本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

新時代の受容と戦いを「差別」から扱った不朽の名作:『破戒』(島崎藤村 著)

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私が高校生時代に亡くなった明治43年生まれの祖母から、実家山形の農家にいたときの次のような昔話をよく聞かされた。

村には「えた」という人がいて、茶碗を持って玄関の土間にやってくる。玄関から茶碗に食事を分け与え、決して土間から上に入ってこない。
彼らは牛馬の死体処理や死んだ人間の埋葬を手がけており、祖母の口調からは一種の恐れのようなものをいつも感じていた。
子供の私は、「死んだ人間を扱うなんて、怖くないの?」と祖母に聞くと、「えたはいつも、“死んだ人間よりも生きている人間の方がよっぽど怖い”といっていたよ」と答えていたのが印象深い。

祖母が語っていた「えた」が、日本の制封建社会が残した「穢多」と同じ言葉であると知ったのは、成人近くになってからのことだった。

祖母が語っていた人たちが差別をされていた人たちだったとは、祖母の言葉からはまったく想像がついていなかった。ただ子供心に祖母の言葉から感じ取っていたのは、「えた」とは別世界の人、怖い人、というイメージばかりだった。

明治文学として「穢多」の存在を中心に扱った作品が、この、『破戒』である。

差別と闘争、新生活の人間ドラマ
作品にはなにかしらの存在価値が必要になるが、この作品はまさに芸術。信州を舞台にした美しい情景描写や、主人公の教員瀬川丑松による心の煩悶、心理描写は、実に見事である。

明治時代、穢多といわれていた人たちはに「新平民」として近代社会の中に組み込まれた。しかし市民の意識下からそう簡単に差別が消え去るわけがない。
瀬川丑松を取り巻く意識から、「丑松は新平民ではないか」という周囲の疑惑がしだいに首を持ち上げてくる。
丑松は父親から、自分の出生を口に出すことはその後の人生を放棄するのと同じだという戒めを受けながら育ってきた。
そんな中、思想家の猪子と出会う。
彼は著作の冒頭で「我は穢多なり」と自分の出生を堂々と宣言し、活動し、社会的に認められている。
その後猪子は政敵に暗殺されてしまう。

猪子の生き方に感銘を受けた丑松は、自分の出生を告白して職場を去ろう決意。恋人のお志保と生徒の前で自分の出生を告白する。
彼らはその告白に耳を傾けず、丑松の人間性を認める。
恋人は彼について、猪子の未亡人と共に東京へと向かう。
同じ新平民の大日向とともに、丑松はテキサスで農業を営むことを夢見る。
そうした新生活と希望のなか、物語は幕を閉じる。

どんなエンディングかとはらはら読んでいたら、丑松は恋人と共に新生活を求めて故郷を去るという、一種のハッピーエンドだった。

明治維新以降の、新しい日本人の生き方を示唆した希望の書
しかし「新生活を求めて故郷を去る」とは、どんな未来が待ち受けているかわからないという意味で、ハッピーエンドとは言い切れない。
新生活を求めて故郷を去るというエンディングを見て、没落貴族が自らの土地から出て新生活を迎えようとするチェーホフの『桜の園』(1903年の作品)を連想した。
桜の園』は悲劇とされているが、『破戒』はどちらかと言えば未来を暗示した喜劇と感じた。
つまり島崎は、封建社会の根っこにある差別は前時代的なものであり、丑松の新生活を新時代の象徴であると描いている。

「明治になってせっかく日本は西欧の様式を受け入れたのだから、今度は意識も着替えて、自由になろう」と、藤村が読者に訴えかけているように聞こえる。
逆に言えば、藤村のような大作家がいなければ、日本の歴史から穢多という存在は単語でしか残らなかったはず。
この言葉を取り巻く意識や背景は歴史の一事象にしかすぎず、歴史家のみが持ちうる情報だったはず。
ここに一つの芸術の力を感じ取った。

目に見えず共有の困難な意識というものを、目に見え共有可能な言葉に置き換え、それを物語に組み立て、表現し、一般の読者に届けるという、芸術の誇り高い力を。

果たしていまの時代から、どういった意識が、100年後の文芸として残っていくのだろうか。
そんな疑問も『破戒』は与えてくれた。1905年の作品。

※注:穢多という言葉は差別用語です。そもそも、特定の人間に対して「けがれが多い」という意味の呼称を与えること自体おかしなことです。『破戒』のあとがきでさえ、被差別民という言葉に置換し使われています。しかしここでは、私と祖母のエピソードや、『破戒』の持つ芸術性の高さと言葉の意味との関連性を考え、被差別民など他の言葉に置換することは不可能と考え、あえて穢多という表現を使っています。

三津田治夫