歴史とはなんだろうか?
歴史とは、過去に記述された文献や、人類が作り上げた物体の蓄積である。
そして歴史学とは、これらを採集・解釈・再構成し、
いまに生きる私たちの知恵として役立てるための学問である。
また、歴史にはエンタテイメントの要素もある。
過去に生きた人物や出来事にロマンを感じ、いまを生きるための糧にしたり、参考にしたりする。
とくに日本人は幕末に弱い。
あの時代に命がけで日本を守って新しい日本を作り上げた人物たちに思いをはせる人たちは多い。
また近年は、歴史ブームだとも言われている。
先行き不安感が高まるいま、なにかをよりどころにしようかと、過去の人間たちが行ってきたことを振り返り、再検討しようという欲求の表れである。
歴史には哲学の要素も加わる。
歴史はどう発展するのか、また本当に発展しているのか、
もしかしたら破壊され後退しているのか、といった解釈である。
たとえばヘーゲルの歴史哲学では、歴史はよりよいものに向って改善されながら発展するという。いまの歴史観のベースをなす考え方である。
新しいものはよりよいものであるという、新しさを人の心に訴えかける広告文化にもこの考え方は応用されている。
いま、目前で起こっていることも歴史である。
たとえばロシアとウクライナの戦争、生成AIによるビジネスの変革などは、世界史の1ページを刻む大きな出来事である。
その意味でも私たちは、いままさに、歴史の中を生きている。
学校で年代の数字と出来事を答案作成のために丸暗記させられる嫌なものであったり、老人が若者のマウントを取るための材料が歴史ではない。
情報の流動性が高く、さまざまな解釈が許され、人の生き方を豊かにする人間の物語の集成が歴史である。
歴史はモンゴル帝国から始まった
モンゴル帝国の成立と共に、13世紀、世界史がはじまったという大胆な仮説を展開するのが、今回の読書会で取り上げた『世界史の誕生』(岡田英弘著)である。
ジンギスカンがアジアからヨーロッパに攻め入り、東から西へと破壊と共に文明をもたらした。そして東西の交流を促し、後の国民国家や民族の原型を各地に残し、世界史野タネをまき、世界史を生み出した。
それが、なにによって分断されたのか。
そこには3つの主張がある。
一つは、中国の正史である。
司馬遷の描いた皇帝の権威を固定するための歴史観であり、皇帝という絶対不動の倫理こそが国家の統一と安寧をもたらすという思想が根底に流れている。
もう一つは、『ヒストリアイ(歴史)』を記述した、歴史の父と言われる古代ギリシャのヘロドトスによる言説である。
これは、地中海文明がペルシャというアジア文化に戦争で勝利するという物語を、歴史として記述したものである。
勝利した西欧は善で、敗北したアジアは悪である。
のちの有色人種差別思想にもつながっていく。
そして最後が、上記の流れを主軸に記述された、日本人が持つ明治維新以降の英独仏による西洋史観である。
このような、各国家・人種の大人の事情が、世界史を分断し、再編し、歴史を自分のものとした。
ではなぜ、そのようなことをしたのだろうか。
本文から以下を引用する。
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歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようとするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染」していったのである。
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歴史とは、強力な武器である。
国家や種族の戦いは、武器というハードウェアをもって行うのではなく、歴史というソフトウェアをもって行うのである。
上記の司馬遷やヘロドトスをはじめ、日本人が作り上げた『大日本史』や『日本書紀』は、まさに武器として開発された歴史である。
歴史と宗教、科学、物語、そして共通認識
読書会の会場からは、どのような声があがったのか。
今回の参加者は、幹事のKNとKM、HN、SK、HH、KA、KH(全敬称略)と私の、全8名。
いつものごとく賛否両論。
評価が真っ二つに分かれた。
「決めつけが多くて読めない。梅原猛っぽい……」
「出典不明でつっこみ所満載の本」
「かたよったイデオロギー」
「4割位読んで“なんだこれは!”と思った」
「東西をつないだだけ。世界史じゃないよね」
というネガティブなものから、
「面白く読みました」
「モンゴルの発展と伝統がわかって面白かった」
「バラバラだった歴史ががつながって面白い」
「歴史修正主義ウェルカムです」
「歴史は未来をつくるためにあるのだと実感」
というポジティブなものまで、意見は幅広かった。
その他、
「タタール人との壮絶な戦闘を描いた映画『アンドレイ・ルブリョフ』を思い出した」
「“未開社会に歴史はない”とするヘーゲル史観へのカウンター。反マルクス主義(反ロシア、中国)としての主張ではないか」
というコメントや、
「ロシアにはモンゴル帝国の影響がいまでも残っており、トルクメニスタンやカザフスタンなど、“~スタン”と名称がついた国々がそう」
