本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

4月7日(土)、印刷と出版の歴史を学ぶ「本とITを研究する会 大人の遠足編」をトッパン印刷博物館にて開催(前編)

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4月7日(土)、本とITを研究する会初のフィールドワークとして、江戸川橋トッパン印刷博物館で観覧勉強会を開催した。今回は「大人の遠足」ということで、おやつとドリンクを片手に、学芸員の解説に耳を傾け、活版印刷ワークショップに参加した。18時の閉館までの自由行動の後、一時解散。飯田橋で懇親会を実施した。

エントランスでは、ラスコー洞窟の壁画からグーテンベルクの四十二行聖書、液晶モニターICカードまで、文明以前から現在までのメディアと印刷の壮大な歴史を40分ほどで一覧した。

日本にある世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼」
印刷とは複製の技術である。この定義に従えば、「ハンコ」は印刷の元祖である。そこで紹介されたのは、古代メソポタミア文明で使用された「円筒印章」(シリンダー・シール)である。
円筒形の印を粘土の上に転がすと紋様が粘土に転写される。印刷で使われる「版」とまったく同じ機能を果たす。

紀元前17~10世紀に栄えた中国殷(いん)王朝の「甲骨文字」は、亀の胸の甲羅に刻まれた文字で、宗教的儀礼に用いられたものだ。さらに時代は1000年以上飛んで、紀元前196年、古代エジプトロゼッタ・ストーンのレプリカも展示。石版上には、上からヒエログリフ、デモティック、ギリシア文字という、三つの言語で同じ内容が表記されている。ロゼッタ・ストーンに関しては長い物語があり、また現代語訳文も発表されている。興味がある方はこちらで読むことができる。

印刷は宗教とテクノロジー、資本主義社会という3つの柱で発展してきた技術である。世界最古の印刷物が日本にあったというのは意外な事実。館内ではその「百万塔陀羅尼」のレプリカが展示されていた。女帝称徳天皇(8世紀)が国家の安寧と兵士の鎮魂のために、仏典から陀羅尼を100万つくらせ、それを10万ずつおのおの10のお寺に納めたという。どんなリソースで100万の印刷物を作成し、流通させたのか、非常に興味がつのる(いまの商業出版の言葉に置換すれば「10万部ずつ10店舗に納品」という感じ)。

多色刷りの技術に優れた江戸木版。そして、グーテンベルク
最古の金属活字が開発されたのも実は東アジアだった。14世紀に朝鮮半島で銅による活字製作が盛んに行われ、それを徳川家康が日本に取り入れ出版文化が開花する。しかしこれは50年ほどで衰退。とはいえ江戸時代徳川家の出版文化への貢献は大きく、のちの井原西鶴近松門左衛門十返舎一九本居宣長といった、文筆家や学者、クリエイターを多数輩出し、出版物も多数流通させた。

そうした日本の出版大衆文化の拡大と、出版技術の向上に貢献したのが、日本の木版の技術である。浮世絵に代表される「多色刷り」の技法は、現在のカラー印刷の原型である。当時は8色の重ね刷りを行っており、それらをずらさずに刷る「見当合わせ」の技術も当時確立されたものだ。現在ではCMYKの4色のインキを使ってカラー印刷を行うが、版ズレを起こさないための「見当合わせ」という言葉は江戸木版印刷からの派生である。

西欧に目を向けてみると、朝鮮半島で金属活字が開発されてから少しして、ドイツのマインツに金属工のグーテンベルクが現れた。東アジアの活字とグーテンベルクの活字との大きな違いは、前者が銅であるのに対し、後者が鉛合金であること。鉛は柔らかく壊れやすい半面、低温で溶解しすぐに固まる。金属のことを知り尽くしたグーテンベルクは、鉛にスズとアンチモンを混ぜて強度を高め、さらにアルファベットごとに活字を独立させ、活字作成の効率化と文字同士の組み替えやすさやを確立した。印刷に際してはブドウ絞り器を改良した印刷機を、インキには油絵の具をベースにした油性インキを開発した。このようにグーテンベルクは、現代の印刷技術の基礎を確立したのである。

