本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

混迷の時代に「大衆とはなにか?」を考える:『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガゼット)

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ネットにつながる大衆、街に群がる大衆、投票する大衆、列車に乗り込む大衆、旅行に大挙する大衆……。いまや当たり前に大衆の時代だが、それが認知されたのが20世紀前半。一世紀近く前の混迷の時代に書かれた書物から知恵を拝借すべく、某月某日、都内某所で開かれた記念すべき第10回目読書会のテーマは、オルテガ・イ・ガゼットの『大衆の反逆』だった。

読んでいて、彼の抱いた世界への強烈な危機感が、混迷の現代に生きる私たちの心にも強く響いてきた。
以下、本文から引用する。

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きわめて強力でありながら、しかも自分自身の運命に確信の持てない時代。自分の力に誇りを持ちながら、同時にその力を恐れている時代、それがわれわれの時代なのである。

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彼が言う「われわれの時代」とは『大衆の反逆』が発表された1929年。その上でオルテガは「いまや大衆の時代になった」と、古来から人類が望んでいた大衆の時代がついに到来したと主張する。お金さえ出せば誰もが食べたり、医療行為や教育が受けられる。国家は民主主義で運営され、社会の保安や個人の安全も保証されている。そうした現代社会が先人の努力で築かれたものではなく、当たり前で無条件に存在していると「無意識」に現実を享受する人たちが、大衆である。一般民衆のみならず、エンジニアや科学者、医師、財界人といった「現代のブルジョワ」もまた無意識な大衆であるとオルテガは定義づける。その上でオルテガは、こうした人類が古来から望んでいた大衆化社会が充足された時代こそ「終末に他ならない」としている。社会的責任や歴史認識に責任の希薄な「生の計画を持たない人間」である大衆が権力を握った時代と共に終末がやってきた、というのだ。

知識人と民衆をひっくるめ大衆を徹底攻撃するオルテガの姿勢は、時代背景を見るとよくわかる。以下、『大衆の反逆』が成立するまでの世界史を復習してみよう。

●1914年7月28日 :第一次世界大戦・開戦
●1917年 :ロシア革命ボルシェビキが政権獲得
●1918年11月11日 :第一次世界大戦終戦
●1922年12月 :ムッソリーニファシズム評議会を設立
●1923年11月8日~9日 :ヒトラーミュンヒェン一揆
1924年4月6日 :イタリア総選挙で国家ファシスト党が有効票の64.9%を獲得
●1929年 :『大衆の反逆』を発表(オルテガ46歳のとき)
●1932年7月 :国会議員選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が37.8%を獲得

第一次世界大戦終戦から10年を経て『大衆の反逆』が発表された。その間、大衆の支持によって成立したボルシェビズムとファシズムが世界に姿を現す。これらにオルテガは強い反感と危機感を抱いたのだ。ボルシェビズムもファシズムも古典的な支配・被支配の構造で成り立っており、これらは古代ギリシャ・ローマの失敗からまるで学んでいない。すなわち、ボルシェビズムもファシズムも、歴史的認識の希薄な大衆により生み出された産物である。

こんなのはまったくダメで、民衆は「生の計画を持つ人間」をリーダーに選び、高い意志を持ってリーダーとビジョンを共有し、リーダーに運命を託した「国民国家」の形成が必要であると、オルテガは結論づける。「国民国家」というキーワードでオルテガが声を上げたかったのは、「ヒトラームッソリーニは非常にまずいし、ロシアもかなりまずい。ヨーロッパの東と内部の双方から危機がやってきて、とてもよろしくない状況。だからヨーロッパよ、現実を直視し、立ち上がろうぜ!」である。『大衆の反逆』をもってオルテガは「ヨーロッパの覚醒」を呼びかけたのである。混迷の時代において彼は、時代に一矢報いるスペイン版のカントやヘーゲルになりたかったのに違いない。

彼の欧州中心主義の主張は、ヨーロッパで理想的な国民国家を生み、その成功事例を世界に示すという、高貴な志に基づく。作中では現在のEUを予言するような欧州連合の話が出てきたりもする。いわばこれは「未来志向」の本である。以下、本文から引用する。

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ヨーロッパ人にとって、時間は「これから」によって始まるのであり、「これ以前」から始まるのではない。
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東西ドイツが統一したときに大統領のヴァイツゼッカーは、「ドイツ統一によって世界は調和できるというモデルを欧州から発信する」と、歴史的な演説をしていたことを思い出す。その後のドイツはごらんの通り。ロシアやウクライナといった東方との外交問題、移民受け入れの問題、欧州での政治問題、歴史的問題、内外の複雑な問題は日本では考えられないほど山積し、未来は不透明だ。

明治維新以来日本人が経験したことがないような長期にわたる混迷と停滞の時代において、オルテガのような警鐘を激しく鳴らす言論人は登場しない。日本には論壇というものが存在しないのだろうか。いまはネットで世界中の言葉や映像がリアルタイムで詳細に閲覧できる(オルテガの時代にはまったく想像もつかなかった科学の大進歩)。発生した事実は生のまま共有され記録される。しかもそれらはアーカイブ化されていつでもアクセスできる。そんな時代だから、個人が目で見たり耳で聞いたりしたもので、判断が迫られる。それゆえに、言論にも宗教にもすがることのできない現代の日本人にとって、混迷は日増しに深まり続ける。個人レベルで見ても、不安にとらわれた人は多いし、心を病む人は多い。日本社会の構成員にそうした人たちが多いのが現実だ。オルテガの作品を通し、いまのわれわれの置かれた状況が鏡に映し出されたような印象だ。頼るべき言論も宗教もない現代の日本で、私たちはどうやってこの時代を乗り切っていけるのだろう。

そんな私の問いかけに対し、読書会のメンバーはただ「うーん」とうなるばかり。私も一緒にうなっていた。

最後にオルテガの言葉を引用する。

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人間の生は、望むと望まざるとにかかわらず、つねに未来のなにかに従事しているのである。
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三津田治夫