祖である。

IoTというイノベーションの先駆けは、20年以上前にすでに起こっていた。

技術は、素晴らしい!

参考記事:「Javaの指輪」が日本に上陸、「Java Developer Conference 98 Tokyo」でデモ

三津田治夫

新刊『DXビジネスモデル』ダブル・カテゴリ1位に

小野塚征志さん著、当方プロデュースの新刊『DXビジネスモデル』、見本が上がってまいりました。

また、カテゴリ・ダブル1位に上がってまいりました!

カバーも印刷も美しく、優しい仕上がりです。
書店ではぜひお手に取ってごらんください。
5月19日発売です。

●関連情報
◎記事:

iotnews.jp

◎動画:

www.youtube.com

#bk_it
#chiikijin

三津田治夫

第37回・飯田橋読書会の記録:『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著) ~革命、ジェンダー、自由を描いた女子群像劇~

第37回を迎え、もはや歴史的な会となった飯田橋読書会。
今回は新規のHHさんとTTさんが加わり、レギュラーメンバーのKMさん、MMさん、HNさん、AAさん、SMさん、KNさん、SKさん、KHさん、私を含め、
総勢11名の過去最高の大人数となった。
こういうときにZOOMというバーチャル空間は威力を発揮する。
今回はマンボウ対策でオンラインにて開催した。

本作は、イラン革命(1978~1979年)を背景に描かれた、イランの文学教授、アーザル・ナフィーシー女史による回想録である。
教室に出入りする生徒たちとの、文学をテーマにした自由闊達な議論による群像劇である。
また、革命後の男尊女卑国家イランで展開された、女子目線のジェンダー論でもある。

今回は読書会に2名の女子が参加されたが、女子の共感度が高く、男子にはわかりづらいメンタリティもくすぐる作品であったことが彼女らの発言からもよく伝わってきた。

書名に『テヘランでロリータを読む』とあるが、作中では『ロリータ』のウラジミール・ナボコフのみならず、スコット・フィッツジェラルドヘンリー・ジェイムズジェイン・オースティンなど、さまざまな西洋文学の作家が取り上げられる。

テヘランでロリータを読む』とは、いわばタイトル勝ちである。
イランで『ロリータ』は禁書とされている。おじさんが少女の人生を性の力で奪い取ってしまうといういわば「悪書」だ。つまり、「テヘラン」という言葉と「ロリータ」という言葉ほどアンマッチはない。カバーもヒジャブをかぶった女性の肖像である。

女性視点で共感度の高い作品
2人の新しい参加者を交え、今回も様々な方向から意見が飛び交った。
まずは、本全体に関する感想。

「裁判方式で『ギャツビー』をやったのは面白いと思った」
「イランで勇気ある選書だ」
「感情的な面で共感するところが多い」
「革命により欧米の現代文学が否定された大変化の物語」

という意見から、

「面白くなかった」
「第3部までめちゃくちゃ苦労して読みました。辛かった」

という意見がある一方で、

「非常に面白かった」
「生身のイラン。イランの現実。現実だから面白い」
「第1部は「女子会」を覗いているような感覚だ」
「女性視点で読んで共感しかない」
「『若草物語』のように読めた。7人の女性群像劇だ」

というポジティブな意見も多く、読み方や立場によってまったく読まれ方が変わる、本作を象徴した発言だ。

「作者は特権的な立場の超エリート」
「この人のポジションでないと書けない本だ」

と、作者の特殊な立場に対する意見もいくつか聞かれた。
また、作者の立ち位置として、

「もしかしたら作者は自分自身のことを真剣にとらえていないのではないか」
「作者は精神的に成熟していないのでは?」
「本来的な対話がない」
「作家はナショナル的に複雑な人だ」

と、過酷な社会状況を冷静にとらえる、彼女の社会的地位やその頭脳がなす客観性には、一種の冷たさや他人事感もなきにしも非ずだという意見もあった。

「現実と文学作品の交差が面白い」
「本が触媒であるという、読書会の本質を見た」

という発言では、イラン革命と文芸批評、読書会という社会変動と文学作品、人間の動きがうまく織り込まれており、大変興味深い作品であることが聞こえてくる。

抑圧(とくに女性が)された社会背景からも、

「ソルジェニーツインの収容所もの作品に近いかもしれない」
「強い意志があったからこそ継続できた活動」

という意見も聞かれ、またその社会背景から、

「現実の変化と文学の可能性」

を読み取ったという声もあった。


イラン革命と分断された自由を獲得する物語
本作から、冒頭にささげられた詩を引用する。

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この世で起きたことをだれに話そう
だれのためにぼくらは至るところに巨大な鏡を置くのだろう
鏡のなかがいっぱいになり、その状態が
つづくのを期待して
チェスワフ・ミウォシュ「アンナレーナ」
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チェスワフ・ミウォシュはポーランドの国民的ノーベル文学賞詩人で、グダンスクの「連帯」反政府活動犠牲者記念碑には彼の詩が刻まれている。