ちなみにグーテンベルクの四十二行聖書は、アジアで唯一慶應義塾大学が所有しており、丸善経由で手数料込み8億円で購入したという。そのエピソードを聞いて我々一同驚愕、ため息を漏らした次第。

編集者の元祖、マルチン・ルター。そして、明治の出版大衆文化
グーテンベルクの後を追うように15世紀末に登場したのは宗教家のマルティン・ルターで、彼は聖書を市民の言葉であるドイツ語にはじめて翻訳し、しかも当時の最先端技術である活版印刷を活用、安価に聖書を生産・流通させた。当時の聖書は市民の読めないラテン語で書かれており、羊皮紙に手書きされた高価な写本。教会ごとに数冊しかないというレベルの数(出版流通で言うところの配本率?)である。いまでいえば、一部のインテリが英語でしか読めない高級文献をGoogle翻訳でネットで無料配布するような感覚である。それをルターは、宗教の世界で実行したというわけだ。以来、清教徒革命などの宗教革命が続発し、そのあとを追うようにフランス革命アメリカの独立など、さまざまな市民革命が起こったことは世界史が示すとおりだ。マルティン・ルターの仕事は、単なる宗教家ではなく、さまざまな言語から聖書をリフォームし、市民の言葉に訳し、多くの人にその言葉を与えたという意味で、編集者の元祖であるともいえる。

木版、活版ときて、次は銅版と石版印刷である。
銅版印刷はエッチング以前の技術として確立されたもので、地図や天文図などの精細な図の印刷に適した技術だ。石版印刷はリトグラフにも使われる、水と油が反発する原理を応用した技術で、現在主流の印刷技術、オフセットの原型である。

再び日本に戻ると、明治維新以降、印刷出版文化が一気に加速する時代が目に入る。
大槻文彦が日本初の国語辞典『言海』を編纂することで、日本人は列強と対抗するべく、はじめて共通の言葉を持つことになった。そして、日本語を共有した明治の日本人たちは、文芸をはじめ、大衆に向けてさまざまな出版物を発刊した。共通の言葉を手に入れた読者も、言葉に飢えた。そこに登場したものが「雑誌」と「ジャーナリズム」である。雑誌『キング』は日本初のミリオンセラーをたたき出した。人々がこぞって活字に手を出したという時代は、いまの感覚ではまったく想像もつかない。

戦争と印刷・広告。そして、印刷とITの出会い
戦争と出版はいつの時代にも紐付きである。自国に撒かれる戦意高揚ビラや敵国に撒かれる戦意喪失ビラ、国民を心理誘導するプロバガンダのポスターが出版物・印刷物として大量に生産されたのは第二次世界大戦の時期だった。このころに確立された出版の使われ方は、出版物を通した「心理操作」であり、その平和利用としてこんにち確立したものが「広告」である。戦後から二十数年を経て、1970年代、日本では広告を中心としたパッケージやカタログ、雑誌などの、グラフィック・デザインの時代が到来した。印刷と出版が消費社会と分かちがたく結びついたのがこの時期であり、印刷技術の進化に加えて応用が加速したのもこの時期である。

印刷技術の応用の第一は、家具建築であった。床材や壁材の「木目調」にはグラビア印刷の技術が応用されている。安価な木材に質の高い木目を刷り込むことで、家屋の商品価値を高めることに成功した。

そして現在、私たちが触れている最新の印刷技術の応用が、ITである。
私たちが日ごろ使っているICカードは三層構造になっており、内部でコイルとICチップが結線されている。その配線にエッチング(銅を腐食させて溶かす)の技術が応用されている。最後に展示されていたものは、スマートフォンやパソコンの液晶モニターに使われている「カラーフィルター」である。画面の色を表現する重要なパーツで、フォトレジストによりRGBの三色が配列される。この技術で精細なカラー画像が再現されている。工場で印刷されたカラーフィルターはメーカーに納品され、組み立てられたIT機器は私たちの生活のお供となる。

