本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

2025年12月6日(土)開催:第53回 飯田橋読書会 『国家』(上・下)(プラトン著) ~知の巨人が図らずも生み出したディストピアという名のイデア~

ソクラテスは知の産婆術師といわれるぐらいで、他者との対話を通して相手の無知を気付かせる(無知の知)という、クリエイティブで生成的、啓蒙的な人物である。
たとえば、ソクラテスが処刑される直前に知の真理を熱弁した『ソクラテスの弁明』や、ソフィストを批判し対話による知を描き出した『ゴルギアス』、
美と恋愛を自由闊達な対話で言語化した『饗宴』『パイドロス』など、ソクラテスの愛弟子であるプラトンの手で書かれた数々の名著がそうだ。

政治経済が動乱するいまという時代を読み解くにあたり、ソクラテスの知恵が一つのヒントになるのではないかという声が、読書会のメンバーから上がった。
そこで、上記『饗宴』『パイドロス』と同時期に書かれたソクラテスの政治論『国家』(上・下)が選書として決定した。

紀元前に立案された「国家」の姿はかなり極端
本作は一言で言ってどういうものなのか。
国家のための「正義」をソクラテスが語る本である。
優れた国家の中には必ず正義があり、正義を持った正しい国家をいかにしてつくり上げるのかという方法論が記述されている。

本文からの引用を交えて紹介する(岩波文庫版、藤沢令夫訳)。
まずは、政治家について。

「われわれの国の守護者たちは、他のすべての職人仕事から解放されて、もっぱら、国家の自由をつくり出す職人としてきわめて厳格な腕をもった専門家でなければならず、およそこの仕事に寄与することのないような他のいっさいの営みに手を出してはならない。」

国家を守る守護者(政治家)たちは「厳格な腕をもった専門家」、つまり専業のプロでなくてはいけない。
2000年以上前に職業としての政治家について語られていたのだから素晴らしい。

国家の未来をになう子供たちの教育に関しては、次のように述べている。

「われわれの国の子供たちは早くから、なるべく法に合致する方向をもった遊びを与えられるようにしなければならない。」

遊びから、法にかなったものを与えるべきだという。
そして子供は、出生時から選別されることを推奨している。

「職人や農夫たちから、金あるいは銀の混ぜ与えられた子供が生まれたならば、これを尊重して昇進」

させ、いかなる職業からであれ、優秀なAランク(金)Bランク(銀)の子供たちは迷わず国家の守護者(政治家)に抜擢すべきだと主張する。
さらに、その逆もある。

「自分自身の子供として銅や鉄の混ぜ与えられた者が生まれたならば、いささかも不憫に思うことなく、その生まれつきに適した地位を与えて、これを職人や農夫たちのなかへ追いやらなければならぬ。」

Cランク(銅)Dランク(鉄)の子供たちは、適材適所の「生まれつきに適した地位を与え」、職人や農夫といった政治以外の世界に追いやる必要があるのだ。
血筋ではなく実力で政治を運営しましょうという発想の古典である。

教育と職業に関する提言を、次のようにまとめている。

「最高の統治を達成しようとする国家にあっては、妻女と子供は共有され、すべての教育は共通に課せられること、同様にして男女ともに、戦争においても平和のうちにおいても共通の仕事を行なうこと。」

統治のためには、家族は国家に保護され、職業を持つ者はプロに徹しなさいという。
逆から言うと、家族にも職業選択にも自由はないのだ。
そしてこう付け加える。

「彼らのうちで哲学においても戦争に臨んでも最もすぐれている人々が王となること。」
「金」や「銀」の人たちの中から「最もすぐれている人々が王となること」という言葉を残している。

はたして、ソクラテスが言う最もすぐれている人々とは、どんな人なのだろうか?

会場から出た意見の数々 ~意識高い系のディストピア~
今回の参加者は、主幹のKN、KM、HN、HH、SM、KS、私の、計7人。
上下巻合わせて1000ページ近い大作古典について、今回はどのような意見が出てきたのだろうか。
以下にまとめてみる。

「内容自体、煙にまかれたような……」

と、全体としてポジティブな意見はあまり聞こえてこなかった。

「そもそも「国家=個人」の比喩がよくわからん」

本作は個人の正義を国家スケールに拡大すれば国家での正義が実現できるという、プラトンが主張したロジックへの疑問である。
次のような厳しい指摘もあった。

「これは意識高い系のディストピアだ」

本作は対話篇なのに、

「対話が成立してない」

というのはまったくその通りで、『パイドロス』などで登場する、ソクラテスに議論を仕掛けてくる人物は出てこない。一貫して、お話に耳を傾けうなずく人ばかり。対話がない(主張の連続)のだ。

「ここに「無知の知」は入っているのだろうか?」

も、同様の意見である。
対話から自らの無知を発見させるというソクラテスのお家芸がなく、

「ソクラテスがすっかりプラトン化してしまっている」

と読め、生きたソクラテスが見えてこないのだ。

「『国家』の論調の傲慢さはどこから来ているのだろうか」

という指摘もあった。
これに対し、

「戦後に『国家』が書かれた背景から、スパルタへのあこがれが反映されている」

という声があがった。
戦後とは、スパルタとの戦いに(ソクラテスとプラトンを生んだ)アテネが敗戦した、ペロポネソス戦争のことである。
スパルタとは強権主義、国家主導主義で知られる軍事国家である。
これに対抗する著作としてプラトンの手で『国家』が上梓されたことが考えられる。

