本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

2026年5月16日(土)開催、飯田橋読書会の記録:第55回飯田橋読書会『プロレゴーメナ』(エマニュエル・カント著)~人の認識から「自由」をとらえようとした巨人との接触~

読書会、開催12年目にしてとうとうやってきてしまったのが、西洋哲学の巨人、エマニュエル・カントである。
今回の選書はその中でも比較的わかりやすいといわれている、カント自身が書いたカント哲学の入門書『プロレゴーメナ』である。

学生時代に哲学書を読みたいと思って買った入門書がバートラント・ラッセルの『哲学入門』だった。ほぼ理解ができず「どこが入門なのだ??」と読了後に思い、その後何度かめくってみたがよくわからず、長らく書架に放置されていた。

それから10年以上が経ったあるとき、同作を読んで初めてなるほどと腹落ちし感動した。そして巻末を開くと、次のステップにおすすめの書籍としてカントの『プロレゴーメナ』が紹介されていた。

ラッセル先生のおすすめならばぜひ読んでみようと、さっそく中公新書版を買って読んでみた。それが本作との出会いのきっかけである。

当時は「なんと面白い本なのだ」と感動し、その感動のまま読書会の選書として提案してみた。
哲学書もいいだろうということで、選書としてすんなり採用された。

今回、岩波文庫版の新訳を読んでみたのだが、感動を得たときの初感覚がほとんどなくなっていた。単に読解力が低下しているのか。それともカントそのものに関心がなくなったのか。出会いからそれなりの年月を経ているとはいえ、これはショックだった。

今回、選書した張本人の私は、読書会が果たして回るのだろうかという不安にとらわれた。
これは、55回を経た読書会で一番のプレッシャーだった。しかし結論から言うと、選書し、開催してよかった。

カントの時代、日本でも社会は不穏だった
まず、作者のことを簡単に紹介しよう。
エマニュエル・カント(1724年~1804年)は旧ドイツ領プロイセン王国の港湾都市ケーニヒスベルクで大学教員として活動した哲学者である。
ケーニヒスベルクは現在のロシア領カリーニングラードである。ポーランドの港湾都市グダニスクから車で東に3時間ほどに位置する。

同時代の日本ではなにが起こっていたのだろうか。
元号は享保9年~文化元年にあたる。
8代将軍徳川吉宗による享保の改革、それに続く享保の大飢饉をはじめ、社会不安が国内を取り巻く。
こうした時代には精神の反動として学問や芸術が興る。
近松門左衛門の浄瑠璃が演じられ、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をはじめとした滑稽本が庶民の間で読まれたのもこの時代である。

蘭学者の杉田玄白が原書を頼りに小塚原刑場の囚人遺体を解剖検証しながら翻訳した『解体新書』もこの時代の作品だ。刑場では囚人による刀剣の試し斬りが盛んであったことからも、この時代の江戸は治安が悪く罪人が多かったことが想像できる。

不穏な時代だからこそ、日本人は新しいメディアと知識を求め、世界を生きたものとして認識しようとした。
日本でも人が「世界とは何か」を問い始めた時代であった。

話を江戸からケーニヒスベルクに戻す。
彼の代表的な仕事は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の批判三部作である。

今回の選書『プロレゴーメナ』は批判三部作の第一作目で、カント自身による『純粋理性批判』の解説書である。自作に対する読者の不理解に業を煮やし、「ならば解説書を自著しよう」と書いた入門書が本作だ。


カントの「批判」三部作

『プロレゴーメナ』が語った『純粋理性批判』とは、そもそもどんな本なのだろうか。
ひとことで言うと、人間の認知メカニズムを解き明かそうとした壮大な思考結果のまとめである。

人間は視覚や聴覚など五感を通して物事を認識し、頭脳で理解する。手にした情報を、記憶と心の中に知識としてインプットしている。
その間、事実に勘違いがあったり、ありもしないことを迷信したり、事実をねじ曲げて理解したりなど、1つの物事であっても社会的制約(バイアス)によりさまざまな受け止め方がなされる。
たとえば戦時中の日本人は、米英人を鬼畜であると認識していた。米英人から見た日本人もそうだった。いまのイスラエルやイスラムも類似の状況である。
SNSで拡散される風評や数々の都市伝説もこれに類似した構造で事実が意識化される。

しかしながらこれらをカントに言わせれば、「それって習慣や常識、政治、宗教による社会的バイアスでしょ?」である。
「バイアスを外せば日本人、米英人、ユダヤ人、パレスチナ人、すべて人間じゃない?」といった、思考の抽象度を高め、万人には「純粋理性」という偏見を超えた共通の意識が備わっているのではないかという仮説を私たちに提唱した。

人間そのものの在り方や考え方はこうしたバイアスの外にあるはずだし、人間個人はもっと自由に生きるべき存在であるということを読者に説いた作品が、『純粋理性批判』の全三巻である。