といった知識などが聞こえてきた。
遊牧民ゆえに文明がないとされてきたモンゴルの存在を逆手に取り、モンゴル帝国の成立こそ本物の世界史のはじまりとし、日本史や西洋史、中国史は国家や民族の「武器」として作り上げられたものであるという本作の主張に触れ、改めて、歴史とはなんだろうと、基本的なことを考えた。
作者の仮説に立脚すれば、モンゴル帝国の文明は、文献や遺跡の発見によって、新しい歴史(西洋史や中国史、日本史以外の)として共有されてしまうことになる。
しかしそうなると、既存の歴史の傍流、つまりもう一つの武器ができてしまう。
ゆえに人々は、新しい歴史をやすやすと受け入れることはしない。
なぜならその新しい歴史には、武器としての強度がどれだけあるのかがわからないからだ。
武器とは、敵に対抗し、勝つために存在する。
そのため、武器は強力である必要がある。
強度の危うい武器に、人は信用を置かない。
歴史とは、武器としての強度を持った物語、ということもできる。
歴史には、文献も遺跡も存在しなくてよい。
物語が武器としての強度さえ備えていれば、人が信用を置いた時点で、歴史となる。
本作でも「本来は部族同盟の契約であったものを、唯一神の信仰の契約にすり替えた新解釈」と指摘されているように、旧約聖書の基礎ロジックである一神教の成立は、物語のすり替え(書き換え)によって起こる。
このように、武器としての強度を持った物語は、話のすり替えからも起こりうる。
歴史を物語として解釈すると、宗教もまた物語の産物である。
さまざまな史実や解釈、哲学が加わり、物語が成立する。
ただ、物語をベースとしても、歴史と宗教の間には決定的な違いがある。
それは、神秘体験があるか否か、である。
宗教には、物語に加え、神や精霊との対話といった、神秘体験が必ず織り込まれている。
一見怪しげな神秘体験も、武器としての強度を持った物語として人(信者)が信用を置いてしまえば、それは立派な信仰の対象として成立する。
「信者になれば宇宙からUFOが救いに来てくれ地球滅亡から生き残ることができる」など奇怪なロジックを持った、20世紀末に流行したカルト宗教がこれである。
当時の信者が信用を置いた、武器としての強度を持った物語の結末である。
物語として人が信用を置くとは、言い換えると、共通認識を持つ、ということである。
聖書を信じる人たちは世界は7日間でできたと信じている。
日本人は日本武尊による国家創世の物語を信じている。
それが史実であるかどうかはどうでもよい。
共通認識として信じられているか、だけである。
物語の根拠に史実が多ければ多いほど歴史の対象として共通認識され、神秘が多ければ多いほど宗教の対象として共通認識される。
AIは歴史の文脈を生み出すのか?
社会は根拠と説明でできている。
企業では、過去のデータを参照しながら、マーケティングやビジネスのロジックを駆使し、儲かる根拠を日々考え続けている。
このようなプロセスで意味づけられた儲かる根拠の説明を通して、企業の従業員から管理職、経営者、株主までが説得され、意思が伝搬し、市場が動き、経済が動き、世界が動く。
しかしこの根拠と説明のロジックを一変させたものがある。
それが、AIである。
AIは過去のデータを参照し、儲かる根拠をはじき出す。
しかし、はじき出されたロジックがわからない。
「〇〇だから△△、ゆえに□□」といった三段論法がAIには通用しない。
その根拠がどのようにはじき出されたのか。
条件があまりにも多岐にわたり、複雑すぎて、トレースできないのである。
つまりこれは、一種の神秘である。
ロジカルに説明できないものをビジネスに導入することは、説明責任を果たす意味でありえないものだった。
しかしそれが、AIの登場において可能となった。
誤解を恐れずにいってしまえば、ビジネスの意思決定に祈祷や占いが導入されてしまったようなものである。
つまり、なにを信じるのかという、宗教的な要素がビジネスにも入り込んでいる事実の証明、ともいえる。
ビジネスと宗教は兄弟なのだと、改めて認識できた次第だ。
AIという新たな宗教が登場し、歴史においても、人々の認識は変わってくる。
ChatGPTがアウトプットした世界史を人々が議論し始めると、歴史の新たな文脈が人々に共有され、新たな世界史が生まれるであろう。
歴史という物語を共通認識として持つ人間とは、特殊な生き物だ。
人間が文脈の生き物であるというゆえんでもある。
他の生き物が持ちえない特性である。
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さて次回は、個人が見た歴史へと視点を変えてみる。
オーストリア・ウィーンの作家、シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』を取り上げる。
同じ作家は取り上げないという本読書会のポリシーからはついに外れてしまったが(以前『人類の星の時間』を取り上げた)、
自国の2度の滅亡に遭遇した文豪の自伝遺作、600ページを超える大作から、どういった歴史が見えてくるのだろうか。
次回も、お楽しみに。