本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

本当の意味での、本に向き合い自分に向き合う時代の到来

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書籍の販売数は年々減少し、雑誌はさらに減少という状況を示す「出版不況」という言葉。
出版業界にいる人が耳にタコができるほど聞いているお題目である。

最近は、雑誌が読まれる機会が本当に減ってきた。
かつては雑誌流通が出版流通を下支えし、これに乗って書籍は全国に配本されていた。
こうした構造がなくなったいま、書籍の多くは「雑誌化」しているとも言える。

書籍は日々雑誌化する
2時間で読み切るような書籍企画が増えており、東京駅で買って新幹線に乗り新大阪で読み切り、廃棄。
そして新しい本を買ってもらうという「消費」を促す本づくりがされるとも聞く。
書籍の雑誌化は、こうした、必要に迫られた状況から生み出されたものとも言える。

かつては書籍という「知識ストック」と雑誌という「知識フロー」が存在し、明確に棲み分けられていた。
いまや知識フローはWebに取って代わられている点も、雑誌減少の目に見える要因である。

書店の減少も言うにおよばず。
日本人の知識は大丈夫なのだろうかと、いささか心配になる。
「出版は文化」と言われ過ぎた点が、こうした資本主義経済とのアンマッチを引き起こしたという見解はごもっともである。

しかし、市場最適化を徹底した出版物ばかりが世にあふれることで、なにが起こるだろうか。
まずは、読者にとって、読みごこちの良いコンテンツばかりが流通されること。
もう一つは、市場原理の最適化に迎合する作家さんが増えること。

市場最適化と作品の限界
読者は、学ぶことや説教されることも、出版物に求める。
これにより互いは成長する。
ゆえに、読みごこちの良いコンテンツが席巻することは、あまり嬉しくない。

市場原理に最適化した作家さんが増えることで、個性的な作家さんが生きていく場面が減っていく(もちろん、Webやオンデマンド出版など代替手段はいくらでもある)。
読者も作品に強烈な個性を求めることなく、「本って、こんなものだ」というあきらめの視点で、読書に臨むようになる。

出版界のこうした負のスパイラルを打開する必要性はしばしば叫ばれる。
書店のコミュニティ化や、版元の他業種と組んだオフラインやオンラインでの販売・コラボがその打開策である。
しかし、いずれ決定打にはなっていない。

では、どこに負のスパイラルを打破する鍵があるのだろうか?
書店や版元のコミュニティ化やコラボも路線としてはかなりいい線である。
が、「やり方」に問題があるように見える。
ここでも、市場最適化の視点が混じっているはずである。
もちろん、売り上げがないと書店のコミュニティ化もコラボも実現しない。
しかしそれが「あまりにも事業主目線になっているのでは?」という意見も耳にする。

市場と文化のはざまに存在する「違和感」を乗り越える
先日、とある文化施設の責任者と話す機会があった。
印象に残っているのは、上場企業の担当がときどき、「新規事業として文化施設を経営したいのだが、その事業計画はどうしているのか?」「成功のコンセプトはなにか?」などといった、短絡的なことを聞きにくるという。
責任者はその視点に「違和感を覚える」、と語られていた。
同じような「違和感」を、大手書店が展開する新コンセプトの陳列や打ち出し方、スタイルにも感じるともおっしゃっていた。

この、「違和感」という言葉が、私は非常に気になった。
「出版は文化」という言葉で市場原理を打ち消し、良書が市場に流通した。
同時に、市場価値の低い書籍も流通したのも事実だ。
良書とは、長期で見て価値が判断される書籍である。
それゆえ、その真贋が見極められるのに長い年月を要する。
事業経営として非常にリスキーな商品が、書籍なのである。
とはいえ、「出版は文化」なのである。

「違和感」に着目したうえで書店や版元のコミュニティ化や各方面のコラボが実現できると、この活動が実を結ぶために一歩前進するはずだ。
では、違和感を打ち消す解決策とはなにか。
その一つは、売り手と作り手の本に対する深い理解、である。
芸術に対する理解の少ない人が経営する文化施設には「違和感」が漂う。
そしてそれは、言葉や意識など「空気」を通して、着実に受け手へと伝わる。