第二部の『実践理性批判』では、人間の自由を追及するための純粋理性を実現する方法を説く。その実現には、個人のモラルによる自律を通した自己規制が必要であると主張する。「これは自由ではない。強制じゃないか」と、一瞬は矛盾を感じる主張である。

そして批判三部作ラストの『判断力批判』では、個人の価値観に焦点を当てる。
人はモラルを持ち自律しなさいと言われても、人がなにに対してどう反応するのかという価値観は千差万別である。
自律のベースは、快楽や衝動といった人間が持つ動物的な価値判断にあるのではなく、自然の脅威や絶対的美といった、人間の力がおよばない抽象度の高い場所に位置する価値判断にあるはずだと、自由の本質のありかを仮説し、3部におよぶ壮大な探求の幕を閉じる。

現代人はこの話を聞いても「それで?」となるかもしれない。
視線を18世紀の西欧社会に置いてみると、キリスト教が常識だった風景が見えてくる。
いわゆる「常識」にモノを言うスタンスのカントにとって、人間を人間らしくするためには、こうした常識から人間が解放されることが必要であることを考えた。これが、彼の活動の主眼だった。

モラルや常識を個人に判断をゆだねるカントは、見方を変えれば超個人主義者である。
言い換えれば、人間に対する揺るぎない信頼を持ったオプティミスト(楽観主義者)である。
カントは人間とは可能性のかたまりであると信じつづけた、きわめて純粋な人物である。

批判三部作から生まれたカントの人間に対する絶対的信頼は、世界平和を実現するための理論へも発展させ、国連設立のコンセプトを与えたことは世に知られている。

単なる理論家の先生ではなく、目前の現実に視線を据え、個人が自由を実現するためのアイデアを発案した社会派哲学者がカントなのである。

彼の考えのほぼすべてが以下短文に集約されているので引用する。

「人間は物件ではなく、したがって単に手段としてのみ用いられるものではなく、あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない。」
(『人倫の形而上学の基礎づけ』(野田又夫訳)より)


会場からの声 ~やっぱりカントは難しい~
カントがなかなかとっつきづらく、難しいと言われるのには明確な理由がある。
第一は、18世紀キリスト教社会で書かれた作品であるという点。常識を批判しつつ教会を真正面に批判できず、奥歯にものが挟まったような言い回しが出てくると、よくわからなくなってくる。

会場からの第一声に「訳語がへんで言葉が分からない。しかしながらよく訳した!」と上がったように、難しさのもう一つは単語にある。
そう訳さざるを得なかったという事情はよくわかる。
が、「悟性」「格率」「純粋理性」など、聞き慣れない日本語が多出し、これに最初は面食らう。
「分析的」「綜合的」といった日常で使われそうな単語でも、カントの文面から意味を取ろうとするとさっぱり意味がわからなくなる。
これらが読者理解に高いハードルを構成する、いわゆる「カント語」である。

ちなみに『純粋理性批判』最終巻の巻末は、180ページにおよぶカント語辞典の付録である。

今回の読書会の参加者は、主幹のKNとKM、HN、SM、SK、KS、そして私の計7名。

扱いが難しい選書ながらも、積極的な参加者の数が意外だった。

以下、会場からの声をまとめる。

「まいっちゃったよ。前半は乗って読んでいたんだが……」

これは全参加者に共通する言葉である。
カントによるカント哲学の解説書とあるが、読めば読むほど、カントのことを知らずには『プロレゴーメナ』に近づけないというジレンマにはまり込む。

「本作だけでカントを理解するのはとうてい無理」

という発言がそれを代弁していた。

「エカテリーナ2世、マリア・テレジアの時代を象徴する、啓蒙の人」

同時代の人間への絶対的信頼、権力や迷信への不信を徹底表明した啓蒙思想家こそがカントである。

「認識は時代と共に変化しているのでは?」

という疑問は印象的だった。
色彩論を研究されているSKさんは、

「本来、赤といわれている色は人によって違って見えているはず」

としてさらに、

「色の認識は人間間の「道徳」がつないでいるのでは」

という見解は、社会の共通認識はモラルであり、モラルは迷信や権力にも力を与えるという二面性に疑問を呈したカントの意見に通じる。

カントが人間に欠くことができないものとして「絶対神」と「心の不死」をあげているが、HNさんによると、「私にこれらは不要」「ただし宇宙は必要」である。カントの自由論が現代人に通じづらい点がここにある。神学に権力があった時代の自由論である。

