本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

セミナー/イベントは、共鳴と化学反応が起こる貴重な場 ~モーツアルトから得た考察~

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8月26日(土)に、本とITを研究する会第1回記念セミナー「AI(人工知能)ビジネスの可能性を考える」(https://goo.gl/74tiZf)を開催するが、それを踏まえて、ライブイベントにはどういった意味と価値があるのか、以下、考察してみた。

以前、エーリッヒ・クライバー指揮のモーツアルトフィガロの結婚』(1955年録音)ばかりを聴いていた時期があった。1993年録音のニコラス・アーノンクール指揮『フィガロの結婚』とはまったく異なる高い臨場感に改めて驚いていた。
これは、60年前の古い録音であるからではない。
古いことが優れているのではなく、この時代に優れた録音があったのだ。

とくに近年感じるのは、音楽や演劇といったライブ舞台芸術は、観客とプレイヤーが共鳴し合いながら共に育つ、ということ。

これを念頭に入れると、60年前にはいまほどのメディアがなく(舞台芸術を再現できるメディアは劇場映画のみ)、オペラといえばライブ舞台芸術の花形である。いまではどうだろう。街に出ればシネコンがあって2000円も払えば大画面大音量ドルビーサラウンドのCG制作映画が見られるし、ツタヤに行けば数百円でDVDが借りられるし、家に帰れば(機材さえあれば)大型液晶テレビホームシアターが待っている。またCSをつければ古今東西の映画やショーなどもろもろが見放題。気に入った音楽や映像はMP3プレイヤーに切り出していつでもどこでもハリウッド映画やオペラやドラマやあらゆるショーを持ち運ぶことができる。

エーリッヒ・クライバーが活躍した1950年代にはまったく想像もつかない次元にメディアは進化し、日々ポータブル化し、多様化してきている。

メディアがポータブル化し多様化しているということは、それだけ、作品の与え手と受け手の間で、メディアを介したやり取りが多くなったことを意味する。言い換えると、メディアを通したやり取りの多さに反比例して、作品の与え手と受け手の間でリアルタイムに発生する「共鳴」の機会が少なくなった、ともいえる。つまり、「ライブで」作品に触れられる割合が相対的に減ってきているのだ。

受け手(聴衆や観衆)はメディアを介して作品に接する機会が増えたことで、さまざまな姿勢や感情をもって何度でも自由に作品に触れることができる。しかし一方で、作品の与え手(プレイヤー、アーティスト)が持つチャンスは、録画の一回限り、録音の一回限り。メディアを世に送り出す一発勝負だ。つまり、作品の与え手は、メディアを通したある時点で、自分の作品を「固定」しなくてはならない。受け手には、メディアに接し、その都度自由な解釈や楽しみ方が許されているにもかかわらず、である。さらに掘り下げると、作品供給者としての「作家」は、楽譜や台本、原稿といったメディアをプレイヤーに提供する。そのメディアもまた、「固定」されている必要がある。

このように、メディアとライブとの間には大きな断絶があり、リアルタイムでの共鳴の余地はほとんどない。ゆえに作品の与え手は、固定されたメディアを作るべく、受け手との「共鳴を想像しながら」作品を構築せざるを得ない。これは、メディア作りの宿命である。

60年前のオペラの聴衆は、オペラに深い感動を受け、心躍らせ、プレイヤーはそれにリアルタイムで共鳴して演技や演奏の技能を高め、高いパフォーマンスを舞台に送り出した。エーリッヒ・クライバー指揮の『フィガロ』は古いから優れているのではなく、「聴衆との共鳴」があるから優れているのである。似たような例は、メンゲルベルク指揮のバッハ『マタイ受難曲』がそう。第二次世界大戦中オランダで録音された古い作品だが、聴衆のすすり泣きまでが音源に入った名演だ。これもまた、「聴衆との共鳴が創り上げた名作」にほかならない。

与え手と受け手との共鳴を失った作品は、もはや作品ではない。
だからこそメディアへの作品の与え手は、つねに、「受け手との共鳴を想像し、作品に織り込みながら」作品を構築する必要がある。

ビジネスやサービスといった「作品」も、これとまったく同じ。「受け手との共鳴をイメージし、織り込みながら」作品(ビジネスやサービス)を構築(制作、製作)する必要がある。
となると、受け手との共鳴をイメージするための材料が必要になる。その材料は、多ければ多いほどよい。

