
読書会、開催12年目にしてとうとうやってきてしまったのが、西洋哲学の巨人、エマニュエル・カントである。
今回の選書はその中でも比較的わかりやすいといわれている、カント自身が書いたカント哲学の入門書『プロレゴーメナ』である。
学生時代に哲学書を読みたいと思って買った入門書がバートラント・ラッセルの『哲学入門』だった。ほぼ理解ができず「どこが入門なのだ??」と読了後に思い、その後何度かめくってみたがよくわからず、長らく書架に放置されていた。
それから10年以上が経ったあるとき、同作を読んで初めてなるほどと腹落ちし感動した。そして巻末を開くと、次のステップにおすすめの書籍としてカントの『プロレゴーメナ』が紹介されていた。
ラッセル先生のおすすめならばぜひ読んでみようと、さっそく中公新書版を買って読んでみた。それが本作との出会いのきっかけである。

当時は「なんと面白い本なのだ」と感動し、その感動のまま読書会の選書として提案してみた。
哲学書もいいだろうということで、選書としてすんなり採用された。
今回、岩波文庫版の新訳を読んでみたのだが、感動を得たときの初感覚がほとんどなくなっていた。単に読解力が低下しているのか。それともカントそのものに関心がなくなったのか。出会いからそれなりの年月を経ているとはいえ、これはショックだった。
今回、選書した張本人の私は、読書会が果たして回るのだろうかという不安にとらわれた。
これは、55回を経た読書会で一番のプレッシャーだった。しかし結論から言うと、選書し、開催してよかった。
カントの時代、日本でも社会は不穏だった
まず、作者のことを簡単に紹介しよう。
エマニュエル・カント(1724年~1804年)は旧ドイツ領プロイセン王国の港湾都市ケーニヒスベルクで大学教員として活動した哲学者である。
ケーニヒスベルクは現在のロシア領カリーニングラードである。ポーランドの港湾都市グダニスクから車で東に3時間ほどに位置する。
同時代の日本ではなにが起こっていたのだろうか。
元号は享保9年~文化元年にあたる。
8代将軍徳川吉宗による享保の改革、それに続く享保の大飢饉をはじめ、社会不安が国内を取り巻く。
こうした時代には精神の反動として学問や芸術が興る。
近松門左衛門の浄瑠璃が演じられ、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をはじめとした滑稽本が庶民の間で読まれたのもこの時代である。
蘭学者の杉田玄白が原書を頼りに小塚原刑場の囚人遺体を解剖検証しながら翻訳した『解体新書』もこの時代の作品だ。刑場では囚人による刀剣の試し斬りが盛んであったことからも、この時代の江戸は治安が悪く罪人が多かったことが想像できる。
不穏な時代だからこそ、日本人は新しいメディアと知識を求め、世界を生きたものとして認識しようとした。
日本でも人が「世界とは何か」を問い始めた時代であった。
話を江戸からケーニヒスベルクに戻す。
彼の代表的な仕事は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の批判三部作である。
今回の選書『プロレゴーメナ』は批判三部作の第一作目で、カント自身による『純粋理性批判』の解説書である。自作に対する読者の不理解に業を煮やし、「ならば解説書を自著しよう」と書いた入門書が本作だ。

カントの「批判」三部作
『プロレゴーメナ』が語った『純粋理性批判』とは、そもそもどんな本なのだろうか。
ひとことで言うと、人間の認知メカニズムを解き明かそうとした壮大な思考結果のまとめである。
人間は視覚や聴覚など五感を通して物事を認識し、頭脳で理解する。手にした情報を、記憶と心の中に知識としてインプットしている。
その間、事実に勘違いがあったり、ありもしないことを迷信したり、事実をねじ曲げて理解したりなど、1つの物事であっても社会的制約(バイアス)によりさまざまな受け止め方がなされる。
たとえば戦時中の日本人は、米英人を鬼畜であると認識していた。米英人から見た日本人もそうだった。いまのイスラエルやイスラムも類似の状況である。
SNSで拡散される風評や数々の都市伝説もこれに類似した構造で事実が意識化される。
しかしながらこれらをカントに言わせれば、「それって習慣や常識、政治、宗教による社会的バイアスでしょ?」である。