だからこそ、書店や版元で働く本の売り手と作り手にこそ、深く本を味わい、読んでもらいたい。
本は誰のために、なんのためにあるものなのか。
本は、誰の、なにに対して価値があるものなのか。
そして本の存在意義とは、そもそもなんなのか。
じっくり考え、理解を深める機会を持ちたい。

若い出版人で、まったく新しい発想で編集や制作に臨む人が増えてきている。
新しいスタイルの書店や古書店、本と触れ合う場を提供する人たちも増えてきている。
いままでは「採算が合わない」と切り捨てられていた分野のものも多数ある。
しかし「採算」とは、一体なにを根拠に言っているのだろうか。
その根拠がいま激変している。

出版不況、出版業界のイノベーションが求められているいま、こういった時期こそ、本を深く知る絶好のチャンスだ。

世界中の人が家にこもる事態になったこの機会に、本と自分に向き合い、じっくりと味わい、読んでもらいたい。

三津田治夫

第16回飯田橋読書会の記録:『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人著)を読む

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ヴェニスの商人』といえばユダヤ人商人シャイロックの「人肉裁判」をクライマックスとするシェイクスピアの名戯曲。
本作はこれを資本主義の原理と重ね合わせ経済学者が書き上げたエッセイ。

この手の書籍は読む人によりさまざまな意見が交差することが必定で、「マルクスの『資本論』がよくわかる」「経済学は面白い」「ユーモアがよい」、はたまた「シャイロックは悪い奴」「とはいえそこまでいじめなくてもいいだろう」といった『ヴェニスの商人』の作品そのものに入り込んだものまで、多様な意見や印象が飛び交った。

シェイクスピアの戯曲から貨幣の「交換機能」に着目
キリスト教社会で虐げられてきたユダヤ人は、キリスト教で禁じられた「利子」の獲得を生業とする。
ヴェニスの商人』でユダヤシャイロックは暴利をむさぼる悪徳商人として描かれている。

この劇のもう一つのクライマックスは、ヒロインであるポーシャの結婚相手の選出である。
彼女の肖像画金・銀・鉛でできた3つの小箱に収める。
3人の候補者はその小箱を選んだ動機を述べたうえで、中からポーシャの肖像画を取り出した者がめでたく彼女の婚約者となるというルール。

「ポーシャこそ金の価値を持つ」と金の小箱を開いた男は候補から外れる。
「鉛のように控えめな存在こそあなたである」と、鉛の小箱を選んだバッサーニオは見事ポーシャの肖像画を手に入れる。
そしてめでたく彼女の婚約者となる。

ここを岩井克人氏は、「価値の取り違え」と経済学的な分析を下す。
すなわち、金・銀・鉛そのものに価値はなく、「交換すること自体に価値がある」というマルクス貨幣論を、ポーシャの小箱選びに重ね合わせる。

ポーシャの存在自体が持つ「本質的な価値」と、彼女の肖像が収められた箱の素材自体が持つ「表面的な価値」との混同を指摘。
つまり小箱は貨幣と同じで、貨幣自体に価値はなく、それが「交換できる」という、貨幣の持つ「機能」に価値があるのだ。

フロイトは戯曲から「時間と運命の本質」を指摘
岩井克人氏が展開する『ヴェニスの商人資本論』を読んでいて、私はふと、フロイトのエッセイ『小箱選びの動機』を思い出した。
この作品もまたシェイクスピアの戯曲をテーマにしており、加えて『リア王』とギリシャローマ神話を取り上げている。