    *  *  *

以上、古代メソポタミア文明から現代までの出版印刷史を、観覧内容から駆け足で説明した。

「本とIT」が地続きであること、言葉が革命と変革を起こすことは、この展示・解説を通して共有できたのでは、と思っている。

後編に続く)

三津田治夫

西洋にそびえる巨大思想山脈に取り組んでみた:『現象学の理念』(フッサール著)/『存在と時間』 (ハイデッガー著)

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会社の有休消化の1ヶ月を費やし、退職後初の読書ということで、『現象学の理念』(エドムント・フッサール著)と『存在と時間』(マルティン・ハイデッガー著)を読み終えた。
おのおの、今回読んだのが3度目だが、ようやく1割は理解できたか、という感じ。
以下、専門用語と引用を極力避け、私がこれらを読んだ第一の感想と印象を書き残しておく。

エドムント・フッサールの『現象学の理念』はハイデッガーの予習ということで着手。
「現象」というぐらいだから、なにか外部で起こっていることが取り沙汰にされるのだろうと思っていたが、現象学とは「人間の内部でなにが起こっているのか」が問題にされる学問。フッサール現象学には哲学を科学として確立するという意図があり、言い換えると、フッサール以前哲学は科学以外のもの、だったのである。
ページ数が比較的少ないので現象学の入門として読めるかと20代のときに買って初読したのだがさっぱりわからず、2度目もよくわからず、今回の3度目で1割ぐらいがなんとなくわかった感じ。
ページ数の少ない哲学書にはときどきくせ者がある。よく犯す過ちが、書名やページ数から、カントの『実践理性批判』を入門書として読んでしまうことがあげられる。この本は入門書でもなんでもなく、基本、カントのことを知っている人じゃないとまずわからない。

予習を終えて、フッサールの弟子であるハイデッガーの『存在と時間』全3巻を読んでみた。これまた、ようやく1割がわかった感じ。
とくに日本人にとって、この本を理解しづらい点が大きく二つある。
一つは「言葉の話」であることと、もう一つは「宗教の話」であるということ。
「言葉の話」という点で、ハイデッガーはドイツ語での話をしきりとする。また、一種の造語、つまり「ハイデッガー用語」が山盛りにある。ドイツ語では日常の単語なのだが、ハイデッガーは独自の観点から各単語に解釈を加え、存在とはなにか、時間とはなにかを詳細に分析していく。翻訳者の桑木さんもよく日本語に訳したものだと、盛大な拍手を送りたい。この本を読んで頭を抱える人は、独自の言語空間にまいってしまうところが大きいはず。
「宗教の話」という点で、これまた日本人には理解しづらい。ハイデッガーキリスト教の世界で神学を学んだ人だからこそだが、『存在と時間』を通して「神と人間は分離していないのだ」を実証しようとした。
この点、仏教社会に育った日本人にはわかりづらい。つまり日本人の宗教観は山川草木悉皆成仏、つまり山も川も植物も動物も全部一緒、命あるものはすべて仏に成仏する、という考え方。聖書で言われるような「人間は神が作った神の似姿。動植物はそうした人間が豊かになるように仕える生き物」という対立関係は存在しない。この対立関係が、日本人には理解しづらい根拠の一つである。
そこでハイデッガーは、非常に難解かつ複雑な言い回しで、宗教の世界と哲学の世界を分離することで、「現実とはなんだ」を解き明かそうとした。そのうえでハイデッガーは、人間を、時間経過とともに「最高によいもの」に向かって成長するのではなく、「死に向かって歩む生き物」としてとらえている。読んでいてつらくなる論旨だが、これまた日本人になじみの深い、人間とは生まれた瞬間から老いと病、死という宿命を背負って生きているという、お釈迦様が唱えた考えとほぼ同じだ。ヴィトゲンシュタインは、西洋哲学が自分らの時代でようやく東洋哲学に近づいた、と語っていたらしいが、ハイデッガーも同じように、思索を突き詰めていくことで東洋哲学の方に来てしまい、同じような感覚にとらわれたことに違いあるまい。

