
今回は記念すべきキリ番の第50回目である。
皆さんは「アメリカ」という国の名前を聞いて、なにをイメージするだろうか。世代により国名から響くイメージが相当異なるはずだ。
たとえば戦中派は、「外国の象徴」だったり「カッコいい」「憧れ」のイメージだったりする。
戦後世代だと「資本主義の象徴」「戦勝国家」「権力」「観光地」だったり、私のような昭和世代になると、アメリカの消費文化を紹介する『週刊POPEYE』のイメージや、1950年代のアメ車やファッションなどの50's、平成世代以降ではシリコンバレー文化や留学したい国など、より身近な憧れの対象といったイメージだろう。
戦中派の母親は私に小学生時代、「アメリカは外国だけれど中国は外国じゃない」といつも言っていた。
日本はアジアの中心であり中国という国土も八紘一宇に内包された国であると、旧満州大連生まれの母親は奉天で商いを営む祖父に教育されていたのであろう。
前回のテーマであったアメリカ文学(E.A.ポオ)を受けて、2025年1月にはドナルド・トランプが米政権を握ることになり、とかくアメリカが気になる。
そこで今回は、書籍のテーマそのものをアメリカに焦点当てる、という試みに取り組んだ。
取り上げた書籍は『アメリカ映画の文化副読本』である。
映像メディア作品を通して、いまのアメリカという国家をカジュアルにとらえられる著作だ。
以下7つの章から構成されており、アメリカ映画を題材におのおののテーマを語る、という内容である。
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Ⅰ 都市と地域
Ⅱ 社交と恋愛
Ⅲ 教育と学歴
Ⅳ 信仰と対抗文化
Ⅴ 人種と民族
Ⅵ 政治と権力
Ⅶ 職業とキャリア
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著者の渡辺将人氏の経歴を簡単に。
慶應義塾大学のメディア研究科准教授である著者はアメリカ政治を専門とし、米下院議員事務所勤務や、テレビ東京報道局経済部、政治部記者などを経験している。研究者→政治秘書→ジャーナリスト→大学教員という、たいへんユニークなキャリアパスを経てきた方だ。
そんな著者が、アメリカ生活の重層的な経験と、多くの映画作品を通して眺めた、アメリカという広大な国家の肖像が本作である。
アメコミとドラマ、私のアメリカ体験
私個人にとってのアメリカというと、義弟はアメリカ人なのに私は本土には一度も行った経験がなく(結婚式でハワイに一度行ったのみ)、行ってみたいという気持ちがありながらもなかなかその機会がない。
今回の選書『アメリカ映画の文化副読本』で作者が紹介しているように、私としてもメディアを通したアメリカのイメージが最も強く、いわば近くて遠い国である。
メディアを通した私のアメリカ体験は、まず、子供時代にはアメコミにはまった。
小遣いを貯めて、(いまはなき洋書の総本山)銀座のイエナ近藤書店にDCコミックやマーベルのペーパーバックを買いに行き、ぼろぼろになるまで何度も読んで(眺めて)いた。
学校に持っていったらクラスメイトたちから「なんだこれは」と質問攻めにあうことがしばしばだった。
英語などできもせず学ぼうともせずであったが、バットマンやスパイダーマンの、日本のマンガにはない躍動感のあるフォント(“Boom”や“Zip”など見たこともないオノマトペ)や肉太なタッチ、画風に、ワクワクとしながら触れていた。
このころは日本語版のお笑い雑誌『MAD』(『MAD マッド傑作選』(監修:小野耕世、マッド・アマノ、片岡義男、TBSブリタニカ、1979年))を図書館で借りて(高額書で、書店でもほぼ見かけることがなかった)何度もむさぼるように読んでいた。
表紙の少年「What me worry?」の馬鹿面がなんともいえず、アメリカ人の描く絵ってってなんと滑稽なのだろうと、ワクワクと何度も読み返していた。
この本はいまでも手に入れてぜひ読んでみたい。
もう一つは、テレビドラマである。
1時間物の連続ドラマには相当はまった。
