本とITを研究する

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読書会の記録:つかみどころのない不安がうず巻く革命前ロシアの群像劇:『かもめ』(チェーホフ著)

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某月某日、第24回を数えることになった飯田橋読書会。今回は初挑戦、ロシア文学を取り上げることになった。

チェーホフの戯曲には「中心がない」
日本人に愛読者が多いロシア文学ではあるが、しばしば「人名」が敬遠される。たとえばイワンやワーニャ、イワン・イワーノヴィッチなど、これらは同一人物を指す。愛称であったり父親の名前を敬称として付加したりなど、相手との関係性や状況に応じて呼び方が刻々と変化する。その他、通貨はもとより重量や長さの単位など度量衡が日本や欧米とまったく異なり、その点も日本人には読むことの障壁となる。

そんなハンディを覚悟で、チェーホフの名戯曲『かもめ』を読んでみた。
会場ではのっけから「戯曲は苦手」という意見が出現。理由は「いろいろな場面にいろいろな人物が出入りするので感情移入がしづらい」という。なるほど一理ある。

それにチェーホフの戯曲は、シェイクスピアのような高い抽象度や大テーマ、まとまりがない。「中心がない作品」という意見は会場からいくつか出てきて、これにもなるほどと納得した。シェイクスピアの戯曲には明確な中心があるが、チェーホフにはそれがない。言い換えると、読者は任意でどんな登場人物に感情移入してもよいし、どんな読み方をしてもよい。自由度が高いゆえに解釈が難しいのがチェーホフの戯曲だ。

興味深いところでは「80年代に流行ったテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』みたいだ」という意見。たしかにチェーホフの戯曲のさまざまな人物が入り乱れ中心がないつくりは、いまのテレビドラマにも通じるものがある。

さまざまな属性の男女が描き出す群像劇
『かもめ』は、女優のアルカージナとその息子で劇作家を目指すトレープレフ、アルカージナの愛人で人気劇作家のトリゴーリンと、トレープレフの恋人で女優の卵のニーナを中心に物語が進む。

思い通りに物事がいかなかったり、嘆いたり、悔んだりと、夢のかなわない老若男女が入り乱れ、自分のことばかりを好き勝手しゃべっている、いわば群像劇である。その間、トレープレフは自殺未遂を図ったり、ニーナがたくましく成長の意志を見せたりなど、ドラマっぽい変化は起こる。しかし劇の経過でとくに大きな事件は起こらず、話は淡々と進んでいく。

私は学生時代からチェーホフを愛読し続けてきた。舞台も何度か観た。いちばんの思い出に、大学生時代、当時京橋にセゾン劇場という西武グループが運営する大劇場があり、そこに学生向けの安価なチケットを買い、ロシアの劇団が演じる『かもめ』を観に行ったことがある。翻訳のレシーバー代も惜しみ、新潮文庫の『かもめ』の台詞を丸暗記して芝居に臨んだ。チェーホフの作品は私にとって、なぜか知らないが、読むたびに、観るたびに、心がえぐられる、いわば悪魔的な存在だ。その心理的影響の理由がよくわからないところが、この作家のつくりあげる作品の悪魔的たるゆえんである。

“毒母”を描いた悲劇としての『かもめ』
今回も、読書会の議論半ばで結論めいた意見が出てきた。また、これはまさに、私が思い描いていた『かもめ』像である。つまり『かもめ』は、「アルカージナという“毒母”を描いた悲劇」である。確かに「中心のない」劇ではあるが、私にはこの解釈が「中心」として最も腹落ちする。

その毒母ぶりを表す象徴的な台詞がある。アルカージナは愛人のトリゴーリンの作品をほめそやす一方、「あの子は、これはほんの茶番劇でと、自分で前触れしていましたよ。だからこっちも、茶番のつもりでいたんだけれど」と、息子のトレープレフの作品を徹底的にこき下ろす。

作品全体として、これは「愛がない」劇であるが、母子関係においてはそれがはなはだしい。アルカージナは欲深く金銭にも細かく、自分のこと以外に関心がない。彼女の態度に関し、いったいなにを目的にここまで息子を足蹴にするのかという疑問すら抱く。

そんな母子関係の中、才能を見切ったトレープレフは幕のラストで自殺する。自殺の描写は一切なく、舞台の裏からかすかに銃声が聞こえるだけ。学生時代に初めて観たとき、この演出には背筋がぞっとした。

チェーホフの戯曲にはしばしば老いに対する嘆きの言葉が出てくる。『ワーニャ伯父さん』の「僕はもう四十七だ。仮に、六十まで生きるとすると、まだあと十三年ある。長いなあ!」の台詞は有名だが、この『かもめ』においても類似の嘆きがしばしば発話される。

アルカージナの兄ソーリンが言う「司法局に二八年も勤めはしたが、まだ生活をしたことがない、何一つ味わったことがない、早い話がね。」や、ソーリンに対してドールンの「六二にもなって人生に文句をつけるなんて、失礼ながら、--褒めた話じゃないですよ。」、トレープレフの「自分の若さが急につみとられて、僕はこの世にもう九十年も生きてきたような気がします。」など、加齢や老いに対する救いのない台詞が多数登場する。

「つかみどころのない不安」をドラマ化した大作家チェーホフ
『かもめ』は決して明るい劇ではないが、皮肉なユーモアがあり、そしてロシア革命前の「のどかさ」がある。人々は村を捨てて街へと出ていく。なにかが変わろうとしている。しかしうまくいかない。それでも、「うまくいくのではないか」という小さな希望がある。人間がなにか路頭に迷っている感じもする。そんな、変革の時代の中のつかみどころのない不安を、チェーホフの戯曲は見事に描き切っている。

「つかみどころのない不安」は、いまの日本人にも重なる部分が多いと感じる。チェーホフの没後、ロシアは革命を起こし、内戦や粛清で大変な数の人間が命を落とした。「なにかが変わろうとしている」がこんな残酷な形に変わろうとは、チェーホフはすでに予想していたのかもしれない。ゆえに作家はこのような悪魔的な作品を残し続けてきたのだろう。変化に対するつかみどころのない不安は、いまも100年前も、あまり変わりがないのではないか。

三津田治夫