貴重な有休消化期間中にこのような書物に手を出し、無謀にも西洋にそびえる巨大思想山脈に取り組んでみたわけだが、目前で手にできる実利の少ない行為だと承知しながらも、あえてこうした読書をやってみた。現象学とはなかなかわかりづらい哲学だが、AI時代のいま、「現実とはなんだ」、ひいては「自分とはなんだ」を考え抜くための、最高のテキストだった。

読後の第一印象は以上の通り。
自分の人生の後半へと向かう貴重な時間だからこそ、あえて、こうした難物に取り組み、自問自答のトレーニングをしてみた。いまの心のあり方が、3年後、5年後に、大きく効いてくるに違いない。

三津田治夫

「日本人が言葉を失った瞬間」を教える本:『ニッポンの思想』(佐々木敦 著、講談社現代新書)

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『ニッポンの思想』では、1980年に台頭したニューアカデミズムについて多くの紙幅が割かれている。
私を含めてこの年代を生きてきた人たちにとって浅田彰の『構造と力』(1983年)、『逃走論』(1984年)や中沢新一の『チベットモーツアルト』(1983年)と聞いただけで、「あったねぇ」と相づちを打ってしまう書名だが、『ニッポンの思想』によると、これらが代表するニューアカデミズムこそが、「思想をエンタテイメント化し商品化した戦犯」だというのである。

「思想のエンタテイメント化」が日本社会にもたらしたもの
前述の2冊を例にあげても売上部数はおのおの10万部を超え、思想書としては異例のベストセラー。こうした異常な現象がなにを意味しているのかを同書では解き明かそうとしている。
そのキーポイントに、80年代バブルを牽引した消費文化やコピーライティング文化、高学歴高収入礼賛文化といった、いまでは考えづらいあの時代独特の「文化」が思想書ベストセラー現象を下支えしていたという。

1980年に発表された田中康夫のデビュー作『なんとなくクリスタル』は、作中に出現するブランドや地域といった固有名詞への膨大な注釈が、当時の「カタログ文化」を如実に表現している。
文化は時間と共に人々に内面化する。この文化が「思想を消費されるものへと堕とした」と著者は分析する。

そうした時代背景を経て、1990年代には東浩紀を筆頭とする新しい「思想」が、1980年代の「特権的な知性の「上から目線」による物事の判断に対するアレルギー反応」として登場する。
おりしも日本社会では出版不況という形で思想の地位が一気に低下。
日本経済の停滞がもたらした「「正しさ」をはかる基準が「売れるか売れないか」にしか求められなくなってしまった」を逆手にとり、東浩紀は「日本の思想」の生き残りと延命を真剣に考え抜いた結果、「商業的に成功する思想」を開発した。かくして1980年代に登場した思想のエンタテイメント化ならびに商業化は、30年のときを経て連綿と日本社会の根底に根を張るようになったのである。

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思想と言葉の「消費財化」はこのまま進み続けてよいのか?
『ニッポンの思想』は、読んでいてぞっとするところが2点あった。
一つは、思想を伝える物体としての「書籍」のあり方だ。
新聞や雑誌は消費され、書籍は読み継がれるという、出版物はフローとストックのポートフォリオを形成していた。しかしいまでは、いずれも消費されるフロー商品となった。出版社の姿勢からもそれがよくわかる。ある出版社では経営が「東京駅で買って新大阪駅で読み捨てられるような本を作れるのが一流の編集者」と口にしているという話を耳にした。何度も味読されては「商売あがったり」なのだ。つまり、新刊が売れなくなるので。踊り場なしの出版不況で生き残りに必死な版元経営者の気持ちはよくわかるが、それはちょっと違うだろう。思想を伝える物体としての「書籍」までもがボールペンや消しゴムのように消費されていてはしゃれにならない。

