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趣味から美学、崇高、自然まで、スリリングで難解な論考を展開:『判断力批判』(上・下)(カント 著)

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カントを知るには『純粋理性批判』と『実践理性批判』という巨大な山脈があるが、その最後に控えているのが『判断力批判』である。
カントの「批判シリーズ」の最終作で、遺作。

まずカントの言葉で誤解しやすいのは、「批判」の語意だ。
日本語で言う批判とは「否定」や「非難」ととられることが多いが、カントの言うそれは「精査」や「吟味」である。
状況をさまざまな方向から評価し、これがいいのではないか、あれがダメなのではないかと精査し、吟味し、判断する。
それが「批判」(クリティーク)である。

判断力批判』でカントが取り組んだ問題もまたすごい。
カントが晩年にいたって取り上げた研究題材は、人間の「趣味の問題」である。

人間には各人各様の「趣味」があり、それは個人的な趣向やセンスによって決定される。
そして、趣味の一段上にもレイヤーがある。それは、「美」という概念。
趣味とはいたって個人的なものだが、美とは、他人と共有できる趣向やセンスである。
美しい花や美しい女性、美しい景色など、たいていの美意識は他人と共有できる。

そしてさらに上のレイヤーがあり、そこには「崇高」という概念がある。
崇高とはつまり、人間の手ではなにもなしえない偉大なことであり、畏れでもある。
たとえば、巨大な滝や超新星の爆発など、人間の力を超越したエネルギーや変化を目にすることで、人々は崇高の意識を共有する。

導入部のお話は趣味から入り、美や崇高の概念の研究へと向かい、下巻では美や崇高の概念に覆い被さる「自然」についての究明に移る。

「自然」とはなにが原因で発生したのか。果たして自然とはなにかの結果であるのか。
自然とは人間を生かすための手段であるのか。あるいはその逆か。
無条件で存在する絶対存在とはあるのか。
そうした形而上学的で難解な論考が延々と続く。

下巻も終わりに近づき、ようやく読了かと読み進めていくと、最終章が「次の課題」ときた。「この男はまだ考えたいのか!」と、永遠に思考を続けるカントという人物の偉大さに脱帽し、また、驚いた。同時に嬉しくもあった。

三津田治夫

 

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