なぜミウォシュの詩なのか?
はじめはよくわからなかった。

が、「読書会は「ネタ」でしかない。自己を獲得する物語だ」という会場の発言に響くところがあった。

自己の獲得とは自分が一人間としての自分になること。
つまり、自由の獲得である。

イラン革命を通して、かつての自由が一気に分断された。
本作は読書会という舞台をしつらえた、自由を獲得する人間たちの物語なのである。

自由の分断は、まずはメディアや作品表現から始まる。

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いま思えば、タルコフスキーの名の綴りも知らない人間が大部分を占める観客が、しかも通常の状況なら彼の作品を無視するか嫌悪さえ抱くはずの人々が、あのときタルコフスキーの映画にあれほど酔いしれたのは、私たちが感覚的歓びを徹底的に奪われていたせいだろう。私たちは何らかの美を渇望していた。不可解で、過度に知的で、抽象的な映画、字幕もなく、検閲でずたずたにされた映画の中の美でもかまわなかった。数年ぶりに恐怖も怒りもなく公の場にいるということ、大勢の他人とともに、デモ集会でも配給の列でも公開処刑の場でもない場所にいるということに、感動と驚きをおぼえた。
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「デモ集会でも配給の列でも公開処刑の場でもない場所にいるということに、感動と驚きをおぼえた。」というくだりは、自由を共有する人々のとまどいと好奇心の情景が目の前に見えてくる描写だ。

次は、革命前後を女性として体験した作者の分断された自由を描いた引用である。

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イラン革命が二十世紀の他の全体主義的革命と異なるのは、それが過去の名においてやってきたという点にある。それがこの革命の強みであり、弱点でもあった。私の祖母、母、私、娘の四世代の女たちは、現在に生きるとともに過去にも生きていた。二つの異なる時間帯を同時に経験していた。戦争と革命のせいで、私たちが個人的な試練をーーとりわけ結婚の問題をいっそう強く意識するようになったのは興味深いことだと思った。
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作者は次のように結論づけている。

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真のデモクラシーは、想像の自由なしには、また想像力から生まれた作品をいっさいの制限なしに利用できる権利なしにはありえないと思うようになった。人生をまるごと生きるためには、私的な世界や夢、考え、欲望を公然と表明できる可能性、公の世界と私的な世界の対話が絶えず自由にできる可能性がなくてはならない。そうでなければどうやって、自分が生きて、感じ、何かを求め、憎み、恐れてきたことがわかるだろう。
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作者はイメージと表現、対話の自由、「公の世界と私的な世界の対話が絶えず自由にできる可能性」という、自由の本質を訴えている。
そして作者は本作を通して「巨大な鏡」を一つ置いたのである。

本を通して構築する人間関係、読書の本質はなにかを、本作を通して再認識した。

本は人と人とをつなぐと同時に、人を人間としての個人に戻す。
本を読むことは自由への第一歩である。

自由は自分の意思で獲得するものであり、過酷な抑圧が人間になにを生み出すのかを、改めて確認した。

日本人としても、考えさせられることの多い作品だった。

 * * *

次回の課題図書に関して。
ウクライナ問題に絡めていつかは、

巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ

を取り上げたいとしながら、その前に日本を見つめるという意味で、

応仁の乱』(呉座勇一)や、

天狗党事件を取材した

『魔群の通過』(山田風太郎

もいいでしょうという発言も出た。
一転して、

『哲学の貧困』(プルードン
『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(マルクス
『ニコマコス倫理学』(アリストテレス

もどうだろうかと、意見は拡散した。

結論は、時代性を鑑み、

『新しい国境 新しい地政学』(クラウス・ドッズ)

が課題図書として決定した。
副読本は以下の通り。

『新しい世界の資源地図』(ダニエル・ヤーギン)
『陸と海と』(カール・シュミット

それでは、オフライン開催予定の次回第38回目も、お楽しみに。

三津田治夫

不確実性を味方につける、ワーケーションという生き方

ワーケーションをいう言葉をよく耳にする。「ワーク(work)」と「バケーション(vacation)」を組み合わせた造語で、本来の意味は休暇や帰省の合間に仕事を組み入れるという働き方のことである。
リモートワークの定着や時代背景から、その意味が大きく変わってきている。その変化と本質について考えてみたい。

