本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

第27回飯田橋読書会「軽井沢合宿編」の記録:『ファスト&スロー』(ダニエル・カーネマン著)

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今回は、本読書会初の1泊合宿。
しかもその場所は、平成天皇皇后両陛下が出会った高級リゾート地軽井沢。
そして取り上げたテーマは、初の行動経済学
今回は、2002年ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン著、『ファスト&スロー』(上・下)を読むことになった。

小鳥がさえずる済んだ空気の浅間山を背景に、クヌギやコナラの樹木に囲まれた最高の環境で読書会を進めることができた。

「ファスト&スロー」という言葉は、人間の認知には素早く直観的に判断する「システム1」と、熟考を繰り返し時間をかけて判断する「システム2」の2つがある、という解釈からきている。
カントの純粋理性やフロイトの無意識論といった精神の階層構造を批判してできあがった理論を経済学に適用したものが、「ファスト&スロー」の基本的な考え方である。

実験心理学から行動経済学にきれいに連れていってくれる本
会場からはいつにも増して数々の意見が飛び交った。
某大手広告代理店で責任あるお仕事をされていた方からは、「実験心理学から行動経済学にきれいに連れていってくれる本」「気持ちよく人をだまして、ちょっと背中を押すと気持ちよくお金をはらっちゃう仕組みを教えてくれる本」といった、広告代理店ならではの説得力のある発言を聞くことができた。

中には序文の数ページしか読んでいない人も若干一名存在。
どう考えても今回の読書会よりも軽井沢観光を楽しむことを目的にやってきた様子である。

「システム2」を「管理・理性」とするなら、「システム1」とはまさに「直観」である。
そして直観も知能の一部と考えるのなら、知能は遺伝するものであり、直観は人の力で磨くことはできないのではないか、という意見もあった。
一方、「直観」である「システム1」を磨くとは「本当のスキルを磨くこと」であり、その意味で「システム1」は努力によって磨くことが可能であり、またその必要もある、という意見も耳にした。

「直観は経験により磨かれる」という発言もあった。
本文に、大惨事に遭う直前に回避行動をとって一命をとりとめる消防士のエピソードがあったように、人間には予知能力としての第六感も働く。これは消防士という職業の経験から磨かれた直観である、ともいえる。「直感は経験によって研ぎ澄まされる」のである。

このような直観と理性で人間の経済的行動が規定されるという事例を見ながら、つくづく「近代経済学が定義する抽象的な合理的人間像はナンセンス」という意見も聞こえてきた。
その意味で、「心理学のアプローチに経済学という別ルートをつくったのはすごい」ことである。

そもそも具体的な人間から抽象論を導く心理学者は、抽象的な人間のモデルを大前提に具体的な理論を導こうとする経済学者から馬鹿にされる存在であった。
が、その心理学者である著者のダニエル・カーネマンが経済学の分野でノーベル賞を取ったとは大変なエポックメイキングである。

起業家の精神構造において、「システム2」の発動を自発的に停止している
『ファスト&スロー』が扱う分野は行動経済学の分野では、「ビジネス」について多く取り上げている。
たとえば、起業家の精神。
一般的に「起業はほぼ失敗する」と言われている。
ゆえに基本、楽観主義の思想がないと起業は困難である。
人間には成功欲よりもリスク回避欲が高い傾向がある。
ゆえに損はしたくない。
だから起業家は「システム2」が起動する前に行動している。
つまり、「システム2」が起動した時点で前に進めない。
「システム2」の発動を自力で停止しているのだ。

「「起業する」と語っている人ほど絶対に起業しない」という発言もあった。
理屈がないと動かない人がそのたぐいである。
しかし、事業計画書という理屈がないとお金を借りることができなかったりもする。
起業には「根拠のない自信」という「システム1」が根底にある。
自信があるものは売れるし、自信がないのはまず売れない。
しかし、自信があるからといって必ずしも売れるわけではない。
これこそが販売する人間と購入する人間のジレンマである。
そしてこれは、世界の経済を動かす本質的な原理である。

「人から促されて動く「システム1」はあまりよくない」という意見は納得であった。
そういった外発的なものは「システム2」ではないだろうか。

事業家は、アイデアを行動に移す時間が短い。
また、直観で事業相手と組む人が多い。
さらに、事業家は契約書よりも信頼関係という心の状態を先に見るともいう。
このように事業の心理を「システム1」「システム2」に当てはめると、説明がつく。

一方で企業に勤める会社員はどうか。
あまり考えずに「システム1」で動いているが、「システム2」であと付けで理由付けして動いている。
こうしたごもっともな意見もあった。

