(前編から続く)
「禅」に馴染みのある日本人には比較的理解しやすいかもしれない
「言葉には意味がない」を西洋の哲学者がこのように解明し、事細かに解き明かそうとするのだが、日本人にとってはおなじみの「禅」がすでに説明している。道元は『正法眼蔵』の中で、当時の中国で行われていた仏教信仰の腐敗を批判しながら、信仰とは権威やお経を暗記することではなく、自分の中に仏を発見することであると説明。その発見のメソッドとして座禅を提唱し、自分の中の仏はその人の中にしかない個別なものなので、それは決して言語化できない。只管打坐、ひたすら座り、ひたすら考えず、ひたすら黙することでしか、自己内部の仏にはアクセスできない。デリダが生まれる700年以上も前に日本の宗教家が言語の無意味さを力説していたわけだ。
おもにソシュールやハイデッガー、フッサール、レヴィ・ストロース、ルソーの作品を読解し、それを精密にひもといていくテクニックが絶妙である。レヴィ・ストロースとルソーに関してはじっくり読んでみたくなってしまったほど、評論家的な才能もデリダにはある。とくにルソーについては『告白』から『社会契約論』『人間不平等起源論』などの代表作を多数取り扱い、本書の半分近くがルソーに関する記述に割かれている。
足立和浩氏による翻訳も大変な労作。理解を深めるための訳注が洋書並みに細かく入っている。上巻のあとがきもよくまとまっていて、数十ページで理解できる速習デリダ入門として読み応えがある。この方の仕事がなければ、いまの日本人が共有するデリダ像はなかったかもしれない。
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デリダは「言葉には意味がない」を、本に書かれた「言葉」で解き明かそうとするのだから、それは大変な矛盾であり、また大変な冒険である。そのためにデリダは数々の書物(エクリチュール)にあたり、ひもとき、物事から意味の断片を取り出そうと解剖する。答えは出てこないのだが、その作業自体が冒険的であり、それゆえ日本の評論家や作家たちにも大きな影響を与えた。デリダの仕事を見てしまった日本の評論家や作家たちが、源氏物語や平家物語など古代文学のエクリチュールから日本人の実体を知るという冒険に手を出したくなったのには納得がいく。
デリダの作品は複雑奇怪、刺激的、冒険的。物事の考え方や文体に、クリエイターならなんらかの触発を受けるので、読んでおいて損はない。『声と現象』は300ページぐらいの文庫になっていてとりつきやすい。デリダの雰囲気を感じられる作品なので、こちらもおすすめする。
(おわり)