まず、なぜワーケーションの意味が変わってきたのか。
その第一が、VUCAワールドという言葉に代表されるような、先の見えない不確実性が背景にある。
世界的な金融危機や気候変動、災害で、人々のマインドと社会の枠組みは大きく変わった。
さらにはパンデミックや隣国の独裁者による戦争など、VUCAワールドという言葉は日増しに現実そのものになってきている。

世の不確実性が高まるなか、さらに100年ライフという言葉が重なる。
揺らぎ続ける社会の中で100年生きていくのだ。
こうした新しい課題が我々の目前に差し出されている。
この課題とは言い換えれば、新しい生き方の選択、である。
100年ライフを提唱したリンダ・グラットンいわく、学習を終えて就職・退職・年金生活という従来の活動と引退の構造に身を置くのではなく、学習しながら一生働く、新しい生き方である。

100年ライフの考えに従えば、人生の8割が仕事である。
つまり「生きることとは働くこと」なのである。
書いていて私は、なんて当たり前のことをいっているのかと自問した。
が、「仕事とプライベート」という言葉があるように、生きることと働くことがある時から分離されてしまった。
つまり、企業組織が極度に高度化したことにより、従業員は意識して働かずにも(組織のルールさえ守っていれば)生活に困らない報酬が約束されるようになってきた。
そうしたケースは大企業でしばしばみられる。
しかし、その状況で収益を上げることは困難である。
大企業の危機意識はここにある。

企業は、収益の源泉となる組織を死守しながらも、いままでとは異なった新しい働き方を従業員に求めている。
副業の許可やリモートワークなどがそうだ。
いままでは企業が従業員の生活(人生)の責任の多くを負っていたが、これからは自己責任なのである。
働き方が大きく変われば生き方は大きく変わる。
つまり、生き方の再デザインが求められる。
社会の不確実性にも耐えられる生き方の再デザインが必要である。

価値の本質はコントロール不可能なものから生まれる
社会の不確実性といったが、そもそも確実な社会はあるのか、という疑問はいつもある。
社会が確実だとは一つの幻想である。
とくに40代以上の昭和世代には、こうした幻想が強い。
また、昭和世代の親たちは戦中派や団塊の世代であることが多い。
ひどい時代を一度経験した彼らは、いっそう幻想(過去に戻りたくないという意識)が強い。

しかし、社会はそもそも不確実である。
病気にかかれば医師や薬物が治療してくれるし、貯金をして旅行に行ったりマンションを買ったり老後に備えたりができる。
会社に行けば月給がもらえ、疑問や不明点はWebで検索すると大方わかる。

私たちは、上記が思い通りにいくという幻想の中で生きている。
これが思い通りにいかないことが「不確実」である。
ほんの500~1000年ほど前の日本の中世に目を向けてみる。
病気の最強の治療者は祈祷師で、貨幣の概念はほぼなく、仕事は兵士か個人事業主、奴隷ぐらいで、疑問や不明点の解決を握るのはお坊さんだった。不確実極まりない社会だ。
言い換えると、確実とは精緻な仕組みが正しく機能すること、である。
ITやコンピューティングの正確性は、まさに、人間の確実幻想を満たす重要な要素である。

それでもいまだにパンデミック、戦争、経済恐慌、企業収益、知の課題など、なにも解決できてはいない。

つまり世界は不確実であり続ける。
そもそも、世界はコントロール不可能なのである。

病気も戦争もビジネスも、コントロールできている状態がポジティブで、そうでない状態がネガティブ。
こうした認識を持つ人が大半である。

では、不確実でコントロール不可能なものは、本当にネガティブなのだろうか?

不確実性から生まれるクリエイティビティ
不確実でコントロール不可能なものは、コントロール次第でポジティブなものに転じる。
そう私は断言する。
この時代だからこそ、目の前に山ほどある不確実でコントロール不可能なものを逆手にとることで、ポジティブなものに転じる。
そこに大きな価値が生まれる。

たとえば、出会いや発見、ハプニングというセレンディピティは、不確実性を味方につけたポジティブの宝庫である。

科学者やアーティスト、事業家の着想のタネの多くは、この不確実性の中から生まれている。

そこで、ワーケーションという言葉に戻ってみる。
ワーケーションは、不確実性をコントロールする強力なツールである。

たとえば、ワーケーションで仲間と山や海を散策しながら仕事の話をする。
会食の雑談の中からビジネスのアイデアが生まれる。
現代の茶室とも言われるサウナで、整いながら対話をする。

