本とITを考える

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本やニュースを読みながら、ITの未来を考えていきます

オープンソース黎明期の記録:Perlの開発者、ラリー・ウォール氏来日基調講演

 1998年、いまから19年も前の話になるが、Perlの開発者、ラリー・ウォール氏が来日した。そのときの基調講演の模様をZDNet Japanの記事として書いた。
 ラリー・ウォールといえばオープンソースの神様で、私はこの基調講演に聴き入ってしまい、いまでも忘れられない貴重な思い出となっている。
 コンピューティング世界史の一つとして、オープンソース黎明期の日本の様子を共有できたらと、ここに記事を再掲載します。

  * * * *

あのLarry Wall氏が基調講演で登場
 11月11日、都内のホテルにて、O'Reilly Japan主催の「PerlカンファレンスJAPAN」が開幕した。12日まで行われる。初日の朝9時から行われた基調講演では、O'Reilly & Associates, Inc.のTim O'Reilly社長と、あのLarry Wall氏が登場した。

CGIデファクトスタンダードPerlの哲学を語る
 「あの」といわれても、読者にはピンとこない人がいるかも知れない。しかし知っている人には教祖的存在の人物である。彼は、ウェブのCGI言語として、いまやデファクトスタンダードといえる、フリーウェアのインタープリタPerl」の開発者だ。そしてまた、O'Reilly & Associates刊の通称“ラクダ本”と呼ばれる、世界で50万冊売れたというPerlの入門書、『プログラミングPerl』の著者でもある。プログラミング言語の開発者の声を生で聞く機会はなかなかない。心して耳を傾けた。

 Larry Wall氏は、自らが開発したPerlを、「美しくないが問題解決には最適の言語。我々の話し言葉でたとえると、台所で交わされる言葉のようなもの」と言い表す。少々謙遜の意味も込められているのだろうが、前述の『プログラミングPerl』の表紙の絵柄であるラクダに、「ラクダは醜い生き物だが、特定の作業をこなすには最適の生き物」という意味も込められているということからもうなづける。

日本製の時計を自慢するLarry Wall

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 『プログラミングPerl』の内容同様、Larry Wall氏はウィットとサービス精神に富んだイカす男だ。ちょっと飄々としたところもあり物静か、しかし絶えず笑いをとるという、サイレントななかにも鋭い切れ味を感じさせる。会場に登場するやいなや、「僕は日本に来日したというよりも、帰国したという気がする」と語り出す。その理由は、「左腕にしている時計も日本製、家に帰ればテレビはソニー、初めて買った車はホンダのアコードだ」といっている。

CとShellから出てきた真珠
 余談を終えて同氏は、Perlの設計哲学を語る。UNIXの世界で、データの操作性が高い言語として「C」を、そして、やりたいことを素早く作成できる手段として「Shell」をあげている。これらの両者の利点を兼ね備えた言語にsedawkがあるが、どちらかといえばShell寄りで、データの操作性は高いとはいえない。Cとshellの利点をフォローする言語として開発されたPerlを、「Perlは、Cとshellがぱっくり割れて、中から出てきた真珠である」と表現する。

 基調講演のテーマは、「Aikido for Programmers」と題されている。同氏が趣味で行っているともいう合気道。このテーマは、宇宙と人間の融合をはかる合気道という言葉を、コンピュータと人間の融合をはかるPerlと掛け合わせたものだ。また合気道は、「上達すればするほど動きが少なくなる。プログラミングも同じこと」とも付け加える。

 また今回は、同氏とのインタビューにも成功し、Perlの未来やLarry Wall氏のパーソナリティにも触れることができた。次回の記事として掲載する予定なので、お楽しみに。

三津田治夫

AI時代に「人間の身体とは?」を問う:『知覚の現象学』(上・下)(メルロ・ポンティ著、みすず書房刊)

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「われわれは歴史の<頭>にも<足>にも心を奪われるべきではなくて、その全身にこそ専念すべきである。」