最も価値の高い材料は、受け手との相互接触だ。古くは電話やハガキがあり、いまではネットでのアンケートや窓口がある。しかし、ハガキや窓口もリアルタイムの「共鳴」を失ったメディアにすぎない。

最も価値が高く、情報密度の高い相互接触は、ライブである。最高の作品を世に送り出したエーリッヒ・クライバーメンゲルベルクの指揮は、ライブでのリアルタイムな聴衆との相互接触、相互共鳴の成果である。作品は、受け手とともに育つ。

同じように、ビジネスやサービスにも、ライブによるリアルタイムの相互接触、共鳴は、価値を育てる。ビジネスやサービスの価値は、受け手との対話によって育つ。

作品としてのビジネスやサービスの価値が参加者と共に育つことを夢みつつ、その場で共有した一期一会を、貴重な贈り物として、大切にしたい。

三津田治夫

原爆投下日にあたり、ビキニ環礁で被爆した大石又七さんの講演メモ

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72年前、1945年の明日、8月6日、午前8時15分、核兵器が人類に初めて使われた。広島に原爆が投下された日時である。

それから9年後の1954年、ビキニ環礁で操業中の漁船、第5福竜丸が米軍の核実験に巻込まれ被爆した。

その模様と後日談は『ビキニ事件の真実――いのちの岐路で』(大石又七著、みすず書房刊、http://amzn.asia/60rX7Sm)に克明に記されている。丁寧に書かれた質の高い書物なので、一読をお勧めする。

2011年、原発事故の起こった東日本大震災の年の夏、埼玉県草加市立中央図書館において、ビキニ環礁被爆したその著者であり第5福竜丸の元乗組員、大石又七さんの講演に参加した。原爆投下日にあたり、そのときの短いレポートをここでお届けする。

ビキニ事件で亡くなられた乗組員の死因はすべて毒素の分解器官である肝臓のガンもしくは肝硬変であった。大石さんも肝臓ガンや肺腫瘍などを抱え、32種類の薬を飲みながら生活している。被爆の当事者であるご本人の発言は非常に重く、またご本人の柔らかい物腰と口調には物静かな気迫があった。

1954年の被爆の当時、「体になにが起こっているのか誰もわからない」という状態だったと大石さんはいう。出てくる症状に医師は対症療法を繰り返していた。

大石さんは当時を振り返り、こういう。「ビキニ環礁であれだけのことが起こっていたのに、科学者や政治家が調査に足を運ぶことはなかった。ビキニ事件が詳細に調べられていたら、日本に原発など作れるはずはなかった。なんで同じ過ちを繰り返すのか」と。

震災による原発事故に関し、ご自身の苦しい体験を通じて「ビキニ事件のときもそうだったが、人はメディアの言うなりで事実を知ろうとしていなかった。それが問題」という。

「科学者や政治家だけでなく、皆が、”いまなにが起こっているのか”を知り、調べ、伝えることが大切。過去にこれを怠ったことで、同じ過ちが繰り返された」とも。

言い方が悪くなってしまうが、大石又七さんは負の人間国宝として守られるべきだ。原爆ドームや資料館を残すことも大切だが、生き証人が語り部として、あってはならないことを伝え継ぐことこそ、本当の平和や安全の意識が人々の中に植え付けられるのではないか。大石又七さんの講演は、そう、私に強く思わせた。

三津田治夫

参加者と「ストーリー」を共有するべく、コミュニティ第1回記念セミナーを開催します

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他人の共感を得て意識を共有するためにも「ストーリー」(物語)は大切。その人ならではのエピソードや事件が時間的な前後の脈絡でつながり、ドラマを織りなす。そしてドラマであるから人は共感する。

出会いと対話を通し、参加者と「ストーリー」を共有するべく、コミュニティ第1回記念セミナーとして「AI(人工知能)ビジネスの可能性を考える」を企画しました。→ https://goo.gl/74tiZf

「AI(人工知能)ビジネス」といささか堅苦しいタイトルですが、専門知識はいっさい不要です。人工知能が変革する世の中の「いま」を見つめ、「明日」を共有し、物語をお持ち帰りいただけたらと思います。