一方で、

「18世紀の理論は人間の側にあった」

と、理論を神から人間へと引き付けようとしたヒューマニズムの時代と、AIや遺伝子工学が人間の外側で急発展した現代科学との対比もあり、

「時間・空間・人間との先見的(アプリオリ)な関わりの重要さを発見したカント」

「時間と空間がないと経験は成立しない。そうした決定的な線引きを学者として設けた」

「これらに着目し、現代を見こした考え方がこの時代に確立されていた」

という、後の存在論に大きな影響を与えた発見は素晴らしい、という意見もあった。
現代哲学(モダン)の出発点にカントがあり、カントの精査や改良を通して、いまの哲学がある。
カントはいわば、現代哲学のビッグバンである。

◎Mさん作図によるカントの認識体系


カントと仏教、そして「シンデレラ伝説」
カントの理論に一歩踏み込んだ発言も多かった。

「人間の感覚器官から議論を始めたアプローチが面白い」

「「感性ー悟性-理性」という認知のフレームワークを提示したのは画期的」

「悟性認識の「カテゴリー」という大ワザもなかなかよい」

カントは感覚や認知を扱いながら「私は心理学者ではない、哲学者だ」と主張し続け、宗教やオカルトに傾いていた当時の心理学者とは「別人」である態度を貫き通した。

しかしながら「認知のフレームワーク」という発想は後のフロイト理論(無意識-自我-超自我)の原型である点が興味深い。
またカントは「社会環境 対 個人」で人間を捉えようとしていた点に対し、フロイトは個人に一歩踏み込み「社会環境 対 性・抑圧・個人」で人間を捉えようとした。
カントを読めば読むほど、フロイトとのアプローチの類似性が見えてくる。

「モノ自体は存在しない。あるのは五感が得ている感覚だけ」

というカントは、フッサールやハイデッガーなどの現象学や存在論への道を開拓した。

カント理論の出発点が形而上学であったことに関し、

「形而上学とはカントの時代、“机上の空論”ぐらいのネガティブな言葉だった」

「「現実的な“よい”形而上学」という可能性の道をカントが拓いた」

と指摘しながら、

「これは形而上学のリブートだ!」

という発言には深く共感した。

カントが特徴的なのは、

「コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンといった物理学者を研究していた」

というように、研究領域がクロスオーバーだった点。
また、

「『純粋理性批判』のテーマはすでに仏教哲学で扱われている」

と、ナーガールジュナ(龍樹)が認識を扱った仏典『中論』を指摘する発言もあった。

カントの時代にドイツ語版の『中論』があったかどうかは定かではないが、後のゲーテやニーチェなど、ドイツ語圏には仏教的な思想を展開する作家・思想家は多い。

世界じゅうに分布するシンデレラ伝説のような、なんらかの共通の無意識が備わっており、それがカントのような多方面からの知識を持つ知の巨人が感知し言語化してしまい、カントを参照する後世の文人たちが知らずのうちに仏教思想を引き継いでいるのではないかという仮説を個人的には持つ。


私とカント ~自己の立ち位置からLLM(大規模言語モデル)まで~
最後に「私とカント」について、個人的な気付きを一言ずつ語っていただいた。

「読んでよかった」

という発言が象徴するように、おおむねポジティブだった。
またこうした機会でもなければ、読書会で膝つき合わせてカントを読むことはなかっただろう。

自分の人生において、これだけの人数でカントをざっくばらんに語り合う機会がこようとは、夢にも思っていなかった。これは実に豊かな体験だった。

「自分の“立ち位置”を知るのにちょうどよい」

「多様な解釈ができるカントの深さを再認識」

カントが自分に問うことを繰り返してでき上がった本作の性質からも来ている。
つまり、カントが提示した認識論と、自分がどう世界を見ているのかという対比ができたり、認識論を精神論ととらえたり、個人の読まれ方によってさまざまな理解が可能であるというカントの広がりと深み、カント思想の超個人主義性が指摘された。

ITに絡めた独自の解釈もあった。

「カントによる感性ー悟性-理性の三層構造はネットワークのレイヤーに似ている」

デジタル情報のネット上のやり取りに使われているTCP/IPのレイヤー構造の原型はカントの認知モデルに似ている、という見解だ。

「LLM(大規模言語モデル)はアプリオリな純粋悟性ではなかろうか」

人間の言語をコンピュータが理解しているように見せかける仕組みが、カントの「カテゴリー」をアルゴリズム化してコーディングしたのだろう、という指摘である。

ChatGPTなどLLM対人間の対話は、理解に基づいていないにもかかわらず「理解と対話らしきもの」が成立しているという事実からも、

「認識に厳密さがなくても人はコミュニケーションできる」

ことをカントから気づかされたというコメントもあった。

「知と認識の関係」を再確認したという意見や、
「現代物理学とカントの関係を知りたい」といった、当時の物理学からインスパイアされ思索活動を展開したカントが現代を見たらどういう行動をとるのかという意見、「現代認識論をカントに読ませらどんな反応をするのだろうか」という好奇心の声もあがった。