リア王』では、婚約者ではなく父親から娘が選ばれる。
リア王は、相続のためにどれだけ自分を愛しているのかを娘たちに語らせる。
2人の娘、ゴネリルとリーガンは父をあらゆる言葉を駆使して褒めそやすが、コーデリア1人だけは、「私の父への愛は深すぎて言葉にならない」と口にする。
それを聞いた父親は激怒して彼女を勘当。他の娘に全財産を分け与える。
結果としてリア王は娘夫婦の裏切りに遭い、失意をもって人生の幕を閉じるという忘恩の悲劇である。

ここからフロイトは、『ヴェニスの商人』のポーシャが鉛の箱に入っていたのは、『リア王』のコーデリアにおける沈黙と同様、地味なものが最も価値があるという象徴で、それは、ギリシャ神話の運命の女神と同じであるとする。

モイラ神クロート、ラケシス、アトロポスや時間の女神ホーライなど、運命の女神は必ず3人で構成されている。
3という数字は季節(古代ギリシャで季節は3つ)を表す。
運命の女神は季節の象徴でもあり、時間の象徴でもある。
人間の生命の糸を紡ぎ、時間とともに糸という生命を断ち切る。
そうした時間と運命を司るのが、運命の3人の女神である。
「時は金なり」というぐらいで、時間の概念を媒体に、運命の女神たちは「お金」のような価値の象徴であるとも言える。

ポーシャの肖像が収められた金・銀・鉛は価値の象徴である。
一見価値のなさそうな鉛にポーシャが納められていたのは、鉛は沈黙の象徴であり、父親に対して多くを語らないコーデリア同様、ポーシャはいわば「死の象徴」であるとフロイトは分析する。

小箱選びを通して「時間と運命の本質」を説明したフロイトに対し、小箱選びを通して「貨幣と価値の本質」を説明した岩井克人といった印象を受けた。
同氏は紛れもなく、フロイトの『小箱選びの動機』にインスパイアされて『ヴェニスの商人資本論』を書き上げている。

   * * *

さて次回は、資本論フロイトといった難しいことは抜きにして、久しぶりに日本文学を取り扱おう、という運びになった。作家は中島敦が選ばれた。

アジアのボルヘスとも言われる彼の珍談綺譚の宝庫から、次回は、『山月記』と『名人伝』『悟浄出世』『文字禍』を選出。
いずれも短く、読んで楽しい作品。
青空文庫から手に入ります。

それでは次回、第17回読書会を、お楽しみに。

三津田治夫

人と自然にまつわるさまざまな情報が集まる、川の土手

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川の土手に出ると、人と自然にまつわるいろいろな情報が集まる。
とくにすれ違う人とのあいさつを通した相手の表情や視線は、多くを物語っている。
土曜は曇り空のせいもあってか、元気のない雰囲気だった。
これは少なからず、新型コロナウイルスの影響だろう。
新型コロナウイルスという実体など見えるものではないのに、その「情報」に人はやられてしまっている。
現に鬱になっている人も増えているという報道も耳にした。
情報と感情に溺れて、冷静な判断を失ってしまうと、心の中までやられてしまう。
恐慌やパニックが起こる原理も、このあたりにある。
いまは世界的に試練の時期だ。
こんな時期、私たちは、冷静を保ちながら、日常的な生活を続けていきたい。
心を穏やかにする、人とのつながり、心のつながりは、いまこそ大切にする。
人は人を求めている。人こそが人の安心を生み出す。
それがきっと、いまの試練を乗り越える解決策だろう。
その意味でも、オフラインでの説明会や研究会は、エタノール次亜塩素酸ナトリウムの配備、マスク着用で、万全を期しながら、少人数で続けてまいります。
コロナウイルスショック、どうか一日も早く、冷静に平穏な心で、収束しますように。

三津田治夫

『首都感染』~情報に対する心のあり方へのヒント~

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『首都感染』高嶋哲夫 著)を読みながらラジオやテレビの報道を聞いていると、現実と創作の境界があいまいになってくる。
科学と文学が連結すると、このような見たこともない文芸ができあがるのかという驚きもあった。
いま冷静にやるべきことや、情報に対する心のあり方へのヒントが得られるので、一読をお勧めする。
いろいろな意味で、大変な作品。