かつて、物語は作家や語り部という特殊な能力を持つ人だけのものだったが、SNS時代のいま、物語の共有はネットの万人に可能となった。人々が網の目のように個人の物語を共有するいまは、ある意味大変な時代だ。過去20年に起こった予想のつかなかった未来が、ものすごい速度で訪れてくると思うのは、私だけではないはず。

こんな未来に興味のある方々と、セミナーの会場でお目にかかれたら光栄です。

三津田治夫

第13回飯田橋読書会の記録:『白痴』『堕落論』(坂口安吾 著) ~文学作品を読み、「共感力」を高める。~

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「小説を多く読むことが他人の心理状態の理解につながる」という研究成果があるらしい。文学作品を通じ、他者の考えについて想像することができるようになるという。

「共感の時代」といわれるいまこそ、文学作品の価値は高いといえる。いまの時代を豊かに生きていくためにも、文学作品を沢山読もう。

というわけで今回は、昭和の作家、坂口安吾の文芸作品『白痴』『堕落論』を取り上げる。これらは第2次世界大戦中の日本を舞台にした安吾の代表作。以下内容は、某月某日、都内某所で開かれた読書会の記録からお届けする。

安吾は女性を神格化したロマンチストだ」という、読書会メンバーの一人、某名門文学部出身の才媛M女史の発言が、この場の空気を一転させた。これは、安吾のほぼすべてを物語っている。

『白痴』は、戦時下の貧民窟で、知的障害を持つ女性が「肉体(身体)のみの女」として描かれている半幻想文学作品。女性の描き方からも表面的には女性蔑視と取られがちだが、安吾はそこに、肉体への神秘的な愛やあこがれを描きたかった。

私は副読本として『二七歳』を読んでいた。
これは、安吾の婚約者である作家、矢田津世子との出会いと死別までが描かれた自伝的短編。
安吾は旅館で知り合った仲居の女子やカフェの女給とすぐにできてしまいお泊まり旅行を気軽に繰り返すが、なぜか、矢田津世子には指一本触れない。
安吾は「別れ際に一度だけ接吻した」と告白しているが、それ以外、矢田津世子には指一本触れない。そんな幕引きで、安吾矢田津世子は別れた。

戦後、遺族から彼女が死んだことが告げられる葉書が舞い込み、『二七歳』は終わる。
安吾は、矢田津世子を最高の女と見ている(どんな容姿かは、検索してみてください)。
矢田津世子を神聖視しているからこそ、「彼女には指一本触れなかった」としている。
安吾のなにかのエッセイに、「矢田津世子の肉体に煩悶した」という記述があったことを記憶する。きっと彼は、まるで少年のように、妄想との戦いに苦しんだことが想像ができる。

安吾は女性を神格化したロマンチストだ」という、読書会冒頭での才媛M女史の発言が、ここでつながった。

『白痴』の中で、男の部屋に転がり込んできた女が、夜になり、男の布団の中に潜り込んできたが、指一本触れられなかったことに女が憮然としてしまうシーンがある。これには間違いなく、矢田津世子との安吾の体験が反映されている。

戦時下の日本を題材にしたエッセイ『堕落論』は、日本人は堕ちることで本質を見出せるはずであり、国家や制度、組織、軍隊というシステムではなく、この敗戦を機に日本人は「人間そのもの」に立ち返るべき、という論旨。

読書会では、当時は戦争という身体の危機にさらされていたが、「現代の危機はなにか?」という議論になった。

いまの日本人に最もリアリティの高い危機に「天変地異」がある。あとは、「起こりうるハイパーインフレ」という意見もあがった。これも安吾の論旨に立ってみたら、ハイパーインフレはシステムの問題であり、人間そのものの問題ではない。

ハイパーインフレが起こってすぐに人間が死ぬということはないが、精神的には深刻な危機が訪れる。金融の危機は、「もういままでの生活ができない」という、人間に対する未来への恐怖感を打ち出す。

とはいえ、見方を変えれば、いままでには存在しない「新しい生活」を選択するチャンスでもある。こう考えると、ハイパーインフレは大変な危機だという意識は、「敗戦したら大変なことになる、天皇制が崩壊したら大変なことになる」という、安吾の時代の日本人が抱いていた「危機」と、まったく同質ではないか。『堕落論』を読みながら、そんな話をしていた。

読書会のよくないところは、うんちく(知識のひけらかしあい)に終始してしまう点にある。
こういった弱点を回避しようと、今回は、各参加者の「本心」を言葉にしてもらうことにした。

