本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

この夏の、もう一つの敗戦体験 ~第五福竜丸展示館にて~

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毎年夏になると、東京新木場(夢の島)にある第五福竜丸展示館に来る。
きっかけは、2011年6月に埼玉県草加市の講演で偶然お会いした、第五福竜丸
乗組員として被ばくされた大石又七さんとの対話だった。
講演での質疑応答や講演後の名刺交換で20分ほど話させていただいたが、
この方のエネルギーと知性は今でも忘れられない。
またお会いしたいと思いながら年月が経ち、今年、大石さんがお亡くなりに
なられたことを聞きとても驚いた。一期一会の大切さと、思っているだけでは
なにもならないのだという現実を悔やんだ。

大石又七さんとゆかりの深い方との出会い
先日テレビをつけたら、偶然、NHKスペシャルで大石又七さんが特集されていた。
大石さんと晩年を過ごしたという、第五福竜丸展示館学芸員市田真理さんが
インタビューに答えていた。
このような方がいたという事実に私は驚き、一度お会いすることはできないかと、
今年も展示館に足を運んだ。
が、オリンピックの関連であいにくの休館だった。
入り口に事務所があったので訪ねてみた。
市田さんを訪ねると、ご本人が出てこられた。
これもまた偶然のご縁である。
お忙しい中、一時間ほどお時間をいただき、貴重な体験やお話をお聞かせ
いただいた。
私は大石さんの著作『ビキニ事件の真実』(みすず書房刊)を取り出し、
この本のことを市田さんと語ることで時間を過ごした。
市田さんは、大石さんの講演の事務や膨大な資料のまとめ、著作活動の編集に
長年携われていた。
いまだ大石さんの死が受け入れられないとのことだった。
大石さんのことを私は多くを聞かなかったが、この談話の中でとても
印象深かった話がある。
市田さんは、第五福竜丸展示館の学芸員として、子供たちを招いて作文や
お絵かきのワークショップをよく開催されていた。そして参加された子供たちが
成長し、しばしば訪ねてきてくれるらしい。中には、社会に出てジャーナリスト
になった人も来られたという。

戦争と子供
子供たちが体感する第五福竜丸という一つの「事実」は、反戦が語られる
多くの言葉よりも雄弁な証明である。

大石さんと市田さんから得た共通の印象は、戦争や被ばくという巨大なテーマを
背負いながら、熱狂的に反戦を叫ぶ、という雰囲気はどこにもない。ひたすら、
事実を、冷静に伝える。そのうちなる重さは計り知れない。事実の強さを
理解しているからこその態度であろう。

2011年の草加市での講演で私は大石さんに「3.11に遭遇した日本人に被爆者とし
て何が言えるでしょうか?」という質問を投げかけた。
返答は、「日本人は事実を知ること。私たちはずっと事実を隠蔽され続けてきた」
であった。
この言葉を聞いたときはいまひとつピンとこなかったが、3.11以降の日本で起こ
った事実を振り返れば、事実の伝達に関してなにが起こったか、おわかりだろう。

私は子供のころから、戦争を事実として生活してきた。
私が子供時代を過ごした下町葛飾区は、東京大空襲でやられた地域だ。
中学校の隣の図書館には機関銃の弾頭や焼夷弾の破片が普通に展示されていたし、
教師からは戦争の話を嫌というほど聞かされた。中川を褌で友達と泳いでいたら
米軍の戦闘機から機関銃掃射された話、スコップで土を掘り遺体を土に埋める作
業を手伝わされたことなど。
1942年の東京空襲では、14歳の石出巳之助君が葛飾水元国民学校の校舎を米軍
のB-25爆撃機に掃射され犠牲者となった事件があった。これも子供のころよく聞
かされた。機関銃で撃たれたらとても痛いだろう、血がたくさん出るのだろうと、
子供ながらに小さな想像力で大きな恐怖心を持っていた。

   * * *

戦争を語り、考え、当たり前の日常がいかに貴重なものであるのかを共有するこ
とは大切である。
それ以前に、子供時代から「事実」(ファクト)を共有することが大切ではなか
ろうか。過去になにが起こり、私たちの人生の先輩たちはなにを体験してきたの
かというファクトを知ることが大切である。
9月から第五福竜丸展示館が再開している。
被爆の事実としてもさることながら、最後の木造大型船舶としても貴重な展示で
ある。一度は足を運ばれ、感じてみることをお勧めする。

