本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

第37回・飯田橋読書会の記録:『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著) ~革命、ジェンダー、自由を描いた女子群像劇~

第37回を迎え、もはや歴史的な会となった飯田橋読書会。
今回は新規のHHさんとTTさんが加わり、レギュラーメンバーのKMさん、MMさん、HNさん、AAさん、SMさん、KNさん、SKさん、KHさん、私を含め、
総勢11名の過去最高の大人数となった。
こういうときにZOOMというバーチャル空間は威力を発揮する。
今回はマンボウ対策でオンラインにて開催した。

本作は、イラン革命(1978~1979年)を背景に描かれた、イランの文学教授、アーザル・ナフィーシー女史による回想録である。
教室に出入りする生徒たちとの、文学をテーマにした自由闊達な議論による群像劇である。
また、革命後の男尊女卑国家イランで展開された、女子目線のジェンダー論でもある。

今回は読書会に2名の女子が参加されたが、女子の共感度が高く、男子にはわかりづらいメンタリティもくすぐる作品であったことが彼女らの発言からもよく伝わってきた。

書名に『テヘランでロリータを読む』とあるが、作中では『ロリータ』のウラジミール・ナボコフのみならず、スコット・フィッツジェラルドヘンリー・ジェイムズジェイン・オースティンなど、さまざまな西洋文学の作家が取り上げられる。

テヘランでロリータを読む』とは、いわばタイトル勝ちである。
イランで『ロリータ』は禁書とされている。おじさんが少女の人生を性の力で奪い取ってしまうといういわば「悪書」だ。つまり、「テヘラン」という言葉と「ロリータ」という言葉ほどアンマッチはない。カバーもヒジャブをかぶった女性の肖像である。

女性視点で共感度の高い作品
2人の新しい参加者を交え、今回も様々な方向から意見が飛び交った。
まずは、本全体に関する感想。

「裁判方式で『ギャツビー』をやったのは面白いと思った」
「イランで勇気ある選書だ」
「感情的な面で共感するところが多い」
「革命により欧米の現代文学が否定された大変化の物語」

という意見から、

「面白くなかった」
「第3部までめちゃくちゃ苦労して読みました。辛かった」

という意見がある一方で、

「非常に面白かった」
「生身のイラン。イランの現実。現実だから面白い」
「第1部は「女子会」を覗いているような感覚だ」
「女性視点で読んで共感しかない」
「『若草物語』のように読めた。7人の女性群像劇だ」

というポジティブな意見も多く、読み方や立場によってまったく読まれ方が変わる、本作を象徴した発言だ。

「作者は特権的な立場の超エリート」
「この人のポジションでないと書けない本だ」

と、作者の特殊な立場に対する意見もいくつか聞かれた。
また、作者の立ち位置として、

「もしかしたら作者は自分自身のことを真剣にとらえていないのではないか」
「作者は精神的に成熟していないのでは?」
「本来的な対話がない」
「作家はナショナル的に複雑な人だ」

と、過酷な社会状況を冷静にとらえる、彼女の社会的地位やその頭脳がなす客観性には、一種の冷たさや他人事感もなきにしも非ずだという意見もあった。

「現実と文学作品の交差が面白い」
「本が触媒であるという、読書会の本質を見た」

という発言では、イラン革命と文芸批評、読書会という社会変動と文学作品、人間の動きがうまく織り込まれており、大変興味深い作品であることが聞こえてくる。

抑圧(とくに女性が)された社会背景からも、

「ソルジェニーツインの収容所もの作品に近いかもしれない」
「強い意志があったからこそ継続できた活動」

という意見も聞かれ、またその社会背景から、

「現実の変化と文学の可能性」

を読み取ったという声もあった。


イラン革命と分断された自由を獲得する物語
本作から、冒頭にささげられた詩を引用する。

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この世で起きたことをだれに話そう
だれのためにぼくらは至るところに巨大な鏡を置くのだろう
鏡のなかがいっぱいになり、その状態が
つづくのを期待して
チェスワフ・ミウォシュ「アンナレーナ」
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チェスワフ・ミウォシュはポーランドの国民的ノーベル文学賞詩人で、グダンスクの「連帯」反政府活動犠牲者記念碑には彼の詩が刻まれている。