これに関連してもう一つ感じたのは、森友学園の文書改ざん問題である。この事件は聞いていて頭が痛くなってきた。なんで民主主義国家の日本でこんなことが起こるのだろうかと。MS Wordにだって文書の改訂履歴は残る。システムの問題はさておき、「書き換えればいいじゃないか」というマインド自体が恐ろしい。しかしやっている本人は、自分なりの正当性を持ってそれを行為している。こうした、言葉を軽く扱う行為の元凶は、「消費財に堕ちた書籍」へと通じる。言葉は消費されるものだから消してもいいし、書き換えてもいい。その意識が友人へのメールや家族や恋人へのLINEメッセージではなく、国家のレベルで働いている。

出版物は、文化を形成する。
そして商業もまた、文化を形成する。
商業と文化のバランス感覚を欠いた結果が、日本独特の出版不況であり、思想や言葉の消費財化、である。
この状況をいかに脱したらよいのか。
こんなことを、『ニッポンの思想』を読みながら考えていた。

三津田治夫

セミナー・レポート:「“人が集まる”ライティング入門」~第3回分科会 本とITを研究する会セミナー~(後編)

時代とともにさまざまな採用形態を受け入れること
人材不足が深刻化する昨今、新卒から中途まで、いままでの採用方法に加えて、人づてに人材を調達するリファラル採用が注目されている。不特定多数ではなく人間関係を通してピンポイントで人材を集められるという反面、企業側には、自社の魅力を知人にうまく伝えることができないという不安を持つ従業員も多い。ここでも、ミッションとビジョンを通したストーリーの共有が強力な武器になる。

もう一つ、採用の新しい形態として注目されているのは、退職者を組織化し、再雇用したり外部のリソースとして活用する、アルムナイ・ネットワークだ。外資コンサルティングファームがこの採用形態を積極的に取り入れている。日本では退職者はいわば脱藩者扱いで再雇用や今後のお付き合いは断絶、という向きがいまだに見られる。しかし今後の人材不足が進む日本ではそうもいっていられない。こうした形態の採用はますます重要視される。

企業側には、「退職しても会社を好きでいてもらい続ける」という課題がある。退職してもまだお付き合いしたいし、人にも紹介したい。この精神状態を企業と従業員の間で共有・維持する必要がある。いわば従業員はその会社を辞めた瞬間から「顧客」になる。その意味で、ここでも、ミッションとビジョンを通したストーリーの共有がキーポイントになる。

◎本講の参考図書:『ストーリーとしての競争戦略』(楠木建 著、東洋経済新報社f:id:tech-dialoge:20180326111720j:plain

会場内で参加者たちと自分に響くセルフストーリーをいくつか出し合った。20代男性の「学びを楽しみながら自他共に成長するストーリー」から50代男性の「バブル前夜からその終焉までを体験したがバブルのうまみを味わえず、この時代の根性論はいまではまったく通用しなくなったストーリー」や「1989年のベルリンの壁崩壊から1995年のインターネット情報革命、ITバブル、リーマンショック、震災など、世界が革命と越境を続けるストーリー」まで、世代や各個人の体験に伴って多様なストーリーがある。

多様なストーリーを持つ人材を抽象化しながらターゲッティングし、自社のストーリーをライティングと表現で相手に届け、いかにして人材として引き入れるかが、採用側が抱える最大の課題だ。


人を集める7つのポイント
ライティングと表現という観点から、人材採用につなげるためのポイントを7つにまとめた。

①「ミッション」と「ビジョン」をぶらさない
②「ミッション」と「ビジョン」に従い、情報に重み付けをする
③重みに従って、情報を配列する
④見出しを簡潔にわかりやすくつける
⑤文章を俯瞰的に見る
⑥書くことと書かないことを明確に分ける
⑦言葉と情報の「ディレクション」を行う

