本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

編集者、その愛すべき人種たちの未来

本づくりに携わる「編集者」という言葉の意味は、時代とともに大きく変わってきている。
そのことを最近強く感じるようになってきた。
明治の文豪幸田露伴を支えた小林勇は、作家の黒子として創作に寄り添い、作家の臨終にまで立ち会った編集者だった。
昭和の「雑誌の時代」が訪れると、石川次郎嵐山光三郎など、編集者が文化人や芸能人といった時代のナビゲーター的存在になったり、角川春樹のように出版の枠を超えてコンテンツ産業を作ってしまう編集者も現れた。
中世にさかのぼれば紀貫之は『古今和歌集』の編集者としてあれだけの作品をまとめ上げた。成果物を見ただけでも作品に対しそれなりのリクエストやダメ出しをしていたことは想像に難くない。
西洋に目を向ければ、イギリスの劇作家シェイクスピアは、複数のライターから膨大な原稿をまとめて作品を創り上げた編集者だったという説もある。アメリカのE.A.ポーは編集担当雑誌の売り上げを伸ばすために面白おかしい作品を書き続けた幻想文学作家だった。
ドイツの文芸評論家のマルセル・ライヒラニツキは雑誌編集者出身。晩年は「文学の教皇」と呼ばれ、彼の一言で書籍が一気に書店からなくなってしまうほどの影響力を持つ人物だった。

これだけ、編集者とは多様性に満ちている。
そして、文化に影響を与える力を持った存在である。

私の周りにいたさまざまな編集者たち
私の30年弱の編集者人生でも、周囲にはさまざまな編集者がうごめいていた。
文人と作品をこつこつと作り上げるように丁寧に実用書を作る編集者。
持論が強く、けんかっ早い編集者。
著者と取材対象にしか興味がなく、ほとんど会社にいない編集者。
会社にいると「くるな!」とスタッフに情報収集の檄を飛ばす編集長。
なんだかわけのわからない企画ばかり出していて、急にヒットを出して一目置かれる編集者。
一方で、なんだかわけのわからない企画ばかり出していて版元を去っていく編集者。
夜中まで飲み歩いて編集者や著者と本と文化を語り明かし、酔った勢いで出た言葉から知らぬ間に企画にまで成長させる編集者。

文化に関心があり、文化に足を突っ込んでいる編集者がたくさんいた。
そもそも、彼らは文化と本が好きなのだ。
そうした編集者という、多様性のるつぼで働く「人種」を、私は心から愛している。

しかし、こうした日本の編集者の様相が、ここ20年で大きく変わってきている。

業界構造の変化が「あそび」を奪う
最近周囲から、「編集者がタイムキーパーになった」「発刊点数合わせばかりを気にしている編集者が増えた」「担当あたりの発刊点数が多すぎる」という声をたびたび耳にする。

オリジナリティには興味がなく、二番煎じ企画にしか手を出さない編集者。
会社から下りてきたお金や時間のリクエストをなんの翻訳もなしにそのまま著者やクリエイターに丸投げする編集者。
完全に割り切って月給をもらいに来ている受け身な編集者。
こんな編集者たちが増えてきている。

前掲のような「古い」編集者は絶滅危惧種である。

これは、編集者が悪い、という単純な問題ではない。
産業構造の問題だ。
ご存じの通り、出版不況は1995年から30年近く続いている。
売上も利益率も落ちているうえに、ネットの発展による「スピード化」とは真逆の世界が出版である。
そして、出版にはお金がかかる。
紙やインキを購入し、物流や販売の費用がかかり、もちろん、編集者や業務管理の販管費・工経費もかかる。
本が売れたら書店から「チャリン」と版元にお金が入ってくる仕組みではない。
取次を通して何カ月も先にお金が入ってくる。
それに耐える手段はハードな資金繰りだ。

こうした経営環境の悪化から、編集者の多様性を受け入れる「あそび」(ゆとり)が版元からなくなってきている。
さらに言えば、昨今のガバナンスや株主利益という、出版社の厳しい経営状況をさらに締め付ける制約が待ち構えている。