日本が誇るSF大作『攻殻機動隊』はハリウッドで映画化され、スカーレット・ヨハンソン扮する草薙素子は「自分ってなに?」の自分探しをはじめる。原作では「生命とは思考か、記憶か?」「生命とは身体か?」「そもそも生命とはなに?」が根底のテーマに据えられたすばらしい作品だ。その意味で原点となった映画『ブレードランナー』は偉大な作品といえる。

と、人は「心と身体」の問題に悩んでおり、すでに成人した大人たちもがいまや自分探しをはじめている。世の中が複雑化した今日的現象である。動乱の世界の中では必ずこうした「存在への疑問」が人々を取り巻く。『知覚の現象学』は、1945年、第二次世界大戦のさなかという動乱の時期に出現した作品だ。

経験主義、観念論からの決別を図り、「人間的認識がかならず自己の身体をつうじてでなければ生起し得ないことを徹底的に明らかにすること」を出発点とし、現象学という、哲学の新分野に深く切り込んだ野心作である。非常な大著で、2ヶ月をかけてようやく読み終えた。
この本の中の表現は、『攻殻機動隊』に戻るとさながらバトーの詩的なセリフとしてそのまま使えそうなものばかり。引用を交えながら、ポイントを押さえていく。

「身体と意識とは相互に限界を劃し合っているものではなく、両者は並行的にしか存在し得ないのだ。」と、デカルトの「我思うゆえに我あり」を批判的に捉えている。つまり、「我思うゆえに、我が思うことを我が知る」である。この「知る」という能動的な活動を通じ、意識が実存に「再統合」される。
さらにこうも言う。
「私はコギトを実行することができ、本気で意欲したり愛したり信じたりしているとの確信をもつことができるが、それはただ、それに先立ってまず実際に意欲したり愛したり信じたりして、自分自身の実存を果たすという条件においてだ。」
意欲や愛といった意識は、存在に意味を与える条件でもあり、人間の持つ意欲だ。これが、彼の哲学が、身体の哲学と言われるゆえんでもある。

身体と意識の統合という認識を出発点とし、彼の理論が展開される。
まずは、感受する対象として、「言葉」が取り上げられる。
「自己の身体が世界のなかにある在り方は、ちょうど心臓が生体のなかにある在り方と同様である。」と、生命を持った身体は、世界を動かす装置でもあり、世界そのものでもある。さらに「人が自分の身体でもって知覚する場合、身体は自然的自我であり、いわば知覚の主体でもあるからである。」「私は身体をとおしてはじめて世界へいたる。」と、身体は世界そのものであると同時に、その世界を知覚する主体でもあるのだ。
「身体に附与される重要性、愛のもつ諸葛藤は、他者にとっての対象〔客体〕であると同時に私にとっての主体でもあるといような、私の身体の形而上学的構造に基づくより一般的なドラマと結びついている。」とあるように、身体は愛やドラマ、つまり言葉を形成する主体である。
そして人間が言葉を獲得する過程を、「事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである。」としている。
信仰にも言葉がベースにあり、「神はもろもろの存在物を名づけることのよってそれらを創造したのだし、呪術はそれらについて語ることによってそれらのうえに働きかけるわけである。」とし、コンテクストにより言葉の要素に意味が与えられる。
「文こそが各単語にその意味をあたえるのであり、相異なるさまざまな文脈のなかでもちいられてきたからこそ各単語は、絶対的に固定化することなぞ不可能な或る意味をすこしずつ帯びるようになってゆくのである。」
身体と言葉、理念を、次のようにまとめる。
「身体と自動能力とをもった人間が存在しなかったならば、言葉は存在しなかったであろうし、理念も存在しなかったであろう。」

話はさらに、われわれの身体が共有する「時間」へと移行する。
「時間の<綜合>は移行の綜合、つまりは自己を展開する生の運動だということになるし、この綜合を実現するには、この生を生きる以外に仕方はない。」
時間と自己との統合は、「この生を生きる」ことにほかならない。時間の中で活発に生命を展開し、生きることが、「この生を生きる」である。時間の流れにおいて「考える」ことで、人は生命を持って実存する。
「われわれが過去にあり、現在にあり、未来にあるからこそ、われわれは時間というこの言葉のもとに何ごとかを考えることができるのだ。」と、実存をいみじくも表現する。