ある意味本心をさらけ出すことは、気心が知れているとはいえ、大人の世界では危険が伴う。
内面からわき出た本心をあえてブロックし、世間が期待する自分、自分が期待する自分に「執着」して生きている大人は大多数だ。皮肉にもそれが「大人」の定義であったりもする。

しかしこの読書会は今回で13回を迎えたのだから、そろそろ自分という人間性の「内面」を共有してもよい時期なのでは、とも思った。

で、安吾の作品を読んで直感した、人生に対する本心の言葉として出てきたものは、「なるようになる」「これでいいのだ」だった。知的な男女たちが集まる場にしてはあまりにも素っ気ないというか、あまりにも素朴な発言に驚いた。

しかし多くの作品に触れて、「なるようになる」「これでいいのだ」という発言がこの読書会で出るというのは、非常に奥が深い。

人が自分の人生に対して「なるようになる」「これでいいのだ」と思えることは、最高の幸福だ。つまり、現在と未来に起こることすべてを受け入れている状況が、「なるようになる」「これでいいのだ」である。

どんな幸福も、どんな不幸も、事象として、ありのままを受け入れる態度。「なるようになる」「これでいいのだ」は、人間が執着から解放された、最も自由な状態ともいえる。

そんな意味で今回の読書会は、参加者全員の個人としての内面がはじめて表明された、貴重な会であった。

今回は読書会の様相を通し、昭和の文芸作品を取り上げた。

こうしたさまざまなエントリーを通して、本ブログが、書物とITの橋渡しとなり、「共感の時代」を生きるエンジニアやリーダーたちの糧になれば幸いである。

三津田治夫

AIは労働「道」を生み出す

「AIは人間の労働を奪うか?」という恐怖感は、産業革命の時代に労働者たちが蒸気機関の機械を打ち壊した恐怖感に似ている。現代においては、奪う、ではなく、「代替する」が正しい表現だろう。

AIにより人間の労働時間が減少すれば、ベーシックインカムのような経済システムも導入されるだろうし、加えて、労働のスタイルそのものが変化する。

戦争がなくなった江戸時代の武士たちは、本業がないから武士道や剣道、柔道という「道」に時間を費やした。欧州でも中世が終わり騎士の実戦の場がなくなると同時に騎士道が生まれた。

私は、人間の労働時間が減少したら、同様に「労働道」という「道」が出現することを予測している。AI時代の高い教養を持つビジネスマンは、労働の道、労働の型、労働の流儀、などを身につけることに時間を費やす。

「道」とはつまり美学の世界である。これは、ビジネスから美学が果たして生まれるのだろうかという、AI時代の人間に試された大きな課題だともいえる。

その意味でもAIの時代にこそ、美や芸術、それを理解し創造する人間力といった、「ふわっとしたもの」に価値が認められるだろう。言い換えれば、「文系の時代」の到来である。

AI時代に文系とは逆説的に捉えられようが、事実、その時代が目前に来ている。そんな気がするのは私だけではないはず。美や芸術が価値を帯びる文系の時代とは、どういった時代になるのか。その中には、(本来理系だけの所有物であった)コンピューティングが大きくかかわってくる。想像するだけでも、興味津々である。

三津田治夫

古代ギリシャから読み解くリーダー論:『国家』(上・下)(プラトン著)

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日本国内ではリーダー不在の政治不信が続き、書店のビジネス書棚に向かえばリーダー論に関する書籍が大量に置かれている。今回は、日本人が渇望するリーダーのあり方・考え方に対し、その源流となる書物をひもといてみたい。ビジネス書にも少なからず、こうした古典のエッセンスが流れている。では、読んでみる。

『国家』は、人間個人が持つべき知恵やスキルを究明し、それを国家レベルにまで拡大し、どうしたら国家が理想の人格を持てるのかということを、ソクラテスに語らせた作品。

国家は知的な人間が統治すべきという哲人宰相を理想とするのがプラトンの理想とする国家。
プラトンが生きた古代ギリシャの時代も、知的でない人間が国家を統治していたゆえ、このようなものを書かざるを得なかったのだろう。

人が身につけるべき教養や素養、学問など、国家の構成員としての国民のあるべき姿や、内実のない雄弁に耳を傾けてはいけないといった警句など、国家のあるべき姿、あってはならない姿が、現代人の私たちにもわかりやすい比喩で語られている。