小学生時代に本放送をちらちらと見て、中学生時代にビデオデッキ(自宅には東芝「ビュースター」があった)が普及したころに、お小遣いでベータのテープを買って、録画しては観て重ね撮りして観てを繰り返していた。このころに蓄積したアメリカ連続ドラマ体験は濃厚だ。
たとえば、(戦争ドラマ『コンバット!』主役)ビック・モローの遺作としてリメイクされた映画『トワイライト・ゾーン』の原案となった『ミステリー・ゾーン』(1963年)や、超人サイボーグ人間が主人公の『600万ドルの男』(1973年)、男尊女卑がまだまだ根強かった日本でスーパー女子が悪漢の男どもをばたばたと倒すという『ワンダーウーマン』(1975年)は面白かった。ワンダーウーマンの吹き替えが由美かおるだったのも印象深い。
超人女子ものでは、600万ドルの男の恋人という設定で『地上最強の美女バイオニック・ジェミー』(1976年)も全回見た。パラシュートの落下ミスで瀕死の事故に遭った女性が人体改造手術を受け超人になるという設定は前代未聞で斬新だった。
超人といえば映画でリメイクされた『超人ハルク』(1977年)にもはまった。原作マンガと同様、放射線で甲状腺に異常をきたした男が怒らせると巨人に変身するというお話。本ドラマ版では事件に巻き込まれ暴行を受けるなどして変身し、地方の悪漢たちをやっつけて他の街に逃げ放浪していくという薄暗いロードムービーだった。
このときハルク役をやっていたビル・ビクスビーが主演の『ザ・マジシャン』(1973年)も全回見た。これも事件解決ものドラマの一種。事件解決の手段はバイオレンスではなくマジック。主人公の魔術師がマジックを使って悪者をケムにまいたり罠にはめたりする勧善懲悪ものだ。
日本人にとって、勧善懲悪ものは『水戸黄門』や『赤穂浪士』『遠山の金さん』に慣れ親しんでいるのでわかりやすい。
そしてアメリカのドラマで最後にはまった作品は『特攻野郎Aチーム』(1983年)だった。
こちらも勧善懲悪ものの荒唐無稽アクションドラマ。本放送では土曜の15時から観ており、その前には正午から13時まで『独占!女の60分』を毎週欠かさずに観ていた。
主人公のジョージ・ペパードが『ティファニーで朝食を』(1961年)でオードリー・ヘプバーンの恋人役をやっているのを見たときには、「ハンニバル軍曹がこんな二枚目やっていたんだ」と驚きを隠すことができなかった。
子供心に、上記作品を熱中して観てはいたものの、アメリカがどんな国なのか、あまりイメージはついていなかった。
強いて言えば『超人ハルク』と『特攻野郎Aチーム』のイメージが強かった。
アメリカには独特の地方文化があり、地方には利権にぶら下がった愚連隊がいて、よそ者に対しては敏感かつ全力で排除にかかり、バイオレンス多発。そんなイメージが強い。
『アメリカ映画の文化副読本』にも、アメリカという国家は州ごとの独自性だけではなく、地方や地域によっても独自性が強いとは随所に書かれていた。アメリカ在住の経験がある日本人からもたびたびそんなことは耳にする。
いままでもなんとなく、巨大な移民の国なんだな、ぐらいのぼんやりとイメージは持っていた。
「なぜか同じTシャツ着ている集団がいる」
『アメリカ映画の文化副読本』に関し、会場からはどのような声が上がったのだろうか。
今回の参加者は、KNを筆頭に、KM、SM、KS、SM、SK、KA、HH(敬称略)、そして私の、総計9名だった。
いつもなら著作そのものに関する印象が口にされるが、今回はのっけから個人的意見を中心に、激しいフリートークが交わされた。
「アメリカのガイドブックよね!」
「「Ⅵ 政治と権力」は面白かった」
「観ていない映画ばかりが紹介されていてよかった」
と、本作に対する純粋な意見が出てきた。
また、
「思い込みが否定された」
とあったように、アメリカはとかく近くて遠い国と言おうか、日本人にとってステレオタイプにとらえられがちだが、そうした意識を塗り替えてくれるために本作は寄与してくれた。
「アメリカはポピュラーな映画ばかりで、インディ系はほぼない」
アメリカというお国柄、自主映画を撮影して収益を回収して再生産し回す、という文化はなかなか成立しない、という発言もあった。
「ニューヨーク、西海岸、それ以外というイメージがある」