「時間の中では、存在するということと通過するということとが同義語なのであるから、出来事は過去になるからといって、存在するのをやめるわけではない。」
過去も現在も、存在である。となると、存在しない「未来」の扱いはどうなるのか。
「ましてや未来が意識の内容でもって組立てられるということはありえない。すなわち、未来は存在したこともなければ、過去のようにわれわれのうちにその痕跡をのこすこともありえないのだから、どれほど曖昧なかたちでであろうと、なんらかの事実的内容が未来の証人として通用するということはありえないのである。だからこそ人びとは、未来の現在にたいする関係を説明するのに、それを現在の過去にたいする関係に同化することしか思いつけないのであろう。」
人は、未来とは、過去によってでしかイメージできない。まったくの未知の、知り得ないものが、未来である。

共有する生活や運命という媒介を通して、時間は、人の社会的意識に影響を与える。
「たとえ階級意識が生まれるとしても、それは、日傭労働者が革命的になろうと決意し、それに応じて己れの現実の身分に価値附与するからではなく、彼が己れの生活と工場労働者の生活の同周期性と、彼らの運命の共通性とを具体的に感じとったからなのである。」
私たちの属する社会的な階級やステータスも、こうした時間意識を通して形成される。ある人の生活や運命を見て、自分との距離や温度を共感することで、その人の階級意識は形成される。

のべで700ページを超える大著、難解をもって名が知られる『知覚の現象学』を、身体、言葉、時間という3つの切り口で、駆け足で取り上げた。
この本が難解なところは、起点が膨大な「批判」により構成されている点にある。私が気づいたところだけでも、デカルト、カント、ヘーゲルスピノザライプニッツフッサールベルグソンハイデッガーニーチェフロイトなど、批判の対象は膨大である。中でもメルロ・ポンティは、フッサールハイデッガーベルグソンにはポジティブな影響を受けているようだ。反して、カントの「理性・悟性・感性」やフロイトの「エス・自我・超自我」といった「階層的な思想」には反感を持っている。むしろ、世界は再帰的で入り組んでおり、安易にフレームワーク化できないというスピノザ的な思想が、メルロ・ポンティが本質的に持つ思想であるように見受けられる。メルロ・ポンティが日本人に人気の高い思想家であるゆえんは、そこにあるのだろう。本来、日本人は階層的な思想を持たず、上下左右前後が不問な、八百万の神がいたるところに存在して縁起をなしている。日本人は「信じるものの多様化」を容認する人種だ。西洋や中東を支配するキリスト教イスラム教、ユダヤ教という、一神教社会にはあり得ない思想である。メルロ・ポンティの複雑さや神秘性は、こうした多様化にも共通している。

上記はあくまでも私の個人的な解釈で、「メルロ・ポンティの現象学ってこういうものか」というイメージを共有できたら、という意味でまとめてみた。そもそも、いままで私は一度も、メルロ・ポンティの現象学について他人と議論したことがない。

この本に手を出したのは、私の個人的な好奇心でしかなく、「身体」というテーマに強い関心を覚えたからだ。どうもいまの時代、ネット上の文字や画像といった「データ」や、「AI」が社会の前面に出てきており、これらがあたかも社会を形成しているかのような錯覚にとらわれているように思える。そしてふと、いまの人間に残された決定打はなにかと思案しているところに、「身体」というキーワードが落ちてきた。「データ」や「AI」は、人間の身体の派生物でしかない。人類の未来を握る主体は、身体の派生物ではなく、「身体そのもの」だ。それを再確認したかった。そして、身体とはなにかを知りたかった。この本に手を伸ばしたのは、そうした軽い好奇心からだった。

そんななので、「メルロ・ポンティの現象学って、本当はこうだよ!」というコメントなどがあったら、ぜひご教示いただきたい。

三津田治夫

「AI(人工知能)ビジネスの可能性を考える」セミナーレポート ~豊かな対話の場を共有~

2016年8月26日(土)TKP新宿ビジネスセンターにて、「AI(人工知能)ビジネスの可能性を考える」~第1回 本とITを研究する会セミナー~が、満員御礼にて無事開催されました。その一部始終をお届けします。