関連記事:原爆投下日にあたり、ビキニ環礁で被爆した大石又七さんの講演メモ

三津田治夫

第34回・飯田橋読書会の記録:『孔子伝』(白川静著) ~乱世に現れた反逆の聖人~

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皆さんは孔子というと、どのようなイメージを持たれているだろうか。
渋沢栄一の『論語と算盤』はテレビドラマの影響で最近よく話題に上がるが、孔子の名前はその『論語』の原作者として第一にあげられる。

論語読みの論語知らず」のことわざでも『論語』は引き合いに出されている。
ウィクショナリー日本語版によると、「論語を読んで内容を理解してはいるが、その内容を実行しない人。転じて学識を持っているが実行の伴わない人を、嘲っていう言葉。」とある。
どんな時代に生まれたことわざであるかは定かでないが、いつの時代にも、お勉強ばかりで行動が伴わない人がいる証拠である。

今回は孔子の評伝、『孔子伝』(1972年刊)を取り上げる。
東洋学、漢字学の巨人、白川静の作品である。

ノモス対イデアの戦いの記録
本読書会ではどのような声がメンバーから出てきたであろうか。

巣ごもり生活でギター収集に没頭する方、パチンコをテーマにした書籍を編集された人文系編集者、第二の人生を求めて海辺に転居した元IT系編集者など、メンバーからはさまざまなチェックインの声が聞こえてきた。

今回取り上げた『孔子伝』に関して参加者からは、

「読めない漢字がたくさん出てくる」
「どこまでが本当でどこまでが推測か?」
カール・シュミットの著作に『大地のノモス』がある」

という発言があった。
また、

「本作は白川静の文体の粋」
白川静が自分を孔子に重ねた作品。孔子が作者に憑依している」という意見もまた面白い。

白川氏はいう。

「伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれらは、個のはたらきによって人格化され、具体化され、「述べ」られる。述べられるものは、すでに創造なのである。」

このように、文体からも、作者は創造を通して孔子の生き方を追体験したようである。

中央公論の粕谷が書かせた時代的な一冊」
という意見や、
「思想とは敗北であるという白川説を通した全共闘へのメッセージ」
という意見、
儒教は、マルクスが死んだ後のマルクス主義のようなものではないか」
という意見も興味深い。

昭和人の私からすると孔子とは、「老人を大切にし、目上の人の命令をよく聞きなさい」という、お説教の元ネタの発信者である、というイメージが強かった。
上意下達の軍国主義官僚主義、体制保持の基盤を作り上げ、人間に制約を与えた人物。孔子をそう思っていた。

しかし今回の『孔子伝』に触れ、白川静氏の解釈と文体を通して、私の考えは根本から覆された。

会場からも「本書はノモス対イデアの本である」という声があがったが、白川氏は、孔子とは混沌とした時代に新しい秩序を生もうと、「法律や習慣で人間をコントロールするノモス社会に抗した人物であった」を一貫して主張する。

敗北を通してイデアに肉迫する孔子の姿
孔子は支配者ではなく敗北者であることから作者は述べる。

「現実の上では、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたのではないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、ときには拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるというのは、その意味である。」

孔子の時代にはノモスが社会を支配しており、それを破壊しようと孔子は、対話と理性を重んじるイデアを説いた。

孔子は、ノモス化しようとする社会のなかで、仁を説いた。しかしもはやイデアへの福音が受け容れられる時代ではなかった。」

さらに、こうも言う。

孔子が求めたイデアの世界は、ノモス社会とは全く相容れぬものであり、孔子の高くきびしい人間精神の探求は、つねに反ノモス的なものであった。」

変革者としての孔子の姿を作者は次のように描く。

「与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。」

そして、次のように述べる。

「思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。またその行為者でなくてはならない。しかしそのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け容れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、 反体制者として扱われる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。」

