本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

読みました:『人間の条件』(ハンナ・アーレント著)~大衆の中での個人主義のあるべき姿~

ハンナ・アーレント(1906~1975年)と聞くと、全体主義批判の社会学者、ハイデッガーの元カノだったというイメージが先行するが、実際、本作『人間の条件』(1958年)とはどういった作品なのだろうか。先入観を排除して頭をクリアにし、独自解釈を施してみた。

人間活動の本質を取り巻くものとして社会と権力を指摘し、人間から生まれ出る創造と活動に対し、これらを疑似化し自動化するオートメーションとの対立構造を示す。
人間はつねに最高善としての生命のもとに生きており、権力から作られた自由幻想や集団帰属幻想から覚醒しましょう、という話が本作の大枠である。

人間の3つの本質「労働」「仕事」「活動」を整理する
まず、『人間の条件』という書名からある通り、人間とは何者なのだろうかという人間の本質を解き明かそうとする著作だとは思った。
が、読み進めることで、中心がどこにあるのかが見えづらかった。
恐らく、ドイツ語で育ち思考したドイツ人のアーレントが、その成果を亡命先で英語で記述したゆえ、ある種の違和感が現れたのだろう。

冒頭で彼女が主張する人間活動の本質は、「労働」「仕事」「活動」の3つからなる。これら訳語からひも解いてみる。

おのおの「英語/ドイツ語」を交えると、「労働」(labor/Arbeiten)は、日本語の通り、働くことである。「仕事」(work/Herstellen)はなにかを生み出したりつくり出すことで、「活動」(action/Handeln)は手や体を動かすこと、なにかを扱ったり取引すること、という意味である。

「労働」「仕事」「活動」について、著者は次のように定義づける(以下、ちくま学芸文庫版、志水速雄訳から引用)。

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労働は、個体の生存のみならず、種の生命をも保障する。
仕事とその生産物である人間の工作物は、死すべき生命の空しさと人間的時間のはかない性格に一定の永続性と耐久性を与える。
活動は、それが政治体を創設し維持することができる限りは、記憶の条件、つまり、歴史の条件を作り出す。
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なぜ人間はものを生産するか。
それは、死という終わりを持った命ある存在に永続性を持たせることに由来している。

人は3つの活動の本質を通して生産を続ける。
すると、生産力や生産物の「所有」が生まれる。
所有により権力が生まれ、法と社会が成立する。
人間個人の領域が社会へと拡大する。
同時に、大衆社会が芽生え始める。

労働と消費の円環運動は停止不可能な「必然」である
アーレントマルクスを引用し、消費と労働はセットであり、これらは循環関係を成しているという。

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近代における労働の解放は、万人に自由を与える時代をもたらさないだけでなく、反対に、全人類をはじめて必然の軛のもとに強制するという危険は、すでにマルクスによってはっきりと感じられていた。
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そして、人間労働を機械のオートメーションが代替することで、人間は過剰労働の苦痛から解放されることになる。
しかし、生産サイクルの拡大に終わるところはなく、人は消費の苦痛にさらされ続けることを指摘する。

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労働からの解放とは、必然〔必要〕からの解放である。これは究極的には、消費からの解放であり、したがって、ほかならぬ人間生活の条件である自然との新陳代謝からの解放を意味する。
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労働とは自然現象であり、労働とは必然である。
つまり、労働からの解放とは、自然からの解放、必然からの解放を意味する。

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生物学的生命の絶えず循環するサイクルが通過しなければならぬ、労働と消費というこの二つの局面がその比率を変えて、人間のほとんどすべての「労働力」が消費に費やされるという状態さえやってくるかもしれない。
それに伴って、余暇という重大な社会問題が起こってくるだろう。この余暇の問題というのは、本質的には、消費能力を完全に維持するために、いかにして日々の消耗に十分な機会を与えるかという問題にほかならない。
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労働と消費の双方は、自転車の左右のペダルのような関係にある。右を踏み出せば左を踏む必要があり、どちらかを止めればペダルは循環を、自転車は前進を停止する。

消費が生きる手段から目的へと変貌をとげた人間にとって、自らがオートメーションの中に組み込まれることが人間の条件の一つになった。いわゆる、自然の機械化である。

本来人間は創造的な存在で、創造と活動は一体にある。
活動とは人間が演じるドラマでもある。そして活動とは、芸術一般にみられる模倣という、知性の一つである。

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アリストテレスによれば、模倣はすべての芸術に一般的に見られるが、実際にそれがふさわしいのは、ただドラマだけである。
この「ドラマ」という言葉は、ギリシア語の動詞dran「活動する」からきているが、これこそ、劇の演技が実際は活動の模倣であることを示している。
しかし、模倣の要素はただ俳優の演技に見られるだけではない。アリストテレスが正しく主張しているように、芝居を作り、書くことのうちにも模倣の要素がある。
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模倣という知性の分野と行為の分野とを明確に分離したものが、奴隷制である。
奴隷制の中にあるものは模倣ではなく、服従にすぎない。
権力は知性だけをにない、奴隷は行為だけをになう。