企業や組織といった人造の枠組みからいったん離れ、自然へと人が戻る。
これにより人は正直になり、本心から対話を始めることができる。

自然の中では大雨が降りだしたり、交通に問題が出たりなど、つねに不確実性に見舞われる。そして不確実の中で、人は本当の姿を現す。

「合宿」とワーケーションはまったく逆である。
合宿ではどうしても、組織の主従関係や忠誠心といった「本心の外」からの心理的バイアスがかかる。
無礼講という言葉があるように、組織が巨大で強固であればあるほど、この心理的バイアスは逃れられない宿命となる。
組織の主従関係や忠誠心を強固にすること(組織内部での信頼関係の強化)が合宿の目的であり、不確実性を取りに行くような場では決してない。

人の心や生き方を大きく変えるものは、自然との出会いである。
人間や植物、動物、風景といった自然との出会いには、人そのものを一瞬にして変える強いパワーがある。
価値を生み出すクリエイティビティの源泉はここにある。

不確実性を味方につける。
人生や仕事をポジティブかつ大きく変える最強のメソッドだ。
そしてそれを動かすための最強のエンジンが、ワーケーションだ。

三津田治夫

渋沢栄一とその子孫の創造力 ~時代を突破する武器としての教養~

先日知り合いの誘いで、渋沢栄一(1840~1931年)をテーマにした読書会に参加する機会を得た。これを機に、いろいろと調べ、考えた。

渋沢栄一の名前から私が第一に思い出すのは、
作家、澁澤龍彦である。
彼は渋沢栄一のいとこのひ孫にあたる、
文学の翻訳や欧州に渉猟したさまざまなエッセイを残した昭和の作家である。
フランス暗黒文学のマルキ・ド・サド(サド侯爵)の名訳を残し、その『悪徳の栄え』がわいせつ文書にあたるとして起訴された「サド裁判」(1961年)で世に知られた。
大江健三郎埴谷雄高遠藤周作大岡昇平吉本隆明など、昭和の人気作家たちが名を連ね弁護側に立ち、社会現象にもなった。

いまではわいせつ文書で起訴、などという事件は消え失せてしまったが、当時はこういうムーブメントがあった(「チャタレー夫人裁判」など)。
ちなみに日本ではこのようなことになってしまったが、本国フランスでマルキ・ド・サドといえば国宝級の大作家である。
また、三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』(1965年)の元ネタが澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』であることも重要だ。

澁澤龍彦は、人間の心の暗部や歴史の裏側に光を当てた作家で、いまの日本の「サブカルチャー」の基盤を築き上げた人物である。
晩年には幻想紀行文学『高丘親王航海記』を上梓し、1987年8月に生涯を終えている。

日本がゼロから再起・自律するための合本主義

日本資本主義の父といわれる人物と血縁の暗黒文学作家には関連があるに違いない。
そこで直感したのは、「クリエイティビティ」である。

渋沢栄一が生きた幕末から明治にかけての日本は、いまと相当雰囲気が異なっていた。
まず、先進国はすべて敵。
日本は八方ふさがりである。
そんな時期に求められたのが、ゼロからイチを立ち上げるクリエイターでスタートアップ思考の人物だ。

高度な技術と学問を持った西欧列強が日本へと攻めてくる。
直面した極東アジアの小国の日本人ができることは、限られたリソースを最大活用し、考え、生み出すことだった。
その前に、さらに重要で厳しい課題を乗り越える必要があった。
それは、いままでの戦略では列強と戦う力量のない日本人の現実を受け入れることだ。
200年以上平穏に暮らしてきた日本人のプライドの厳しい自己否定である。
まさに、ゼロから出発した世界との戦いだ。
ゼロからイチを立ち上げるクリエイターでスタートアップ思考の人物として渋沢栄一が重宝された背景はここにある。

もう一つ、彼の強いクリエイティビティは、1867年の渡欧からの帰国後、日本のビジネスインフラの立ち上げに発揮された。
マルクスが『資本論』を発表したのは1867年9月。
奇しくも彼がパリ万博に足を運んだのが同年3月で、半年後の10月には日本で大政奉還が行われている。
資本論』でレポートされたような、経営者が労働力として児童たちをも奴隷のように酷使する資本主義のダークサイドを、渋沢栄一はリアルに見て感じた。
「西洋みたいにおカネに支配され人間を手段にしちゃまずいな。でも、おカネ重要だよ」と、心の中でつぶやいたに違いない。
そこで渋沢が日本のために行動した成果が「合本主義」である。