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●AIは情報の「予測」と「分類」をしているだけ

登壇者は株式会社クロノスでエンジニアとしてAIソリューションの開発と啓蒙を行っているの大石宏一氏。

「AI(人工知能)は怖い?」という世間的風潮に対して「AIは決して怖いものではない。単に情報の予測と分類をしているだけ」と定義したうえで、AIの基本となる学習の種類として「教師あり学習」「教師なし学習」「強化学習」「GAN」の4つを説明した。

まず「教師あり学習」は、午前中の株価の変動から午後の株価のそれを予想するといったような、学習のための情報を必要とするもので、人間の「算数」に近い。
「教師なし学習」は、学習のための情報を必要とせず、予想はできずに類似データの分類のみを行うもの。人間の「図工」に近い。
「強化学習」は出てきた結果を評価し、優れた結果に対して報酬を与え、AI自体にさらに優れた結果を出させるという学習方法。
最後に「GAN」(敵対生成学習、ギャン)は、学習データを使い、結果生成AIが結果判定AIからフィードバックを受けながら、結果生成AIが処理の精度を高めていくという学習方法。航空写真から地図を作るサービスはGANで実現されている。

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 ◎GANでモノクロからカラー写真を生成

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出典:https://arxiv.org/pdf/1611.07004v1.pdf 

●「ディスカッション・パートナーとしてのAIが欲しい」など興味深い発言
大石氏がプログラミング支援AIの開発を計画した際、膨大なデータが必要になることと、数日という非現実的な処理時間がボトルネックであったことを例に、AIソリューションの開発にはだかる共通の課題を説明しながら、次のテーマに移った。

冒頭の基礎解説を受け、参加者は5チームに分かれ、「こんなAIを使ったサービスが欲しい」をテーマにディスカッションと発表が行われた。

最初のチームは「仕事のタスクに優先順位付けをするAIが欲しい」という発表。会社の傾向値を与えるなどして、従業員に対し最適なタスクの割り振りをAIができるのではないか、というアイデアである。作業内容によってはかなり実用性の高いアイデアだ。
「ライティングの仕事を一人でしているので、ディスカッション・パートナーとしてのAIが欲しい」というアイデアは面白かった。ライティングのみならず個人事業主なら誰でもこうしたパートナーは欲しいはず。
また、認知症の患者に対して的確な傾聴ができるAIや、ジムのコーチ、契約書の自動修正ができるAIもあるのではないかという、バラエティに富んだ発表もあった。
商品として提供しているサービスへの問い合わせに自動応答するAIで、しかも、傾聴し、情緒的な対応も可能なものが欲しい、という発表もあった。「傾聴、情緒」という、AIにあえて人間的な挙動を求めるアイデアは興味深かった。大石氏によると、アパレル系のオンラインチャットですでにこのようなサービスが実現されているが、全自動で対応するよりも人間が介在した方が売上げが高いという事例があったらしい。
冷蔵庫の中身をスキャンして自動でレシピを作ってくれ、さらにはユーザーの体調データも加味してその人の健康に最適化したレシピを生成するというAIが欲しいというアイデアもあった。そのまま商品化できるのではないかという秀逸なアイデアだ。
最後は、こちらも健康関連で、人の体調がよくなるか悪くなるかを予測するAIが欲しいという発表。企業の従業員に適用すれば人的リソース管理に使えるし、休暇のリコメンドを従業員に通知するなどのサービスも可能となる。一方で人間特有の「ずる休み」もできなくなるという側面もチーム内から指摘された。

