本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

草加せんべいをめぐる小さな文化の物語

f:id:tech-dialoge:20211023151340j:plain草加宿を北に抜けた場所に設置された松尾芭蕉

地元の名菓に草加せんべいがある。
草加は17世紀に栄えた日光街道二番目の宿場町だ。
俳人松尾芭蕉が訪れたことでも知られており、当時は戸数120軒ほどからなる小さな宿場町だった。
宿場では余った米やまんじゅうを焼いてせんべいとしてお客に出していたという。江戸時代の保存食として、日光街道を歩く旅人のエネルギー源となったのが草加せんべいの発祥だ。

草加せんべいの名称はせんべいの代名詞として一般に流布している。
大型で厚く、硬く、醤油がたっぷりと乗っており、草加や越谷でとれた地元コシヒカリを原材料に炭火で一枚一枚手焼きされる製法は古来から踏襲されている。その香りと独特な歯ごたえにファンが多い。
草加せんべいには昔食べた懐かしい味がある。
近ごろは触れる機会の少ない貴重な味覚、ともいえる。

f:id:tech-dialoge:20211023151457j:plain◎古来からの製法で作られた手焼きの草加せんべい

信じるに値するリアルなストーリー作り

スーパーやコンビニで手に入る一般的なせんべいは、柔らかく、口触りが良く、少し甘みがあり、香りもよい。
とくに大手製菓メーカーによるせんべいにこの傾向は強い。
これこそ、マーケティングの成果である。
ドラッカーがいう、セールスしなくて勝手に売れてしまう状態を作るのがマーケティングである。
綿密な顧客調査と商品実装を通し、マーケティングはせんべいに大量生産と大量消費の仕組み化を実現し、せんべいを買いやすく、食べやすくした。

しかし近年は、この「買いやすく食べやすく」が、買い手にとって本当に最良なのか、もしかしたら売り手視点なのではないのか、という疑問も耳にする。「買いやすく食べやすく」は、人の心身にとって最適なのかという本質的な視点からの疑問である。
人は本来、心身の成長を目標とする。
昨日よりも明日、明日よりも明後日がよりよくなることを願って生きている。その逆を計画しながら生きている人はまずいない。
さらに昨今は、その商品を口にして心身によいのかという本質的な課題の解決に加え、「その商品を口にしてうれしいか」という、顧客体験の解決までが商品価値に織り込まれている。

一昔前は、「その商品を口にしてうれしいか」は、味覚や触覚、視覚といった課題を解決するだけで実現した。
しかしいまは、そこに「信じるに値するリアルなストーリー」までが問われる。
浅薄な商品開発秘話や顧客の体験談を作り上げても顧客は納得しない。
そこにはたえず「信じるに値するリアルなストーリー」が求められる。

そう考えると、せんべいを一つ売るにも、ビッグデータによる顧客ニーズ分析やマーケティング分析、これらをベースにしたストーリーづくりがキモになるのは想像がつく。しかし、作業には知識と資金力を要する。大量な利潤が必要であり、そのための大量消費と大量生産の仕掛けが必要になる。
一方で、この、大量消費と大量生産の仕掛けが、製品が陳腐化させたり、口にして体に悪い製品を作らせてしまうというネガティブな要因にもなる。

f:id:tech-dialoge:20211023151602j:plain草加八景の一つである、真言宗智山派寺院 東福寺の山門

伝統工芸と古典技能をITが救う
先日、草加駅近くの観光案内所の女性と話していたら「「草加せんべい」は世間で一般化した単語であるため商標登録できていない」と嘆かれていた。ここに、マーケティングの一つの壁が出現している。
そもそも本場の草加せんべいは、大量生産・大量消費の仕組みを持っていない。
観光案内所では地元の方々が草加の街の魅力を元気に紹介している。
草加せんべいは、手作りを売りにする、いってみたら伝統工芸品や古典技能の一つである。

時代には波がある。
歴史的なものは時代という時間の波に飲み込まれる。
もしくは、伝統的なもの、文化的なものとして保存されるか、時代の波を逆手にとってに乗っていくか。
時代の波を逆手にとる力が、経済である。
大量生産・大量消費の仕組みもまた経済という力を得る手段の一つであった。

時は金なり、という言葉がある。
時代という時間の波はマネーとテクノロジーよってコントロールできる。

そのテクノロジーの中でも、最も身近でお金がかからない強力な選択肢が、IT(情報技術)である。
卑近な例でいえば、チラシを印刷して駅前で配布するのに加え、SNSで告知する、動画を流す、という選択肢がある。
ITが強力で安価な選択肢であるとはいえ、ITにはお金以前に「難しい」「怖い」「そもそもITって……」というメンタルとマインドへのブロックが立ちはだかる。
それでも、もはや伝統工芸、古典技能となった草加せんべいは、ITの力をもって普及させる価値がある。
厳しいかないまは、いいものは必ず残る、という時代ではない。
情報・ファイナンス・経営の課題といった障壁を乗り越えられずに、時代の波に飲まれ、さまざまな優れたものが消えている。
価値の高い味を提供し続けた飲食店や、優れたパフォーマンスを提供し続けたライブハウスなどの閉鎖は、まさにそれだ。
「劣っていたから閉鎖されたのだ」「経営が間違ったからだ」と一言で片づけられない時代が、いま来ている。
情報・ファイナンス・経営課題こそ、ITを使うことで相当の解決ができる。
草加せんべいを例にとれば、SNSによる情報発信からECサイトでの直販、地元農家からの材料の直仕入れ、伝統製法の保存伝授のYouTube化など、いわゆるDX(デジタル・トランスフォーメーション)の基礎を導入するだけでも、多くの状況は一変する。そして、草加せんべいがコンテンツ化するのだ。

小さな文化の物語が、世界を縮退から守る
物理学者の長沼伸一郎氏は『現代経済学の直観的方法』の中で、世界はグーグルやAmazonなど一部の巨大企業が支配する「縮退」の方向に向かっていることを指摘する。湖の中で強力な外来種が在来種を追いやり、外来種の個体そのものは増加するが、種の多様性は滅びることにも例えている。

いま、歴史的で再現困難なもの、文化的に価値の高いものがどんどんと追いやられている。同氏は経済学者J.M.ケインズの言葉を引き、文明を「薄い頼りにならない外皮のようなもの」とし、これが世界の多様性を支えているという。

文明という大きな物語は、数えきれないほどの小さな物語から構成されている。
その意味で草加せんべいは、縮退の外側にある価値を持つ小さな文化の物語だ。

いま、規模の大小を問わず、さまざまな分野でDXが進んでいる。
「伝統工芸DX」「古典技能DX」の分野でも導入が進んでいるところもあるだろう。
こうした、伝統や古典といった、一見お金にならなそうなものにこそ、ITの力が大きく寄与する時代が来ている。

ストーリーを想起しながら歴史と味覚を味わえる一枚のせんべい。
草加せんべい+DXの明日がとても楽しみである。