三津田治夫

「本」とのスリリングな出会いを求めて ~いまこそ、読書会のすすめ~

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読書というと、じっと一人で読むもの、というイメージがあったが、最近はそうでもない。
非常にアクティブで、外交的なツールとしての本がある。
とくに近年、読書会が流行の兆しを見せている。
流行というよりもむしろ、定番の活動として世間に定着しつつある。
読書会とはまさに、本をツールにしたアクティビティである。
そして、本を使ったアクティビティを通し、人同士の出会いや発見、変化を楽しむことができる。
本を持って街に出て、集まり、読みあう。
今回はそんな、読書会についてお話ししたい。

読書会とは「出会い」である
読書会を一言でくくると「出会い」である。
以下のような出会いがある。

・本との出会い
・人との出会い
・自分との出会い
・歴史との出会い

そして読書の最終目標は「自分の変化」ではないかと思っている。
出会いを通して自分が変化し、喜び、苦しみ、成長する過程。
読書会では、このような個人内部での出会いと変化を、他人と共有する。
これにより、出会いと変化が掛け算で増えていく。
いわば、集合的な出会いと変化の場が、読書会である。

参加者が持ち寄った見知らぬ本と出会う。
これができるのも読書会の魅力だ。
興味のない本でも、読書会という制約があることで、どうしても読むことになる。
視界の外にあった本が、読書会により視界に入ってくる。
そうした本との出会いこそ、自分を変え、自分の糧となってくれる。
関心の埒外にあった本こそ、自分の血肉となること多々ある。
とても貴重な出会いだ。

古典は、読書会ならではの題材であるともいえる。
古典には、いますぐ必要な情報はあまり記述されていない。
記述の内容自体、普遍的で抽象度が高い。
「いま」という時代にピンポイントで合致した記述とは異なる。
緊急性の低さからも、なかなか自発的に古典を読まない。
極端なことを言う。
仕事のために書店で売れているビジネス書を読むか。
もしくは『国富論』や『資本論』を読むか。
こうした違いである。

もちろん、売れているビジネス書を読むときにも、読書会は有効だ。
この場合、読んだ意見や変化を読書会の場で共有する。
そこに価値がある。
自分がなんとも思わなかったページに他人が深く関心を示すこともある。
逆に、自分が興味を抱いていたページに他人がまったく関心を示さない場合もある。
これを、感情論や印象論ではなく、
「具体的に~だから好きだ」
「~だから関心がない、嫌悪する」
と発言しあうところに、読書会の意味がある。
つまり読書会とは、理論的な言葉を交わす場である。

感情論や印象論が読書会を支配するとどうなるか。
途端にその場は崩壊する。
個人攻撃や知識のひけらかしなども同類。
読書会は、理論的な大人の言葉を身につける場としても機能する。

読書会を自分で開いてみよう
読書会を動かし、継続させる。
それにはさまざまなノウハウが必要だ。
たとえば、選書のことや、参加者の発言の交通整理。
ホワイトボードへの板書、議事録の作成、など。
ファシリテーションの手法が大きくかかわってくる。
難しいことは言わずに、もっとカジュアルに開く読書会も面白い。
「知的なエンターテイメントの場」としての読書会もある。

一冊の本との出会いが、人との出会い、自分との出会いのきっかけになる。
そしてそれが、自他の変化を促す。

読書会ほど、面白いものはない。
読書会の場から、夢を共有し、未来を作ることも可能だ。

本と出会い、本を読み、自他の変化を楽しむ。
読書会を通し、そんな人たちが一人でも増えてくれたら、とてもうれしい。

本とITを研究する会では、読書会のファシリテーション講座を実施してきた。
これからも開催するつもりだ。

本を読むことをテーマにした学びは、会で継続的に開催している。
速読といった、ハイエンドな学びも用意している。

興味のある方はご参加いただきたい。

三津田治夫

第27回飯田橋読書会「軽井沢合宿編」の記録:『ファスト&スロー』(ダニエル・カーネマン著)