カントの時代の科学が扱う領域は、大きい・小さい、上・下、右・左など、計測と認知が容易なものが主体で、認知が困難な「ふんわり」としたものは宗教や精神世界に属していた。
いまのような、ふんわりしたものが宗教や精神世界から分離され科学や組織に実装されている時代とは大きな違いがある。
こんな時代をカントにぜひ見ていだき、評価していただきたいが、彼の結論はあまり変わらないだろう。彼はきっと、人間を目的とした世界を追求し続けるはずだ。


2日間頭痛が止まなかった読書会の下準備
今回の読書会は、いままでで最も重たかった。
『プロレゴーメナ』を読めば読むほど分からなくなり、これは訳の問題なのだろうと中公新書版も再読したがよく分からない。
『純粋理性批判』と『実践理性批判』も再読してみたがよく分からない。『判断力批判』を読み終えたあとは頭痛が二日間止まらなかった。

ともあれ、会を無事に終えることができてほっとした。

「自由」のためには「道徳への従順」が必要だというそもそものパラドックスに見えるカントの主張は、「自分が自分の主人になれ」というゲーテの言葉が象徴する自律の勧めである。自由と好き勝手はまったく別物で、「自由はそんなに楽じゃないよ」なのである。

カントは難しい単語や理論を多く使うが、言いたいことは一貫して変わらない。

「漫然と楽して習慣と常識の中に生きている皆様、“現実”を直視しましょう」である。その直視の方法の探求を、カントはライフワークとして私たちの前に残してくれた。

カントに接近するには、理屈を理解することよりも、まずは感じることが大切だと私は思う。理解しようと思えば思うほど、カントの本質がするりと抜けていってしまうような気がしてならない。

カントの辞世の言葉「これでよし」はあまりにも有名である。「すべてよい」という勇ましい意訳も与えられているが、原文のドイツ語「Es ist gut」を直訳すると「いいね」ぐらいの軽い意味である。

社会に対しては懐疑の目を厳重ににらみつけつつ、人間に対してはつねに「よい」という視線を向けつづけた、カントらしい言葉だ。
彼ほど一貫して、人間を徹底して信頼し続け、人間は「よい」をぶらさずに貫徹した人物は他にいないだろう。

        *  *  *

さて、次回の課題図書は、理工系版元編集者SMさんによる初の選書として、次の作品を取り上げることに決まった。

『古代オリエントの宗教』(青木健著、講談社現代新書)

次回は古代宗教という新たなテーマを楽しみながら、少し骨休めしながら語り合うことにしたい。さらに猛暑のさなか、恒例の暑気払いも行う予定。

次回も、お楽しみに。

三津田治夫

読みました:『文体練習』(レーモン・クノー 著、朝比奈弘治訳) ~無意味なのに意味がある99の物語~

大変な名作、奇書。
訳した翻訳者も企画を通した編集者・出版社、いずれも大仕事だったことが想像できる。
フランス語初版は1947年出版で、日本語版は1996年。実に半世紀を経て翻訳出版にいたっている。

イタリア語版の翻訳はウンベルト・エーコ
税込3,738円という価格からも、訳の難易度の高さと相まって、出版社が手を出しづらかったことが想像できる。
また、文芸読み物なのに本文が1色ではなく色刷りだったり、唐突に口絵が入ったり文を曲げたりずらしたりといったイレギュラーなデザインと組版は、手間とコストがかかり出版社泣かせのパターンである。
初版は活版印刷のはずだから、これをどのように実現したのかは謎である。

200というページ数の少なさでこの価格にはじめは驚くが、一読すると誰もが納得するはずだ。
イタリア語版の翻訳が『薔薇の名前』のウンベルト・エーコというのも、本作を日本語で出す大義と権威を与えることに寄与している。

本を読みながら声を出して笑えるということは人生において少ない体験だった。
朝比奈弘治の絶妙な訳を笑いながら読んでいた。
フランス語ができる人なら、原文で読むとさらに楽しめ(笑え)そうである。
この方の訳に接し、『ゲーデル、エッシャー、バッハ:あるいは不思議の環』の柳瀬尚紀を思い出した。ジョイスの英語回文を日本語回文に訳すなど、見事な超訳をこなす名人だった。

意味のない物語を99種類の文体で楽しむ
あれだけの数のとりとめもない物語から文体をいじり倒し、読者の関心と知的好奇心を引き摺り回すという作品は、おそらく唯一無二だろう。その点で奇書だと感じ、また、J.S.バッハ『フーガの技法』にたとえられるとことには納得がいった。