「⑥書くことと書かないことを明確に分ける」と「⑦言葉と情報の「ディレクション」を行う」に対して会場からは質問が出た。前者に関しては②の「重み付け」に従って書くことと書かないことを振り分けることがポイントで、後者に関してはどのサービスを利用するのかと、「ミッション」と「ビジョン」をどのような文やビジュアルを使って表現するのかというディレクションを指す。

最後に、採用する側の5つの対策として、以下の5点をまとめた。

①自社・担当が求める人材像を徹底内省内省が少ないと「安易」が相手に伝わってしまう。相手を知ることと己を知ることは最重要。
②採りたい相手に引っかかる「キーワード」を探すとはいえ直近の成果も重要。上記を頭に入れつつ、「コピーライティング」の感覚も磨く。
③どの会社も「ストーリー」づくりに必死。ストーリーを大切にしようデジタル社会がエンドレスに進む現在、人は模倣不可能な身体性の高いストーリーという「アナログ」に価値を見出している。
④ストーリーは他人に作ってもらうものではない。ストーリーは自分でつくる収益を出しつつ、オリジナリティ、クリエイティビティをどこまで高めるかが、ストーリーづくりの鍵。
⑤そのためにも、経営陣および採用担当の内省・精査は必須収益を出しつつ、オリジナリティ、クリエイティビティを高めるためにも、「自分たちはなにをやっているのか」「自分たちはなぜ働いているのか」を徹底内省・精査すること。これらがつまり「ミッション」「ビジョン」の種となる。これらの発見と実装は、きわめてクリエイティブな作業。つねに創造的であること。

*   *   *

人材難の今日とはいえ、働きたい人は大勢いる。それでもミスマッチやアンマッチが起こる。仕事の現場の流動性の高さが求職者に伝わっていなかったり、安定性と終身雇用と自分の時間を最大のゴールとする人から野心あるチャレンジャー、他の目的を持った一時的腰掛け、のっぴきならない生活のためなど、求職者のおのおのは自分個人にとって合理的かつ人生の問題にかかわる「働く理由」を持っている。この働く理由と企業とのミスマッチが大きい。その意味で求職者も、自分個人の「ミッション」「ビジョン」を企業と共有するために整理し、明確化し、言語化する必要がある。人材難の今日は、採用側だけの問題ではない。

採用側では、アルムナイ・ネットワークの構築やリファラル採用など、いままで日本の企業が見向きもしなかった方法を本格的に採り入れようとしている。それには「企業と従業員との良好な関係」が重要で、パワハラやセクハラ、不当労働は労働基準監督署の扱う問題ではなく、もはやモラルの問題、企業自らの生き方にかかわる死活問題へとシフトしつつある。

最後に、ゲーテが残した言葉で締めくくる。200年前の芸術家はすでに、動乱の時代を生きぬくために必要な「変化」をすでに見抜いていた。

人生は生きているものに属する。そして生きているものは、変化に対する覚悟を持っていなくてはならない。
(『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』より)

三津田治夫

セミナー・レポート:「“人が集まる”ライティング入門」~第3回分科会 本とITを研究する会セミナー~(前編)

3月9日(金)、ビリーブロード株式会社神田イノベーションルームで、「“人が集まる”ライティング入門」~第3回分科会 本とITを研究する会セミナー~、を開催した。「人が集まる」をテーマに、人材採用に向けた集客に必要な考え方と方法を、ライティングと表現を軸に解説した。

◎ライティングで採用や就職に成果を得た企業などの事例を紹介。株式会社ツークンフト・ワークス代表の三津田治夫f:id:tech-dialoge:20180323110830j:plain

はじめに、いまの日本を取り巻く人材採用の課題を確認した。
日経平均株価の安定や大手メーカーのベースアップなど、景気が上向きだとする報道が多い。一方で人事統計の数値を見ると「人材不足」は年々高まっており、今後、仕事があるのに人がとれず倒産する企業が増えるというデータも各方面から発表されている。とくに国内の9割を占める中小企業においてこの状況は深刻で、各社課題を抱えながら採用活動を展開している。