10分間という限られた時間で広がりと深みのある意見が発表された。

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●IoTの登場でAIのビジネス利用がより現実的に

同氏による後半のスピーチのテーマは「IoT」。
「モノのインターネット」と言われるIoTは、家電などさまざまな機器がインターネットにつながり、これらがAIと組み合わさることで多様なサービスが提供される。例としてハウステンボスの「センサーつきゴミ箱」が取りあげられた。ゴミ箱の内部がセンシングされ、ゴミを回収する時期が容易にわかるシステムだ。これにAIが加われば、ゴミ箱の配置や容量の最適化が可能になる。
IoTの持つ課題として、通信とセキュリティの問題がある。つねに通信環境が求められるIoTでは、海上や地下といった電波状態が不安定な場所での利用は不利になる。さらに、クラッキングが行われればデータの漏えいや改ざんにより、誤動作や大惨事の原因となる。
IoTの登場によりAIのビジネス利用がより現実的になってきたが、費用対効果が見えづらい、システムの開発工数に対して支払いが発生するのか、システムが課題解決した価値に対して支払いが発生するのかという判断も難しい。こうした課題も山積である。投資マインドが希薄な日本人は、課題解決よりも開発工数に対して支払うという傾向が強く、これもまた日本のAIビジネスの発展の足を引っ張っている。
会場には新刊『徹底図解 IoTビジネスがよくわかる本』を執筆された富士通総研の執筆陣の一人にご参加いただき、ディスカッションに彩りを与えてくれた。
 

●「AIの象遣い」になろう
大石氏はAIに関する最近の話題を2つ語ってくれた。
一つは、「AIが発展するとそれが汎用的になるという意見もあるが、むしろ“パーソナライズ”されてくるだろう」という話。AIが家族に使われていれば、その家族に特化した言葉や文脈を共有し、その家族ならではのAIとして学習されるはずという意見だ。
もう一つは、GoogleのAlphaGO(アルファ碁)や電脳戦のニュースなどから「人間対AI」という敵対的な図式が人々のイメージの中に刷り込まれているが、「象を上手に使って重いものを運ぶ人たちがいるが、現代人にとってAIはこの人たちの象に相当する。現代人はAIの象遣いになるべき」という同氏の発言には会場一同ハラ落ちした。
 

●AIが人間のイノベーションを加速させる
AIに関する事例や現実的な話を受け、「AIビジネスの加速のために必要なこと」をテーマに2度目のディスカッションと発表が行われた。

最初に発表したのは、SEと弁理士が属する変わり種チーム。「AIが人間のイノベーションを促進する」とし、イノベーションとは人間が起こすものであり、そのためには異分野の人たちのコラボレーションが重要である。こうした人たちのつながりをAIがコーディネイトすることでAIビジネスが加速するという。なんとも奇抜なアイデアだった。
AIはソリューションとして未成熟なので、まずは事例を増やしていくことが重要、という意見もあった。そもそも発展途上の技術だから、汎用化やビジネス化という基盤作りが先という、いたって本質的なことが語られた。
また、「AIに仕事が取られるという悲観論自体がAIビジネスの加速にブレーキをかけている」という意見も興味深かった。むしろ「AIが人間にもたらす豊かな人生」を提示できるようになればよいはずで、人間はやりたいことをやり、嫌なことはAIが肩代わりしてくれる。そういったイメージ作りが大切である。私はふと、ルトガー・ブレグマンの著作『隷属なき道 ~AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働~』を思い出した。
最後の発表では、「AIから人間はまだまだ恩恵を受けていない。現実で恩恵を受けてイメージをプラスに転じることが大切」という、上と近い意見だった。高齢化福祉社会にとって人間の思考活動を代替するAIは利便性が高く、その意味で人口減少が続く日本に親和性が高いと言える。AIにそうした親和性のある半面、「日本の投資文化の不足」が足を引っ張るだろう、という危惧も指摘された。

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●AIで国力を高め、セキュリティやプライバシーの問題を克服すること