肝心の本作の内容だが、「バスに乗っているとき、首が長く奇妙な帽子をかぶった男ともう一人の乗客との口論を目撃する。」から始まる、次のような短い物語が99編続く。

たとえば、書き出しから相当な変形がなされた41番目「荘重体」の冒頭は、次の通りだ。

====
曙の女神の薔薇色の指がひび割れを起こしはじめる時刻、放たれた投げ植もかくやと思われんばかりの素早さでわたしは乗り込んだ、巨大な体題に牝牛のごとき感を備え、うねうねと蛇行する道を行くS系統の乗合バスに。戦いに臨まんとするインディアンのごとく鋭敏にして正確なる我が目は、その車中にひとりの若者の存在を捉えた。駿足のキリンよりもなお長き首を備え、中折れのフェルト帽に編み紐を巻いたその勇姿は、まさしく文体練習の主人公そのものであった。
====

83番目の原文はイタリア語とフランス語の混合体で、訳者はこれを「インチキ関西弁」として翻案し、次のように扱っている。

====
お昼ごろやったかいなぁ、バスのうしろん方にデッキいうもんが付いてまっしゃろ。あこに乗ってましたんや。ほたら、あんた、アホな男はんがいはりますねん。若いのに、ごっつう長い首して、帽子には編み紐のでけそこないみたいなもん巻いとうんでおます。
====

付録ラストには「女性の視点」として文体はさらに変形され、ほぼ原形をとどめていない。

====
ほんとにもう、みんな気がきかないんだからっ! 今日お昼に(暑かったのなんのって、わきの下に香水つけといてよかったわ、でなきゃあのクレトンの夏のドレス、せっかくあの店で仕立てたのに、でもあそこ、よくまけてくれるわね、ひどいことになってたかもしれないわ)
====

訳者のあとがきも熱意にあふれていた。
原稿が書かれたのは戦時中の1940年代。
ちょうどパリがナチスに占領されていた時期だ。
この状況でこれだけクリエイティブなものを書けたというのは驚きだ。あの時代のフランス人が持ったメンタリティの現れかもしれない。

さらにあとがきを読むと、レーモン・クノーは1930年代にシュールレアリズム活動をしていたとある。
とりとめのない短編から99にもわたって文体をいじり倒すという無意味さもまた、シュールレアリズムの表現の1つなのである。

このようなオリジナリティの高い作品に触れてみたいという方は、書籍の価格にひるまず本作を購入し、装丁から翻訳、文体、組版、デザインのすべてを、視覚触覚をはじめとした五感を発揮し、書籍が醸し出す作品の空気を存分に堪能していただきたい。

三津田治夫

読みました:『ヘンリー六世 全三部』(シェイクスピア作、松岡和子 訳)~悲劇の平和主義者が織りなす三部の大河悲劇~

本作、シェイクスピアのデビュー作は全3部の長編大河戯曲。
第2部から不気味な権勢争いになり、後半からは血で血を洗う系シェイクスピア悲劇の世界に一気に突入。

後半から徐々にシェイクスピアらしい詩的な長台詞が増え、『リア王』や『マクベス』『ハムレット』『オセロ』といった悲劇が登場した原点の成り立ちが見え、大変興味深い(面白い)。

ヘンリー六世は温厚な王様で、それに付け込んだりしびれを切らしたりで烏合の衆が権力を手にするため手練手管の活動を繰り広げる。
ラストはヨーク公爵の三男リチャードが不気味な野心を口にしながら、悲劇は続編『リチャード三世』へと引きるがれる

以前『リチャード三世』を読んだときに登場人物や文脈がよく見えないところがいくつかあり、読後に『ヘンリー六世』の続編であるということを初めて知り、今回、読むにいたった。

血で血を洗う系シェイクスピア悲劇として真っ先に頭に浮かぶのは『タイタスアンドロニカス』だ。
ずいぶん前に読んだが、なんでこんなに悲惨な物語をシェイクスピアは書いたのだろうと、胸が痛みつつ、作家の心理状況を思いめぐらせていた。

『マクベス』の原型となったスコットランド女王メアリー・スチュワートはシェイクスピアの同時代人(彼女が処刑されたときシェイクスピアは22歳)だったところからも、時代がシェイクスピアのような悲劇をいくつも書かせたことが容易に想像できる。

大義名分をちらつかせ庶民を巻き込み他国に戦争を仕掛けたり同盟関係を持ちかける『ヘンリー六世』の登場人物たちの行動やメンタリティから、いまという時代でアメリカが取っている軍事行動が重なって見えてくる。

写真は、2023年8月にシェイクスピアの故郷であるストラトフォード・アポン・エイヴォンに訪問した際に撮影した2点。
一つは、シェイクスピアの自宅博物館で演じられていた『マクベス』の一幕。
もう一つは、町の中心にあるシェイクスピアの銅像とその前掲に建つフォルスタッフの銅像。