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今回は、本読書会初の1泊合宿。
しかもその場所は、平成天皇皇后両陛下が出会った高級リゾート地軽井沢。
そして取り上げたテーマは、初の行動経済学
今回は、2002年ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン著、『ファスト&スロー』(上・下)を読むことになった。

小鳥がさえずる済んだ空気の浅間山を背景に、クヌギやコナラの樹木に囲まれた最高の環境で読書会を進めることができた。

「ファスト&スロー」という言葉は、人間の認知には素早く直観的に判断する「システム1」と、熟考を繰り返し時間をかけて判断する「システム2」の2つがある、という解釈からきている。
カントの純粋理性やフロイトの無意識論といった精神の階層構造を批判してできあがった理論を経済学に適用したものが、「ファスト&スロー」の基本的な考え方である。

実験心理学から行動経済学にきれいに連れていってくれる本
会場からはいつにも増して数々の意見が飛び交った。
某大手広告代理店で責任あるお仕事をされていた方からは、「実験心理学から行動経済学にきれいに連れていってくれる本」「気持ちよく人をだまして、ちょっと背中を押すと気持ちよくお金をはらっちゃう仕組みを教えてくれる本」といった、広告代理店ならではの説得力のある発言を聞くことができた。

中には序文の数ページしか読んでいない人も若干一名存在。
どう考えても今回の読書会よりも軽井沢観光を楽しむことを目的にやってきた様子である。

「システム2」を「管理・理性」とするなら、「システム1」とはまさに「直観」である。
そして直観も知能の一部と考えるのなら、知能は遺伝するものであり、直観は人の力で磨くことはできないのではないか、という意見もあった。
一方、「直観」である「システム1」を磨くとは「本当のスキルを磨くこと」であり、その意味で「システム1」は努力によって磨くことが可能であり、またその必要もある、という意見も耳にした。

「直観は経験により磨かれる」という発言もあった。
本文に、大惨事に遭う直前に回避行動をとって一命をとりとめる消防士のエピソードがあったように、人間には予知能力としての第六感も働く。これは消防士という職業の経験から磨かれた直観である、ともいえる。「直感は経験によって研ぎ澄まされる」のである。

このような直観と理性で人間の経済的行動が規定されるという事例を見ながら、つくづく「近代経済学が定義する抽象的な合理的人間像はナンセンス」という意見も聞こえてきた。
その意味で、「心理学のアプローチに経済学という別ルートをつくったのはすごい」ことである。

そもそも具体的な人間から抽象論を導く心理学者は、抽象的な人間のモデルを大前提に具体的な理論を導こうとする経済学者から馬鹿にされる存在であった。
が、その心理学者である著者のダニエル・カーネマンが経済学の分野でノーベル賞を取ったとは大変なエポックメイキングである。

起業家の精神構造において、「システム2」の発動を自発的に停止している
『ファスト&スロー』が扱う分野は行動経済学の分野では、「ビジネス」について多く取り上げている。
たとえば、起業家の精神。
一般的に「起業はほぼ失敗する」と言われている。
ゆえに基本、楽観主義の思想がないと起業は困難である。
人間には成功欲よりもリスク回避欲が高い傾向がある。
ゆえに損はしたくない。
だから起業家は「システム2」が起動する前に行動している。
つまり、「システム2」が起動した時点で前に進めない。
「システム2」の発動を自力で停止しているのだ。

「「起業する」と語っている人ほど絶対に起業しない」という発言もあった。
理屈がないと動かない人がそのたぐいである。
しかし、事業計画書という理屈がないとお金を借りることができなかったりもする。
起業には「根拠のない自信」という「システム1」が根底にある。
自信があるものは売れるし、自信がないのはまず売れない。
しかし、自信があるからといって必ずしも売れるわけではない。
これこそが販売する人間と購入する人間のジレンマである。
そしてこれは、世界の経済を動かす本質的な原理である。

