本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

コミュニティと共産主義、そして美しい造本は、多彩なエクスペリエンスを与える:『ヴォルプスヴェーデふたたび』(種村季弘著)

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1980年に刊行されたこの本、楽しみながら味読した。
19世紀後半にドイツに作られた芸術家コミュニティ、ヴォルプスヴェーデをめぐるエッセイ集。

現在でもドイツはブレーメン郊外に観光地として存在するヴォルプスヴェーデ。詩人リルケが一躍有名にした村である。
自然に還れ、芸術は自然の中にあるをスローガンに、ユーゲントシュティルの画家ハインリッヒ・フォーゲラーがこの村の運営を行った。リルケをはじめ、のちに彼の妻となる彫刻家のクララ・ヴェストホフ、画家のパウラ・モーダーゾーン・ベッカーなど、名だたる芸術家たちがこの村を本拠地に自由闊達な創作活動を繰り広げた。

リルケはのちにこの村を去り、ロダンとの親交を通して世界的詩人として名を挙げる。同時期『ヴォルプスヴェーデ』を発表し、小さな芸術家村の名前を世界に広く知らしめた。

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ヴォルプスヴェーデの運営者、いわばコミュニティリーダーであるハインリッヒ・フォーゲラーは、村の支援者から経済的支援が途絶え、のちにロシアに移り共産主義に身を投じトロツキー派として活動を展開するが、スターリンが政権を握ることで国を追放される。命からがらドイツに帰還するも、失意の晩年を迎える。
ハインリッヒ・フォーゲラーの半生をキーワードでくくるとすれば、創作、コミュニティ、共産主義、の3つである。

創作とコミュニティとはいまでこそわかりやすい概念で、ものづくりの場としてのコミュニティ、協創の場としてのコミュニティ、という考え方がある。
共産主義というと、計画経済や情報統制、プロバガンダなど、日本人にはいまの北朝鮮から受けるイメージが強いが、元を正せば「共産」というぐらいで、働く人たちが助け合いながら生産活動を行い、成果物を平等に分け与え、それを世界に広げましょうという、共存と世界平和の発想から来ている。これもまた、現在のコミュニティという概念の基礎をなしている。

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生産した作品を商品化し、貨幣化し、村を回すという経済的循環の形成が、ハインリヒ・フォーゲラーのようにうまくいかないと、支援者の撤退とともに活動は終焉を迎える。

言い換えると、王侯貴族がパトロンとなって芸術家たちを養っていた時代はとうに終わっていた、ということである。芸術家が精神的のみならず経済的にも自立する時代が、ハインリヒ・フォーゲラーの時代にはすでに来ていたのだ。が、彼はその時代をキャッチすることができなかった。逆に、この時代を巧みに泳ぎ渡った芸術家の名前として即座に思い浮かぶのが、『三文オペラ』の劇作家ベルトルト・ブレヒトである。

20世紀初頭のこの時代、いまの時代になんとなく似ている気がしている。
創作活動を貨幣に変換することはいつの時代にも困難だが、貨幣化までの資金を援助する人物の存在もまたいつの時代にも重要、ということがわかる。いまでは、クラウドファンディングがあったり、さまざまなスタートアップの方法や情報交換のコミュニティなどがあり、活用の機会も多い。このように、創作活動を貨幣化するための敷居は確実に下がっている。これはいい時代傾向である。

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『ヴォルプスヴェーデふたたび』に戻ると、この本の内容はもとより、造本が実に素晴らしい。
箱入り上製本は、昨今の書籍制作原価削減でなかなかお目にかかれなくなったが、上製本には、ならではの妙味や美学がある。手に取ったときの肌感覚、書籍を箱の中からストンと落としたときに感じる重力の感覚、そして、表紙を開いて現れる見返しの図案の美しさを楽しむ感覚。

一冊の本からこうしたさまざまな感覚の体験が現れ出る。つまり、さまざまな表情の「エクスペリエンス」を感じることができる。エクスペリエンスを与えてくれる本だからこそ、手にして嬉しいし、読んで嬉しいし、蔵書して嬉しい。
本には、書かれた文字から得られる思考的なエクスペリエンスと、物体に触れるという触覚的なエクスペリエンス、物体を所有するという物欲的なエクスペリエンスの、3種類がある。本来、本は、知識欲と物欲という2つの所有欲が密接に結びついた独特の価値を持っているものだ。これも、この本を通して私が言いたかったことである。

三津田治夫