こんな小さな町から世界文学が発信されたのには正直驚いた。

最後に、悲劇の平和主義者、ヘンリー六世の台詞から引用。

----
あの真紅の血はランカスターの紅バラそのものだし、あの蒼ざめた顔はヨークの白バラを表している。
どちらでもいい、一方のバラはしおれ、他方を満開にさせろ。
お前たちが争えば、一千の命がしおれるのだから。
----

三津田治夫

読みました:『ドイツ・イデオロギー』(マルクス・エンゲルス著 岩波文庫) ~人類をマネーというシステムから解読した思索の舞台裏~

資本主義を徹底解明したマルクス・エンゲルスの脳内で起こった、思考の流れが読み取れる作品。彼らの扇動的な文体が興味深い。

学生時代、本作をドイツ思想の一般的な解説書だと大きな勘違いをして何度か手を出した(ちなみに同級生たちは本作を『ドイデ』と呼んでいた。マルクス・エンゲルスは「マルエン」)。
しかし、マルクス・エンゲルスの問題意識をまったく理解できずに撃沈。

いま読むと、当時の論敵(フォイエルバッハ、マックス・シュティルナー、ブルーノ・バウアー)と激しくやり合っていた緊張感が伝わってくる点が第一印象。
哲学と社会学の垣根が薄く、これらの背景に宗教の存在が濃かった19世紀、人間や人間を取り巻く「環境そのもの」に光を当てる姿勢は主流でなかった。
いまのように科学実証されたデータが多くを語ることができなかった。ゆえに、彼らが提示した切り口や視点といった「アイデア」はさまざまな人たちに参照され、世の中を変えていくことになる。

そんな時代に彼らは、「人類は社会環境やシステムに強く影響を受けている。とくにマネーというシステムに」と、神秘や権威、雰囲気、空気といった、宗教的な論調とはまったく異なったレイヤーに焦点を当てることで、人類の未来に光を当てた。

価値が細分化されすぎた現代とは相当異なる当時、まさに革命的なアイデアを社会発信したことが、彼らの歴史的功績である。

生成AIやネットを通して個々人が多様なアイデアを持つようになったいまという時代に、19世紀人のマルクス・エンゲルスをタイムマシンでお招きしたい。この時代を目にしたら、彼らはどういったことを口にし、どういった行動をとるのだろう。大変興味がある。

三津田治夫

2026年2月28日(土)開催:第54回 飯田橋読書会の記録:『ジェイムズ』(パーシヴァル・エヴェレット著)~アメリカ大陸、エンターテイメント、黒人差別の三題噺~


UV加工が施されたカバーに箔押しの帯には「全米200万部突破」とある。鈴木成一のブックデザインが特徴的な作品、『ジェイムズ』が今回の課題図書である。

マーク・トウェイン著『ハックルベリー・フィンの冒険』を、ハックの従者でパートナーの黒人奴隷ジム(ジェイムズ)の視点から、時代背景を南北戦争前夜として描き直したスピンアウト小説である。

2024年の刊行早々、カーカス賞や全米図書賞、ピューリッツァー賞を受賞し、ブッカー賞候補にも選ばれている。
2023年には映画『アメリカン・フィクション』でアカデミー賞脚色賞を受賞しており、本作もスティーブン・スピルバーグ制作による映画化が決定している。

原書刊行から1年足らずで日本語版が発刊されたのも、AIサポート翻訳時代の成果とも言えるスピード感だ。

作者のパーシヴァル・エヴェレットは1956年生まれのアフリカ系アメリカ人、南カリフォルニア大学卓越教授。
『Dr.No』『The Trees』『Telephone』『Am NotSidney Poitier』など小説をはじめ、詩から児童文学まで多数の著作実績があり、いずれも各賞を受賞し高い評価を受けている。アメリカを代表するベストセラー作家だ。

マイアミ大学で哲学と生化学を専攻する中で出会ったのが、オーストリアの分析哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの著作だった。