「バイアスを外せば日本人、米英人、ユダヤ人、パレスチナ人、すべて人間じゃない?」といった、思考の抽象度を高め、万人には「純粋理性」という偏見を超えた共通の意識が備わっているのではないかという仮説を私たちに提唱した。
人間そのものの在り方や考え方はこうしたバイアスの外にあるはずだし、人間個人はもっと自由に生きるべき存在であるということを読者に説いた作品が、『純粋理性批判』の全三巻である。
第二部の『実践理性批判』では、人間の自由を追及するための純粋理性を実現する方法を説く。その実現には、個人のモラルによる自律を通した自己規制が必要であると主張する。「これは自由ではない。強制じゃないか」と、一瞬は矛盾を感じる主張である。
そして批判三部作ラストの『判断力批判』では、個人の価値観に焦点を当てる。
人はモラルを持ち自律しなさいと言われても、人がなにに対してどう反応するのかという価値観は千差万別である。
自律のベースは、快楽や衝動といった人間が持つ動物的な価値判断にあるのではなく、自然の脅威や絶対的美といった、人間の力がおよばない抽象度の高い場所に位置する価値判断にあるはずだと、自由の本質のありかを仮説し、3部におよぶ壮大な探求の幕を閉じる。
現代人はこの話を聞いても「それで?」となるかもしれない。
視線を18世紀の西欧社会に置いてみると、キリスト教が常識だった風景が見えてくる。
いわゆる「常識」にモノを言うスタンスのカントにとって、人間を人間らしくするためには、こうした常識から人間が解放されることが必要であることを考えた。これが、彼の活動の主眼だった。
モラルや常識を個人に判断をゆだねるカントは、見方を変えれば超個人主義者である。
言い換えれば、人間に対する揺るぎない信頼を持ったオプティミスト(楽観主義者)である。
カントは人間とは可能性のかたまりであると信じつづけた、きわめて純粋な人物である。
批判三部作から生まれたカントの人間に対する絶対的信頼は、世界平和を実現するための理論へも発展させ、国連設立のコンセプトを与えたことは世に知られている。
単なる理論家の先生ではなく、目前の現実に視線を据え、個人が自由を実現するためのアイデアを発案した社会派哲学者がカントなのである。
彼の考えのほぼすべてが以下短文に集約されているので引用する。
「人間は物件ではなく、したがって単に手段としてのみ用いられるものではなく、あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない。」
(『人倫の形而上学の基礎づけ』(野田又夫訳)より)

会場からの声 ~やっぱりカントは難しい~
カントがなかなかとっつきづらく、難しいと言われるのには明確な理由がある。
第一は、18世紀キリスト教社会で書かれた作品であるという点。常識を批判しつつ教会を真正面に批判できず、奥歯にものが挟まったような言い回しが出てくると、よくわからなくなってくる。
会場からの第一声に「訳語がへんで言葉が分からない。しかしながらよく訳した!」と上がったように、難しさのもう一つは単語にある。
そう訳さざるを得なかったという事情はよくわかる。
が、「悟性」「格率」「純粋理性」など、聞き慣れない日本語が多出し、これに最初は面食らう。
「分析的」「綜合的」といった日常で使われそうな単語でも、カントの文面から意味を取ろうとするとさっぱり意味がわからなくなる。
これらが読者理解に高いハードルを構成する、いわゆる「カント語」である。
ちなみに『純粋理性批判』最終巻の巻末は、180ページにおよぶカント語辞典の付録である。
今回の読書会の参加者は、主幹のKNとKM、HN、SM、SK、KS、そして私の計7名。
扱いが難しい選書ながらも、積極的な参加者の数が意外だった。
以下、会場からの声をまとめる。
「まいっちゃったよ。前半は乗って読んでいたんだが……」
これは全参加者に共通する言葉である。
カントによるカント哲学の解説書とあるが、読めば読むほど、カントのことを知らずには『プロレゴーメナ』に近づけないというジレンマにはまり込む。
「本作だけでカントを理解するのはとうてい無理」
という発言がそれを代弁していた。
「エカテリーナ2世、マリア・テレジアの時代を象徴する、啓蒙の人」