孔子はいわば反逆者であるのだ。

そして白川氏は、現代社会へと問題を投げかける。

「ノモス的社会といえば、今日ほど巨大な社会、物量化された社会は、かってなかった。そして今日ほど、ノモスが社会的超越者として、おそるべき支配力と破壊力を示している時代はない。」

本作が刊行された1972年という時代背景から、現代のノモスを「社会的超越者」として、孔子の体験を重ね合わせる。

「数千万の、ときには数億の民衆が、ただ一つの規範に服している人に完全にノモスの支配下にある。しかもノモスは、いよいよみずからを巨大にするために、巨大都市を作り、巨大国家を作る。人は巨大都市が文化の破滅につながることをおそれるが、巨大国家が人間の生きかたと、どのように関与するかを問わない。」

孔子の時代にも、逃げ場としての圏外の世界は存在しない。

「「子、九夷に居らんと欲す」〔子竿〕と孔子が脱出を望んだ圏外の世界は、次第に失われつつある。空間的な世界のことだけではない。精神の世界において、それはいっそう深刻である。」

これに関し会場から、「白川さんはノモスを拡大解釈しているのかもしれない」という意見があがったが、長期にわたったベトナム戦争オイルショックの引き金となる中東戦争など、1972年という危機的な時代背景からも、これはあながち拡大解釈でもなかろう。

いまに目を転じると、GAFA支配やデータ社会、監視社会など、孔子の時代には想像もつかなかったITの世界から、新たなノモスが生まれているという事実もある。

白川氏は、孔子の反ノモスの原動力を一つの狂気としてとらえている。

孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。」

としながら、

「邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。そしてそれは、精神史的にも、たしかに実証しうることである。」

「あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗しうるものは、この「狂」のほかにはないように思う。」

と結んでいる。
狂気はクリエイティブの源泉ともいう。ニーチェのいう酒と創造の神デュオニソスはそれである。この意味でもまさに、孔子はクリエイターであった。

最後に、白川氏はこう述べている。

孔子の時代と、今の時代とを考えくらべてみると、人は果たしてどれだけ進歩したのであろうかと思う。たしかに悪智慧は進歩し、殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった。しかしロゴスの世界は、失われてゆくばかりではないか。」

「殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった」現代だからこそ、対話と理性の世界、ロゴスの世界は重要である。これが、白川氏が現代の我々に投げかけるメッセージの本質である。

理性的な深い対話がこの変革期をどう動かすか
本作が上梓されて50年を経たいま、どれだけの対話が理性的に行われているのであろうか。孔子が憑依した白川氏が現代のわれわれに投げかける深い問いである。

情報があふれ、人には知識が増え、考え、対話しているような錯覚が社会から巧妙に与えられているのが、現代ではなかろうか。
このスピード社会において、本質から考え、本心から対話し、行動に反映することは、愚鈍な行為なのだろうか。
賢明な人たちは愚鈍を選ばない。
だから人はスピードと効率を選ぶのだろうか。
スピードと効率の時代にこそ、愚鈍さは価値を帯びるのではないか。

いまという時代の変革期に、考え、対話し、行動した結果が、5年後、10年後、政治経済という生々しい現実に、どう反映されてくるのだろう。

2026年、2031年になり、本読書会の記録を再読し、私たちの考えと対話の結果が現実社会にどう反映されているのか。そのときにはぜひ、このメンバーたちとともに感想を改めてみたいものである。

   * * *

さて次回は、不連続的な連続性という本読書会の運用テーマにのっとり、古典思想の50年前の解説書から現代経済学に目を転じ、『現代経済学の直観的方法』(2020年刊、長沼伸一郎 著)を取り上げる。

経済学初心者に格好の入門書としてのベストセラーである。
また、物理学者が書き上げた異色の経済学書としても評価が高い。

孔子から2500年の時を経て、現代経済学の世界に入り込む。
次回も、お楽しみに。

研修課題図書として取り上げた『学習する組織』(ピーター・センゲ著)