「私はヴィトゲンシュタインに完全に魅了された。」
「彼の思想はいまも私の思考に影響を与えている」

と告白するように、ヴィトゲンシュタインとの出会いが彼の作家人生を決定付けることになる。

経歴に目を通すと、音楽家や牧場労働者、高校教師など、さまざまな職遍歴を通して現在の地位を築いていることがわかる。

本読書会においてなかなか取り上げる機会の少なかった属性の作品『ジェイムズ』に対し、会場からはいったいどのような声が出てきたのだろうか。
以下にまとめてみる。

アメリカ大陸と人種差別、時代変化の「加速」を暗示
今回の参加者はKN、HN、KM、KS、KAそして私の6名。本作を選書した張本人のHHは残念ながら不参加だった。

『ハックルベリー・フィンの冒けん』(柴田元幸訳)を読んだ人からの意見が第一声だった。

「ジム(ジェイムズ)というキャラがいたのを思い出した」
「読んでいて、トムソーヤが出てきてつまらなくなった」
「マーク・トウェインはアメリカ文学の源流だ!」

次にあがった意見は、

「「黒人としての役割語」を意識的に使っているジェイムズの姿が興味深かった」
「これが「黒人訛り」なのだろうか」

と、「言語」というシリアスなテーマに焦点を当てエンタテイメント小説を書き上げた主人公像が印象的であるという声だ。

本作はジムとハックの逃亡劇。
これに関し、

「なぜアメリカのドラマにはリチャード・キンブルみたいな逃亡劇が多いのだろう?」

という疑問に、

「アメリカは国土が広大なうえに同一言語である背景が「逃亡劇」を生みやすいのでは」

というわかりやすい見解が提示された。

「面白かったの一言」
「作者の知性がにじみ出ている作品」
「いかにも映画化されそうな内容」
「夢中になって一気読みしました」
「当時のアメリカ大陸の風景が見えてきた」

というポジティブな意見が聞こえてきた一方で、

「しかし、広がる話題はあまりない……」

という消極的な意見もあり、激しい意見交換や、ましてや紛糾の影などが見える様子は一つもなかった。

「ジムが理想的な黒人としてハックを守っている点が面白かった」

とは、本作はあくまでも黒人視点での作品だ。
黒人ジムはつねに主体である、しかし差別の対象である、という二重の視点が貫かれている。

「これは明らかに反ヘイトの本だ」
「黒人への差別や暴力の撤廃を訴えるBLM(Black Lives Matter)の1つ」

という意見は、作家が本作の根底に流し込んでいる思想の根幹だ。

参考知識として、

「サイードの著作や、ホミ・K・バーバの「ポストコロニアル理論」は参考になるだろう」

「KKKが英雄として活躍するグリフィスの映画『国民の創生』は逆説的に観ておいた方が良い」

という貴重な情報もあった。

本作の逃亡劇の舞台の多くは川である。
川が効果的に登場人物の背景に置かれていることに関し、

「川が印象的なのは、アメリカが海洋国家になる前ぶれを示唆しているのかもしれない」

という意見もあがった。

「後半の南北戦争という脚色は、時代の「加速」を強く感じさせた」

作者は黒人を取り巻く環境変化の加速を現代に写し取り、そのような現代の変化と願望を暗示したのだ。

白人が顔を黒塗りにし黒人を舞台で演じる「ミンストレル・ショー」がたびたび出てくる。ジムは黒人なのにショーの劇団に買い取られ、黒塗りをした白人のふりをして人気者になってしまう。

「日本でミンストレル・ショーを模した芸能人にシャネルズがいた。さすがにいまはポリコレ的に再放送できないだろう」

差別や偏見も商品価値になった昭和という時代。
当時を振り返る懐かしい意見も出てきた。

武器としての言葉、自由としての筆記用具
作者は「私にとって根源は言語の問題だ」と宣言している。
このことからも、本作はエンターテイメントの体裁をとった「言葉をめぐる物語」であることが読み取れる。

ジムの逃亡劇の発端は、鉛筆と手帳を白人から盗むところにある。

ジムは鉛筆を手にし、手帳に言葉を記述する。
記述された言葉は記録になる。
記録が精査されると歴史になる。
歴史に則り思考の流れを言語化すると哲学になる。
1人の黒人奴隷であったジムは、鉛筆と手帳を手にすることで、歴史を記述する主体となるのだ。
白人に依存せず主体になるとは、すなわち自由になることである。
本作の鉛筆と手帳は重要な小道具を演じる。
すなわち、自由のシンボルなのである。

ジムは白人に対して訛り言葉を巧みに操る。
たとえばこんなふうに(以下本文から)。

====
「頼むだ。わしはもう少し寝るだ。蛇には気を付けるだよ」
====

黒人訛りに関して会場からは、次のような素朴な疑問が提示された。

「黒人同士ではどんな言葉を喋っていたのだろうか?」

さすがに記録がないのでわからず、想像に任せるしかないが、一つだけ言えることは、ジムが白人に対して口にする訛りには、「自分が白人の奴隷であることを示す記号」を提示するという、「方言」とはまったく異なった意図があることだ。

ジムが娘に言葉(訛りの)の勉強をさせる、次のようなくだりがある。

====
「パパ、どうしてこんな勉強をしないといけないの?」

「白人は私たちが特定の言葉遣いをすることを期待している。その期待に背かないことが大事なんだ」と私は言った。
====

白人たちの黒人への期待は、「無条件に奴隷であること」への安心感だ。

次のように、ジムは娘に「語学」を伝授する。

====
「私たちが犠牲になりさえすれば、あの人たちは劣等感を覚えずにすむ。というか“あの人たちは優越感に浸れる”ということさ。さあ、手始めに基本的なことを復習しようか」
====