と、アメリカ人の地域に対するメンタリティや、
「日本のように“右だ左だ”と十把ひとからげに言えないのがアメリカの面白いところ」
というように、多様な人種が生み出す多様な価値観に興味を示す発言もあった。
また、私があげたようなドラマに関する印象も聞こえてきた。
「アメリカには『白バイ野郎ジョン&パンチ』(1977~1983年)や『刑事コロンボ』(1968~1978年)など、ドラマの時代があった」
1997から2000年までサンフランシスコ在住経験があるSKさんからの「本書と経験が重なる」とする発言は、たいへん説得力が高かった。
「少し情報が古い」
「書籍全体、とくに後半、単調かも」
「アメリカならではのキャンセル・カルチャーやLGBTを扱っていなかったところは残念」
と本作を評しながらも、
「当時すでに国家は分断していた」
「報道に国際ニュースがあまり出てこない」
「サイレント・マジョリティの声が出づらい」
といった、アメリカの大衆文化や、意外と海外に興味が薄いアメリカ人の実体が語られた。
世界で最も語学学習欲の低い人種はアメリカ人だとは、たびたび耳にする。
バイリンガルのアメリカ人は相当少ないと思う(TVプロデューサーのデイブ・スペクターや元メガデスのマーティ・フリードマンなどは激レア)。
「テキサスはマスク禁止」
と、日本人のようなマスク文化がテキサスにはなく、むしろ犯罪を助長するものとして禁止されているという。
なぜテキサスでそうなのかは、土地柄なのか、もう少し聞いておきたかった。
また以下のように、政治にまつわる参加者の研究結果も声としてあがってきた。
「1970年からの、東部や中西部の「ラストベルト」での貧困があり、ニクソンは貧困白人層をとり込んでいた。トランプも同様の戦略をとっている」
「いわばオリガルヒ対奴隷のような二極対立構造がある」
「地域特性の対立もありで、中道政策は上手くいかないアメリカ」
「共和党には黒人奴隷を解放したという歴史もある」
以下はここで初めて知ったことで後でYouTubeで観たのだが、短時間ながら深いディストピアな内容だった。
「『1984年』にインスパイアされたリドリー・スコットの1984年のAppleのCMが素晴らしかった」
アメリカという国は宗教や人種だけではなく、出身大学や所属コミュニティなど、なんらかのソサエティに属していないと「ヤバい人間」として相手にされないという。以下はそれを反映した発言である。
「アメリカにはなぜか同じTシャツ着ている集団がいる」
前半ラストは、アメリカを知るための以下参考図書をあげることで締められた。

『ヒルビリー・エレジー』(J.D.ヴァンス 著)
『アメリカ政治講義』(西山隆行 著)
『分断国家アメリカ』(読売新聞アメリカ総局 著)
『アメリカ革命』(上村剛 著)
『11の国のアメリカ史』(コリン・ウッダード 著)
『イスラエルとパレスチナ』(ヤコヴ・ラブキン 著)
私とアメリカを語る
前半もほぼ書籍を離れた個人的な意見であったが、後半は、「私とアメリカ」をテーマにフリートークが行われた。
「アメリカ料理は美味くない」
が、一方で
「アメリカの中華料理は旨い」
らしい。
そもそもアメリカ料理とはなんだろうか。
昔赤坂のホテルニュージャパン跡の隣にストーン・クラブの爪(カニのハサミの部分)を食べさせてくれるお店(東京ジョーズ)があって、あれは美味かった。
ちなみにこのころには「アンナミラーズ」が近隣にあったことは付け加えておく。
「アメリカはあこがれだったのに、住んでみたら常時緊張で疲れた」
とは、在住経験のあるSKさんの発言。
その他にも、
「入るの大変。自由でオープンであると思い込んでいたいたアメリカ社会はけっこうクローズ」
「彼らは本音を言わない」
「格差はやはり大きい」
「サンフランシスコ人、ロス人、仲悪かった」
「現地に行くとダーティ・ハリーをリアルに感じ、恐い国であることがよくわかった」
と、メディアからなんとなく見え・聞こえてくる印象を、体温のある言葉で伝えてくれた。
「“そもそも型がない”はNGの文化だった」
と、前述の「同じTシャツ着ている集団」を示唆する内容の発言も聞こえてきた。