最後は全体のQ&Aでセミナーが締めくくられた。
日本のAIの技術レベルに対する質問は、一言「低い」との回答。欧米に圧倒的に劣っており、日本はAIエンジンを作る側でなく、使う側である。中国やインドは学術的にAIを追求しており、彼らはディープラーニングの「次」を探しているという。その意味でインドや中国は手強い技術競合国とも言える。
AIにホワイトハックをさせて、システムのセキュリティの脆弱性を判定させるというアイデアはどうかという質問では、政府は国策としてセキュリティ人材を増やしたく、その意味で人材確保の困難なこんにちにそのアイデアは有効だろう、という回答だった。
また、人間の挙動をもとに万引き犯の予測など不審者を判定するAIや、テキストの解読による性格判断のAIは、いろいろな危険性が孕むのではないかという質問もあった。「犯人捜し」において誤判定が発生したり、テキストの解読による性格判断は、文字データだけでなく入力した人の国家や人種、宗教といった属性により読まれる文脈がまったく異なってくる。
「犯人捜し」と聞いて私は、ハリウッド映画『マイノリティリポート』を思い出し、「属性により読まれる文脈がまったく異なってくる」では、中年男がAIと恋愛をしてしまう映画『her 世界でひとつの彼女』を思い出した。
 

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以上2時間、大変な熱気の中でセミナーは無事閉会となった。
こんなにも発言し、意見と意見が科学反応を起こす場はなかなか見られず、これだけ豊かな場を形成していただいた参加者の皆様には頭の下がる思いだった。

「対話」とはソクラテス以来、哲学の種であり科学の種、創発の種であった。
このような活動を通して日本人が対話でエネルギーを高め、日本人が本来持つマインドと技術の力が盛り上がってくることを、私は、心から願っている。

三津田治夫

満員御礼にて、セミナー、無事終了しました

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8月26日(土)、満員御礼にて「AI(人工知能)ビジネスの可能性を考える」~第1回 本とITを研究する会セミナー~ https://goo.gl/74tiZf が無事終了しました。
この場を借りて深く感謝、お礼を申し上げます。
皆様とお目にかかれ、本当に嬉しかったです。
また、ディスカッションが予想以上に熱いものになり、よかったです。
皆様の発言で会場に豊かな場を作っていただき、心から感謝します。

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哲学的な対話がなされる場に直面し、こんなに考えている人が沢山いる、日本もまだまだ捨てたものではない、という気持ちにとらわれました。
AIというテーマ自体も、対話をしやすいものだったと認識しています。
第2回以降も計画中です。

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またお目にかかれることを楽しみにしています。
今後ともなにとぞ、よろしくお願いいたします。

三津田治夫

自由と奴隷制の原理から覚醒するプロセスを考える:『自由への大いなる歩み』(マーチン・ルサー・キング著、岩波新書)

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キング牧師というと非暴力でアメリカ公民権運動を貫いた偉人である。
最近では、トランプ大統領の白人至上主義者的発言が指摘されたり、彼の父親が実はKKK(白人至上主義結社)のメンバーだったと暴露されるなど、米国内では改めて差別の問題が問われている。

日本国内では格差社会が常態化し、格差という枠組みの中で自由が奪われた生活が強いられた人たちは数多くいる。自由とは身体と心という、人間の本質を支える大切な要素であり、その人のクリエイティビティを支配し、その人の人生を定義づける。

そんな視点で、今回は、キング牧師の『自由への大いなる歩み』を読んでみたい。

なんか不自然だけど日常だから変えたくはないし、現状を我慢していればひとまず生活は成り立つから黙っていよう。
アメリカの人種差別は、黒人のこうした心理状況下で機能していたと、著者のキング牧師は言う。
雇い主やリーダーは白人だから、差別の原理に従って生きていけば、日常はひとまず過ごせる。
いわゆる、「奴隷は奴隷の解放を望まない」、である。
なぜなら奴隷は奴隷でなくなると、奴隷という生きるアイディンティティを失ってしまうのだから。

ガンジーの無抵抗主義の勝利という時代背景に出てきたアメリカ公民権運動でのムーブメントが、バスのボイコット運動だ。
当時の路線バスは、黒人が乗る場所と白人が乗る場所が分けられていた。
出入り口も分けられており、それを守らない黒人は乗車拒否された。
怒った黒人たちは、「バスに乗るぐらいなら歩く」という抵抗に出た。
さらに黒人たちは、大量にマイカーを持ち寄り、ボランティアの運転手を募り、それを定期的に運行し、自前の交通手段を作ってしまった(いまでいうカーシェアリングに近い)。
それを見た白人の運輸関係者は激怒し、さまざまな法規制を設けて黒人の運動を潰そうとする。