白人のサッチャー判事に対し、ジムが「言葉」を発したときの以下のような描写がある。

====
「私を殺すのか?」
「それも考えた。まだ決めてはいない。ああ、すまない、奴隷言葉に翻訳してやろうか。まだ決めてねえだよ、旦那様」

私がこれほどおびえた白人を見るのは初めてだった。
しかし驚くべきは、彼をそこまで動揺させ、おびえさせているのは、拳銃ではないということだった。

私の言葉遣い、私が彼の思い通りに振る舞わないという事実、私には読み書きができるという事実に彼はおびえていた。
====

劣位なものに対する無条件の安心感は、相手が武装していないという、暴力からの回避にあるのではない。
すなわち、「言葉を知らない無知」という点から、劣位対優位という安心感を形成する源泉をつねに確認できるところにある。

私が新入社員だったときのことだった。
仕事を猛勉強し、そこそこ簡単な仕事がこなせるようになってきたころ、チームの先輩社員や係長に嫌な顔をされることが増えてきた。

最初は意味が分からなかったが、試しに小さなミスをしてみたり、相手が答えられそうな質問を時折出すことにしてみた。
すると、彼らの顔に笑顔がしだいに増えてきた。

思えば、私がよかれと思って仕事をこなすことで、新入社員という自分よりも劣位なものに対する無条件の安心感が取り去られてしまう恐怖感を、無意識のうちに彼らに与えていたいたことが一因だった。

当時の1990年代初頭は、ちょうど年功序列と終身雇用の崩壊が始まったころで、その中盤には男女雇用均等法が発令され、性別による職業区分も撤廃された。ファミレスの深夜勤務やタクシードライバーに従事する女性が出だしたのはこのころだ。

この時代背景からも、組織に勤める中堅社員以上は、旧体制からふるい落とされて生活の基盤を失ってしまうという、身の危険を絶えず感じていた。

個人的に感じた、差別の中での劣位を意識して演じた、(黒人差別とは比にならないレベルの)小さな体験である。

最後に、パーシバル・エヴェレットの言葉を引用する。

「もし芸術家の使命の一つが、自分が生きる文化の思考を広げることだとしたら、私にはやるべきことが山積みだ。」

文化の思考を広げる道具は言葉だ。
言語の時代のいまだからこそ、芸術家が解決するべき言葉の課題は山積みなのである。
エヴェレットは、それを意識的に行動に移した、立派な作家だと感じた。

       * * *

さて、次回の課題図書は、新刊ベストセラーからまったくはなれて、久しぶりに哲学書を取り上げてみる。

岩波文庫から新訳が発刊された『プロレゴーメナ』(エマニュエル・カント著)である。

同作は私の選書で、個人的に大変な感銘を受けた作品である。
難解・意味不明で名高い『純粋理性批判』に対する読者の不理解を解こうと、カントが自身で綴った解説書である。

果たして、20年以上を経て再読し、当時の感動を得らるのだろうか。そもそも、読了できるのだろうか。

期待と不安を抱きながら、次回の読書会に臨むことにする。

次回も、お楽しみに。

三津田治夫

『じわじわわかる機械学習 データ分析・AIアルゴリズムのなかみ』の配本が開始されました! ~機械学習の豊かな世界がつかめる本~

『じわじわわかる機械学習 データ分析・AIアルゴリズムのなかみ』(橋本泰一著)の見本が届きました。
書店でも配本が開始されています。

数式らしき数式を一切使わず、言葉とイラストで機械学習の豊かな世界をイメージとしてつかみとれる構成です。
「機械学習はわからない」というバイアスが解除される、著者様渾身の丁寧な一冊です。

ブックデザインは米谷テツヤ氏。
本文イラストは武内未英氏。

書店で、ぜひ手に取ってお確かめください。

三津田治夫

読みました『ペンと剣』(エドワード・サイード著)~パレスチナのいまが見える、万人が読むべき古典名著~

サイードがラジオ出演したときの模様を収録した作品。難解な言葉や文脈がほとんどなく、読みやすい。
1994年という30年以上前の作品として、まったくの「いま」を予言しており、素晴らしく、また恐ろしい本だった。
パレスチナの悲惨な状況のいま(の方がさらに悲惨だろう)が書かれていた。
「強い言論人がいまの世の中からいなくなった」と思っていたが、まさに、サイードのような強い人物のことをイメージしていた。
サイードがいま生きていたら、なんと言っているだろう。
彼が生きていたら世界の言論は変わっていたのだろうか。いろいろと考えた。
ガザ地区は包囲されているうえに外部からミサイル攻撃されている。ゲットー以下だ。
実家の葛飾が異国人に統治され、帝釈天参拝もままならず、江戸川と荒川の向こうからミサイル攻撃を受けるようなもの。考えるだけでも恐ろしい。

三津田治夫