「むしろプラトンはソクラテスを「信じて」書いたのでは」

という意見も出てきた。
プラトンが抱くソクラテスの「あるべき論」が「こう語ってもらいたい」という「欲求」や「信じる」へと変形し、この時代背景において、「強いアテネ」を夢見て記述されたことが想像できる。


アンチユートピアは民主主義に「問い」を与える
下巻では、

「僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもない。」
「最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくる。」

と述べられているように、

「民主制はあまりよくないと語られているが、そもそも民主制が評価されたのはごく最近のこと」

という指摘もあった。
一方で、

「集団のために個人が存在するという論調が本作では貫かれている」
「『国家』は全体主義の起源だとは、カール・ポパーが指摘」

という発言は印象的だった。
カール・ポパーの代表作『開かれた社会とその敵』の第1巻はプラトン批判(プラトンの呪縛)にあてられている。

意見交換は終盤にかかり、本作から少し離れて、

「「知の巨人」がいまいないのはなぜか」
「知の見取り図が描ける人が見当たらない」

という、本質的な意見が聞こえてきた。
「知はファッションやビジネスに置換されてしまったからか?」という疑問から、

「その原因はAIの出現にあるのだろうか」
「AI・LLMの思想は企業そのもののあり方、多数が納得してお金を払うかどうか。つまり、ビジネスである」
「人の仕事を奪うと言われているLLMは文書ワークのパラメータの集合にすぎない」

という意見から、AIと知のファッション化、ビジネス化とのつながりを発見することができた。

最後に、「私とプラトン」をテーマに意見を出し合った。

「アンチユートピアを学んだ」
「民主主義が「よい」になる以前を学ぶことができた」
「そのうえで、民主主義への問いが生じた」

という意味で、『国家』は民主主義の問題提起の書籍である。
次の発言も印象深い。

「古典は読んでみるものだと認識した」
「ただし、「問い」を持ちながら」

古典は意味があって、いまここに存在してる。
よい、悪い、ではない。
つまり古典が持つ意味は、現代人に対する「問い」なのである。

変化は劣化ゆえに、変化は阻止すべき悪である
前段で「ソクラテスが言う最もすぐれている人々」という問いを投げかけた。
『国家』では、次のように書かれて(プラトンがソクラテスの口に語らせて)いる。

「「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、
「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」

つまり、哲学者が政治権力を握り国家を統治すべき「最もすぐれている人々」なのである。

これがいわゆる、哲人支配の思想である。
ちなみに、ここで登場するグラウコンとは、プラトンの二番目の兄である。

さらに言えば、哲学者とは誰か、である。
プラトンに言わせると、「イデアを見た人」が哲学者(=国家を支配すべき人)である。
イデアとは、モノの価値の実体である。
たとえば、バラは美しいと一言でいえる。
しかし、美しさとはバラである、とは一言で言えない。
では、美しさとはなにか?
色や香りが美しさではない。
美しさには、一つの純粋で完全で普遍的なものがあるはずだ。
その回答を持った者がイデアを見た人であり、哲学者である。
プラトンは「私はイデアを見た」と言っている。
すなわち、『国家』の論調に従えば、「王にふさわしいのは私プラトン」であり、それを師匠のソクラテスという権威者の口を借りて、語らせたのである。

『開かれた社会とその敵』でポパーは、『国家』の危険性を、プラトンのイデア論に見ている。
つまりプラトンは、国家の中に「正義」というイデアを見た、といっているのだ。
イデアとは普遍的で、純粋なもの。
従って変化はない。
言いかえると、変化は悪である。
イデアが変形して劣化したものがいまの国家だというのが、プラトンの主張だ。
そのため、いまある国家の状態は不完全である。
国家をつかさどる支配者(哲学者)こそがこうした劣化(変化)を停止させる必要があると強調する。

プラトンはスパルタに支配されたアテネの「劣化」状態を批判し、劣化を停止させようという意図をソクラテスに語らせ、世に問うた。これが、『国家』なのである。

彼は時代の必要に迫られてこのような作品を世に送り出したのだが、図らずも(独裁者が独断で変化を停止させるという)全体主義の原案を生み出し、「開かれた社会の敵」になってしまったのだ。

カール・ポパーに関しては、以下のエントリを参考に挙げておく。

読みました:『開かれた社会とその敵』(カール・ポパー 著) ~市民のための民主主義の教科書~
 
*    *    *
 
さて、次回もまったく趣向を変え、アメリカ文学に目を向けてみたい。

マーク・トウェイン作『ハックルベリー・フィンの冒険』に登場する黒人奴隷が主人公になり、彼の視点から南北戦争前夜を描いたベストセラー小説『ジェイムズ』(パーシヴァル・エヴェレット著)を取り上げる。

黒人奴隷が目にした白人社会はディストピアなのだろうか。マーク・トウェインの冒険談はどんなふうに現代の作品として翻案されスピンアウトしているのだろうか。

次回も、お楽しみに。
三津田治夫