本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

ITは現代資本主義を救えるのか? 『最後の資本主義』(ロバート・ライシュ著)

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山積された問題を克服し、いま瀕死の状態にある現代資本主義を乗り越え、新しい資本主義を創り上げていくことをテーマにした本。

著者のロバート・ライシュは資本主義を、人類の持つ共有財産として捉えている。『最後の資本主義』という挑発的な邦題から資本主義を否定するネガティブな内容かと思いきや、むしろ資本主義を肯定し、問題提起と、これからの資本主義がどうあるべきかという考え方を提示し簡潔にまとめている。

第二次世界大戦後の30年ほど、企業経営者たちは自らの役割を、投資家、従業員、消費者、一般国民、それぞれの要求をうまく均衡させることだと考えていた。大企業は実質的には、企業の業績に利害を持つすべての人々に「所有」されていたのである。」

かつてアメリカの企業は社会と共存していたが、いまではそれが大きく様変わりした。MicrosoftAppleFacebookGoogleなどの巨大企業は強力なロビイストを抱え、議員たちへの働きかけを通じて自社の収益が最大化を図るべく法案を書き換える。本来、政府は企業のモラルと社会性の手綱を握る抑止力だったが、企業が抱える弁護士の能力は政府が持つそれを圧倒的に凌駕し、企業のロビイ活動にもはや手が出ない。政府は法的抑止をかけることができず、「自由主義経済」という建前のもと、特定の集団に利益が偏る経済格差社会が形成される。

「利益は取締役とオーナー投資家からなるごく少数の手に渡り、残りの人々は失業するか低賃金の仕事に就くため、生産されたものを買うためのカネは減っていく。……将来のモデルは、少数による無制限の生産と、それを買える人だけによる消費のような形態になると考えられる。」と、著者は資本主義のきたるべき末期症状を予測する。

持つものと持たざるものの格差の拡大を放任することで、かつてのヨーロッパの王族主義におちいりかねない点も指摘する。「王族的な富は必然的に政治力と経済力を高めていくことから、私たちの民主主義にとっても脅威となっていく。」としながら、「力を失いつつある九〇%のアメリカ人に政治的発言力を与える新たな政党という形で新しい拮抗勢力が生じる可能性がある。」と、第3の政党の出現を示唆する。さらに、夢も希望もなくなった失業者の大集団が生まれることで、「全体主義や独裁主義の人材供給の場になってしまう」と、ライシュは不気味な予言を呈する。その前兆として、現在のアメリカを率いるトランプによるポピュリズム政権の出現が、ライシュの予言を証明しつつある。

経済格差に関して、さらに、データを交えて説明している。たとえば、「ニューヨーク連邦準備銀行によると、二〇一四年までに学費ローンは米国の債務全体の一〇%を占め、住宅ローンに次いで二番目に大きい」と、経済格差は教育にもおよんでいる。富裕層が通う大学は卒業生や父母から豊かな寄付を受け、大学の教育レベルは上昇する。同時に、学費の上昇や富裕層による限定的なソサエティの形成により富裕層外からの入学に制限がかかる。そこでまた教育格差が生じる。本来教育とは子供に靴を履かせるようなもので、人を社会に送り出すための基礎システム、いわばインフラである。カネの問題だけで、人の人生を大きく振り分ける教育に格差が出ること自体、社会として不健全である。

もう一つ、「カネを持っているのは、その人の能力が高いから」「カネを持たないのは、その人の能力が低いから」という、錯覚の物語が形成されてきたことをライシュは明らかにする。この意識が社会的通念になっている点では、日本でも同じである。だが、ライシュはそれを否定する。つまり富裕層たちは、その経済力により、自分たちに有利な社会のしくみを作るための「交渉力」を行使しているだけで、お金を持つのは「その人の能力が高いから」ではなく、あくまでも「交渉力」を行使しているにすぎない。同じことは、労働運動の盛んだった1950年代、現在値に換算して30ドルの時給を獲得していたブルーカラーにも当てはまる例をあげる。「彼らが頭がよかったから30ドルの時給を獲得したのではなく、「彼らの持つ交渉力がそうさせた」のである。」、と。

ライシュの警鐘と共に、「アメリカという実験の国が自由の名の下で資本主義をここまで進めてきたが、どうもおかしな方向に行ってしまった。世界の皆さん、これを一つの症例報告として見て欲しい。同じ轍を踏まずに、最後の資本主義を乗り越え、ポスト資本主義を作っていきましょう。」という、彼の叫び声が聞こえてくる。

いまのところ日本はアメリカほど過激な(自由)資本主義ではないが、多かれ少なかれ、上記のようなアメリカ流の貧富格差は、日本国内にも刻々と組み込まれている。

同時に、世界のあらゆるシステムは刻々と激変している。国家や政府という実体以外に、ネットという仮想空間の中に「ソーシャル」が形成されている。貨幣という実体以外に、ネットという仮想空間の中に、ビットコインやカード決済、ネット銀行などの「仮想通貨」が流通している。さらにいまは、そこにAI(人工知能)の技術も加わっている。そうした、いままで人類が見たこともない社会的枠組みを持つ現代、資本主義社会以前に存在した「王族主義」がそのまま再来することはあり得ない。とはいえ、人間からの自由を剥奪するに酷似した構造が出現しつつあるのは、紛れもない事実である。