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つくば1泊リーダー研修の課題図書は『学習する組織』(ピーター・センゲ著)でした。
仏陀孔子ソクラテス、キリスト、マホメット道元、カント、ヘーゲルマルクスフロイトユングレヴィ・ストロースマリノフスキー、デリダ、などなど……。
世界の思想の粋を丹念に積みあげ書き上げられた、本作はもはや古典。
文字が発明され何千年と続く偉大な思想家の活動の積み上げがビジネスの考え方の原点として織り込まれている。
ビジネスの主体は人間に他ならないとますます実感しました。
人類はいつでも悩みを抱えているが、もしかしたら実は進化しているのでは、という感覚も高まってきた。
コロナを経て、いまや進化の真っただ中であるともいえる。
タイミングごとの座学も、脳内を整理し、思考を健全化させるためにも有効であることをここで学んだ。
リーダー研修は、真摯な気持ちで、定期的に実施していけるとよいです。

つくば1泊リーダー研修2日目、JAXAにて科学の粋に感動

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研修2日目は、メンバーたちとJAXAの施設と展示を視察。
屋外に展示されたロケットの巨大さに圧倒されました。

接近するとビスやリベットが精緻に打ち込まれており、これほど巨大な精密機器はほかになかろうと驚いていました。

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技術は日進月歩で、ハードウェア、ソフトウェア、ともに急進化しています。宇宙こそDXの壮大な実験場であることも見えてきました。

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研修1日目にセミの羽化を通して生命の神秘に触れ、JAXAでは生命誕生の謎に迫る人間が生み出した科学の粋を目にし、展示会場に入った瞬間、ぐっとこみあげてくるものがありました。

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宇宙にも各国の企業が続々と入っていますが、宇宙こそ、生命共有のインフラとして、決して消費の対象にはしてもらいたくないです。

つくば1泊リーダー研修にてセミの羽化と生命の神秘に遭遇

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パートナー企業の代表たちと、つくばにて1泊リーダー研修を行ってきました。
1日目は視察と、『ティール組織』を題材にディスカッションとランチミーティングを終え、フィールドワークを実施。
弘法大師に由来するといわれる湧き水近くで、羽化を控えたセミ(つくつく法師)の幼虫を発見。

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殻が破れて成虫が出てくるまで40分、息をのむ生命スペクタクルが展開されました。
成虫になろうとするセミの姿は生命そのもの。
殻からひとたび落ちてしまったり、あるいはカラスやネコに襲われたらその一瞬で命を落とす。命がけとはこのこと。土の中でもモグラに襲われるなど数々の危機を何年間も回避し(ツクツク法師は卵で約1年、幼虫約2年、3週間ほど、だそうです。専門の方からご指摘をいただきました。ありがとうございます)、無事地上に這い上がってきた。

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メンバーともども、人間はいかに守られた組織体の中で生きているのだろうかと、そして生命とはどのようにして誕生したのかと、生命論や組織論を語り合いながら、驚きと感動に息をのみ、セミの羽化をじっと観察していました。
ラスト1週間の最晩年を樹上と空中で過ごし、パートナーと出会い、生命を無事に次世代に引き継いでくれることをメンバーともども祈るばかりでした。

日経ムック『DXスタートアップ革命』に関連し、守屋実さんと「経営者JP」井上和幸さんの対談収録を実施

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日経ムック『DXスタートアップ革命』に関連し、守屋実さんと「経営者JP」の井上和幸さん、記者の内藤風香さんとの対談収録を実施しました。
予定時間をオーバーしながらも、リクルートの話題からはじまり、起業や事業にまつわる終始意義深いお話が聞けました。
Webの記事アップ、とても楽しみです!

第33回・飯田橋読書会の記録『ヴェニスに死す』(トーマス・マン著) ~「パンデミック、ツーリズム、美少年」の謎を解く~

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ヴェニスといえば、ゴンドラが行き交う水の都、世界中のツーリストが集う名観光地、ユダヤ商人がヒロインのポーシャにまんまとやられるシェイクスピア作品の舞台であったりなど、非常にコンテンツ力の高いイタリアの土地である。

イタリアはドイツのアーティストたちのあこがれの場でもある。日照時間の短いドイツで創作活動に励む彼らは、太陽を求め、南へ南へと向かう。新たな哲学の地平線を求めてイタリアを放浪したニーチェや、大ペテン師カリオストロをおしのびでイタリアに取材したゲーテなど、この国を舞台に数々の作品が残されている。