「人から促されて動く「システム1」はあまりよくない」という意見は納得であった。
そういった外発的なものは「システム2」ではないだろうか。

事業家は、アイデアを行動に移す時間が短い。
また、直観で事業相手と組む人が多い。
さらに、事業家は契約書よりも信頼関係という心の状態を先に見るともいう。
このように事業の心理を「システム1」「システム2」に当てはめると、説明がつく。

一方で企業に勤める会社員はどうか。
あまり考えずに「システム1」で動いているが、「システム2」であと付けで理由付けして動いている。
こうしたごもっともな意見もあった。

興味深かったのは、本書の「成功したことしか書かない実用書」のくだりである。
ベストセラー『エクセレント・カンパニー』(トム・ピーターズ、ロバート・ウォーターマン著)を引き合いに出し、「掲載されている企業の多くがその後業績悪化している」と、数値とともに皮肉なコメントが添えられている。
あたかも成功の原則を理論的に体系化しているように見せかけ、実は「たまたま成功したことを書いただけ」という、典型的なビジネス書に対する痛烈な批判である。

プログラミング入門書のベストセラーを多数書かれている作家さんからは、「言い方によって伝わり方も受け取られ方も変わる。結果売れ行きも変わる」という、重みのある意見も聞くことができた。

「システム1」優位の時代にとらわれた私たちの日常生活
日常生活に目を向けると、私たちは「日々だまされて生きている」ことが読み取れる。
SNSは「システム1」にめちゃめちゃ刺激を与えるし、人の感情に訴えかける反応的な行動へと誘導する。
いまや「システム1」優位の時代、ともいえる。
たとえば選挙。
政治家は有権者に「システム2」を発動させない言葉を吐くパターンが多い。

「システム1」にはモデルがたくさんある。
それは、自己イメージを規定する「マインドセット」とも言える。
一人の人間には複数のマインドセットが備わっている。
人はその自己イメージを無自覚に相手へと投射し、嫉妬や攻撃の対象とする。
そしてコミュニケーションは崩壊し、組織や社会、共同体が崩れていく。
つまり、無自覚に「システム1」を起動していてはコミュニケーションに崩壊をもたらすのである。

「直観は成功することもあるけど、大失敗を起こすよ」という冷静な発言もあった。
だからこそ「システム2」を鍛え、巧妙な現代を乗り越えましょうというアドバイスである。

ごま書房の創業者である多湖輝氏が上梓したベストセラー『頭の体操』(1966年刊)を持参した方もいた。
「「システム1」でついつい答えてしまう「ものぐさな脳」があるからこそ、「システム2」の「熟考の思考」を鍛えよう」という、『頭の体操』に込められたメッセージをカーネマンの著作に引き寄せて説明してくれた。

「「システム1」に訴えかける音楽はワーグナーでは?」という意見もあった。
たしかに、第二次世界大戦ナチスドイツは戦車の砲撃進撃にワーグナーを流していたという史実がある。フランシス・コッポラの1979年の戦争映画『地獄の黙示録』で米軍のベトナム攻撃のBGMに「ワルキューレの騎行」を使ったのはまことにネガティブなナチスのパロディである。

最後に、「システム1」の歴史的起源を言及。
「システム1」を巧妙に操り商業の世界にまで体系化したのは大手広告代理店であり、その起源は香具師(やし)にあるはず、である。

マムシと称する蛇をちらつかせて膏薬を売る「蛇や」や、木曽の御嶽山から持ってきたと称するモグサを山伏の扮装で販売する香具師がそれにあたる。

世界経済を動かす心理構造を解明した傑作
以上、人間の行動を促す心理にまつわる、会場から出た発言をまとめた。
こうした心理構造が、世界の経済を動かしているのである。
ほぼ失敗するのに「絶対に成功する」という根拠のない自信で起業する人は後を絶たない。
ビル・ゲイツスティーブ・ジョブスマーク・ザッカーバーグ孫正義といったたぐいの人がいるからこそ、資本主義経済は健全に成り立っている。
株式取引に関しては「こんな株いらないよ」と売る人がいる。
その対極に、「いや、買う価値があるじゃないか」という行動をとる人がいる。
だからこそ、株式市場は成立している。
そんな人間の心の機微を、蓄積された実験の成果や情報を通して解き明かそうとした。
それが、行動経済学である。