興味深かったのは、本書の「成功したことしか書かない実用書」のくだりである。
ベストセラー『エクセレント・カンパニー』(トム・ピーターズ、ロバート・ウォーターマン著)を引き合いに出し、「掲載されている企業の多くがその後業績悪化している」と、数値とともに皮肉なコメントが添えられている。
あたかも成功の原則を理論的に体系化しているように見せかけ、実は「たまたま成功したことを書いただけ」という、典型的なビジネス書に対する痛烈な批判である。

プログラミング入門書のベストセラーを多数書かれている作家さんからは、「言い方によって伝わり方も受け取られ方も変わる。結果売れ行きも変わる」という、重みのある意見も聞くことができた。

「システム1」優位の時代にとらわれた私たちの日常生活
日常生活に目を向けると、私たちは「日々だまされて生きている」ことが読み取れる。
SNSは「システム1」にめちゃめちゃ刺激を与えるし、人の感情に訴えかける反応的な行動へと誘導する。
いまや「システム1」優位の時代、ともいえる。
たとえば選挙。
政治家は有権者に「システム2」を発動させない言葉を吐くパターンが多い。

「システム1」にはモデルがたくさんある。
それは、自己イメージを規定する「マインドセット」とも言える。
一人の人間には複数のマインドセットが備わっている。
人はその自己イメージを無自覚に相手へと投射し、嫉妬や攻撃の対象とする。
そしてコミュニケーションは崩壊し、組織や社会、共同体が崩れていく。
つまり、無自覚に「システム1」を起動していてはコミュニケーションに崩壊をもたらすのである。

「直観は成功することもあるけど、大失敗を起こすよ」という冷静な発言もあった。
だからこそ「システム2」を鍛え、巧妙な現代を乗り越えましょうというアドバイスである。

ごま書房の創業者である多湖輝氏が上梓したベストセラー『頭の体操』(1966年刊)を持参した方もいた。
「「システム1」でついつい答えてしまう「ものぐさな脳」があるからこそ、「システム2」の「熟考の思考」を鍛えよう」という、『頭の体操』に込められたメッセージをカーネマンの著作に引き寄せて説明してくれた。

「「システム1」に訴えかける音楽はワーグナーでは?」という意見もあった。
たしかに、第二次世界大戦ナチスドイツは戦車の砲撃進撃にワーグナーを流していたという史実がある。フランシス・コッポラの1979年の戦争映画『地獄の黙示録』で米軍のベトナム攻撃のBGMに「ワルキューレの騎行」を使ったのはまことにネガティブなナチスのパロディである。

最後に、「システム1」の歴史的起源を言及。
「システム1」を巧妙に操り商業の世界にまで体系化したのは大手広告代理店であり、その起源は香具師(やし)にあるはず、である。

マムシと称する蛇をちらつかせて膏薬を売る「蛇や」や、木曽の御嶽山から持ってきたと称するモグサを山伏の扮装で販売する香具師がそれにあたる。

世界経済を動かす心理構造を解明した傑作
以上、人間の行動を促す心理にまつわる、会場から出た発言をまとめた。
こうした心理構造が、世界の経済を動かしているのである。
ほぼ失敗するのに「絶対に成功する」という根拠のない自信で起業する人は後を絶たない。
ビル・ゲイツスティーブ・ジョブスマーク・ザッカーバーグ孫正義といったたぐいの人がいるからこそ、資本主義経済は健全に成り立っている。
株式取引に関しては「こんな株いらないよ」と売る人がいる。
その対極に、「いや、買う価値があるじゃないか」という行動をとる人がいる。
だからこそ、株式市場は成立している。
そんな人間の心の機微を、蓄積された実験の成果や情報を通して解き明かそうとした。
それが、行動経済学である。

読書会はいつもより30分ほど早めに切り上げた。
メンバーはタオルと着替えを片手に温泉へと移動。
活火山浅間山のふもとから湧き出る温泉は実に心地よい。
メンバーと露天風呂にてダニエル・カーネマン談義に花が咲く。
髪の毛を乾かす女子一名があがってくるのを待ち、近所のイタリアンレストランへと移動。
温泉で充分に温まった体に、白ワインとピザ、パスタの組み合わせは絶妙であった。
ラストは、映写機技士の資格を持つM氏によるエルモ映写機による16ミリフィルムの映写大会を開催。

翌朝には解散し、無事帰宅。
素晴らしい、初の読書会合宿だった。

会場として軽井沢の別荘を快くご提供いただいたメンバーのNさんには心からの感謝、感謝。

  * * *

さて次回。
またまた趣を変え、『ペテン師列伝』(種村季弘著)を取り上げます。
ドイツ史に取材したこの本、日本に出現した結婚ペテン師クヒオ大佐にも影響を与えたとも言われています。トーマス・マンの遺作『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』やゲーテの『大コフタ』など、ドイツ文学の名作にはさまざまなペテン師が登場しています。
読書会、どのような展開になるでしょうか。

次回も、お楽しみに!

三津田治夫