ひずんだ情報のポートフォリオ
なぜ、編集者には多様性が必要なのだろうか?
編集者とは著者にとっての「第一の読者」である。
第一の読者が多様であればあるほど、本の内容が多様になる。
第一の読者が企画を「面白い!」と思えば、多様な企画は評価され、本になる。
逆に、編集者から多様性が失われると、通り一遍の内容の本しか書店に並ばない。
では、読者はそれをどう思っているのだろうか?
読者にとって、そんなことはどうでもよい。
読者は単に、読みたい本を買い、読みたくない本は買わないだけだ。
編集者の多様性を受け入れるゆとりがなくなった責任は、版元や業界にある。
読者は相変わらず、多様な社会に生活し、多様な嗜好に満ち溢れている。
しかしいまの出版の構造が、その多様性をフォローできなくなってきている。
そして、「本にない情報はネットを見ればいいじゃないか」という読者の意識と構造ができあがってきた。
これはよくない。
理由は、ネットの情報は貨幣に例えると「フロー」(右から左に流れる、雑誌の記事やテレビのような)の情報だ。
一方で書籍は、「ストック」(蓄積され、資産化され、内在化される)の情報だ。

情報のポートフォリオが完全に歪んでいるのだ。

情報が迷子になる時代
読者は減少し、出版産業の縮小はまだまだ続く。
となると、人は本を読まなくなるのだろうか?
情報のポートフォリオの観点からも、人には本が必要だ。
情報とは形に見えづらい。
ゆえに、即効性のある情報ばかりが評価の対象になりがちだ。
キーワードを大量に暗記し、テストに答えられれば評価の対象になる。
しかし「教養」は評価の対象になりづらい。
教養は知識と近い関係にある、人間性やその人の生き方である。

そもそも、大量に本を作って、大量に売りまくるという昭和の業界構造を版元が保持しているところに無理がある。
そのために編集や営業のリソースが投入される。
そのリソースを回収するほどのスケールが、いまの出版業界にはない。

多様性が失われた出版物は、このままでは次第に存在意義が失われていく。
ひいては「この企画はペイしないから出版できない」「編集制作にコストがかかりWebにも掲載できない」となり、「必要な情報なのにどこにもストックされない」という「情報の迷子」が起こる。

これだけの情報社会で、ぽっかり穴の開いたような不思議な現象である。

本づくりのトランスフォーメーションによる新しいエコシステムを
それでは出版社が、情報のストックしての「本」を、的確に読者に向けて出し続けるには、どうしたらよいのだろうか?
近年は、いわゆる「本づくり」ができる編集者が版元から減ってきているという。
一方で、フリーの編集者や個人版元、編集プロダクション、出版プロデューサーが増えつつある。
版元にとって、彼らとの協業において、編集・制作のリソースを社内に持つ負担を減らすことができる。
以前は版元から見た編集・制作のフリーランサーは、社内の業務の一部を外出しする「外注さん」だった。
しかし昨今の状況から、これが大きく変容してきている。
企画・進行と原価管理のみに徹する版元も出てきている。
外部の編集・制作者・クリエイターとの協業により、本を作るのだ。
いわば、編集・制作者・クリエイターを芸妓とすれば、版元はお茶屋さんである。
版元は、編集・制作者・クリエイターを集める場となり、読者にマッチングして、上がりをシェアする。
そうしたシステムに徹するのが、縮小した産業における、版元の一つの未来である。
著者に法外な低金額で原稿を発注したり、理解に苦しむ要求をしてくる版元もあると聞く。縮小した産業にありがちな不健全な現象である。

編集・制作者・クリエイターは、こうした産業の流れをとらえながら、版元との協業関係を結ぶべきである。
逆に版元も、こうした人たちとフェアな関係を結び、協業する仕組みと意識を持つことだ。

昭和の構造がまだまだ残る出版業界は、こうした版元・編集・制作者・クリエイターの新しい協業関係へとトランスフォーメーションすることで、「ストック情報としての本」を着実に読者に届けることができる。

「売れない本だから不要な本なのだ」とは断言できない。
本は経済原理以外で動く、一種の作品でもある。
人には、必ず必要な本がある。
多様性が高まれば、なおさらである。

こうした版元・編集・制作者・クリエイターの新しい協業関係、エコシステムを確立し、本というストック情報を通して読者と社会をハッピーにすること。

これは私のライフワークでもある。

誰にも教えてもらえなかったことが、一冊の本が教えてくれる。
その本は、誰もが平等に手にし、誰からも指図を受けず、誰もが自由に開くことができる。
そして一冊の本が、一人の人間の人生を変える。

編集者・制作者・クリエイターは、ベルトコンベアのような仕事ではなく、もっと読者に多様なエネルギーを与えられる、創造的でワクワクする仕事ができる環境があるべきだ。
そして、「生まれ変わってももう一度、編集者・制作者・クリエイターになりたい!」
という人を、一人でも増やす。

そのための、本づくりの新しいエコシステム。

そろそろ構築する時期である。

三津田治夫