本とITを研究する

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第30回・飯田橋読書会の記録:『ガリレイの生涯』(ベルトルト・ブレヒト著)

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読書会、記念すべき第30回目に取り上げる作品は、戯曲である。
どんな激動の時代にも「保身でしたたかに生き延びる人」はいる。
その象徴的な一人が、今回読書会で取り上げた戯曲『ガリレイの生涯』(1943年)を発表した、ドイツの戯曲家で詩人、ベルトルト・ブレヒト(1898~1956年)である。
ブレヒト作品には日本にファンが多い。
代表作『三文オペラ』(1928年)はいまだ上演される機会が多々ある。
クルト・ワイル作曲の、ミュージカルの原型となった作品である。
そんなブレヒトのもう一つの代表作が、天文学者ガリレオ・ガリレイを主人公とした『ガリレイの生涯』である。

「保身でしたたかに生き延びる人」の視点で作品を読み解く
今回は「保身でしたたかに生き延びる人」として、作家ブレヒトを紹介する。
ユダヤブレヒトナチスに追われて母国ドイツを捨て、アメリカに亡命した。
戦後間もない1947年10月30日、今度は共産主義者として非米活動委員会の審問を受け、亡命先からも追われる。
この時期、奇しくもニューヨークでの『ガリレイの生涯』初公演中であった。
審問の翌日、ブレヒトはパリ経由でチューリヒに亡命。
1年間の滞在後、オーストリア国籍を取得。
1948年10月、プラハを経由してチェコスロバキア国境を越え東ドイツに到着。
東ベルリンに居を構え、創作活動に打ち込む。
1955年には共産主義者としてスターリン平和賞を受賞し、その翌年に死去している。

亡命を続けながら作家活動を中断することなく、そして作家として生き延びるため全体主義スターリンを賛美するまでにいたった。自由な作家として体制側につく人は少数だが、ブレヒトの場合はその一人であった。

そんな作家ブレヒトであるが、戯曲『ガリレイの生涯』の主人公である天文学者ガリレオ・ガリレイは、まさに「保身でしたたかに生き延びる人」として描かれているのである。

冒頭でネタバレになってしまうが、『ガリレイの生涯』のラストは次のとおり。
異端審問において、ガリレイは自説の地動説をやすやすと撤回する。
弟子のアンドレアはそれを知り師匠に絶望する。
が、実はその撤回はガリレイカソリックから破門されず生き延びるために教会を欺く方便にすぎずなかった。
裏では『新科学対話』を書きあげ、原稿を国外に運び出すことに成功。
ガリレイの保身により地動説は科学的定説として世に残り世界に流布される。
そして地動説は人類共有の知的財産になる、というストーリーだ。

話は読書会に移る。
会場内から第一にあがった声は「終末思想を感じる」であった。
ナチスが政権を取るとともに亡命生活を余儀なくされた作家の人生が作品に影を落としているところからくる印象である。
ブレヒトに関心はないが戯曲は面白かった」
「作家の名前も知らなかったが、作品自体は面白かった」
「人物の描写が面白かった」
ガリレイの娘の扱いがかわいそう」
「キャラの描きわけがはっきりしている」
など、まざまな意見が飛び交う中、総じて言えることは、「よくできた作品」であった。

ちなみにブレヒトは巧みに生き延びつつ58歳という若さで亡くなっているが、同時代ナチスに追われた作家のヴァルター・ベンヤミンは47歳で服毒自殺で命を落としている。そうみると、これでもブレヒトは「長生き」なのである。「ベンヤミンが早死にした理由は蔵書が多くブレヒトのように身軽に亡命することができなかったからでは」という発言があがったのは印象に残る。

ブレヒトと『ガリレイの生涯』は一つの合わせ鏡
ガリレイと異端審問の話から、後半はテーマが「宗教と科学」に移った。
科学とはギリシャで生み出されキリスト教世界で発展したものと思われているが、実はアラビアで発展し、その後キリスト教文化に引き渡され急展開したものである。
そこでトルコ観光に行ったメンバーから「イスタンブールに科学歴史博物館ができていたが、トルコ人は科学とイスラムの強い関係性を主張したかったのだろう」というコメントが出た。