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生命欲求に満足を与える手段は労働であり、したがって人の富は、しばしば労働者、つまり所有された奴隷の数によって計算された。この場合、財産を所有しているということは、生命が必要とする物を征服しているということであり、したがって、潜在的には、その人が自由人であるということを意味し、自身の生命を超越して万人が共有する世界に入る自由をもつことを意味した。
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権力は行為(筋肉を動かす)を伴わないし、奴隷は知る(問う、根拠を探る)ことを伴わない。
知と行為の分離により、権力が生まれ、そして政治が生まれた。

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都市国家が勃興してはじめて、この種の私的所有は、目立って重要な政治的意味を帯びるようになった。
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肥大化した自我と大衆社会、巨大化するデータとコンピュータ
そもそも、大衆社会は、どこから発生したのだろうか。
アーレントデカルトの名をあげて、「アルキメデスの梃子の支点を心の中に移した」と指摘する。
つまりデカルトのいう「自我」という私的エリアが拡大した結果が、大衆社会である。

個人という自我の主張や言動、責任、思考、嗜好、あらゆる自我を集団に投影した姿が大衆社会である。そして個人は、大衆の中へと没入し、希釈されていく。さらに、オルテガが『大衆の反逆』で指摘したように、大衆は社会を支配し始める。

混乱期に差し掛かると、大衆に支配された大衆社会は、作者が指摘する(ドイツの)ナチスや(ソビエト連邦の)ボルシェビズムといった、全体主義社会へと姿を変えていく。

いまの日本も大衆が社会を支配し、問いと対話と知性が失われ、日々社会が閉じている。

全体主義社会は、音もなく訪れる。
なぜなら人は、自分が大衆に属していることにまったく気付かないからだ。
人は、つねに自分は自由であると、ぼんやりと主張する。
自分の意思や言動は誰かに強制されたわけではなく、つねに自由のもとにあると、ぼんやりと主張する。
趣味嗜好から職業選択、人生選択、すべてが自由な意思決定に属している。そう、ぼんやりと主張する。
つまり、その人こそが、大衆である。

オートメーションによる人間疎外は産業革命以降つねに問題視されてきた。この問題は、いつの時代にも形を変えて姿を現す。

現代では電気を通じ、自然活動の延長としてのオートメーションが、コンピュータやプログラミングとして休みなく実行される。

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次の段階は、主に電気の利用を特徴としており、実際、電気は、今日の技術発展段階をも決定している。
この段階になると、それはただ古い技術や技能を巨大な規模に拡大し延長しただけであるとは、もはやいえなくなる。
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知と行為の双方をになっている人間のことを、アーレントは工作人と呼んでいる。

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そして、〈工作人〉にとっては、すべての道具が既定の目的を達するための手段であるが、この段階になると、このような〈工作人〉のカテゴリーを、もはや適用できない。
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コンピュータによる高度化したオートメーションの機能は、工作人の手を離れ、脳へと移行する。

そして産業革命時の発見を、次のように述べる。

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新しかったのは、蒸気機関の原理ではなくて、むしろ、蒸気機関に燃料を供給する炭坑を発見利用したことであった。
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ここでいう燃料とはデータである。
そして炭坑とは、データ化されうる私たち人間の行為や心の状態である。

人間から思考という労働が取り除かれた分、人間は消費に走る。世の中のあらゆる資源(リソース)は消費される。
資本主義の宿命として、企業は、さまざまなマーケティング言語の名の下で、収益の最大化と競争力の強化を図る。

地球上の資源という資源が底をついたら、次に消費されるターゲットは、私たち人間の生命が持つ、心と時間である。動画やSNS、広告といった、ネット上のビジネスモデルが、すでにそれを行っている。

幻想から覚醒した本当の「個」とは?
最後に本文から、ローマの政治家カトーの言葉を引く。

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なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない。
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自分が活動的であるという幻想、自分が個人であるという幻想の中に私たちは生きている。そして、過去に見たことがない、新しく形を変えた全体主義の世界の中に突き進もうとしているのではなかろうか。

歴史は繰り返される。古典を多数参照した本作は、すでに60年以上も前に、産業革命以降の歴史の円環絵図を見せてくれている。

●付記:なお全体主義に関しては、

時代を操る毒にも薬にもなる「神話」という魔術:『現代議会主義の精神史的状況』(カール・シュミット著) - 本とITを研究する

をご参照いただけたらと思います。

三津田治夫