今回取り上げる『ヴェニスに死す』(トーマス・マン著、初版1912年刊)は、作曲家グスタフ・マーラーの死(1911年)を契機に書かれた作品だ。作品の主人公の名前にも同名のグスタフが冠されている。
この作品は、いうなれば「パンデミック、ツーリズム、美少年」という三題噺を解いたともいえる中編小説だ。本作を原作としたルキノ・ヴィスコンティの映画もまた本読書会において俎上に上がった。原作へのオマージュとして映画のバックにはマーラー交響曲3番と5番が流れ、美と頽廃、生と死という、作品の中核をなす憂いを醸し出している。

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◎映画『ヴェニスに死す』から。もう一人の主人公タージオ

ちなみにドイツ語文学としてマックス・フリッシュの『アテネに死す』という作品があるが、こちらも客死かつ禁断の愛がテーマである。1966年に白水社から日本語版が出ていたが、いまでは古書店で時々お目にかかるぐらいだ。マックス・フリッシュはノーベル賞を取るといわれていた作家だったが、日本ではなかなか日の目を見るチャンスのなかった不世出の天才である。
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◎『アテネに死す』(マックス・フリッシュ著)も少なからず『ヴェニスに死す』の影響を受けている


観光地で起こる美少年への愛とパンデミック
ヴェニスに死す』の大枠は次の通り。
主人公である初老の作家グスタフ・アッシェンバッハはヴェニスに一人旅に来る。現地で家族旅行に来ていたタージオというポーランド貴族(シュラフタ)の美少年と出会って心が動かされる。アッシェンバッハはタージオをストーカーのごとく追いかける。タージオの気を引こうとめかしこんだり、美容院で髪の毛を黒く染めたり、アンチエイジングとビジュアルの向上に熱心に取り組む。そんな中、観光地ではコレラが蔓延。日増しに人の姿が消えていく。それを横目に、アッシェンバッハはタージオ追跡を日々の活動とする。最後、アッシェンバッハは感染し、タージオが海水浴する姿を海岸の座椅子から眺めながら死んでいく、という物語だ。

アッシェンバッハは終始自分の人生を悔やんでいたり、ひたすらタージオの美と若さにあこがれ続けたり、同じことを小さな観光地で延々と繰り返している。
アッシェンバッハの年齢からするとむしろターゲットはタージオのお母さまになるはずなのだが、同性でありかつ美少年、という点が本作が提示する課題の中核である。
本作がきっかけで、著者のトーマス・マンは同性愛者という枠でくくられることにもなったわけだが、本作をめぐり、読書会の参加者たちはどのような見解を持ったのだろうか。
今回もコロナ対策のためにZOOMで聞かれた発言から、以下引用する。

まず、コロナ禍で外出がままならず楽器三昧のNさんや、本作からイタリア居住経験を回想し、パゾリーニの映画がテレビで放映されていたのはショッキングだったと告白するMさん、鎌倉に移転したAさんなどの近況が共有された。書籍『事業をエンジニアリングする技術者たち』が売れているという朗報も含まれていた。

ヴェニスにはムラーノ島ブラーノ島があり、本作の舞台はリド島であるとし、「格調の高いコントだった」と本作を一言で要約したコメントがあった。
ヴィスコンティは映画『ヴェニスに死す』でなにを表現したかったのだろう?」という素朴な疑問や、「芸術本来の姿である「死」を扱った作品」という洞察、「タージオへの愛を現実逃避の手段とした」「弱者の物語」「金融の中心地、下世話な観光地での物語」といった意見までが飛び交った。

「道徳的な生き方をヴェニスで放棄した物語」という、感傷旅行ならぬ旅先で人生の一区切りをつけたという意見、「アッシェンバッハの一方的なのぞき見趣味は街路で商品を見るかのようにタージオを観察する」「一方通行で、相互性とコミュニケーションの崩壊の表現」という深い分析が聞かれた。