そもそもなぜ科学がイスラム圏での発展を終えキリスト教圏で急成長を遂げたのだろうか。
その疑問を受け、キリスト教圏には「実験の伝統」があり、それが科学の発展を後押ししたのだという返答があった。
錬金術や人造人間の生成、不老不死薬の調合など、実験に実験を重ね試行錯誤を重ねる文化はキリスト教社会に連綿と息づいている。現代のシリコンバレー文化、スタートアップ文化、起業家文化の源流をたどると、アメリカのフロンティアスピリット(開拓者精神)やキリスト教社会の試行錯誤を重ねる実験文化にたどり着く。

ここで科学とイスラムキリスト教の話が出たが、「科学と仏教の関連ってあるのか?」という素朴な疑問もあがった。

ブレヒトの大著『作業日誌』からもわかるように、彼の創作は活力にみなぎっている。
そして周囲には多くの俳優や文化人らが取り巻く。
ブレヒトはそれら人脈を使い作家というよりもプロデューサーとして多数の作品を生み出し、歴史に名を遺した。
作品は大衆を動員する商業的な力が強く、その意味で現代の「ミニ・ブレヒト」が秋元康ではないかという意見も会場では一致した。

終盤近く、「ブレヒトとこの作品は合わせ鏡に見える」という意見が出た。
つまり、ガリレイは保身という一見不格好な行為により、科学という人類の貴重な知的財産を守った。
同じように、ブレヒトは保身により文芸という人類の貴重な知的財産を守った。
と、この作品を通して訴え、歴史に残したかったのではないか。
保身というしたたかさはブレヒトガリレイの共通点である。
つまり、ブレヒトは自分の保身という行為を美化するため、『ガリレイの生涯』を書いたはず、という推論である。

これに呼応し、「アーディストにしたたかさは重要。身変わりの早さや節操のなさも重要」という発言が、メンバーの一人である作家さんからあがった。
理由は、

「アーティストは売れなくちゃ困るから」
「アーティストは売れて長生きが必須条件だから」

という、創作の現場から出た生々しい発言であった。

マイノリティが社会でクリエイティブに生き残る鏡。
それが、ガリレイであるともいえる。

ブレヒトは保身を「美学」にまで昇華し、「アーティストの行動としての理想形」として自らの作家人生をガリレイの生涯に仮託し、作品を通して人々に伝えたのである。
そしてブレヒトは自己顕示欲の高さと同時に高いクリエイティビティと影響力をもって、ミュージカルという舞台の新スタイルを確立し、戯曲家詩人として業績を歴史に残したのである。

最後に、「なぜブレヒト東ドイツに行ったのか?」という疑問があがった。
西側に残っていれば作家としてもっと才能を発揮し、もっと長生きできたはず。
彼は共産主義者から転向することもなく、いうなれば要領の良さを貫徹することができなかった。
「保身は中途半端であった」ともいえる。
「作家と作品は全然違うもの」という皮肉で、この読書会は幕を閉じた。

参考までに、保身を研究した名著として、シュテファン・ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像』や、エリアス・カネッティの『群衆と権力』がある。機会があったら読書会で取りあげてみたい。

  * * *

次回もまったく趣向を変えながら、一つだけの共通点。
それは、戯曲家の作品である、ということ。

福田恒存の『人間・この劇的なるもの』を取り上げます。
人間の存在とその悩みに対峙する作品。
「「生」に迷える若き日に必携の不朽の人間論。」とされています(Amazon調べ)。
人間論とは、読書会でかつて扱ったことがなく、いままで同様崇高なジャンル。
果たしてどのような議論になるのか。

次回も開催できる日まで、お楽しみに。

三津田治夫