なぜミウォシュの詩なのか?
はじめはよくわからなかった。

が、「読書会は「ネタ」でしかない。自己を獲得する物語だ」という会場の発言に響くところがあった。

自己の獲得とは自分が一人間としての自分になること。
つまり、自由の獲得である。

イラン革命を通して、かつての自由が一気に分断された。
本作は読書会という舞台をしつらえた、自由を獲得する人間たちの物語なのである。

自由の分断は、まずはメディアや作品表現から始まる。

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いま思えば、タルコフスキーの名の綴りも知らない人間が大部分を占める観客が、しかも通常の状況なら彼の作品を無視するか嫌悪さえ抱くはずの人々が、あのときタルコフスキーの映画にあれほど酔いしれたのは、私たちが感覚的歓びを徹底的に奪われていたせいだろう。私たちは何らかの美を渇望していた。不可解で、過度に知的で、抽象的な映画、字幕もなく、検閲でずたずたにされた映画の中の美でもかまわなかった。数年ぶりに恐怖も怒りもなく公の場にいるということ、大勢の他人とともに、デモ集会でも配給の列でも公開処刑の場でもない場所にいるということに、感動と驚きをおぼえた。
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「デモ集会でも配給の列でも公開処刑の場でもない場所にいるということに、感動と驚きをおぼえた。」というくだりは、自由を共有する人々のとまどいと好奇心の情景が目の前に見えてくる描写だ。

次は、革命前後を女性として体験した作者の分断された自由を描いた引用である。

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イラン革命が二十世紀の他の全体主義的革命と異なるのは、それが過去の名においてやってきたという点にある。それがこの革命の強みであり、弱点でもあった。私の祖母、母、私、娘の四世代の女たちは、現在に生きるとともに過去にも生きていた。二つの異なる時間帯を同時に経験していた。戦争と革命のせいで、私たちが個人的な試練をーーとりわけ結婚の問題をいっそう強く意識するようになったのは興味深いことだと思った。
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作者は次のように結論づけている。

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真のデモクラシーは、想像の自由なしには、また想像力から生まれた作品をいっさいの制限なしに利用できる権利なしにはありえないと思うようになった。人生をまるごと生きるためには、私的な世界や夢、考え、欲望を公然と表明できる可能性、公の世界と私的な世界の対話が絶えず自由にできる可能性がなくてはならない。そうでなければどうやって、自分が生きて、感じ、何かを求め、憎み、恐れてきたことがわかるだろう。
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作者はイメージと表現、対話の自由、「公の世界と私的な世界の対話が絶えず自由にできる可能性」という、自由の本質を訴えている。
そして作者は本作を通して「巨大な鏡」を一つ置いたのである。

本を通して構築する人間関係、読書の本質はなにかを、本作を通して再認識した。

本は人と人とをつなぐと同時に、人を人間としての個人に戻す。
本を読むことは自由への第一歩である。

自由は自分の意思で獲得するものであり、過酷な抑圧が人間になにを生み出すのかを、改めて確認した。

日本人としても、考えさせられることの多い作品だった。

 * * *

次回の課題図書に関して。
ウクライナ問題に絡めていつかは、

巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ

を取り上げたいとしながら、その前に日本を見つめるという意味で、

応仁の乱』(呉座勇一)や、

天狗党事件を取材した

『魔群の通過』(山田風太郎

もいいでしょうという発言も出た。
一転して、

『哲学の貧困』(プルードン
『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(マルクス
『ニコマコス倫理学』(アリストテレス

もどうだろうかと、意見は拡散した。

結論は、時代性を鑑み、

『新しい国境 新しい地政学』(クラウス・ドッズ)

が課題図書として決定した。
副読本は以下の通り。

『新しい世界の資源地図』(ダニエル・ヤーギン)
『陸と海と』(カール・シュミット

それでは、オフライン開催予定の次回第38回目も、お楽しみに。

三津田治夫