その中でも最も印象深いのが、「民主主義は独裁政治の一歩手前で、かなりやばい」、というお話。

自然状態に生きる人間の間で争いが起こると、民族は分断され、土地や財産が分断され、私有財産が生まれる。

私有財産が生まれると今度は財産を持つ者の中から新しい集団のリーダーが選ばれる。

そこで成立するのが寡頭政治で、少数の富裕層が莫大な財産と共に権力を掌握する。

彼らは自分の権力と財産が減らないような政策をとり続け富と権力を強固にする一方で、財産を持たない者との二層構造もさらに固定化される。そこでまた争いが起こる。

すると財産を持たない者は、「能力」を持つ者による自由な政治を求めた集団を形成しはじめる。

これが民主主義のはじまりで、人々は財産によらない「能力」による自由な政治の社会に生きることになる。

しだいに、自由に慣れた人々の自由は「奔放」へと変化する。不自由である自分や、他人の自由との格差に人々は不満を抱き、勝手な主張をはじめ、社会が混乱へと向かう。

すると今度は、混乱した社会をとりまとめてくれる強烈な支配者を人々は求めるようになる。
その混乱の渦中に登場するのが、独裁者である。

独裁者は混乱こそが自分の存在基盤なので、戦争や内乱状態を意図的に作る。
そして独裁者は自分の地位が奪われる恐怖にたえずおびえているので、国民を暴力で押さえつける。

ゆえに独裁政権は最悪なのだ、と、ソクラテスは語る。

「民主主義の混乱の渦中に登場する独裁者」と聞いて、世界一民主的な憲法を持つと言われたワイマール共和国時代のドイツに登場したヒトラーを思い出した。彼のその後の行動は歴史がすでに示している。

人々の謳歌したはずの自由がいつしか奔放になり、しまいには自分勝手になってしまうという民主主義の没落もソクラテスの時代から何度も繰り返されてきたことで、自由は放任していたら混乱に陥るという教訓が何千年と受け継がれている。それにより、契約においてこそ自由は成立するというルソーの社会契約論や、自由とは自分が他人の自由を保証することというカントの平和論などが生まれたわけだ。

ソクラテスプラトンの生きた多神教古代ギリシャの世界から彼らの知恵はローマを経由し、一神教であるキリスト教と共にヨーロッパに広まった。いまのような科学万能ではない時代、宗教と共に学問が伝わったものだが、ヨーロッパでは宗教の原型が解体された形で学問が伝わっていったという点が興味深い。まあ、この辺は世界史の領域になろう。

支配者もしくはリーダーとはどうあるべきかを考える上でも、さまざまな支配のタイプを知る上でも、紀元前に成立した古典中の古典は、現代日本の混迷した社会と政治を理解し語る上でも、非常に参考になるテキストである。

三津田治夫

第2回飯田橋読書会の記録:AI・人工知能に「意識」は生まれるのか? 『意識と本質』(井筒俊彦 著、岩波文庫)

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某月某日、都内某所で開かれた読書会のテーマは、『意識と本質』だった。
AI・人工知能に「意識」は生まれるのか。
そもそも意識とはなんなのか。この本を通して考えてみたい。

本書のテーマは書名の通りで、非常に明確なフレームワークが冒頭数十ページで示されている。一つの柱が精神の形而上学で、もう一つの柱が宗教学。前者では本質を捉えようとする意識と言葉の断絶を「分節化」というキーワードで解き明かし、後者ではユダヤ教キリスト教イスラム教という、旧約聖書派生の宗教と、ヒンズー教・仏教・禅・儒教という東洋発生の宗教の相違点と一致点を、「意識」のモデル化を通して解き明かそうとする。

「分節化」とはつまり、意識を言語化する行為。元々言葉のなかった世界の事象に言葉が与えられることにより、分節化ははじまる。たとえば、日本一高い山という意識は言葉のない時代からあったが、ある時点から「富士山」という言葉が生まれた。しかし日本一高い山という明確な意識がある一方で、「富士山」という言葉はあの山のどこからどこまでが対応するのかという疑問も生じる。それが、分節化の限界である。人体にしてもそうで、「首」や「手のひら」という言葉があるにもかかわらず。どこからどこまでが首なのか、どこからどこまでか手のひらなのかは、漠然とした共通認識しかない。

