本とITを研究する

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第41回・飯田橋読書会の記録:『舞姫・阿部一族』(森鴎外著)

森鴎外と聞くと、あまりにも古い作家だったり、国語の教科書を思い出したりなどと、なんだか遠い、お勉強の世界にある作家だというイメージを持つ人が少なくないかもしれない。

今回取り上げる『舞姫阿部一族』は、明治(とはいえ生まれは幕末)の文豪、森鴎外(1862~1922年)の手による代表作だ。

鴎外としばしば対比される作家に、『吾輩は猫である』や『三四郎』『彼岸過迄』といった、現代のエンタテイメント文学のベースを確立した同時代の文豪、夏目漱石(1867~1916年)がいる。

この時代にドイツに留学した鴎外と比して、英国に留学した漱石、ドイツ語文学の鴎外、イギリス文学の漱石、という対比もしばしばなされる。

もとより、鴎外は和漢西洋の博覧強記である。
彼は恐ろしく広範な知識と言語運用能力を有した作家で、今回取り上げた代表作『舞姫』(1890年、明治23年発表)はドイツを舞台にした物語で、『阿部一族』(1913年、大正2年発表)は日本の武士を題材にした歴史文学だ。

その他漢詩からシュニッツラーやアンデルセンなどドイツ語からの文学の翻訳まで、膨大な作品をこの世に残している。

ちなみに、本読書会のメンバーで「鴎外の全集をすべて読んだ」というつわものがいたのには、正直仰天した。

男の弱さとエリートの葛藤を描いた『舞姫
舞姫』を要約する。
これは、鴎外の留学時代のドイツを舞台にした物語。
鴎外は主人公太田豊太郎の姿を借りて登場している。
彼は現地ダンサーのエリスとお近づきになり、妊娠させっぱなしで帰国してしまうという、いまの視点でも倫理的にまずい内容である。
しかし当時としては、まずもってドイツに行くということ自体がほぼ無理で、しかも現地の白人女性と関係をもって妊娠させてしまうというのだから、それは非常にセンセーショナルな内容だった。

ちなみに彼の作品で『ヰタ・セクスアリス』(ウィタ・セクスアリス、1909年、明治42年)があるが、これは、自らの性生活の告白を作品にしたスキャンダラスな物語。
個人の性を詳細に内省し、告白するという文学は、日本にはかつてないスタイルだった。これもまた非常にセンセーショナルで、発刊後1か月で発禁処分を受けることになる。

明治といえばどんな時代だったのかというと、明治天皇という非常に怖い神様(本当は人間なのだが)が国家に君臨していた時代だった。
その国家は、攻め入る西欧列強(英米仏露)にうち勝つための、明治天皇率いる強い軍隊の国家、男の、男による、男のための国家だった。

そんなところに来て、白人女性との性的な一時の過ちや、男性みずからの性の告白など、男の「弱さ」を丸出しにした作品を世に送り出した意味で、この時代の鴎外は特異な位置を占めていた。

男の切腹を描いた不条理劇『阿部一族
もう一つの課題作品『阿部一族』は、武士の殉死切腹の物語。
死期を迎えた主君のために部下一同が殉死を行うが、阿部弥一右衛門だけはなぜか主君から「お前は殉死禁止」と、それが許されない。
彼は、「お前だけ生き残りやがって、命が惜しいのか」と、周囲から非難を受ける中、切腹する。

すると今度は「あいつは主君の命令にそむいた」と、阿部家は藩からつまはじきにされる。
それに反旗を翻した阿部家に、藩はさらに憤慨。
阿部家は潘の力で全滅させられるという、まことに不条理な物語。