アメリカでインターン経験があるSKさん曰く、
「インターン活動はキビシイ。日本の比ではない」
と、現場体験活動的な日本式インターン制度との対比を口にしていた。
いつもは文学・哲学・歴史談議に花が開くが、最後にきてようやく
「21世紀のアメリカ文学には興味ある」
「トマス・ピンチョン、フォークナーは作風が前衛的で奥深い」
という声があがってきたのには少し安心した。
また余談で、渡米歴複数のKSさんから
という、なかなかうらやましい発言もよかった。
自由と多民族をハリウッド映画に仮託するアメリカ
私にとって、アメリカ映画と言われてもなかなかイメージがわかず、映画というよりはアメリカはドラマの印象が強い。
いろいろと考えてみたら、大変なアメリカ映画を思い出した。
『スター・ウォーズ』である。
初期シリーズ3作はいずれも映画館やビデオで延べ100回以上観た。
『スター・ウォーズ』(エピソード4/新たなる希望)(1977年、日本公開1978年)はリアルタイムで10歳のときに父親と映画館で観た。
X型の羽根を持つ戦闘機が激しいドッグファイトを繰り広げたり、ロボットが人間と対等に交わったり、ならず者の異星人たちがたむろする柄の悪い居酒屋で一介の変わり者であるベン・ケノービがライトセーバーをふるったり。最後にデス・スターの心臓部にプロトン魚雷を落として帝国軍をやっつけるというストーリが、内容はともかく映像と世界観に驚きで、子供心に手に汗を握った。

『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(エピソード5/帝国の逆襲)(1980年)では、雪上を四つ足で歩く巨大な戦車が登場したり、切断されたルーク・スカイウォーカーの手が機械で再生されたりと、これもまた映像に圧倒された。

『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(エピソード6/ジェダイの帰還)(1983年)では、連邦軍(連邦軍が正義であるという解釈もアメリカらしい)のお姫様がほぼ裸の腰蓑姿で悪者の奴隷にされたり、ハン・ソロはカーボン漬けにされ、スマートな賞金稼ぎのボバ・フェットがあっけなく人喰い穴に落ちてしまったり、森林を高速移動する空飛ぶバイクでチェイスをしたり、表面的なディテールが子供時代の自分の脳裏に強烈に焼き付いている。
しかしながら、年をとって再見してみる。
すると、改めて異なる印象を受ける。
たとえば、ダースベーダーや帝国軍の幹部のビジュアルはどことなくナチスをイメージさせるし、雑多な異星人は多民族のメタファーを感じさせる。
1944年生まれのジョージ・ルーカスは上記満州帰りの私の母親の一歳年上で、戦争の体験者というよりもむしろ戦争真っ只中の両親に教育された人物である。
日本では戦争を反映した映画に『ゴジラ』(1954年)があまりにも有名だ。
放射能を浴びた動物が巨大化して東京を襲うというコンセプトはいまだに強烈で、世界中の観客たちを震撼させたし、当時のアメリカ人からしたら、自国が投下した原子力爆弾(原爆)で被爆した国が制作した、アメリカ人に対する嫌味で怪しからん映画ととらえられる向きもあった。
哲学者、フリードリッヒ・ニーチェは、戦争とは破壊の力であり、同時に創造の力でもあるという。
スペース・オペラ『スター・ウォーズ』も、『ゴジラ』も、生みの親は戦争という破壊の力である。
ニーチェの19世紀、戦争は創造の力、という意見もあった。しかしいまはどうだろうか。
戦争は破壊以外に、力を持つのだろうか?
その点を深く考えさせられるのが、アメリカ映画との個人的な出会いと対話であった。
* * *
次回もまたまったく趣を変えて、日本文化とオカルトの関連性を考えてみることにする。
選書は、『霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史』(武田崇元、横山茂雄 著、国書刊行会刊)である。
読書会もついにここまで来てしまったのかとも思うが、どのような方々が参加し、どのような意見が飛び交うのか、興味津々でもある。
次回も、お楽しみに。