読書会はいつもより30分ほど早めに切り上げた。
メンバーはタオルと着替えを片手に温泉へと移動。
活火山浅間山のふもとから湧き出る温泉は実に心地よい。
メンバーと露天風呂にてダニエル・カーネマン談義に花が咲く。
髪の毛を乾かす女子一名があがってくるのを待ち、近所のイタリアンレストランへと移動。
温泉で充分に温まった体に、白ワインとピザ、パスタの組み合わせは絶妙であった。
ラストは、映写機技士の資格を持つM氏によるエルモ映写機による16ミリフィルムの映写大会を開催。

翌朝には解散し、無事帰宅。
素晴らしい、初の読書会合宿だった。

会場として軽井沢の別荘を快くご提供いただいたメンバーのNさんには心からの感謝、感謝。

  * * *

さて次回。
またまた趣を変え、『ペテン師列伝』(種村季弘著)を取り上げます。
ドイツ史に取材したこの本、日本に出現した結婚ペテン師クヒオ大佐にも影響を与えたとも言われています。トーマス・マンの遺作『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』やゲーテの『大コフタ』など、ドイツ文学の名作にはさまざまなペテン師が登場しています。
読書会、どのような展開になるでしょうか。

次回も、お楽しみに!

三津田治夫

第26回飯田橋読書会の記録:『山椒魚戦争』(カレル・チャペック著) ~「大人の寓話」の古典を堪能~

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今回は、チェコ文学の巨匠、カレル・チャペック山椒魚戦争』を取り上げた。
チャペックの作品では、ロボットという造語をはじめて使った戯曲『R.U.R』(ロッサム博士のユニバーサルロボット)が有名である。
チャペックは、第2次世界大戦前という時代にロボットという概念を言語化した、いうなれば鬼才である。

名作のあらすじ
山椒魚戦争』のあらすじは次の通り。
あるときインドネシアで人間の言葉を理解し器用に手を使う山椒魚が発見された。
その利用価値を見だした人間が、山椒魚に海底から真珠を探してくることを教え込む。
すると山椒魚はそれをよく理解し、真珠を大量に採集してくる。
それに目を付けた事業家は山椒魚による真珠事業に乗り出す。
事業は見事成功、山椒魚も人間もWin-Winの関係を構築する。
同時に、山椒魚は知性を持ちはじめる。

ある日、アメリカで陸地が広く水没するという大規模な地震が起こった。
続いて地震は中国とアフリカで起こる。
のちに犯行声明が山椒魚総統から発せられ、事件は知性を持った山椒魚の仕業であることが発覚。
彼らには生活のための浅瀬が必要であり、それには人間が住む陸地を奪うことが必至である。
各国の人間はこれに反撃を加えるものの、山椒魚海上封鎖を行うなど海域争奪戦に乗り出す。
すると山椒魚に利権が発生。
山椒魚内部でも紛争が起こる。
山椒魚も人間同様、しだいに人種と階級の差別をしはじめる。
そしておのおのが激しく対立し、闘争は泥沼化する。
エンディングでは「いずれ山椒魚たちは内戦を始めて滅亡するだろう」というメッセージが投げかけられ、そして最後に、「そこから先は誰にもわからない」という言葉で作品は幕を閉じる。

グロテスクな外観の両生類に仮託したアンチユートピア小説
人間の山椒魚を利用してやろうという利己心と、尽きることのない欲望、さらには飼い犬に手を噛まれるように人間は山椒魚に反逆され、山椒魚たちも知性とともに利権と差別を人間から模倣して人種階級闘争をはじめ、滅亡の道を進みゆく。
人類史の興亡を山椒魚というグロテスクな外観の両生類に仮託したアンチユートピア小説である。