採用サイトには多様なサービスが用意されていながら、慢性的な人材不足に悩まされコストや時間と戦い続けている中小企業にとっては、どのようなサービス活用が最も費用対効果が高いか、試行錯誤している。

それを踏まえ、採用サイトとしてマイナビWantedlyを分析。
マイナビは採用大手の定番で、記事作成や広告、メルマガ配信などのサービスが一通りそろっている一方で、登録社数が膨大なためとくに中小企業は埋もれてしまうことが最大のボトルネックである。
Wantedlyは安価からはじめられSNSとの連携が強いが、自社がSNSに弱いと利点を生かしづらい点や、オプションの追加でコストが予想以上に膨らむなどのデメリットもある。

このような採用サイトの現状を鑑みながら、今後このようなサービスはいくつも出てくるが、どのようなサービスにも共通する、採用につながる集客のために必要な普遍的内容に焦点を当て、解説を進めた。

すべての出発点はミッションとビジョン
企業の復興やスタートアップには事業の最上位概念であるミッションとそれを実現するためのビジョンの言語化が行われる。同様に、採用のための集客の第一歩は、ミッションとビジョンの言語化である。まずは己を知りミッションとビジョンを明確化し、その上で、自社がどんな人材を求めるかを明確化する。

ここではWantedlyを例に、「いいね」の数が少ない企業と多い企業の掲載ビジュアルや見出し、本文を例に分析した。とくに、見出しがうまく作れていない企業のページは顕著に「いいね」の数が少ない。逆にこの数が多い企業のページは、見出しと本文、ビジュアルの整合性がきれいにとれている。この「整合性」が今回のキーポイントだ。整合性をとるための軸がミッションとビジョンになる。つねに採用担当者は、ミッションとビジョンを念頭に置いて見出しやビジュアル、本文を選定する必要がある。

ミッションとビジョンの洗い出しは、他者との対話やセルフストーリー、エモーショナル・メモなどで行う。この中から、セミナーではワークで、エモーショナル・メモを実施した。エモーショナル・メモは簡単で、日常で心が動いた際、「なに」がきっかけで「どう」心が動いたのかという事実を、手書きやスマートフォンを活用してメモに逐一記述していく。心の中の動きと事実を言語化し蓄積していくと、ミッション(自分という人間の役割が社会になにを与えたいか)の種が生まれる。ミッションの候補は複数見つかるので、社内外の議論で社会的なニーズと照らし合わせながら精査し、ミッションと呼応したビジョンを設定する。

ストーリーとは「きれいに取れた整合性」
「見出しと本文、ビジュアルの整合性が完全にとれている。」とは、言い換えると、表現が「ストーリー」として成立している、である。たとえば「遊びを通して人々を幸福にする」というミッションを立て、「日本国内に5000のテーマパークを設置する」というビジョンを持った企業があったとしよう。この企業の採用サイトのビジュアルには「遊び」と「幸福」を彷彿させる写真が掲載され、見出しには「日本国内に5000のテーマパークを設置する仲間募集」という趣旨を伝え、本文ではそれを実現するための会社としての具体的な取り組み、そのために従業員にどのような対価とサービスを与えられるのか、従業員は快適な環境で成長できるのか、などの事実が書かれている必要がある。

積極的な採用活動が必要な中小企業にこそ「ストーリー」は重要である。ストーリーは昨今の流行語とまでいえそうな、企業のアイディンティティ付けの手段として重要視されている。従業員の数や売上高の数値など事業規模のみでその企業の善し悪しが判別された時代もあったが、大企業が赤字企業に転落したり、一流企業が海外企業に買収されてしまう時代、数値だけで人を説得することは困難になった。そこでいま企業に重視されているものは、数値でもないデジタルでもない、いたって身体的な「ストーリー」である。

ストーリーさえ自社で持てば、さまざまな傾向や個性を持つ採用サービスサイトに依存せず、自社ならではの採用展開ができる。また、作成したデータやノウハウが自分のものになるので、今後のデータ再利用やグロースが楽になる。その意味で今回のセミナーでは、「自分でつくる」をゴールに解説を進めている。つまり、これらサービスを活用しつつ、自前でサイトを運営し、セミナーやインターンといったオフラインでの活動も複合し、中小企業ならではの機動性を生かして採用に結びつけるのである。

後編に続く

三津田治夫

4月7日(土)、印刷博物館へ、一緒にお出かけしませんか?