鴎外の作品の特徴は、切腹、武士物語など、舞台や題材を日本としながらも、至極西洋的である。
おそらくこの『阿部一族』は、ドイツ文学に造詣の深い彼において、題材を作家ハインリヒ・フォン・クライスト(1777~1811年)から取っていると想像する。
彼の作風はまさに理不尽、不条理。
のちの作家、フランツ・カフカにも大きな影響を与えている。
たとえば、クライストの代表作『ミヒャエル・コールハース』(参考:善良な農民が大犯罪者に転落する数奇な人生:『ミヒャエル・コールハースの運命』)は、のどかに仕事を営む善良な馬ディーラー(馬喰)が、愛馬が侮辱されたことをきっかけに復讐の鬼に変貌する。暴徒を率いてドイツ中を焼き尽くし、最後にとらわれその罪で処刑される、という物語。
どこにも取り付く島がなく、どこにも教訓がない。
クライストの典型的な悲劇である。

ちなみに『阿部一族』の翌年に発表された『堺事件』(1914年、大正3年発表)は、フランス人への無礼を詫びるために、彼らの前で延々と切腹を見せ、「もうご勘弁!」とフランス人に言わしめる物語。
同年には1837年(天保8年)に起こった「大塩平八郎の乱」を題材にした『大塩平八郎』も発表している。

舞姫』の豊太郎はダメ男の典型
さて、会場での参加者たちの声はどのようなものだったのだろうか。
今回は、初参加の最若手女子YKさんが加わり、幹事のKNとKM、HN、SM、KH、KS、HH、SK、KA、(全敬称略)と私を含め、総勢11名という、おそらく過去最高人数の参加者の会となった。

会のメンバー数が増えると同時に各人の発言時間が物理的に短縮され、浅くなりがちだ。また、今回のような評価の定まった古典を取り上げると議論が平坦になりがちである。
さて、今回は、どのような流れだったのだろうか。

まず、『舞姫』に関し、

「太田豊太郎は、頭はイイのに決断できないやつ」
「彼はきっと教育虐待を受けて育ってきたのだろう」

という、主人公に関する分析的な意見からあがった。
頭がイイのに未成熟な男の本性から、この、教育虐待という言葉が出てきたのだろう。
実際豊太郎の原型である鴎外はどんな教育を親から受けていたのか。
興味に尽きない。