会場では相も変わらず闊達な意見が飛び交った。
作家として小説だけではなく戯曲、童話も書くチャペックは多才で、SF文学の旗手でもあり、その知識の広がりや教養の深さ、ブラックユーモアから、日本の作家にたとえると小松左京に近い、という意見があがった。

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また、山椒魚という水棲の動物を人間にたとえた寓話的な構造が面白いという意見は複数あがった。
本の作りとしてもよくできている。
新聞記事が挿入されていたり、急に日本語が出てきたり、事典のように精細な図版が掲載されていたりと、おおよそ小説には似つかない表現が多い。
チャペックの先進性や斬新さが、視覚表現からも見て取ることができる。

ファシズムの時代である1935年に書かれたこの作品の中には、反全体主義や反大国主義の描写も多い。
山椒魚が増えすぎて生活のできる領土(浅瀬)が減少して生きていけなくなったり、山椒魚どうしが種の差別をはじめたり(領土の奪い合い)、教育を通して山椒魚の平均化をはかったり(全体主義)という描写は注目に値する。

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作品の主人公の生活圏を海に設定した点が興味深い。
ちなみに、チェコスロバキアにはどこにも海がない。
この国に存在する大きな水は川であり、プラハを流れるヴァルタヴァ川、スメタナ交響曲で知られるモルダウが、彼らにとっての海のメタファーである。

アンチユートピア小説が人類に向けたメッセージはつねに「世の中は悪くなっている。だから気を付けろ」である。
言い換えると、「満足はよくない」という、知識人が民衆に向けて鳴らした警鐘である。
日本に目を向けると鎌倉時代、世の中はもはや終わりという「末法思想」が世を席巻した。
日蓮は『立正安国論』を執筆し、「日本は蒙古に攻め取られ大変なことになる。だから流行りの新興宗教は捨てて、私の信仰に従いなさい」と説教し、死刑をまのがれ、さらには佐渡流刑から奇跡的な生還を遂げ信者を率い、日蓮宗の一大教祖になる。
民衆の危機感と日蓮の投げかけるアンチユートピアがおおいに合致した結果が宗教という新たな物語を生み出した。

山椒魚戦争』は大人の寓話である
一方で、会場から出た言葉で、「危機感をあおると物語は売れる」があった。
ノストラダムスの大予言』や小松左京の『日本沈没』も、「危機感をあおると物語は売れる」の結果である。
山椒魚戦争』もこれに近しいものがある。

しかし会場からは、「実際に世の中はそう悪くなっていない」という理性的な発言もあった。
なるほど、である。
天然痘は撲滅し、社会から極端な格差や貧困、飢餓は日々減少してきている。
それでも人間は、「戦争と飢餓はなくそう」を、永遠に唱え続けなければならない。
気づいていないだけで、戦争と飢餓にとってかわる新たな危機に、人間はすでに遭遇している。

会場で一致した見解は、「『山椒魚戦争』は大人の寓話である」であった。
絵本のような、イメージのつきやすいわかりやすい描写で、しかも、「○○思想、××主義」といった、「教条」に作品をはめ込まない。ここがチャペックの偉大さである。
言い換えると思想に軸がなく、ふわっとした平和主義、反権力主義思想が作中に漂っている。
だからこそ、100年近くたったいまでも、国境や時代を超えて読み継がれている作品であるともいえる。

最後に、チャペックは『山椒魚戦争』を通し、海という「環境」の破壊を取り扱った作家であることを指摘する。
山椒魚が知性を手に入れて人間化し自滅の道を歩む物語は、海と陸という二元構造の中で進んでいく。
「教条」に作品をはめ込まない分、チャペックは海という一つの宇宙を作品の中に構築し、その宇宙を背景に教条を超えたメッセージを読者に伝えようとした。

この作家は、戦後に生きていたらいったいどんな作品を書いていたのだろうか?
誠に興味に尽きない。

三津田治夫