作者はそうした言語による分節化の限界を示しつつ、分節化の底に横たわる本質を捉えようとする「意識」に光を当てる。意識把握の筆頭に、作者の独壇場であるイスラム教を取り上げる。イスラム教の思想には事象把握の方法が2種類あり、一つは対象そのものを把握することと、もう一つは対象そのものの普遍的な性質を把握すること。東洋発生の宗教にも、同じく、事象そのものの把握と、事象を構成する元素の把握という2つのアプローチがある。これらを、フランスの詩人マラルメとドイツの詩人リルケの作風の対比において説明する。

マラルメの詩が表層的な描写を通して表層を超えた次元の印象を読者に与えるのに対し、リルケの詩は心の動きそのもの、心の底から湧き上がった感情をそのまま言葉に投影する。つまり意識には、表層意識と深層意識があり、双方の意識を通して人間は本質の把握を試みる。
表層意識と深層意識の双方の取り扱いについて、作者は「禅」に注目する。禅は宗派によりさまざまな解釈があり、それぞれで考え方やアクションが微妙に異なっている。また、禅以前にも、中国天台宗の教典ではすでに禅の原型の考え方やアクションが明確に示され最澄によりそれが輸入されている。

禅とは、一言で言うと、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、新たな分節を再構築する考え方およびアクションである。それを実現するためのアクションが、坐禅である。ゆえに坐禅は言葉を好まない。言葉をいったん解体するために、ひたすら黙って座る。只管打坐とはこのこと。それを繰り返すことで、言葉により分節化された意識の世界を非分節化し、言葉によって構築された世界の外へと出る。

その禅をさらに拡張させたものが、老荘思想に生まれた静坐である。人間にはある意識とある意識が切り替わる間に無意識の時間が生じる。それを「未然」と呼ぶ。修練を通して意識のコントロールができるようになると未然の占める時間の割合が増え、その間に意識は深層心理の原点(著者のいう「意識のゼロポイント」)にまで下降する。こうした静坐といったアクションにより求められるものを「窮理」という。本質すなわち「理」を窮める行為である。

坐禅と静坐との共通項として、本質を掴むために深層意識(分節化されていない世界)と表層意識(分節化された世界)の双方をダイナミックに往来し、双方は再帰的、という点があげられる。そして深層意識と表層意識の間には、意識を分節化(言語化)するタネ(著者のいう「言語アラヤ識」)が存在する。ユングのイマージュのモデルにこれを当てはめると、深層意識と表層意識の間に、下から順に原型(アーキタイプ)とイマージュがあり、この原型に同階層に意識を分節化するタネ(「言語アラヤ識」)が控える。言い換えると、ユング説によれば、イマージュもまた、意識の言語化の結果、である。

上にまとめたのは本書の根幹のみで、その他ユダヤ教カバラセフィーロート、密教など、東西の宗教を横断したダイナミックな論旨展開となっている。

読んでいてふと思ったのは、意識と本質についてこんなに深刻に考え込んで、そして結論らしい結論も得られず、一体なにが本論考の目的なのだろうか、と。そうして自問を続けたどり着いたのは、自分の頭で意識と本質に迫ることが、まさに、自己認識のはじまりである、ということ。自分はどのような心を持って、自分は何者なのかという、自己認識である。そうした自問自答を通し、人は生きる意義や目的、幸福にたどり着くことができるのではないだろうか。

「動物は、直観することはできる。だが動物のたましいは、たましいを、つまり自己自身を対象にしているのではなくて、外的なものを対象にしている」というヘーゲルの言葉を思い出した。

人間は考えなくても生きていける。しかし、考えることにより世界に対して新しい視界が開ける。そして、より人間的に生きていくことができる。言葉でそれを促すのが啓蒙書の重要な役割だ。その意味で、本書は第一級の啓蒙書である。日本人の著した啓蒙書で、ここ20年ほどで最も衝撃を受けた作品。この本はきっと、2年後、5年後、10年後に読み返しても、そのときそのときで新しい印象を与えるに違いない。意識の本質とは、人間が自発的に考える能動的な活動であり、こうした活動により、人間が血の通った人間として生きていくことではないか。そうした「意識との出会い」を与えてくれた作品であった。

以下、本書の概念を図式化したものを掲載する。

三津田治夫

 

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