春まっさかりの4月7日(土)、本とITを研究する会で、トッパン印刷博物館の見学会をします。こちら、一緒にお出かけしませんか?
ガイドさんの解説つきで、そしていま話題の活版印刷を実物で体験できるワークショップも行います。

私も活版印刷に実際に触れることは今回が初めてで、当日はとても楽しみでワクワクしています。
学生時代には印刷所でアルバイトしていた時期がありました。30年前のこのとき、すでに活版印刷機はなかったです(あってもかなりレア)。
当時でも活版印刷というと、高級料理店のメニューや高級名刺など、大量印刷ではない、特殊な用途で使われていました。

◎懐かしいハイデルベルグのオフセット1色機f:id:tech-dialoge:20180321153631j:plain

そんな活版印刷、いまでは味わい深いものとして見直され、再評価されているのですから、時代は巡ってくるものなのですねぇ。
ちなみに私がアルバイトしていた印刷所では、ハイデルベルグのオフセット1色機という、蒸気機関車のような黒塗りの鉄の塊のオペレーション(紙の積み込み、インキ・水・オイルの充填、紙の取り出しなど)をしていました。

印刷博物館では、古いものから最新(VRの体験シアターもある)まで、印刷とメディアをめぐるいろいろなものが観覧・体験できます。

内容の詳細と参加登録は、以下ページにあります。

【Doorkeeperページ】

goo.gl

みなさまお誘いあわせの上、お気軽にご参加ください!

三津田治夫

若者が繰り広げる涙と笑いの群像劇:『メゾン刻の湯』(小野美由紀著)

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歌舞伎町ブックセンターの現役ホストの書店員さんからのお勧めで、この本を買ってきた。
小野美由紀という若い作家さんは非常に才能がある。取材力もあり、よく書いている。日本語の比喩表現や文学的な描写も立派だった。結論から言うと、面白かった。

これは、刻の湯という銭湯に寄宿する若者たちが繰り広げる群像劇。
老人、ジェンダー、教育、就職、仕事、SNS、IT社会など、いまの日本人が抱えている問題の巣を総ざらえし、それをひとまとめにドラマ化して刻の湯に詰め込んだ、という印象が第一だった。面白いエンターテインメント小説でありながら、実は社会派でもあるのだ(読み方に依存するが)。

銭湯という古くから日本にあるコミュニティ文化を現代に持ってきて、年齢や職業、性別を超えた場として設定しているところも興味深かった。
リーマンショックや震災、長引く不況などから日本の社会が不安定になり、スマートフォンSNSの普及とともに日本人の人間関係は複雑化した。
ヨーロッパでも20世紀の初頭には共産主義の出現と共に芸術家を中心にコミュニティ文化が花開いたように、いつの時代にも、動乱の中にはコミュニティが出現する。

『メゾン刻の湯』に登場する人物たちは、目に見えない大きな動乱の内側で目の前の小さな動乱に翻弄されている。人生の目標とか大きなゴールなどは彼らにはなく、ただひたむきに、目に見えない大きな動乱の内側で目の前の楽しみを見つけ、生きている。いまの時代をうまく捉えた生き方だと共感した。

人間はつねに運命に支配されており、それを受容し生きる以外に道はない。とはいえ、「運命を書き換えてやろう」という意志も重要。人間は、運命と意志の双方に挟まれ、戦い、成長しながら、生きていく生き物だ。こうした心の戦いが極限に高まった時代が、いまであると、この本から読んだ。そして文学の役割は、人や社会を言語化し、共有するところにある。まだまだ文学はこの役割を捨てていない。新刊『メゾン刻の湯』からそう感じた。

三津田治夫