同時代の人間への絶対的信頼、権力や迷信への不信を徹底表明した啓蒙思想家こそがカントである。
「認識は時代と共に変化しているのでは?」
という疑問は印象的だった。
色彩論を研究されているSKさんは、
「本来、赤といわれている色は人によって違って見えているはず」
としてさらに、
「色の認識は人間間の「道徳」がつないでいるのでは」
という見解は、社会の共通認識はモラルであり、モラルは迷信や権力にも力を与えるという二面性に疑問を呈したカントの意見に通じる。
カントが人間に欠くことができないものとして「絶対神」と「心の不死」をあげているが、HNさんによると、「私にこれらは不要」「ただし宇宙は必要」である。カントの自由論が現代人に通じづらい点がここにある。神学に権力があった時代の自由論である。
一方で、
「18世紀の理論は人間の側にあった」
と、理論を神から人間へと引き付けようとしたヒューマニズムの時代と、AIや遺伝子工学が人間の外側で急発展した現代科学との対比もあり、
「時間・空間・人間との先見的(アプリオリ)な関わりの重要さを発見したカント」
「時間と空間がないと経験は成立しない。そうした決定的な線引きを学者として設けた」
「これらに着目し、現代を見こした考え方がこの時代に確立されていた」
という、後の存在論に大きな影響を与えた発見は素晴らしい、という意見もあった。
現代哲学(モダン)の出発点にカントがあり、カントの精査や改良を通して、いまの哲学がある。
カントはいわば、現代哲学のビッグバンである。

◎Mさん作図によるカントの認識体系
カントと仏教、そして「シンデレラ伝説」
カントの理論に一歩踏み込んだ発言も多かった。
「人間の感覚器官から議論を始めたアプローチが面白い」
「「感性ー悟性-理性」という認知のフレームワークを提示したのは画期的」
「悟性認識の「カテゴリー」という大ワザもなかなかよい」
カントは感覚や認知を扱いながら「私は心理学者ではない、哲学者だ」と主張し続け、宗教やオカルトに傾いていた当時の心理学者とは「別人」である態度を貫き通した。
しかしながら「認知のフレームワーク」という発想は後のフロイト理論(無意識-自我-超自我)の原型である点が興味深い。
またカントは「社会環境 対 個人」で人間を捉えようとしていた点に対し、フロイトは個人に一歩踏み込み「社会環境 対 性・抑圧・個人」で人間を捉えようとした。
カントを読めば読むほど、フロイトとのアプローチの類似性が見えてくる。
「モノ自体は存在しない。あるのは五感が得ている感覚だけ」
というカントは、フッサールやハイデッガーなどの現象学や存在論への道を開拓した。
カント理論の出発点が形而上学であったことに関し、
「形而上学とはカントの時代、“机上の空論”ぐらいのネガティブな言葉だった」
「「現実的な“よい”形而上学」という可能性の道をカントが拓いた」
と指摘しながら、
「これは形而上学のリブートだ!」
という発言には深く共感した。
カントが特徴的なのは、
「コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンといった物理学者を研究していた」
というように、研究領域がクロスオーバーだった点。
また、
「『純粋理性批判』のテーマはすでに仏教哲学で扱われている」
と、ナーガールジュナ(龍樹)が認識を扱った仏典『中論』を指摘する発言もあった。
カントの時代にドイツ語版の『中論』があったかどうかは定かではないが、後のゲーテやニーチェなど、ドイツ語圏には仏教的な思想を展開する作家・思想家は多い。
世界じゅうに分布するシンデレラ伝説のような、なんらかの共通の無意識が備わっており、それがカントのような多方面からの知識を持つ知の巨人が感知し言語化してしまい、カントを参照する後世の文人たちが知らずのうちに仏教思想を引き継いでいるのではないかという仮説を個人的には持つ。
私とカント ~自己の立ち位置からLLM(大規模言語モデル)まで~
最後に「私とカント」について、個人的な気付きを一言ずつ語っていただいた。
「読んでよかった」
という発言が象徴するように、おおむねポジティブだった。
またこうした機会でもなければ、読書会で膝つき合わせてカントを読むことはなかっただろう。
自分の人生において、これだけの人数でカントをざっくばらんに語り合う機会がこようとは、夢にも思っていなかった。これは実に豊かな体験だった。