この本を読んで改めて直感したのは、「最後の資本主義」を乗り越えた人類の未来の幸福は、人間と仮想空間とのかかわり方にかかっているのではないか、ということだ。

仮想空間を「道具」として利用する知恵をいかに持つかが、人類の未来の幸福を拓く一つの鍵ではないか。これは大きな課題である。

マルクスの大解剖で本質が暴かれ、ケインズの再定義により現在にいたる現代資本主義とその世界。それを、救われるべき「最後の資本主義」として定義したロバート・ライシュ。今度は日本から、資本主義を救済し、人類の未来の幸福を拓くモラルと文化が生まれることを、強く願っている。

三津田治夫

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その昔、情報とは文字だった。
情報技術/ITは、15世紀のドイツ、グーテンベルグによる活版印刷からはじまりまった。
文字を活字に分割し、活字を亜鉛合金で鋳造し、インクを盛り、紙に刷り込む機械の開発まで、文字情報を大量生産する一連の技術を、グーテンベルグは体系化し、実用化した。
グーテンベルグの技術は宗教と芸術、学問を通して出版の大衆文化を作り、一般市民はあまねく書物を手にできるようになった。
それから時を経ること500年。
活字もインクも紙もなく、文字を大量生産・流通できる技術が、デジタル情報革命によって確立された。
それが、いまのIT、ネットワーク、コンピューティングの世界である。
コンピューティングは文字だけでなく、画像や音声、動画など、データ化可能な情報のすべてをその手中に収めた。
そしていまや、膨大な情報はビッグデータとなり、人工知能/AIやディープラーニングにより、デバイスの小型化によるIoT、量子コンピュータによる超高速処理と相まって、第二のデジタル情報革命が起ころうとしている。
こうした、活字でできた文字で構成された本の世界から、データでできた情報で構成されたコンピュータの世界へと、情報の表現のスタイルはこの500年で劇的に変化した。

出版の大衆文化から生み出された現代の情報技術/ITは、一体、どんな未来に進むのだろうか。
人はなにをもってITをサービスとして受け止めるのだろうか。
私たちはビジネスの価値としてITを提供するために、この150年で激変した新しい資本主義社会を迎えるにあたり、どんな学びが必要なのだろか。
これらに関し、さまざまな本やニュースにあたり、哲学、歴史、宗教などの議論を通して考え、事物を編集、再定義することで、血の通ったIT社会を作るためのビジネスや教育のインサイトを手に入れる。そしてそれらを共有していくこと。これが、このサイトのゴールである。

付け加えれば、人の能力やモノ、コトから価値を生み出すリーダーは、数々の本を読み、自問自答を繰り返し、つねに「なぜ」を問い、学びを手にする。リーダーはその学びを行動として実装し、社会の先頭に立ち、自他と高度なコミュニケーションをとり、自律的に、事物をクリエイトする。有史以来いつでも変わらない、リーダーの姿である。その意味でも、第二のデジタル情報革命を迎えたIT社会の未来を、リーダーの視点から正しく読み解くには、急がば回れ、本からのアプローチが最も合理的だと考えている。

激動のAI時代に突入したことを機に、編集者として22年に渡り本を作ってきた当Blog管理者とともに、数々の書物やニュースを通し、ITの豊かな未来を真面目に考え、その成果として、言葉の通った豊かな社会を共有することができたら幸いです。

三津田治夫

昭和の話芸を文字で堪能する:『おなじみ 小沢昭一的こころ』(芸術生活社刊)

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小沢昭一先生が鬼籍に入られてはや1年。
人間とは死んでしまうと忘却の中へとすっかり埋没してしまうものだが、書物はそうした過去の存在を言葉を通して目の前に甦らせてくれる。
小沢昭一的こころ」とはかつてTBSラジオで放送していた超長寿番組のタイトルで、本書はこの番組のシナリオから再録したいわば「ベスト版小沢昭一的こころ」である。
私がこの番組を最初に聴いた記憶は小学生のとき。以来高校生のときまでよく聴いていた。小沢昭一の絶妙な語り口とその内容が面白く、夕方の954KHzに周波数を合わせるのが楽しみだった。
内容は、昭和のお父さん(中高年で出世の遅れた中間管理職、妻と娘から虐げられている)を主人公とした、いってみたらラジオエッセイ。毎回のテーマは「セーターについて考える」「ラッパについて考える」「紅白について考える」などの「~について考える」とし、テーマを巡って古今東西のエピソードを織り交ぜながら考え、語るのである。その合間、会社や居酒屋、屋台、スナック、キャバレー、愛人宅などを舞台にした、昭和のお父さんのしょうもない妄想、幻想、哀愁の独白を織り込み、リスナーの共感を誘う。
よくもまあ、1つのテーマを10分という限られた時間内で多方面に展開させ、笑いあり涙ありお色気ありでリスナーを楽しませたものだ。
本書の内容も、このラジオの雰囲気を見事に再現している。他愛もない話のようで実は奥が深かったり、しょうもない話のようで実は本質を突いていたり、内容そのものよりも実は小沢昭一の言い回しにおもしろみがあったりと、「口演」とはまさにこのことだと、改めて感心した。
装幀のくたびれ具合を見ての通り、本書はAmazonマーケットプレイスで購入したものだが、奥付を見ると昭和五四年六月一日初版発行、昭和五四年十一月八日五版発行とある。4ヶ月で5刷とは、立派なものである。それだけラジオのファンも多かったというわけだ。
昭和を代表する偉人であり一流の語りべであった小沢昭一先生の仕事に改めて触れ、偉大なメディア人だったと、尊敬の念を新たにする次第だった。
三津田治夫