マネーで実現する万人の富の追求

渋沢栄一は日本資本主義の父といわれるが、
頭に「日本」とつく点が肝心だ。
資本主義とは言わずにそれを合本主義といった。
合本主義とは、万人の利益のために出資を集めて事業を興し、その事業で得た利益を分配すること、とされている。
その収益の分配のために西洋の株式会社の仕組みを日本にローカライズし、導入した。

求められるのは万人の利益、である。
極言すれば、これは資本主義ではなく、ある種の宗教である。
ゆえに西洋人の目からは、日本にあるのは資本主義ではなく社会主義だ、と映るのだろう。
なぜなら本来、資本主義が追求するものは万人の利益ではない。
資本主義が追求するものは株主の利益である。
いま、株主利益のトリクルダウン(上が儲かれば下までお金が降りてくる)が起こらなくなったことが社会認知されてしまった点も、万人の利益に着目した渋沢が評価されている一側面である。

混迷に立ち向かえない日本人のメンタリティのいま

150年以上前の日本人がとった思想と行動の成果は、
西欧の人間から見たら大変な恐怖だった。
1905年には超大国ロシア率いる無敵のバルチック艦隊
アジアの小さな島国が破ってしまった。
これは西欧列強にとっては現実的な脅威だった。

日本には江戸時代、中国大陸文化をローカライズした、本居宣長や契沖らによる「国学」があった。
中国大陸文化の儒教を下敷きに独自解釈した『論語と算盤』を出版し、日本人のビジネスに対するメンタリティを作り上げたのは、漢籍に教養が深かった渋沢ならではの戦略だった。
いわば『明治版国学・ビジネス編』である。

第二次世界大戦の敗戦と戦後教育を通し、アメリカの親密な同盟国として、日本人が連綿と積み上げていったメンタリティは徹底的に書き換えられた。

戦後日本は朝鮮戦争を経て高度成長を果たすものの、
ベトナム戦争オイルショックバブル崩壊
阪神淡路大震災リーマンショック東日本大震災
新型コロナウイルス感染症、ロシア・ウクライナ戦争が訪れ、
出口の見えない混迷と停滞の時代に突入した。

日本人が混迷と停滞にあえぐのは無理もない。
心の芯にあった自前のメンタリティがすっぽり抜かれたままなのだから。

教養とは身体化した深い知識

最後に、合本主義の実現に向け渋沢栄一がクリエイティビティを発揮した役割として、コミュニティのプロデューサーであった点が注目に値する。
彼の頭の中では、企業とは社会を構成するコミュニティの一要素にすぎなかった。
渋沢栄一が初代会頭を務めた商工会議所こそ、日本の経済人を束ねる、元祖コミュニティである。

目前の金銭や企業の売り上げは、生活のための血液であり経営のためのガソリン。基本中の基本である。
しかし、人間の芯にあるメンタリティを保持することはさらに重要。
その意味で教養は重要であると、渋沢栄一はたえず教養を語り続けた。

教養とは知識ではない。
教養とはその人の人生を生かした深い知恵である。
知識の上の次元にある心の中の情報が教養だ。
知識が行動化・身体化したものが教養だ。
暗記された学びは知識でしかない。
行動に移され検証され身体化された知識が教養だ。
暗記された学びの量ではGoogle先生に勝てるわけがない。
そう簡単に手に入らないものが教養だ。
スピード重視のいま、教養を手に入れるのはことさら難しい。

教養を手っ取り早く身に着ける唯一の方法とは?

そんないま、最もハイスピードに教養を身につける方法が一つだけある。
それは、「失敗」することだ。
やったことのない行動をすれば人はほぼ失敗する。
失敗は再起不能にも陥るという過大なリスクをはらんでいる。
それゆえに人は失敗を恐れる。
子供を持つ親たちは、自分の子供の失敗や挫折をなおさら恐れる。
こうした、リスクに対する恐怖心により、子供たちや個人、社会、国家の安全が守られている。
とはいえ恐怖に支配されたまま、この過酷な時代を突破することはできるのだろうか。
恐怖に支配された人間がとる人類最悪の行動は、ご覧の通り、戦争である。

では、どうするか?

再起可能な失敗を積極的に受け入れ、何度も検証し、身体化することだ。

いまとなってはドラマの主人公になり紙幣の肖像の偉人で神様の渋沢栄一も、現場では人に言えない、書き残すことがはばかれる失敗を相当した。
偉大な人間ほど、恥ずかしい失敗を嫌というほどしている。

再起可能な失敗をし、安全に受け身を取る。

そして冷静に検証し、教養を身に着ける。

これが、いまの時代をブレずに生き抜くための、最短で身につく最強のソリューションである。

三津田治夫