本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

市場に疑問を投げかける、日本の出版衰退史を描いた文学エッセイ ~『日本文学盛衰史 戦後文学篇』(講談社刊、高橋源一郎著)~

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日本文学盛衰史』の続編という位置づけで戦後現代文学をメインテーマに据えた作品。作者の高橋源一郎氏の絶妙なレトリックの中、彼の文学に対する愛、出版に対する情、近代に対する憧憬が立像のように浮かび上がってくる。

言葉から「抵抗」が失われた現代
冒頭は井上光晴主演、原一男監督のドキュメンタリー映画全身小説家』からはじまる。作者の大学の教え子たちにこの映画を見せたときの模様と学生らの感想は実に隔世感がある、という内容。平成の若者からすると井上光晴はもはや昭和の変わったおじさんでしかなく、「近代」という概念(第二次世界大戦までに支配的だった考え方)が失われた現代に生きる学生たちにとって、映画に出演する井上光晴から大文学者としての価値を発見することは難しい。同様に「「近代文学」は「近代」という「コンテクスト」抜きでは、読むことができ」ずに、「「近代」が失せつつあるいま、読むことが困難になりつつある」とも結論づけている。

次は、戦後現代文学作品として石坂洋二郎の『光る海』を取り上げる。石坂洋二郎は戦後日本人の解放された性をテーマに若者とその親の世代の対話を描くわけだが、若者同士の不自然な会話や、若者が両親に向かってその夫婦生活を真顔で問うなど、「ありえねえ」描写があまりにも多い。それもまた、作者の目が捉えた戦後現代文学の一側面である。

戦後の代表的な作家である井上光晴も石坂洋二郎も、戦後現代文学というパブリックイメージを築いている。これは、高橋源一郎氏が内田裕也東京都知事選立候補の演説を聞いたときに得たネガティブな第一印象を振り返り、「文学が世間で扱われているときと同じ」パブリックイメージに支配された読者の姿に気づいたという。内田裕也の演説は都知事選とはほど遠い、自らのロック観、自分史が英語で語られたもので、聴者の多くはそれに違和感を覚えた。その違和感こそが、時代が共有したパブリックイメージである。

その違和感の対極にあるものが、売れている(多くの)人気ビジネス書に代表される文章で、それは「およそ「抵抗」というものがない」「超電導物質みたいな」「スタートした瞬間に、目的地の到着している」文章である。かつて文学は社会に抵抗し、文学は若者の社会への抵抗に寄り添う媒体であった。しかし「近代」が失われたいま、若者はある時期において社会に抵抗するという概念はすっかり消え去った。戦争や革命といった「近代」の精神から生まれ出た抵抗の象徴であるロックやパンクが、その発生過程を体感していない平成世代に新鮮に映るのには意味があるだろう(無意識に「平成世代」という単語を使ったが、思えば私は「現代っ子」や「新人類」と言われたものだ)。

「およそ「抵抗」というものがない」「超電導物質みたいな」文章が書店や出版社の収益を支配する(収益のために依存せざるをえない)風潮は、「消費者」マインドが出版界にも蔓延し、「貨幣経済が社会の全局面にまで浸透した結果生まれた」と作者は分析する。「抵抗」は多数決優位の市場主義経済にはまったくフィットしない。だからこそ底なしの「出版不況」が日本を襲っているとも換言できる。

出版とは、人が生きるのに必要な「言葉」の提供活動である
出版とは、人が生きるのに必要な「言葉」(としての基礎知識)の提供活動である。出版界が市場主義経済に飲み込まれれば、読者と「抵抗」を共有することはできない。これに伴って、読者が受け容れに抵抗のない出版物が評価され、多数決の原理で「「わかるもの」ですます、「わからない」ものは見ずにすます(似てるけど違う)、「わかった」ふりをする、--といった通念が社会に満ち溢れる。」のである。出版不況とは市場の荒廃といった経済の危機であると同時に、人間そのものの荒廃をも生み出す精神の危機である。

象徴的な事件として、先日9月25日、日本の文学と出版文化を支え続けた大手老舗版元(〇〇文庫の百冊とかやっているところ)が月刊誌で差別的な記事を掲載してSNSで炎上、あえなく休刊という残念なニュースがあった。編集部の記事チェック体制云々という問題ではない。記者の人生観や世界観という問題、そこに賃金を支払う版元の、「精神的出版不況」という問題は大きい。版元のお財布事情からすると、今回の事件をきっかけに月刊誌という赤字コンテンツを体よく「リストラ」する口実になったはず。それだけ出版界は精神的にも荒廃している。

高橋源一郎氏の軽妙な文体で、ときにはツイッター小林秀雄大岡昇平を降臨させSNS上で文学談義をはじめたりなど、「ありえねえ」を逆手に取った笑える試みが多数取り入れられている。が、明るくイケイケの作品でないことだけははっきりと言える。本エントリーのタイトルにも書いたように、『日本文学盛衰史 戦後文学篇』は「日本出版衰退史」ともいえ、文学と共に出版が消え去っていく近未来を示唆するちょっと怖い作品である。

市場主義経済のはるか外側に出版「市場」ができつつある
最後に、「近代」と「抵抗」が失われた現代、文学とは一体どういった役割を持ちうるのだろうか。それを伝える作者の言葉が印象的だった。

一つは、「人びとがいて、人びとによるばらばらのコミュニケーションが奇蹟のように存在してる、ということを伝えるために小説は存在している。」と、高度なコミュニケーション媒体としての文学の役割である。
もう一つは、「小説とは、共同体のひな型、もっとも小さな共同体であり、やがてやって来る共同体の内実を予見する能力を持っている」とあるように、東日本大震災以来日本人が強く意識しはじめた「共同体」を構成する、原子としての文学である。共同体とは物理的な地域だけではなく、個人の身体や心、その集まりである集団の心や意識のすべてを指す。そして共同体の未来を予見する力を内包する言葉の集合・構成が、文学である。

近代文学といまの「出版」はご覧の通り、風前のともしびである。しかし人間が生き続ける限り、言葉のともしびが消えることはない。だから、出版という仕事は決してなくならない。風前のともしびを乗り越え、出版という仕事は淘汰され、再構築される。市場主義経済のはるか外側に、人と人をつなぐコミュニケーションの道具として、文学は出版とともに新たな力を発揮しつつある。それだけ社会は変容している。『日本文学盛衰史 戦後文学篇』は、そんな、まだ見えていないが心の中にすでにできあがっている、いままでにない出版「市場」を可視化させてくれた作品であった。

三津田治夫