本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

「クイーンと私」【その4】:『世界に捧ぐ』

フレディがインド生まれであることは生前から周知の事実だったが、その他過去のことはほぼ語られることがなかった。
フレディが生前積極的に語ることがなかった過去が、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中で明らかにされる。
「ムスターファ」など、クイーンの楽曲にはイスラムの単語がしばしば使われているが、映画の中でフレディの出自にイスラムとの抗争が関係していたことを知り、それもようやく納得した。

LGBTという言葉すらなかった1980年代、フレディは欧米のマスコミにかなりたたかれていたことをリアルタイムで記憶している。
日本人は見て見ぬふりだったが、1991年にエイズで亡くなったときには、ファンの多くはショックとともに「やっぱり……」と思っていたことは事実だ。

1985年に日本武道館でライブを観たとき、1970年代のライブ音源のイメージが私には鮮烈だったので、それとの比較において、なんかくたびれた感じのクイーン、大家になっちゃったな、と感じたのを記憶している。
映画ラストの「ライブ・エイド」のパフォーマスはプロの仕事としても素晴らしかったが、1970年代のライブの迫力たるや(とくに『シアー・ハート・アタック』あたりの時代)、強烈だった。

映画『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディの人種的マイノリティとしての出世を知り、クイーンが世界各国を狂ったように飛び回っていたことにも納得がいった。
当時私が驚いたのは、他のロックスターがまずは行かない土地、たとえばリオやブダペストなどで公演を実施し、成果を残しているところ。音楽を通して世界をつないでいたことに改めて納得した。
そしてクイーンはいち早く日本のファンを獲得した親日家でもある。
その親日ぶりは、『華麗なるレース』に収録された日本語の名曲「手を取り合って」として楽曲化されている。

本来、欧米の人間が聴く音楽であったロックを、クイーンがアジアや南米、当時の共産圏である東欧にまで広げていったのは、彼らの才能を通して世界に意志を届けていたのだなと、ここでも納得がいった。才能をこのように惜しげもなく活用するアーティストとしての彼らの姿は本当に素晴らしい。

フレディが亡くなったころメンバーがインタビューで「「伝説のチャンピオン」を歌えるのはフレディしかいない」と言っていたことを覚えている。この点も、映画を観て改めて納得した。

私が初めて『世界に捧ぐ』に収録された「伝説のチャンピオン」を聴いたときは、「なにがチャンピオンなのか?」と、子供心に思っていた。
アルバムチャートではクイーンよりも売れているバンドは当時たくさんあった(MTVではデュラン・デュランのほうが人気が高かった)。
もちろん、クイーンは天才集団で歴史的に大きな成果を残したバンドだが、自らの才能を見出し、ファンサービスを尽くし、なにがあってもアウトプットし続けたという点で「チャンピオン」なのだろう。そう理解した。

クイーンは、私に一つの「生き方」を教えてくれた貴重なバンドである。

三津田治夫