本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

バッハの大作をつづる、『ヨハネ受難曲』(礒山雅著)を読みました

師走になると日本もしだいにキリスト教の雰囲気(クリスマス商戦)になっていくが、課題図書として読んだイスラム教をめぐる歴史書『アラブが見た十字軍』から一変し、今度は『ヨハネ受難曲』(礒山雅著)を読んだ。
原曲を聞きながら何度も読むとさらに味わいが深まる。
非常に素晴らしい著作だった。

著者の礒山雅さんが大雪の中の不慮の事故で急死されたのは記憶に新しく、ショックだった。
『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』もまた素晴らしい作品で、この方にはまだまだバッハを書いていただきたかった。
そんな同氏の遺作が、『ヨハネ受難曲』である。

本作のなにが素晴らしいのかというと、(『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』でもそうだったが)バッハという人物があたかも目の前に生きているかのような書き方がなされている点。

加えて、著者による聖書へのテキストクリティーク(ドイツ語ルター版とギリシャ語版にまで言及している)と、楽譜クリティーク(という呼び方で正しい?)が緻密で興味深い。

他のバッハ研究家と比較したことはないが、日本でここまで人生をかけてバッハへと情熱的に迫った人は、ほかにいないのではないだろうか。

同氏の著作から得たバッハという人物に対する最大の疑問は、
その音楽づくりのモチベーションがどこにあるのか、である。

いまなら、音楽の再生回数やPV、ダウンロード数、視聴率の高さ、バズったか、など、何人の大衆の心をつかんだのかという数値指標が重要になる。

バッハは天と神に向かってアートを突き詰めた人物、とも言われているが、彼は仕事を通してキリスト教プロテスタント)の信者を増やすという布教活動を支援していたので、そのモチベーションの一つは、「信者数を増やす」は明らかである。同時に、教会関係者の信頼を得ることもそうだ。

こういった宗教的な活動意識と同時に、バッハはたびたび教会関係者とギャラの面で揉めて異議申し立てをしたという記録もある。その他晩年は、チェンバロのレンタル業も営んでいて、自身の音楽事業を支える資金繰りにも、経営者として余念がなかった。

バッハの作品を聴こうと教会に来る人が増え、歌手や牧師の口を通した聖書の言葉にその人々が感銘を受け、その結果として洗礼を受ける人が増え、お布施が急増する状態が、いまでいう「バズる」であろう。結果、バッハは教会運営関係者から「よくやった!」と評価され、彼へのお支払い(報酬)が増えるのだろう。

なにが言いたいのかというと、当時の職業アーティストとしてのバッハは、なにを原動力の中心として、仕事としてあれだけ大量な音楽作品をアウトプットし、宗教に関係なく(私のような非クリスチャンにも)世界中の人々の心(私のような極東の日本人にも)に感動を与えることができたのか、という疑問である。

恐らく、「布教」も「バズ」るもそうだが、アーティスト(情報の出し手)は、「入信者数」や「再生回数」といった数値を求めていなかった。
数値は「過去」の行動の結果に過ぎない。目標数値も、過去の情報をもとに設定される。
アーティストという、未来に向かってアウトプットするという行動原則の、真逆の発想にある。

TouTubeに『ヨハネ受難曲』の良質な音源が上がっていた。
これに長時間聴き入ってしまった(カール・リヒター:指揮、ペーター・シュライヤー:テノールエヴァンゲリスト))。

https://youtu.be/tPQgHScLK8o?si=1ku2mt5pfq-zZ7gl

ヨハネ受難曲』は、著作、音楽、ともに、宗教や時代・歴史、地域を超えて、さまざまな感動や疑問を投げかけてくれる貴重な音楽作品だった。

バッハはこの直後、『マタイ受難曲』という3時間オーバーの超大作を書き上げた。このことに関しても、もしいつか機会があったら書いてみたい。

三津田治夫