「アッシェンバッハはトーマス・マンの未来」「30代でこんな作品をつくるのは偉大」「多面的な読み方ができる作品」とは、まったく同感である。

作家が告白する『ヴェニスに死す』の元ネタ
作品に接しながら、改めて『ヴェニスに死す』を「ドイツ文学そのものだよな」と漠然と思いつつ、ふと、『トーマス・マン全集 XII』(新潮社)に収録された手紙を開いてみた。
1915年8月3日の手紙の中で、本作を「これ以上に時代の必然性と密着している作品がほかにあるでしょうか?」と語っている。
ヴェニスに死す』が出版された2年後にはサラエボ事件が起こり、第一次世界大戦が勃発する。最先端の科学を投入した武器開発と情報通信技術を駆使して行われた、世界初の科学戦である。ここで培われた武器開発のノウハウは第二次世界大戦の毒ガスや原子爆弾といった大量虐殺の手段を生み出し、情報通信技術は現在の武器の基礎技術となる。
フロイト精神分析が流行りだしたのもこのころだ。『精神分析入門』は第一次世界大戦の真っただ中、『ヴェニスに死す』発刊5年後の1917年に発刊されている。

手紙の中でいう「時代の必然性と密着」とは、戦争という恐怖と欲望、利権が中核をなした、歴史を画するネガティブな事件との関係を指しているのだろう。
ちなみに、同作のヴィスコンティによる映画が公開された1971年はベトナム戦争まっただ中だった。その一方でアポロ14号が月面着陸している。
芸術は、人類進化の一環として、時代の転換期に生まれるものである。

手紙をさらに紐解いてみた。
1915年9月10日の手紙の中から、『ヴェニスに死す』の元ネタが公表されている文面を発見した。この一文で瞬間腹落ちした。同時に、読書会で我々が議論してきた言葉のすべてがつながってきた。

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この短篇(『ヴェニスに死す』)のそもそもの出発点となったのは、ゲーテの最後の恋愛――(ほら、あの)七十歳のゲーテがマリーエンバートの例の可憐な少女に抱いた情熱――本気で彼女と結婚しようとしたものの、相手および自分の親戚から反対されたという、感動的で・グロテスクで・肌に粟を生じさせるような事件――を物語ろうという計画だったのです(パウル・アマンあての手紙から引用)。
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「七十歳のゲーテがマリーエンバートの例の可憐な少女に抱いた情熱」とは、ドイツ最大の恋愛詩といわれるゲーテ晩年の作品『マリーエンバートの悲歌』の物語である(ちなみに『マリーエンバートの悲歌』は、本読書会第8回(2015年9月26日(土)開催)で取り上げた『人類の星の時間』(シュテファン・ツヴァイク著)の中でも扱われている)。
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◎『マリーエンバートの悲歌』を歴史的な出来事として『人類の星の時間』で取り上げられている

この作品は、温泉観光地マリーエンバートで、74歳のゲーテが19歳の少女ウルリーケに恋をする物語だ。自分の孫といっても不思議ではない少女に欲情し、上司のカール・アウグスト公を介してウルリーケの母親を説得するなどさまざまな手段を使い結婚にまで持っていこうとする。当然それは拒絶され、ゲーテは帰路の馬車中で泣く泣く『マリーエンバートの悲歌』を書き上げた。世界文学史の一幕である。

トーマス・マンは『ヴェニスに死す』の「感動的で・グロテスクで・肌に粟を生じさせるような事件」というモチーフを、ゲーテから拝借したのだ。
すべてのドイツ文学はゲーテに通じるという点も明確に表れている。
マリーエンバートという湯治場を世界的観光地ヴェニスにまで拡張し、19歳の少女との恋愛を貴族の美少年との同性愛に置換し、さらにはコレラパンデミックというショッキングな事件を舞台背景に埋め込み、観光地で巻き起こる小さな物語を「時代の必然性と密着」した作品として世界文学にまで昇華させたのだ。

法と倫理と自由との狭間で、人間はどのように進化を成し遂げ、いまという時代をどのように乗り越えるのだろうか。トーマス・マンは、現代の私たちにこうした問いを投げかけているように思えてならない。

 * * *

次回は、視線を中国大陸に向けて、古代の東洋思想に触れてみよう。
最近は渋沢栄一の『論語と算盤』が流行だが、それにあやかって、『孔子伝』(白川静著)を取り上げてみる。次回も、お楽しみに。