田豊太郎が持つ頭脳と精神の乖離といった、現代人にも通じる「知識と肩書だけの腹の座っていないエリート」を描いた作品モチーフからも、

「いまどきっぽい!」
「予見的作品」
「読んでみれば面白い」

という、ポジティブな意見が多く聞こえてきた。
田豊太郎への批判はまだ続く。

「逆境の中で決断できなかった弱いエリート」
「彼は流されている人」
「弱さゆえ決められないのは仕方ない」

といった、欲望に負けた彼の弱さ加減への指摘や、同情的な言葉も耳にすることができた。

「文体が多様で上手、モダン。いまでも十分に読める」

といった、発表後130年を経ていまだ古さを感じさせない鴎外の文体そのものへの評価があがった。
また純粋に

漱石との対比で読んだ」

と、同時代の双璧をなす文豪との読み比べとして読んでみた、という意見もあがった。


「殉死」という、意思決定を外部依存するシステム

次、『阿部一族』に関し。
大塩平八郎』と併読したという人の声から、

切腹シーンがやたら多いな」

という意見があり、前述の『堺事件』と併せて、まさに切腹文学だ。

「『阿部一族』で延々と描かれている殉死とは一体何なのか。これがそもそも理解できない」

という意見には同感である。

殉死とは自分の意思の中に決定権があるものではない。
決定権は、自分の意思の外側にある。
つまり、殉死とはシステム(仕組みや決め事)である。

一族皆殺しに遭うという『阿部一族』に対し

「バカだねぇ」

という身も蓋もない言葉から、

「顔が気に入らないから殉死を許さないなんて「いこじ」以外の何物でもない」

という、鴎外の好んだ、不条理にも似た理不尽の一形態「いこじ」を指摘した点は大変興味深い。

「いこじ」といえば、『阿部一族』発表の9年後に執筆されたフランツ・カフカの『城』を思い出す。

主人公の測量士Kは決して城にたどり着くけないし(作家が「いこじ」でそうしている?)、門番は測量士Kを決して門から中に通そうとはしない(門番のいこじ?)。

これは上記の「殉死とはシステム」に似ている。
測量士Kも門番も、みずから意思決定権を持たない。
測量士Kは作家の「いこじ」に踊らされているだけだ。
門番もあるのだかないのだかわからない掟のもとで門を開けない。
実はそれも門番が作家の「いこじ」に踊らされているだけなのかもしれない。

「いこじ」というキーワードで、鴎外とカフカがつながったのは大変興味深い。

舞姫』は本当に男尊女卑文学なのだろうか?
最後にまとめとして、次のような意見があがった。

「鴎外は医師だが武士である。」

これは、なるほどである。
彼は江戸の心を持った明治の西洋医学者である。
切腹という日本人ならではの精神と身体の行為を、西洋医学者の目で冷静に、かつ「これって外国人が見たら不思議じゃね?」といった視点から、日本人の特異さを明治人の視点から浮き彫りにした。

「鴎外の叙情性と自己抑制」

とは、『雁』(参考:隙のない二枚目男と、囲われ者の悲劇の美学(前編) ~『雁』(森鴎外 著)~)で見られるような、彼の叙情的な文体や人間観、西欧人の自由思想を知っていながらも、江戸人の「ぐっとこらえる」「いこじ」といった「自己抑制」が彼の本質をなしているという、鴎外を見事に言い表した一言である。

ラストに、最も印象的だった発言をあげる。
最若手女子のYKさんから、

「『舞姫』に同情的」
「太田豊太郎にも同情する」

という意見があがり、一瞬会場がどよめいた。
本会一番の論客であるSKさんから

「こんなダメ男のどこに同情するのか?」

という、昭和男子からの鋭い言葉にも彼女はめげなかった。

「彼には私の本質に似た優柔不断さがある」

と、一言。
論客の言葉をさらりとかわした。
こうした元祖男尊女卑文学に対し、さらりととらえ、さらりとかわす彼女の知性に、21世紀に進化した女子像の一端を垣間見ることができた。
昭和男子のパラダイムは、すでに終わっている証左でもある。

ちなみに、『舞姫』のエリスさんの本物は、講演旅行のためにダンサーとして一度来日している。
また、小説のエリスさんだが、山田風太郎著の名作『明治波涛歌』において、彼女は来日して探偵として活躍、という役回りで登場している。

いつの時代でも、女子は虐げられているように見えていて実は最強だったり、強くしたたかだったり、本当に弱いのは(太田豊太郎のような欲望に負けたうえ責任まで取れない)男、ということが、エリスさんの存り方やYKさんの発言からよく理解できた。

つまり『舞姫』は、男尊女卑文学を装った「男はダメダメ」を表現した、「女尊男卑文学」なのであった。

  *  *  *

さて、次回もまたまったく趣を変え、「歴史」に焦点を当ててみることにする。

会場からは選書題材としてヘロドトスの『歴史』やカエサルの『ガリア戦記』はどうかという声が真っ先にあがってきた。
が、デカルトの『方法序説』やジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』といった、評価の定まった本や歴史の本を過去に取り扱って読書会が盛り下がった経験を踏まえ、幹事の一声で今回は見送りとなった。

とはいえ幹事のやさしい忖度から、以下、比較的新しい(が、初版刊行1992年)歴史の書籍が取り上げられることになった。

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 』(岡田英弘著、ちくま文庫

オビに

「歴史は、モンゴル帝国から始まった!」

とだけ記されたこの作品。
カエサルともヘロドトスとも異なった、どのような歴史を描いてくれているのだろうか。

興味に尽きない。

次回も、お楽しみに!

三津田治夫