本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

投票会場で見た民主主義の風景

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新型コロナウイルスや経済問題など、世の中に課題が渦巻く中、10月、衆議院選挙が行われた。
駅のコンコースに臨時設置された期日前投票会場に足を運んだ。
そこは、いままでに見たことのない行列だった。
国民の関心の高さがうかがえるとともに、いままでの選挙の活気のなさが逆におかしかった、ということも感じた。

子供のころ、昭和時代、選挙の記憶は「いつもうるさい」しかない。
両親はテレビや新聞の報道をわさわさと気にし、街頭では白い手袋をしたウグイス嬢が手を振りながらマイクで声を張り上げている。
政治をさっぱりわからない子供が見た選挙は、かなり異質な風景だった。

親に連れられて投票所に行った記憶もある。
子供が近づいてはいけない空気が漂っていた。
ある日食卓で母親に、「田中角栄って悪者なの?」と質問したら、
祖母から「子供は政治の話をしてはいけません!」と、ひどく叱られたことがある。
それもまた、子供が近づいてはいけない空気をさらに濃厚にした。

高校に入ると、選択授業に現代社会があった。
毎週金曜の午後、生徒らが新聞記事の切り抜きを持ち寄り、教団に上がって記事の意見を述べるという授業。
当時他では類を見ない、授業らしくない一風変わった授業だった。
担当教員も一風変わった人で、腰に手ぬぐいを下げ、子供らを捕まえて革命思想のような難しい話を吹き込むような人物だった。

私は毎週気になった記事を切り抜いて持っていき、それはおもに政治がテーマだったが、気づいたことを勝手にしゃべっていた。それだけで担当教員によくほめられた。
それでがきっかけで、「近づいてよい」、という意識に切り替わった。

自由な投票は大変なことである
毎回投票率を見て残念な気持ちになるが、今年はどうだろうか。
今回の投票率は、中間発表では前年を下回るであるとの報道だった。

駅のコンコースで行列を作る有権者たちは、それなりの思いがあって集まっているはずだ。
係員は、
「恐れ入ります、もう少し詰めてください」
「すみません、こちらは2列になってください」
など、有権者たちはさながらディズニーランドの来客か、それ以上の賓客扱いである。
しかしここで、その意味を感じた人は、どれだけいたのだろうか。
私も、本当に自分が有権者であると自覚したのは、ここ数年である(とくに独立してから)。

なにせ有権者は、「日本国民で満18歳以上であること」である。
投票するには貴族の血を引いている必要はない。
納税額が〇〇〇〇万円以上である必要もない。
これら制約はいっさいない。
しかも自由に投票できる。
これは大変なことである。
つまり、政治の主役は我々有権者だ。

東欧革命以前のポーランドでは、投票監視員は、有権者がどの党に投票しているのかを、投票用紙を開かせ逐一検査していたと、ある本で読んだことがある。有権者共産党以外に投票しようとすると即刻監視員に脅迫されたという。
それを考えると、有権者なら誰もが自由な意思で投票できるというのは、血と汗と歴史の結晶、本当に大変なことだ。

民主主義の若者、日本
立候補者は毎回耳障りの良いセリフを口にする。
たいていは減税と福祉拡充だ。
そして当選直後には手の平を返す。
もしくは、無所属から特定の党派に鞍替えする。
選挙後に見られる毎度の様式美だ。

有権者は、立候補者のセリフや身なりといった、表面的なイメージで多くを判断する。
そして有権者は選挙後が終わると、
「議員さん、あなた方プロなんだから、しっかり政治をやってくれ」
という態度をとる。
この態度を、
「お医者さん、あなた方プロなんだから、しっかり私の病気を治してくれ」
に近いものを私は感じる。

有権者とはすなわち、オーナーである。
日本という国家のオーナーは、投票をしている「私」だ。
身体のオーナーが自分であることに近い。
この意識が、本当の民主主義である。

こんな話をいつも私は引き合いに出す。
ドイツで友人と食事をしていたときのことだ。
そこはライプツィッヒという、東欧革命の台風の目のような街だった。
東欧革命の真っただ中、ライプツィッヒで友人がデモや集会に毎日通っていたことを手紙でリアルタイムで聞かされていたのだが、そのことを回想していたときのエピソードがある。
私は、教会で大規模な集会をやって街に何千人も集まるとはよくやるよなあ、といったら、友人は一言「私らは少しずつ長時間かけて民主主義やっているから。日本はここ100年ぐらいでしょ」と、軽く微笑みながら返答されたことを覚えている。

友人ら、民主主義本場の人たちにとっては、教会で自由を語り合う集会を結成したり、プラカードを持って街を練り歩くのは、社会活動でもなんでもなく、国家のオーナーとしての日常当たり前の行動なのだ。
日本だと、メディアや世論の影響、過去の歴史的印象が大きく、自由を語り合う集会の結成や街頭プラカードというと、危ない反社会的運動、権力を崩そうとする不穏な行動、ととらえられがちである。
民主主義本場の国の人たちにとっては、こうした活動は、捻挫で歩きづらくなったらシップを貼る、それでもだめなら手術する、ぐらいの意識とほぼ違いはないだろう。友人も、こうした行動を「当たり前」と何度も言っていた。
その意味で、日本人はまだまだ民主主義の若者である。

商業が変わり政治が変わる、イノベーションの可能性
とくに新型コロナウイルスを経て、ドイツなど民主主義先進国では教会での集会や街のデモは大きくスタイルが変わるだろう。
これを機に、政治のトップをダイレクトに選ぶ、直接民主制に近いシステムをITとともに導入する可能性もある。
もしくは、SNSで国民の言葉を拾い上げ、AIとともに政治に反映させるような仕組みもありうる。
すべては、「密」を避けて国民が国家という身体の治療を行うため、である。

そう考えると、民主主義の若者である日本人は、集会やデモの文化を通り越して、いきなり直接民主制に接近する可能性があるかもしれない。

直接民主制は、昔から「ムリ」といわれ続けてきたが、このようなITの高度な発展において、そして何が起こるのかわからないこの時代、決してムリそうに見えない。

商業においては、DX(デジタル・トランスフォーメーション)をはじめとした技術を通して、かつて存在した中間業者や中間決済が中抜きされ、いわば「直販」が可能になっている。
これを政治に置き換えれば、政治の「直販」が可能となる。
国会はマッチングと判断を実施するプラットフォームになる。
そして有権者がプラットフォームを介して直接、政治のトップを選ぶ。
「政治はヤフオクとは違うぞ」と怒られそうだが、本来権威のあった商業(=ビジネス)の世界でも実際にそれが起こっているのだ。

明治時代、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一は、フランスから帰り日本の商業の地位の低さに目を覆った。彼は日本の商業に知性を流し込み、西欧列強と比肩する権威のある商業を作り上げた。
商業の世界では、DXを通し、渋沢栄一以来のイノベーションが起ころうとしている。
「政治経済」というぐらいで、政治と経済はセットである。
政治が変わり商業が変わった明治時代の、逆方向の流れがこれから起こるだろう。
つまり、商行が変わり、政治が変わる、に。

      * * *

政治家は我々の代理人、つまりエージェントである。
彼らは、国家というインフラを最適化するために我々の代理で使われるプロの集団だ。

これからの選挙では、政治家たちには、我々に向かってこのように言ってもらいたい。

「どうか私に一票を!」

ではなく、

「どうか私をとことん使ってください!」と。