本とITを考える

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古代ギリシャから読み解くリーダー論:『国家』(上・下)(プラトン著)

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日本国内ではリーダー不在の政治不信が続き、書店のビジネス書棚に向かえばリーダー論に関する書籍が大量に置かれている。今回は、日本人が渇望するリーダーのあり方・考え方に対し、その源流となる書物をひもといてみたい。ビジネス書にも少なからず、こうした古典のエッセンスが流れている。では、読んでみる。

『国家』は、人間個人が持つべき知恵やスキルを究明し、それを国家レベルにまで拡大し、どうしたら国家が理想の人格を持てるのかということを、ソクラテスに語らせた作品。

国家は知的な人間が統治すべきという哲人宰相を理想とするのがプラトンの理想とする国家。
プラトンが生きた古代ギリシャの時代も、知的でない人間が国家を統治していたゆえ、このようなものを書かざるを得なかったのだろう。

人が身につけるべき教養や素養、学問など、国家の構成員としての国民のあるべき姿や、内実のない雄弁に耳を傾けてはいけないといった警句など、国家のあるべき姿、あってはならない姿が、現代人の私たちにもわかりやすい比喩で語られている。

その中でも最も印象深いのが、「民主主義は独裁政治の一歩手前で、かなりやばい」、というお話。

自然状態に生きる人間の間で争いが起こると、民族は分断され、土地や財産が分断され、私有財産が生まれる。

私有財産が生まれると今度は財産を持つ者の中から新しい集団のリーダーが選ばれる。

そこで成立するのが寡頭政治で、少数の富裕層が莫大な財産と共に権力を掌握する。

彼らは自分の権力と財産が減らないような政策をとり続け富と権力を強固にする一方で、財産を持たない者との二層構造もさらに固定化される。そこでまた争いが起こる。

すると財産を持たない者は、「能力」を持つ者による自由な政治を求めた集団を形成しはじめる。

これが民主主義のはじまりで、人々は財産によらない「能力」による自由な政治の社会に生きることになる。

しだいに、自由に慣れた人々の自由は「奔放」へと変化する。不自由である自分や、他人の自由との格差に人々は不満を抱き、勝手な主張をはじめ、社会が混乱へと向かう。

すると今度は、混乱した社会をとりまとめてくれる強烈な支配者を人々は求めるようになる。
その混乱の渦中に登場するのが、独裁者である。

独裁者は混乱こそが自分の存在基盤なので、戦争や内乱状態を意図的に作る。
そして独裁者は自分の地位が奪われる恐怖にたえずおびえているので、国民を暴力で押さえつける。

ゆえに独裁政権は最悪なのだ、と、ソクラテスは語る。

「民主主義の混乱の渦中に登場する独裁者」と聞いて、世界一民主的な憲法を持つと言われたワイマール共和国時代のドイツに登場したヒトラーを思い出した。彼のその後の行動は歴史がすでに示している。

人々の謳歌したはずの自由がいつしか奔放になり、しまいには自分勝手になってしまうという民主主義の没落もソクラテスの時代から何度も繰り返されてきたことで、自由は放任していたら混乱に陥るという教訓が何千年と受け継がれている。それにより、契約においてこそ自由は成立するというルソーの社会契約論や、自由とは自分が他人の自由を保証することというカントの平和論などが生まれたわけだ。

ソクラテスプラトンの生きた多神教古代ギリシャの世界から彼らの知恵はローマを経由し、一神教であるキリスト教と共にヨーロッパに広まった。いまのような科学万能ではない時代、宗教と共に学問が伝わったものだが、ヨーロッパでは宗教の原型が解体された形で学問が伝わっていったという点が興味深い。まあ、この辺は世界史の領域になろう。

支配者もしくはリーダーとはどうあるべきかを考える上でも、さまざまな支配のタイプを知る上でも、紀元前に成立した古典中の古典は、現代日本の混迷した社会と政治を理解し語る上でも、非常に参考になるテキストである。