それでも運動は拡大する一方で、少しずつ、白人もその運動に加わるようになってきた。
運動は紛争に拡大し、キュー・クラックス・クラン(KKK)など白人の過激派たちは黒人を襲い、キング牧師らの自宅には爆弾が仕掛けられた。

自身や家族の生命の恐怖にさらされながら、黒人たちは徹底して非暴力主義を貫き通した。
非暴力主義と無抵抗は同一ではない。
非暴力主義とは、「暴力を使わない抵抗」であるとキング牧師は言う。
非暴力主義を通して、暴力を使う人間に、暴力とは生産性のない愚かな行為であることを自覚させる、という戦法である。
キング牧師も結局は暗殺されてしまうのだが、彼はこうした運動や、「I have a dream」というすばらしい言葉を後世に残した。

彼の年譜を見ていた。
享年39歳ということを初めて知って、驚いた。
こんなに短い人生だったのかと。
『自由への大いなる歩み』では、ヘーゲルマルクスなど、哲学や社会学に関する見解がところどころで語られている。
彼は神学と哲学を身につけたインテリである。
文体も非常に明晰で、当時の世相や自分が考えたこと、行動したことなど、非常によく書かれている。
最終章の非暴力理論は、理論と信念が切実な長文で語られ、心が打たれる。

常識や社会性への抵抗は非常識で、そして、反社会的な行動である。
非常識で反社会的な運動が、あるときから、社会性を帯びる。
そんなあるときとは、差別を受ける人間たちの自我が目覚めた瞬間である。
自我が目覚め、覚醒し、社会が変わる。
そんな歴史的瞬間を感じることができた、貴重な一冊だった。

上記が、『自由への大いなる歩み』の大枠である。

自由であるとはどういうことか、人が社会に働きかけるとはどういうことか、人がものを創り上げるとはどういうことか、こういったことに興味のある人たちには、ぜひ読んでいただきたい。そして、個人の感性で、感じてもらいたい。さらに、その感性を行動に移してもらいたい。人類が、自由と奴隷制の原理を直視しし、それを修正していく社会的プロセスが克明に描かれた、素晴らしい本だった。

三津田治夫

第3次人工知能ブームは、私たち人類に「問い」を投げかけてくれた

第3次人工知能ブームの与えた貢献は、人類の未来の可能性や利便性を高めるといった期待以前に、私たち人類に「問い」を投げかけたという点にある。

つまり、「知性ってなに? 人間ってなに? 身体ってなに?」と、AIは、人が自問自答し、人が哲学的になるきっかけを与えてくれた。「考える前に動け」の論法がまかり通っていたバブルの時代から考えると、こんな哲学的な時代が来るとは、夢にも思っていなかった。

これは、いい時代だと判断している。
哲学的な時代とはつまり、対話的な時代でもあるので。

最後に、偉大な科学者の言葉から引用する。

「重要なのは、問い続けることだ。好奇心はそれ自体に意味がある。」-アルベルト・アインシュタイン

三津田治夫

日本ロボティクス黎明期の記録② ~フロントエンド・プログラミングの新しい形~

「UXデザインワークショップ」として、2016年7月、都内でPepperプログラミングのワークショップが開催された。

「ロボット演劇」を編み出した平田オリザさんの演劇・演出の手法が、いかにPepperプログラミングに有効かが、さまざまなワークと共に伝えられた。

Pepperはこうやって人間に近づく
http://www.sbbit.jp/article/cont1/32456

かつて、フロントエンド・プログラミングといえばWebプログラミングを指していたが、しばらくしてそこにスマートフォンタブレットが加わり、いまやドローンやロボットまでもが、「フロントエンド・プログラミング」の対象とされている。フロントエンド・プログラミングの定義は、これからも日々変化していくだろう。

日本におけるロボティクス黎明期の貴重な記録として、ここに共有します。

三津田治夫