本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

「日本人が言葉を失った瞬間」を教える本:『ニッポンの思想』(佐々木敦 著、講談社現代新書)

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『ニッポンの思想』では、1980年に台頭したニューアカデミズムについて多くの紙幅が割かれている。
私を含めてこの年代を生きてきた人たちにとって浅田彰の『構造と力』(1983年)、『逃走論』(1984年)や中沢新一の『チベットモーツアルト』(1983年)と聞いただけで、「あったねぇ」と相づちを打ってしまう書名だが、『ニッポンの思想』によると、これらが代表するニューアカデミズムこそが、「思想をエンタテイメント化し商品化した戦犯」だというのである。

「思想のエンタテイメント化」が日本社会にもたらしたもの
前述の2冊を例にあげても売上部数はおのおの10万部を超え、思想書としては異例のベストセラー。こうした異常な現象がなにを意味しているのかを同書では解き明かそうとしている。
そのキーポイントに、80年代バブルを牽引した消費文化やコピーライティング文化、高学歴高収入礼賛文化といった、いまでは考えづらいあの時代独特の「文化」が思想書ベストセラー現象を下支えしていたという。

1980年に発表された田中康夫のデビュー作『なんとなくクリスタル』は、作中に出現するブランドや地域といった固有名詞への膨大な注釈が、当時の「カタログ文化」を如実に表現している。
文化は時間と共に人々に内面化する。この文化が「思想を消費されるものへと堕とした」と著者は分析する。

そうした時代背景を経て、1990年代には東浩紀を筆頭とする新しい「思想」が、1980年代の「特権的な知性の「上から目線」による物事の判断に対するアレルギー反応」として登場する。
おりしも日本社会では出版不況という形で思想の地位が一気に低下。
日本経済の停滞がもたらした「「正しさ」をはかる基準が「売れるか売れないか」にしか求められなくなってしまった」を逆手にとり、東浩紀は「日本の思想」の生き残りと延命を真剣に考え抜いた結果、「商業的に成功する思想」を開発した。かくして1980年代に登場した思想のエンタテイメント化ならびに商業化は、30年のときを経て連綿と日本社会の根底に根を張るようになったのである。

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思想と言葉の「消費財化」はこのまま進み続けてよいのか?
『ニッポンの思想』は、読んでいてぞっとするところが2点あった。
一つは、思想を伝える物体としての「書籍」のあり方だ。
新聞や雑誌は消費され、書籍は読み継がれるという、出版物はフローとストックのポートフォリオを形成していた。しかしいまでは、いずれも消費されるフロー商品となった。出版社の姿勢からもそれがよくわかる。ある出版社では経営が「東京駅で買って新大阪駅で読み捨てられるような本を作れるのが一流の編集者」と口にしているという話を耳にした。何度も味読されては「商売あがったり」なのだ。つまり、新刊が売れなくなるので。踊り場なしの出版不況で生き残りに必死な版元経営者の気持ちはよくわかるが、それはちょっと違うだろう。思想を伝える物体としての「書籍」までもがボールペンや消しゴムのように消費されていてはしゃれにならない。

これに関連してもう一つ感じたのは、森友学園の文書改ざん問題である。この事件は聞いていて頭が痛くなってきた。なんで民主主義国家の日本でこんなことが起こるのだろうかと。MS Wordにだって文書の改訂履歴は残る。システムの問題はさておき、「書き換えればいいじゃないか」というマインド自体が恐ろしい。しかしやっている本人は、自分なりの正当性を持ってそれを行為している。こうした、言葉を軽く扱う行為の元凶は、「消費財に堕ちた書籍」へと通じる。言葉は消費されるものだから消してもいいし、書き換えてもいい。その意識が友人へのメールや家族や恋人へのLINEメッセージではなく、国家のレベルで働いている。

出版物は、文化を形成する。
そして商業もまた、文化を形成する。
商業と文化のバランス感覚を欠いた結果が、日本独特の出版不況であり、思想や言葉の消費財化、である。
この状況をいかに脱したらよいのか。
こんなことを、『ニッポンの思想』を読みながら考えていた。

三津田治夫