今回は「読書会withコロナ・バージョン」と題し、初のZoomによるオンライン読書会を飯田橋読書会において開催した。
半年ぶりの生存確認も兼ねたチェックインでは、リモートワーク三昧のKMさんや、ゲームばかりやっていたMさん、普段から家にいるからあまり変わらなかったというHNさん、外食がなくなったというAさん、フルリモートワークのHさん、コロナ禍で消費と蓄財に明け暮れたKNさんのお声を聴き、画面越しに元気なお姿を見ることができてよかった。
チェックインを終え、今日のお題である『人間・この劇的なるもの』に話が及ぶ。
「福田恒存はすごい」
「一見、なにを言いたいのかわからない難しい本だ」
「福田恒存は完全な演劇人」
など、作品に対するさまざまな第一印象が各人からあがった。
演劇人としての福田恒存
話題は演劇人である福田恒存からはじまる。
本書の中ではシェイクスピア論がしばしば展開されている。
シェイクスピアは日本では江戸幕府が始まったころの演劇人。
少しあとの演劇人にフランスではモリエール、日本では近松門左衛門がいた。
シェイクスピアを出発点に世界の演劇を見渡した。
江戸時代といえば作家の井原西鶴がおり、「作品」が多数輩出された時代である。
なぜこの時代に作品が集中したのだろうかという疑問が出た。
それに対し、「都市に人口が集中し、商業が成立したことに関係するだろう」という、商人文化と作品の関連を指摘する声もあがった。
福田恆存が劇団四季のために書き上げた『解ってたまるか!』は金嬉老事件を扱った作品で、HNさんとKNさんが軽井沢で自主合宿を実施し、DVDで鑑賞していたという。そのうえで「福田恒存の演出は眠くなる」という発言もあった。
思想と保守論、現代の知識人とは?
会の中盤では、福田恒存の思想と保守論、現代の知識人について話題が移った。
保守思想家である福田恒存は、「自由・個性・平和」という単語を軽薄に扱うことを嫌い、多数の知識人を批判した。
そこで、「なぜいまは知識人がいないのか?」という本質的な疑問が呈された。
それに対する発言、「現代は知識がサブカル化した時代」は印象的だった。
知識とは本来、メインカルチャーであるはず。
しかしこれが、いつからかサブカルになってしまった。
一体どういうことだろうか。
「メインとサブの境がなくなった時代。」
「大知識人が求められなくなった現代。」
「大知識人のいない現代。」
さまざまな意見があがった。
『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリや『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドが現代の大知識人なのか、という問題提起もされた。
再び保守に戻る。
特別に変わったことを言っていない福田恒存は、よい意味の「保守」である。
彼のよって立つ場所は「常識」、すなわち保守である。
彼の保守思想は、戦後民主主義に流されてしまった人を痛烈に批判する。
その意味で鶴見俊介は常識人であり、彼の中に福田恒存との共通項を見たという声もあった。
『福田恒存対談・座談集』という作品があり、この中には三島由紀夫との対談も収録されている。非常に興味深い。
「いまでも読める昭和」という発言は興味深かった。
昭和といえば、「愛のコリーダ裁判」や「サド裁判」「チャタレイ裁判」など、作品を扱った裁判が目白押しで、「いまじゃないよな」という声が方々から聞こえてきた。
作品や表現のあり方が激変したのが、この、昭和という時代だったことを再確認した。
型と伝統、若さとイノベーション
「伝統の延長でしかない未来」という言葉を、若者は、いわれてもわからない。
こうした未来を否定する態度は、ある種の革命至上主義である。
『人間・この劇的なるもの』は、過去を破壊して新しいものを作ることを唱える本ではない。
保守主義思想の本といわれるゆえんはここにある。
保守主義とは「個性、自由」という言葉への批判でもある。
言い換えれば、「型」を重視した考えである。
「型」とは奥が深い言葉だ。
文化とは様式であり、型である。
言語自体が型である。
だから、私たちは本来、型から逃れられない。
人間の思考にも「型」がある。
とはいえ「型」とは、固定的ではない。
時代と共に変化する。
日本語による思考という、言語に縛られた思考の「型」もある。
人の認識は、言語に依存している。
このような「型」を認識しながら、そこに入ることは「保守」、である。
若さゆえの未熟さが、「保守」という言葉に反発する。
福田恒存に対するかつての若者の印象は「こんな右寄りの本は読めない!」であったという。
しかしいまとなっては、「型」が新鮮な時代であることも確認できる。
身体という本質を直視した、人間回帰の本
保守や「型」などをめぐり、多様な発言が飛び交った。
が、この作品の根本たる保守思想は、演劇人としての福田恒存の存在が大きくかかわっている。
演劇とは、身体の芸術である。
身体とは、私たち人間が共通に持つ、決して逃れることのできない「型」である。
この、生身の身体という「型」の中で、舞台や脚本、時間という制約下で表現する芸術が、演劇である。
本作品を通して「身体に帰れ」と作家が叫んでいるように聞こえる。
「~思想」「~主義」「~論」など、戦後の人たちは「コトバ」に支配されて生きてきた。
そうではなく、もっと根源的な「身体」に目を向けよ、と作家は訴える。
それに気づかされたのは、作者がたびたび語る「味わう」という表現であった。以下、引用する(太字は三津田が付与)。
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見るというのは、たんなる認識でも観察でもなく、見たものを同時に味わうことにはかならぬ。
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世界の一片しか見ることができない人間の認識を、作者は次のように表現する。
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意識は過去・現在・未来の全体を眺めわたせる地位にありながら、しかも限られた枠のなかだけしか見ようとしないから、その間の時間の経過を強烈に味わうことができるのだ。
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時間の経過を通して、限られた枠中の実体を人は「味わう」のである。
また、こうも描写する。
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私たちが個人の全体性を回復する唯一の道は、自分が部分にすぎぬことを覚悟し、意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、その味わいの過程において、全体感が象徴的に甦る。
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人は世界の一部でしかないことを自覚しながら味わうことを通して、一部としての自分が世界としての自分と一体化する。
人間は身体的な存在であるからこそ、五感をフルに動かし、世界の一部的な自分を、世界全体へと調和させることができるのだ。
コトバでは決して到達しえない、人間の奥底に備わる「感性」の力である。
「常識とはなにか」を考え直す貴重な機会
最後のまとめとして会場からあがった発言は次のとおりだ。
「個性と生き方の本」
「人生演じていてなんぼであるが、どう演じるか、が、問題だ」
「古びていない保守のいいところ表している」
「テレビやマスコミに決して流されない、“しっかりと考えなさい”が込められている本」
「保守の価値。保守と伝統が気になった」
このように、総じてポジティブな意見だった。
読書会のだいご味は、開会時の意見と閉会時の意見がまったく異なることだ。
複数の人間が一冊の書物に取り組むことで、作品を真摯に受け止め、一つの共通認識が形成される。
その共通認識は決して強制ではなく、作品から浮かび上がってきた雰囲気から各自が自由に受け取ったものである。
読書会は言葉の会である。
とはいえ、非言語のコミュニケーションが重要な位置を占める会である。
そんなことを、今回はオンライン読書会を通して確認できた。
オフラインでもいち早く開催できることを願っている。