72年前、1945年の明日、8月6日、午前8時15分、核兵器が人類に初めて使われた。広島に原爆が投下された日時である。
それから9年後の1954年、ビキニ環礁で操業中の漁船、第5福竜丸が米軍の核実験に巻込まれ被爆した。
その模様と後日談は『ビキニ事件の真実――いのちの岐路で』(大石又七著、みすず書房刊、http://amzn.asia/60rX7Sm)に克明に記されている。丁寧に書かれた質の高い書物なので、一読をお勧めする。
2011年、原発事故の起こった東日本大震災の年の夏、埼玉県草加市立中央図書館において、ビキニ環礁で被爆したその著者であり第5福竜丸の元乗組員、大石又七さんの講演に参加した。原爆投下日にあたり、そのときの短いレポートをここでお届けする。
ビキニ事件で亡くなられた乗組員の死因はすべて毒素の分解器官である肝臓のガンもしくは肝硬変であった。大石さんも肝臓ガンや肺腫瘍などを抱え、32種類の薬を飲みながら生活している。被爆の当事者であるご本人の発言は非常に重く、またご本人の柔らかい物腰と口調には物静かな気迫があった。
1954年の被爆の当時、「体になにが起こっているのか誰もわからない」という状態だったと大石さんはいう。出てくる症状に医師は対症療法を繰り返していた。
大石さんは当時を振り返り、こういう。「ビキニ環礁であれだけのことが起こっていたのに、科学者や政治家が調査に足を運ぶことはなかった。ビキニ事件が詳細に調べられていたら、日本に原発など作れるはずはなかった。なんで同じ過ちを繰り返すのか」と。
震災による原発事故に関し、ご自身の苦しい体験を通じて「ビキニ事件のときもそうだったが、人はメディアの言うなりで事実を知ろうとしていなかった。それが問題」という。
「科学者や政治家だけでなく、皆が、”いまなにが起こっているのか”を知り、調べ、伝えることが大切。過去にこれを怠ったことで、同じ過ちが繰り返された」とも。
言い方が悪くなってしまうが、大石又七さんは負の人間国宝として守られるべきだ。原爆ドームや資料館を残すことも大切だが、生き証人が語り部として、あってはならないことを伝え継ぐことこそ、本当の平和や安全の意識が人々の中に植え付けられるのではないか。大石又七さんの講演は、そう、私に強く思わせた。