「自分の“立ち位置”を知るのにちょうどよい」
「多様な解釈ができるカントの深さを再認識」
カントが自分に問うことを繰り返してでき上がった本作の性質からも来ている。
つまり、カントが提示した認識論と、自分がどう世界を見ているのかという対比ができたり、認識論を精神論ととらえたり、個人の読まれ方によってさまざまな理解が可能であるというカントの広がりと深み、カント思想の超個人主義性が指摘された。
ITに絡めた独自の解釈もあった。
「カントによる感性ー悟性-理性の三層構造はネットワークのレイヤーに似ている」
デジタル情報のネット上のやり取りに使われているTCP/IPのレイヤー構造の原型はカントの認知モデルに似ている、という見解だ。
「LLM(大規模言語モデル)はアプリオリな純粋悟性ではなかろうか」
人間の言語をコンピュータが理解しているように見せかける仕組みが、カントの「カテゴリー」をアルゴリズム化してコーディングしたのだろう、という指摘である。
ChatGPTなどLLM対人間の対話は、理解に基づいていないにもかかわらず「理解と対話らしきもの」が成立しているという事実からも、
「認識に厳密さがなくても人はコミュニケーションできる」
ことをカントから気づかされたというコメントもあった。
「知と認識の関係」を再確認したという意見や、
「現代物理学とカントの関係を知りたい」といった、当時の物理学からインスパイアされ思索活動を展開したカントが現代を見たらどういう行動をとるのかという意見、「現代認識論をカントに読ませらどんな反応をするのだろうか」という好奇心の声もあがった。
カントの時代の科学が扱う領域は、大きい・小さい、上・下、右・左など、計測と認知が容易なものが主体で、認知が困難な「ふんわり」としたものは宗教や精神世界に属していた。
いまのような、ふんわりしたものが宗教や精神世界から分離され科学や組織に実装されている時代とは大きな違いがある。
こんな時代をカントにぜひ見ていだき、評価していただきたいが、彼の結論はあまり変わらないだろう。彼はきっと、人間を目的とした世界を追求し続けるはずだ。
2日間頭痛が止まなかった読書会の下準備
今回の読書会は、いままでで最も重たかった。
『プロレゴーメナ』を読めば読むほど分からなくなり、これは訳の問題なのだろうと中公新書版も再読したがよく分からない。
『純粋理性批判』と『実践理性批判』も再読してみたがよく分からない。『判断力批判』を読み終えたあとは頭痛が二日間止まらなかった。
ともあれ、会を無事に終えることができてほっとした。
「自由」のためには「道徳への従順」が必要だというそもそものパラドックスに見えるカントの主張は、「自分が自分の主人になれ」というゲーテの言葉が象徴する自律の勧めである。自由と好き勝手はまったく別物で、「自由はそんなに楽じゃないよ」なのである。
カントは難しい単語や理論を多く使うが、言いたいことは一貫して変わらない。
「漫然と楽して習慣と常識の中に生きている皆様、“現実”を直視しましょう」である。その直視の方法の探求を、カントはライフワークとして私たちの前に残してくれた。
カントに接近するには、理屈を理解することよりも、まずは感じることが大切だと私は思う。理解しようと思えば思うほど、カントの本質がするりと抜けていってしまうような気がしてならない。
カントの辞世の言葉「これでよし」はあまりにも有名である。「すべてよい」という勇ましい意訳も与えられているが、原文のドイツ語「Es ist gut」を直訳すると「いいね」ぐらいの軽い意味である。
社会に対しては懐疑の目を厳重ににらみつけつつ、人間に対してはつねに「よい」という視線を向けつづけた、カントらしい言葉だ。
彼ほど一貫して、人間を徹底して信頼し続け、人間は「よい」をぶらさずに貫徹した人物は他にいないだろう。
* * *
さて、次回の課題図書は、理工系版元編集者SMさんによる初の選書として、次の作品を取り上げることに決まった。
『古代オリエントの宗教』(青木健著、講談社現代新書)
次回は古代宗教という新たなテーマを楽しみながら、少し骨休めしながら語り合うことにしたい。さらに猛暑のさなか、恒例の暑気払いも行う予定。
次回も、お楽しみに。








